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村井の官歴も解せないが、さらに数奇なのはもう少し後に余市局長を務めた岡崎重陽である。岡崎は日本電信史において村井以上の大物である。明治二十二年の『工部省沿革報告』によると、明治五年五月に上席の寺崎遜とともに「英国ニ派遣シ電信技術ヲ研究セシ」められている。帰朝したのは七年七月であるから二年の留学であった。この時代、欧米に学んだ日本人はいま我々が想像する以上の数であるが、それでも岡崎はかなり早期の部類に属するだろう。岡崎の伝は大正五年に刊行された『日本電気事業発達史前編』(加藤木重教、電友
村井一郎は、『逓信六十年史』では青木善松とその嗣伊三郎との間の局長としてリストされている。一方地元で編集された『にしんりんご郵便局』では青木善松が郵便局長であった時期にほぼ重なって電信分局長を務めたことになっている。村井は余市の人ではなく電信畑を歩んだ新潟県出身の技術者で、資料を繰ってみると古くは明治六年に開拓使から修技生として派遣された生徒中の一人である。『北大百年史』の史料中の「明治六・七年日記」にはやたらと電信生徒の記事があり、村井の名も見える。農学校の前身である開拓使仮学校は、当時まだ
東京の下町に住んでいます♪幸田文さんや加門七海さんなど墨田区ゆかりの女性小説家が多くいます。幸田文さんは幸田露伴の娘、加門七海さんは主にホラー小説を書いています。小学生の頃から幸田文さんには馴染みがあって、憧れていました。私は生意気だったと思います。『おとうと』は特に有名。彼女はエッセイストというより随筆家。作家の川上弘美さんも幸田文さんを随筆家としている。「あやさん…」幼い頃から私は呼んだ。あや姉さんでなく、あやさん。名のみのほうが、艶っぽい。姉さんなら恋もない。早熟というほど
幸田露伴の『運命』という小説に、「世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。……かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して嘆じ、成せる者は己れの力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なるというべし。」とある。現代語に訳すと「世の中には常に運命というものがあると言っても過言ではない。あるように見えると思えば思えるし、無いと思えば無いように見える
今日の一日一読は第1章の続きで「「生涯の心の糧」を体で覚える―――幸田露伴、幸田文」までです。幸田露伴についてはこれまで深掘りしたことがなかったですが、今回娘の文(あや)の話が出ていて、父親としての露伴を知って、あまり興味が湧きませんでした。正直、父親として娘に対して、あるべき姿を押しつけているところが多々あって、前回の福沢諭吉とも考え方が真逆なところがありました(参照29ページ)。露伴なりには娘のことを思ってのことかもしれませんが、実際にやらせていることは子どもの側すると理解に苦しむところが
この先の話はもはや露伴とは関係ないが、当時の電信と郵政の関係から余市局の沿革を少し見てゆく。余市の電信分局は郵便局と同じ場所にあったと言われている。もともと郵便は農商務省に属し電信局は工部省管轄であったが、逓信省発足によってそれぞれその一局となった。渡辺氏が引用する、余市郵便局の関係者がまとめた『にしんりんご郵便局』という資料には露伴の居た時期に村井一郎が電信分局長であったような記述がある。実際、付表の局長一覧では郵便局長とは別に村井が電信分局長として明治十五年の開設時から二十四年の合併に
今日のことば幸田露伴さんの言葉おのずから訪れた福をすぐに使い切ってしまうのではなく、2、3分残しておくことによって、そこからまた新しい福が生まれる。これを惜福と言う。(小説家)
電信局時代の幸田成行の名はこのころの官員名簿に見ることができる。国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できるものとしては『職員録』と『改正官員録』がある。前者は内閣官報局による出版で年一度、後者は博公書院から実に毎月刊行されている。武鑑の明治版といったところであろうか。姓名のみでなく俸給表なども掲載されている。注意深く月次を追えば、組織の変更なども見て取ることができる。これらの資料は渡辺氏も参考にしたようで、詳しくは「幸田露伴研究―再考・北海道時代」(国文学踏査20巻、2008年)に記述がある
露伴が余市に居たのは周知のとおり電信技手としての任地であったからである。露伴の評伝は塩谷賛氏の集大成『幸田露伴』が著名だが、これに限らずこの間の消息としては明治十六年夏に「電信修技学校」に入り、一年間学んだ後さらに一年の見習期間を東京で終え、余市に赴任したと書かれている。慶応三年生まれの露伴は十七で入学し、十九で赴任し、二十一で辞めた勘定である。修技学校については、渡辺賢治氏に詳しい調査があり「露伴の電信修技学校時代」と題した論考として纏められている(『国文学試論』18巻、2009年)。こ
3月は読書のペースが落ちています。学校の仕事と自治会の仕事の両面でピーク的な場面を迎えて、忙しく1日に30分程度しか読書の時間がとれない。そんな中、幸田露伴を読みました。明治の文豪です。努力論。一言でいえば、幸せになるための法則のようなものです。あまりに有名なので、私がわざわざ書くほどでもないが、やっぱり三福につきますね。三福、三つの福とは、惜福、分福、植福です。読んで字のごとくで、福を惜しむ、福を分ける、福を植えるを実にわかりやすく書いている。現代でも通用
幸田成行、すなわち後年の露伴が余市を出奔したのは明治二十年八月二十五日である、と本人が「突貫紀行」に書いている。その日は小樽のキト旅館に宿り、翌二十六日枝幸丸で岩内、寿都、松前を経由して二十八日に函館に泊まった。宿はここでもキトである。キトという不思議な名前は、ある本によると祈祷から来ているという。徳川時代からの老舗で回漕店と宿屋を営んだらしい。小樽のキトはネット上の地図では色内1丁目6-13にあったことになっている。函館の方が本店らしく、明治三十四年の『函館案内』(小野寺一郎著、函館工業
「恨みも憎しみも火上の氷」幸田露伴の言葉である。恨みも憎しみも火の上にある氷のように、いつかは溶けて消えていくものである。時間が解決してくれる。時が経てば、恨みも憎しみも、徐々に小さくなる。しかし、本当に、そうだろうか?そう思う人も多いと考える。なぜなら、あまりにも恨み、憎しみが深ければ、時間が経っても解決はしないだろう。「恨み骨髄に徹す」。恨みが骨のしんまでしみとおる。深い恨みを抱く。そう簡単に忘れられるものではない。でも、恨みや憎しみからの復讐は
2月11日は【文化勲章制定記念日】です。この【文化勲章制定記念日】について調べてみました。【文化勲章制定記念日(ぶんかくんしょうせいていきねんび)】文化勲章が制定された日。文化勲章とは学問・芸術など、文化の発展に優れた業績を上げた人に贈られるもので、1937年(昭和12年)のこの日に制定された。独創的な文化の創造と育成を図ることを目的に創設され、勲章は天皇陛下が親授される。親授式は
えっ?早くも第2弾?なんて思ったそこのあなた!実は2本撮りでしたwwwソラマチで買い物したかったので2回に分けた次第です。だったら前編後編にすればよかったか・・・うーん。回数を稼ごうwwwというわけで第2回は「東京スカイツリー~向島百花園」5年前に隅田川七福神巡りで歩いたコースに近いですね。今回は七福神巡らずに行きます!スタート!今は「とうきょうスカイツリー駅」ですけど、前は「業平駅」だったんだよね森鴎外住居跡越後長岡藩屋敷跡日焼けしすぎて真
ここから3丁目です。日本各地の門松・しめ縄めぐり明治村にある建物もお正月仕様になっているみたいです。建物の元あった所在地にちなんだ門松やしめ縄が飾られているそうです。3丁目は2か所。ただ、ちょっと遠い幸田露伴住宅「蝸牛庵」東京都墨田区向島にあった、作家・幸田露伴が住んでいた家。ここのしめ縄は、今でもよく見かける感じでした。今も昔も変わらないものもあるんですね。西園寺公望別邸「坐漁荘」現在の静岡県静岡市清水区にあった、西園寺公望の別邸。西園寺公望は、
【幸田露伴の幸福三説とブッダの話】どうすれば人は幸福になれるのかを考えて説かれた努力論。そのなかの幸福になれるみっつの説です。「惜福」せきふく🕊自らに与えられた福を、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする。「分福」ぶんふく👬幸福を人に分け与えること。自分ひとりの幸福はありえない。周囲を幸福にすることが、自らの幸福につながるということ。「植福」しょくふく🌿後世の人々の幸せのために「福の種」を植えることであり、3つの福の中で
「7周年文豪とアルケミスト書店コラボ開催!」こちらより、当分の間は友達の写真になります💦全国85店舗の「特別応援店」では、転生した文豪たちのポスターが、展示されてます「ポスター幸田露伴」私もポスターを、探しに行こうと思っていたのに気が付いたら終わってました「オリジナルしおり」ノベルティ引換画像を提示した上、税込1000円お買上げで、ランダムでしおり1枚プレゼント。全20種あります💦推しが来る気が、全くせんよなぁ...(笑)おまけ「角川文庫×アニメ文豪ストレイドッ
「失敗をしたら必ず自分のせいにせよ」(幸田露伴)失敗を人のせいにしたら気分は楽かもしれない。相手はたまったものじゃないけどね。少なくとも学びや成長はひとつもないから、もったいない。失敗は成功に向かうプロセスで起こった事件。そう捉えれば、きっと自分事に変わる。小さな失敗は大きな財産
今年も残りわずかですねー今日の熊日新聞の新生面にある呪文が紹介されていましたその呪文はあとみよそわかあとみよは後ろを見ろそわかは円満や成就と訳す仏語で文豪の幸田露伴が娘である作家幸田文さんに(文さんが子供の頃)掃除の仕方について教えた呪文だそうで・・もういいと思ってももう一度見返せという意味なのだそうですこの1年の自分をあとみよそわかーあとみよそわかーと呟きながら振り返ってみるのもいいという内容の新生面の
本日は最近親しんできた高浜虚子の俳句ではなく、幸田露伴の俳句にふれてみることとする。ちび墨と我とありけり年の暮【礫川集】より季語は【年の暮】で、一年の終わり。街は歳末売り出しで賑わい、家庭では新年を迎える用意に忙しい。すべてが慌ただしく、活気を帯びてくる。傍題として、歳暮(さいぼ・せいぼ)歳晩・歳末・年末・年の瀬・年の果・年暮る・年詰まる、とある。ひと気で賑わう町の外れにて、ちびた墨と我とはちょこんと所在なげに年の暮を迎えているのである。取り立てて何が何するでもない、俗世には俗世のも
樋口一葉の小説「たけくらべ」。若くして亡くなった樋口一葉の残した傑作小説です。高名な人気作家、森鴎外、幸田露伴らが、この「たけくらべ」を絶賛したことにより、小説家、樋口一葉の名が、一躍、世間に知られるようになった。しかし、もはや、一葉に残された時間は、短かった。この「たけくらべ」は、吉原遊郭に隣接をする町を舞台に、その町の風景と、その町に住む子供たちの日常を、生き生きと書き写した名作。樋口一葉の小説は、現代語訳も出版されているようですが、一葉の小説は、その文章を読まなければ、その素
寛永寺両大師(開山堂)にて参拝の後鐘楼脇の小さな門より、隣の寛永寺輪王殿へこの門、谷中にあった幸田露伴旧宅の門を移築したものだとかちなみに露伴の小説『五重塔』の主人公は根本中堂を手掛けた大工の棟梁がモデルなのだとか輪王殿前に立つのが、寛永寺旧本坊表門表から見ると徳川将軍家の菩提寺として、天海が創建した寛永寺寛永2年(1625年)、3代将軍・徳川家光の時代に貫主の住坊となる本坊が建てられました本坊があったのは現在の東京国立博物館のあたりしかし慶応4年5月
幸田露伴の「連環記」は、日本の近代文学において重要な位置を占める作品の一つです。本作は、明治時代に書かれた小説でありながら、その深い人間観察と繊細な筆致から、現代においても多くの読者に愛されています。まず、本作の魅力の一つは、登場人物たちの豊かな心情描写です。露伴は、人間の複雑な感情や葛藤を見事に表現し、読者は登場人物たちと共感しながら物語を追うことができます。特に主人公である破天荒な性格の青年と、彼を取り巻く様々な人間模様は、時に笑い、時に感動させてくれます。また、作品全体に渡って
主人の独白が始まった。太郎坊との出会い。それは20年も前のことになる。若くて純情だった主人には思い、思われる女性がいた。その女性の父親からもらったのが太郎坊と次郎坊という一対の猪口だったのだ。そして今、その太郎坊が壊れた。
毀してしまった猪口に未練を残す主人。酔いが手伝ったのだろうか。主人は今まで妻にも話さなかった、この猪口への特別な思い入れを口にこぼしてしまった。それと同時に何か吹っ切れたようでもある。妻に話を聞いてもらおうかと、そうすれば心も楽になるだろうと主人は心を決めた。🌻歩く愉しみ。今朝は久しぶりに徒歩通勤した。約7キロ。すっかり自転車通勤に慣れた脚がなまっている。1時間半で着くだろうか。雨は降っていたが、傘をさすほどの降りではなく、透明なビニール傘をぶらぶらさせながら歩く
主人が太郎坊と呼んで愛用していたお猪口が割れた。細君は大したことではないとさとすも、主人は珍しく未練がましい。主人と細君の気持ちに隔たりがある。主人も諦めざるを得ないと知りつつ、どうも新しい猪口で飲む酒はおいしくないようである。その理由を主人が語るのを待とう。
この字の大きさの違い、なんとかならないかな。さて、いつも通りの平凡な夕餉の卓の様子が描かれている。なお、この小説が書かれたのは明治33年の7月ということだ。ここまで読むだけで、当時の風景、庭や部屋の様子、言葉遣い、夫婦の関係などがしのばれる。さあ、舞台は整った。このあと、物語がいよいよ動き始める。主人公に寄り添いつつも近づき過ぎず、露伴の筆が進んで行く。この小説、書き写す前に一通り読みなおしたのだが、実にいい話である。この主人の気持ちがよくわかるし、自分
夏の日の夕刻に庭仕事を終えた主人が湯から戻り、いよいよ酒に向かう。労働(ほねおり)ぐらい人を幸福にするものは無いかもしれない。くつろいで楽し気な主人の様子も気分も伝わってくる。さて、今日の肴はなんであろうか。
今朝は早めに出勤して太郎坊を軽く書写する。まだドラマチックな展開は始まらないが、徐々に著者の焦点が「主人(あるじ)」に絞られてくると同時に限られて文字数で情景や時間が実に的確に描写されて、読者はすっかり自らをその舞台へ入り込ませている。今日は書道教室。先週先生に添削していただいたものを復習したので、今日もう一度見ていただく。今日から行書を離れて草書に入る。初めての草書。楽しみである。
あまり小説は読まない。読むとしても古いもので、最近根気が続かないので短いものになる。幸田露伴は好きな作家で、去年だったか、「連環記」という彼の最後の小説をボールペンで書写した。本としては薄かったのだが書いてみると案外ボリュームがあり、それこそよく根気が続いたものだが、意地になって写し終えた。卓に左ひじを載せて体重をかけて書くという作業を続けた結果、左肩を痛めるというアホな事態に陥った。しかし当然ただ読むより理解が深まることは間違いなく、あれはあれで貴重な読書体験であった。