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元治二年(1865)三月三日、出石に到着した幾松でしたが、久しぶりの桂小五郎との再会に喜ぶどころか非常に不機嫌で、桂が話しかけてもプイとそっぽを向いて答えなかったといいます。本当は会いたくて仕方がなかったのにワザとスネてみせたのかも知れませんが、もし佐々木六角源氏太夫が父の木崎市兵衛だったとしたら、「お父ちゃんが体を張って逃がそうとしてくれてたのに、なんで逃げへんかったんや。このお方は臆病者なんか」と、本気で腹を立てていたとも考えられます。明治維新後、晴れて夫婦となる
幕末の京の町に登場した謎の志士、佐々木六角源氏太夫の正体が実は幾松の父・木崎市兵衛だったのではという話の続きです。元治元年(1864)のある日、新三本木の料亭吉田屋にいたところを新選組に急襲された桂小五郎(のちの木戸孝允)は、幾松の機転でなんとか窮地を脱することが出来ましたが、但馬国出石(現・兵庫県豊岡市出石)まで落ち延びたところで身動きがとれなくなり、同地にしばらく潜伏せざるを得なくなってしまいます。※.桂小五郎一方、遅れて京を脱出した幾松は大坂方面から長
幾松の父・木崎市兵衛は佐々木六角源氏太夫だった(かも知れない)。その佐々木六角源氏太夫については当ブログで過去に何度か取り上げています。佐々木六角源氏太夫は戦国時代に滅んだ近江(滋賀県)の大名佐々木家の末裔を自称し幕末期の京で活動していた人物で、祖先の居城・観音寺城跡地に石碑を建てる名目で献金を募る内容の安政五年(1858)に書かれた書状がかつてオークションサイトに出品されていました。『幾松と新三本木』(二)の中で、通説では木崎市兵衛は嘉永四年(1851)に死亡したとされ
今回の話は幾松について調べている間に偶然みつけたある事柄から思いついた僕の推論、いや妄想といった方が良いかも知れないような話です。ただ、ちょっと面白いんじゃないかと思うので、よろしければお付き合い下さい。幾松の実父は木崎市兵衛といい、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の出身らしいという話は『幾松と新三本木(二)』で紹介しました。若狭の木崎家は名家であったものの平民の家柄だったということも書きましたが、さかのぼれば元々は武士であり、戦国時代に敗れて平民になった家柄なのです。実は若
(本人写真を元にAIで加工再現しました)元治元年(1864)に桂小五郎(慶応元年より木戸姓に改める)のあとを追って京を離れた幾松は、そのまま長州で明治維新を迎えました。おそらく明治元年(1868)中に二人は結婚したと思われますが、婚姻に際して身分の違いを解消するため、幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女となり、名を岡部松子に改めます。そして明治二年(1869)には明治新政府の中心人物となった夫・木戸孝允と暮らすべく東京に移り住むことになります。木戸は激務の中でも二人連れで箱
長州藩の大立て者・桂小五郎と恋仲になった幾松ですが、元治元年(1864)六月の池田屋事件、さらに七月の禁門の変により桂は幕府に追われる身となってしまいます。幾松はそんな桂を献身的に支え続け、物乞いに身をやつして二条橋の下に潜んでいた桂に握り飯を持っていったり、御幸町松原下ルの実家に一時匿ったりしたと伝わります。そんな幾松自身も少なくとも一度、新選組屯所に連行され取り調べを受けたようですが、桂のことは何も知らないと頑として口を割らなかったようです。幾松は当時まだ二十歳そこそこ
1度だけ。8人くらいで血縁者のかたとお会いしてお話を当時はいちげんさんおことわりやったそして当時はカメラで撮るなんて行為おもいつきもしない運ばれてきた料理を撮る全然全くおもいつかない現在でもスマホに手は伸びることがない手にスマホもってなんてまずない今日この期に及んでさえスマホSONYのXperia製造は中国iPhoneだってそうさわると手のひらがビリビリあ逸れたにほんブログ村脳・神経・脊髄の病気ランキング
目次幾松の生い立ち父市兵衛について養父難波恒次郎とは幾松の生い立ち実は幾松の生い立ちに関しては諸説あります。そのうち通説というべきものは、たとえば『木戸孝允』(無何有郷主人/1897)、『実録維新十傑第4巻』(伊藤痴遊/1934)などを元にするとだいたい以下のようになります。幼名は松もしくは計(かず)といい、天保十四年(1843)生まれで、父は若狭小浜藩の藩士・木咲市兵衛といい奉行所の祐筆を勤めていましたが、奉行所に不正があり百姓一揆が起きてしま
以前AI写真を作成したことから少し興味が湧いてきたので、桂小五郎(木戸孝允)の妻となる三本木の芸妓・幾松と彼女が所属していた花街・三本木について少し調べてみました。今回はまず花街三本木について。目次三本木花街の由来幾松と桂小五郎現在の三本木※.本人写真を元にAIで作成した画像三本木花街の由来いっておくが三本木は一流の花街ではない。祇園・先斗町は有名だったが、ここは若者たちのよく遊んだ所である。維新後に凋落をみたことでもそれはわかる。
二日続けての訂正になります。先日投稿したAIで幾松を現代女性風にという記事なのですが、その時に使った幾松の写真・・・これまで幾松という女性にそれほど注目していなかったので、ネット検索して出てきた一番はっきり写っている写真を使ったのですが、記事を上げたあとに幾松のことが気になって調べてみると、どうもこの写真はあやしい。他の写真、たとえばウィキペディアに掲載されている写真などと比べて目がパッチリし過ぎていますが、ウィキペディアの写真はあまり写りが良くない不鮮明なものば
みなさま、こんにちわさくらゆかりです京都めぐり紹介の3回目は、有名観光地を回るのではなく⚔️歴史オタクの大好きな幕末英雄ものをお届けします⚔️幕末維新の人気英雄といえば、この二人の人物が傑出しています土方歳三坂本龍馬新撰組と坂本龍馬の足跡を訪ねた歴史巡りをしてきましたので、そちらを紹介します幕末維新ミュージアムまず最初は、京都を訪れたら、絶対行ってみたいと思っていた、高台寺の裏にある霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)
おーい!竜馬[新装版]1(ビッグコミックススペシャル)Amazon前回、南北朝時代、室町時代に関する場所をまとめましたので、今回は幕末、明治維新に関する場所についてまとめてみます。以前やっていたホームページと今現在やっているアメブロを載せます。人物相関図http://konokuni.web.fc2.com/jinbutumeiji.html史跡の位置http://konokuni.web.fc2.com/ichi-ishin1.html年表http:/
志士たち立ち稽古始まりました👘同じ稽古さん役の小粋役の星来ちゃんと彼女は日本舞踊やってるようで昨日も日本舞踊の振りを頑張ってましたうの役の西条美咲ちゃんとの場面もありました1度演った作品ではありますがキャストが変わってまた新たに色々演出も変わってきているので又1から頑張りたいと思います是非観に来て下さいねお申し込みはbunsmate@mail.goo.ne.jpまでその他の予定🗓️
昨日は朝から時来組公演志士たちの読み合わせでした今回の相手役さんの桂小五郎役の宮原奨伍くん以前も志士たちで共演しましたがその時は絡みなく今回は夫婦になるのでガッツリお世話になりますそれにしても昨日の稽古場は咳こむ人も多く空気が悪かったのかもちょっと朝方から私も早めに病院に行って気合いで復活します今後の予定🗓️お申し込みはbunsmate@mail.goo.ne.jpまで
おはようございます。今日から七十二候が変わります。【紅花栄】(べにばなさかう)紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重されました。紅花とは出典Wikipediaベニバナは、キク科ベニバナ属の一年草または越年草です。紅色染料や食用油の原料として栽培されています。原産はアフリカのエチオピアといわれ地中海やエジプトを通り世界へ広まりました。紀元前2世紀頃には北方の遊牧民族の匈奴へ伝わり甘粛省付近で栽培されていましたが、漢の武帝がこの地を占領した後漢の時代(2-3世紀頃)に
木戸孝允は長州藩出身の明治維新の政治家で、1883年生まれ、桂小五郎とも称し、のち木戸姓に改めました。西郷隆盛、大久保利通らとともに尊王攘夷、討幕運動に指導的役割を果たしました。文久年間から慶応年間の京都の政局は主導権をめぐって激しく動いており、その中心は朝廷であり御所を核に公卿屋敷が政治の拠点でした。この木戸旧邸は、その拠点の一隅に位置し、近衛家の下屋敷を譲り受けて別邸としたもので木造二階建でした。1877年5月19日、病気療養中の木戸に明治天皇の行幸がありましたが、同月26日薨去、享年4
川端通でシャレ乙ランチを食べて、神宮丸太町駅方面に歩きました。こちらです♪女子が好きそうでしょ!私も女子の端くれなんで好きだよ笑(サンドイッチかベーグルか迷ったピザも捨てがた買った)ここまでは前回の記事の話ですが・・・食べ終わり、が置いてある神宮丸太町駅方面へ川端通を歩きました。まだまだイチョウの落ち葉がもりもり私、多分、出町柳〜神宮丸太町駅までの川端通を歩くの(特に東側)初めてな気がする・・・こんな結婚式場あるの知らなかったし、少年鑑
150年前の芸者さん、三本木ナンバーワンの芸者さんを演じられます。友紀さんです。ヨガの先生で、また役者さんでもいらっしゃいます。今回の芸者さんでの舞台出演を機に、芸者さんらしい美しい日本人女性の所作を身に付けたいとお教室にいらして下さいました。今年の2月よりお稽古を始められて、短い期間でご自身でお稽古着を着てお稽古に通われる様になり、日舞の初舞台も8月に出演されました。今回演じられるお役「幾松」のお墓参りにも行かれ、一見さんはお断り、おいそれといかない金額
バイク🏍️の後輪がパンクして、修理したけど空気の漏れが止まらないのでさらにしました。さらとは、関西圏の方言で新品のこと。さらにする=新品に交換する。「まっさら」これは、先日参加したラリーイベントのひとコマ。今回の散歩とは直接関係ありません。バイクを山科区のお店に預けて、京都の旧市街へ移動。(山科区も京都市内だけど、山科から旧市街へ行く場合も「京都行く」と言います。京都へのへは、関西ではしばしば省略されます。)お昼は、荒神口のてんぐさんへ。前々回のブログで天狗と記載したお店です。(面識は
おはようございます。今日から七十二候が移ります。【鴻雁北(こうがんかえる)】雁が北へ帰っていく頃。ツバメの渡来とは入れ替わりに、冬を日本で過ごした雁が北のシベリアへと帰っていきます。鴻雁とは渡り鳥の「がん」のことですが、「鴻」は「ひしくい」と読み大型のがんを、「雁」は小型のがんを指しています。「雁」「雁渡る」は秋の、「雁帰る」は春の季語です。雁は、家紋にも多く使われ、和菓子の「落雁」や、高級茎茶の「雁が音(かりがね)」にも結び付きがあることから、古くから日本人に親しまれてき
木屋町通
…江戸期、この地に屋敷を設けていた藩は?明治になっての幾松ホテルオークラ京都(令和4年1月に名称変更)は、河原町御池北東角に位置する。桂小五郎(木戸孝允/タカヨシ・コウイン)は、幕末期の長州藩の家臣であった。当該地は長州屋敷跡である。一時期、桂は京都留守居役であった。長州屋敷の建設は、元和5年10月に遡る。二条城からは離れているが、高瀬川に接した要衝地で、経済的側面を重視した立地と云える。元治元年7月の甲子(コウシ)戦争〈禁
…幕末志士の墓がある神社は?河原町の近江屋で襲撃された龍馬は、慶応3年11/15もしくは翌16日に亡くなった。現在、京都霊山(リョウゼン)護国神社の境内に建つ龍馬の墓石「坂本龍馬紀直柔(ナオナリ)之墓」の側面には、「11月16日死」と刻まれている。重傷を負った中岡慎太郎は一時持ち直したが、17日に容態が急変して落命。墓石には「中岡慎太郎道正之墓」と刻まれている。埋葬式の日付は17日説と18日説がある。海援隊士・宮地彦三郎の伝記には、
またまた霊山護国神社へご案内しましたこれは木戸孝允の墓です西郷隆盛、大久保利通らと維新三傑と呼ばれるだけにお墓も立派です木戸孝允は、桂小五郎ともいい長州藩の出身天皇の信任もあつく、死の直前に明治天皇が病床に御臨幸なさったとか隣には妻の幾松のお墓もあります。幾松は木戸孝允と結婚し松子と改名お墓にも松子と刻まれています桂小五郎は、吉田松陰の門下生で人を斬った事がない理性派だそうです幕末動乱期を駆け抜け維新後も活躍勤王の志士の中では幸運だったようですね
京都の料理旅館「幾松」が、新型コロナの影響で閉店する、というニュースがありました。この「幾松」というのは、桂小五郎(木戸孝允)の妻・松子さんの、芸妓時代の名前ですね。この料理旅館は桂と幾松が住んだ屋敷が残っている重要文化財で、新選組に襲われたときに、幾松が逃がした抜け穴とか残ってるとか?ふーん、いっぺん見たかったな(建物は壊すってわけじゃないらしいけど)。幾松は京都ナンバーワンでの人気者だったそうですが。そういえば、伊藤博文の妻・梅子さんは、女流歌人でもあるけど、もとは「小梅」という