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皆さま、こんにちは金曜日を迎えましたね🌸今日は大好きな友人と過ごす日なので嬉しいです🥰月末ということも重なり、身体や心の疲労を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか?💦ハードスケジュールになり、なかなか休息の時間も十分に確保できない方もいらっしゃると思いますが、少しだけでも肩の力を抜いて、ゆっくり深呼吸するようなリフレッシュ時間もどうか作ってくださいね☺今日もあなた様が笑顔😀になれることの多い1日となりますように•••••cut•••••・1828年(文政11年)3月29
昨日、福岡市中央区の西公園を訪れた。この西公園には、幕末の福岡藩士で明治維新に間接的かもしれないが貢献した志士二人の記念碑がある。一人は加藤司書である。『加藤司書公の碑』一昨日のこと、西公園の光雲神社を参拝した後、ハイジャン男は、西公園の頂を目指した。西公園のことは、荒津山と云っていた。高さ48mである。ここより、少し下った所…ameblo.jp加藤司書のことは、この記事を参照下さい。もう一人は平野国臣である。平野国臣のことは、何度も記事にしていた。『西公園の平野国臣像』福岡市中央
「平野國臣」國の家臣みなさん、おはようございます今日から土用です太陽の陽のパワーと大地の陰のパワーのバランスが崩れています土いじりには要注意です健康第一で行きましょうさあ、今日「7月20日」の國史を学びましょう!「平野國臣(くにおみ)、没」元治元年(1864年)幕末の尊王攘夷派の志士武士なのに公家の格好をします安政の大獄で処罰対象となった西郷隆盛と僧・月照(げっしょう)國臣は月照が薩摩まで逃げるのを助けますしかし幕府に睨まれた月照に薩
「平野国臣」は桜島より熱い「羽生結弦選手」のプロアスリート転向たくさんの感動をいただきました長らくの競技生活お疲れさまでしたそしてありがとうございました(笑)今日の國史を学びましょう!「平野国臣(くにおみ)」没元治元年(1864)幕末の尊王攘夷派の志士武士なのに公家の格好をします「安政の大獄」で処罰対象となった「西郷隆盛」と僧「月照(げっしょう)」「国臣」は月照が薩摩まで逃げるのを助けますしかし幕府に睨まれた月照に薩摩藩は冷た
名古屋のシンゾウです皆さん、結果はどうでしたか。悔しい思いをされた方も沢山おられるでしょう。それをバネにして今年も年末の試験に挑戦してください。それにしても、第19回はとても苦しい受験でした。11回も合格していることだし、10回合格の表彰もされたし、新聞記事にもなったし.....妙なプライドから、合格が至上命題になっていました。そこに、記憶力の減退とコロナが重なり、随分と自分を追い込んでしまいました。反面、もっと気楽に楽しめば良いのにとの思いもありました。揺れ動く心の狭間で本当に苦し
前回からの続き(11月3日のこと)です御旅所を後にして、妙心寺道を戻って行きます西大路通りを越して、再び南下(下って行きます)下立売通りで左折天神川を再び渡ると、左手に赤門が見えます竹林寺(ちくりんじ)住所・京都市上京区下立売通御前西入行衛町455通称赤門の竹林寺御本尊阿弥陀如来札所乾三十三所(第15番)駐車場は見当たりませんでした通常は境内拝観自由と本やネットではなってましたが、この日は閉まっていたので前にある駒札や解説板だけ撮りました( ̄∇ ̄*)ゞ弘安2(127
天を敬い、人を愛す!「頭山満と玄洋社①以徳報怨」「頭山満と玄洋社②クスノキと人参畑」の続きです。鹿児島市内では、あちこちで「敬天愛人」の四文字熟語を目にする。城山トンネル熟語の中の「愛人(あいじん)」と読んだだけで心が乱れる人は、うっちゃんと同じで人間修行が足りない。(笑)「敬天愛人(けいてんあいじん)」は漢文ですから、「天を敬(うやま)い、人を愛す」と読む。
週末田舎暮らし大学のキャンパスから眺める鹿児島のシンボル桜島!朝な夕な七色に変化すると言われています六月の狂い咲きのコスモス🤣降灰は困り物ですが街中に温泉を恵んでくれます源泉掛け流し❣️観光地としても!世界広しといえど活動が活発な活火山のこんな近くに人が
こんばんは失礼ながら誰👀ですよね?平野国臣さん日本の武士(福岡藩)です。きっと、ここへ来る事がなければ一生知らないだろう近くに用があって帰りにふらりと周辺を散歩をしてみると日本近代医学発祥字が目に入る👀もし、ここでへぇ〜ボタンがあったらいま、この瞬間心のなかで押したよねって感じその横には平野国臣外数十名終焉ん?終焉って……平野国臣さんってどなたさっそく、この場でググるとここは、六角獄舎跡※平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄この牢獄で
長屋門秋月城跡、福岡県朝倉市秋月野鳥参考【今こそ知りたい幕末明治】筑前の小京都に薫る志士の魂産経新聞、ヤフーニュース(2017.7.14、参考)秋月藩は福岡藩の支藩であった。幕末の藩主は嘉永・安政期の10代黒田長元、文久期の11代長義、文久~慶応期の12代長徳と続き、長徳の際に明治維新を迎えた。最後の藩主、長徳は維新後、秋月藩知事に任ぜられた。廃藩後は一時期、秋月県が設置され、やがて福岡県に編入された。現在は同県朝倉市になる。秋月藩は優秀な人材を輩出した。8代藩主の長舒(のぶ)、9代
歴史の舞台としては、先の平尾山荘に興味がわくのですが、本日の本来の目的は、シェフをこの松風庵(茶室の名前は松風庵ですが、公園の名称は松風園)に連れて行くこと。御来欧音お気に入りの施設ですが、シェフは一度も行ったことがなかったのです。いつ来ても美しい庭園は、目の保養に・・・・。美味しいお抹茶を頂いて帰りました。満足ですか・・・?(笑)おまけ:帰りに民家の屋根の上で寝ていたキジ猫。くさせんり師匠、私は顔良ローバーの後釜を入れるつもりはありませんよ!
野村望東尼(のむらもとに:1806~1867年)は、江戸時代末期の女流歌人・勤王活動家です。福岡藩士・浦野家の三女として生まれ、同じ福岡藩士の野村新三郎の後妻として嫁ぎました。次男が野村家の家督を継ぐと、望東尼夫妻はこの平尾山荘に引退し、以後は歌人としての道に打ち込みました。54歳の時に夫を亡くすと、望東尼は、出家して上方(大阪→京都)に出て様々な人物と知己を得ます。福岡藩の勤王活動家(尊王攘夷派)である、平野國臣・月形洗蔵をはじめ、長州藩の高杉晋作、薩摩藩
前回のお話。『高杉晋作と野村望東尼(4)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」を聞いて』引き続き、歴史作家・童門冬二さんの講演CDを聞いた感想です。↓前回の記事『高杉晋作と野村望東尼(3)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」を聞い…ameblo.jpさて、最後の検証課題です。〇晋作の辞世といわれる「おもしろきこともなき世~」というお話の全部。を検証します。これは、ちょっとやっかいな課題です。あまりにも有名な話ですから。当該部分の童門さんの講演内容は次
引き続き、歴史作家・童門冬二さんの講演CDを聞いた感想です。↓前回の記事『高杉晋作と野村望東尼(3)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」を聞いて』引き続き、歴史作家・童門冬二さんの講演についてのお話です。マニアックな話です。↓前回の記事『高杉晋作と野村望東尼(2)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者…ameblo.jp今回の検証内容は、〇「望東尼」という名前が、晋作の雅号「東行」にちなんでいるのではないか、ということ。です。検証します。童門さんは講演の
引き続き、歴史作家・童門冬二さんの講演についてのお話です。マニアックな話です。↓前回の記事『高杉晋作と野村望東尼(2)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」を聞いて』前回からのづつきです。歴史作家・童門冬二さんの講演CD「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」の冒頭の話を聞いて、童門さんの不勉強&聞き苦しかった点を検証しま…ameblo.jp今回の検証内容は、〇年甲斐もなくのぼせあがり、病気だと聞くと、奥さんが飛んでくる前に、晋作の枕元へ駆けつけたこと。です。
前回からのづつきです。歴史作家・童門冬二さんの講演CD「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」の冒頭の話を聞いて、童門さんの不勉強&聞き苦しかった点を検証します。講演の内容については、前回の記事を読んでください。『高杉晋作と野村望東尼(1)童門冬二「松下村塾が生んだ天才改革者高杉晋作」を聞いて』ときどき、図書館から文化人の講演CDを借りてきて、子守唄代わりに寝床で聞いています。こちらは、歴史作家の童門冬二さんが、幕末の長州藩士・高杉晋作についてスタジ…ameblo.jp以下の4
Iftheworldwaspeaceful,Iwouldhavelivedinapeaceasaflowerguard!本年を令和維新発火の年に!令和維新の歌↓君が代のKimigaYono安けかりせばYasukekariseba豫てよりKaneteyori身は花守りとMihaHana-MoritoなりけむものをNarikemuMonowo<歌意>この世の中が平和であつたならば、かねてから自分は花守になつて平和な生
(備忘録)平野國臣の記事を書くにあたって参考にした資料の更新データ。未定稿/平野國臣の研究参考資料②(ネット等情報編)参考資料1文献/書籍/パンフレット等①平野國臣(発表年順)・「平野國臣伝」今田主税(東京堂書店/1892(明治25)年1月11日)/伝記・「偉人史叢第五巻平野國臣」宮部力次(裳華書房/1897(明治29)年7月20日)/伝記・「少年讀本第三十四編平野國臣」白河次郎(博文館/1901(明治34)年5月10日)児童向け伝記・「平野國臣傳記及遺稿」平野國
引き続き、幕末の福岡の志士・平野國臣の事蹟を調べています。ネット検索をしていると、「小田部(こたべ)藤園の跡」というワードがひっかかりました。終戦直前まで、國臣ゆかりの藤園が西公園(福岡市中央区)の近くにあったということです。その藤園の木がまだ残っているらしいのです。灯台下暗しで、その場所は、福岡城の北、國臣の像がある西公園のすぐ近くです。バイクを飛ばして行ってきました。西公園に登る道のすぐ下、いまは、福岡バプテスト教会と汀(みぎわ)幼稚園が建っています。↓汀幼稚園。
引き続き、福岡の勤皇の志士・平野國臣の事績を調べています。福岡は、ソメイヨシノが満開です。きれいに咲きました。「日本さくら名所100選」にも選ばれている西公園(福岡市中央区)の平野國臣像をカメラに収めてきました。西公園の桜。毎年、この場所からの絵が定番です。今年は、猿回しは来ていませんね。平野國臣の像も、みごとな桜に囲まれています。この像、けっこうカッコいいんです。前回の投稿で、「討幕のため脱藩し、藩の盗り方に追われて牛深(現・熊本県天草市牛深)に潜伏し
一般の参拝の方が通られる北側に、塔頭の並ぶ参道があります。大伽藍こそありませんが、ここが清水寺運営の中枢とも言えます。まずは仁王門前の善光寺堂から・・・卍善光寺堂洛陽三十三所観音霊場第十番札所。古くより六地蔵を本尊とした地蔵堂が所在。鎌倉時代に如意輪観音を安置し、清水寺塔頭「地蔵院」に改名。明治中期、奥の院南庭にあった善光寺如来堂を廃したことにより、本尊を当地に移し「善光寺堂」に改名。1984年(昭和59年)改修。寄棟造、本瓦葺。本
5日目(2/25火)朝、会社員の長男を送り出してから、まるき製パン所に行き、パンを買ってきて、ゆっくりの朝ごはん。昼近くまでごろごろ・・・これは自宅と同じ。きょうは、福岡の勤皇の志士・平野國臣の事績調査に大阪へ。1862(文久2)年の寺田屋事件の直前に浪士たちが集まった大阪の薩摩藩邸跡を見にいってきました。詳細は・・・後日書く予定(笑)。阪急大宮駅から梅田駅へ。終点の阪急梅田駅のコンコースです。こんなに横にズラリと並んだ電車を見るのは初めてです。ちょっと感激しました。キ
先日、ふと思い立ち足を運んだ「平尾山荘」《平尾山荘》〒810-0014福岡県福岡市中央区平尾5丁目2−28092-711-4666その際、資料館の管理人をされている方と色々お話しをさせていただき、今日の講座にお誘いいただいたので、「この自然な流れは参加せねば!」と思い、参加させていただきました。______________________________平尾歴史文化講座『勤王歌人野村望東尼を知る』第五回「高杉晋作との運命の出会い」講師:谷川佳枝子氏
みなさま、こんばんは~~~西暦2019年10月30日(水)、深夜10時30分過ぎからのブログアップです今日は、2019年12月3日、4日、舞台『坂本龍馬』の風景(その3)下関での商人白石邸として、幕末舞台公演『坂本龍馬』の歴史的背景を検証してまいります。幕末の歴史を考察する時、常に不思議であったのは、お金のない志士達(脱藩浪人等)が、何故、あれだけ日本国内を闊歩できたのかということでした。幕藩体制の末期とはいえ、各藩に依拠し、藩を追われるというこ
おはようございます。昨日の桜島もう少し天気が良かったらね〜〜〜泊まったホテル桜島が噴火したら割引きになるプランだったのですが不発でした(笑)近くの居酒屋で最初に頼んだ「ほろ酔いセット」これに、焼酎が二杯ついて1000円キビナゴの酢味噌が自家製で美味しかった!自家製といえば、すもも酒!よく浸かってました。勤皇の志士「平野国臣」我が胸の燃ゆる思いに比ぶれば煙りは薄し桜島山と、雄大な桜島
平野国臣は幕末ファンにとっては地味な存在。表舞台には中々登場しません。平野国臣は幕末の志士、勤王家。実名は種言,種徳。家号は月迺舎,友月庵,柏舎など。通称は次郎。28歳のとき上京。在京薩摩藩士らと往来し,尊王攘夷論を唱えました。安政5(1858)年脱藩して,西郷隆盛,月照らと交わり,天草島に潜居して文久1(61)年天下の時務策「尊攘莢断録」を著わしました。この間、備中の豪商三宅正太郎,下関商人白石正一郎とともに物産交易に従事。その翌年西国志士を上京させ,真木和泉,
文久2年6月27日脱藩した江藤新平は、先ず博多の平野国臣を訪ねるが、平野は不在であったー平野は、田中河内之介、真木和泉らとはかり寺田屋事件で命を落とした薩摩の有馬新七らの倒幕計画にも関わっており、この時は投獄されていた。平野の投獄は、博多の同志らもまだ知らず、江藤は、京都からの帰りに馬関(下関)で会見することを約束し、博多をたったーつづく前年10月、平野は佐賀を訪れ、枝吉神陽や江藤らと密会しています。(「神陽先生、平野国臣と密会する!(with佐賀の三平)参照」)この時、神陽は、「
福岡市中央区の明治通り沿いに平野神社なる小さな神社がありました。よくある地名を冠した神社かと思ったら、実在の人物の平野国臣氏がご祭神で、福岡藩士から攘夷派志士として活躍された方なんですね。福岡ではよく黒田藩という文字を目にするのですが、岐阜は戦国武将たちの舞台だったので、織田信長とか斎藤道三とかの時代だけで歴史を語ってしまって、その後の江戸時代の様子を知らないのですが、福岡藩(黒田藩)は約250年も続いた外様大名の大きな藩だったのですね。キレイにお掃除されている境内の隅には
〇京都歴史探訪シティロゲイニング~幕末・明治維新編~(31年2月10日)さて、今回は、掲題ロゲイニング大会で、私が回ったチェックポイントを、実際に回った順にご紹介します。まずは、スタート地点(京都大学構内)から手近なところへ...。(1)京都大学時計台京都大学の象徴です。手前はクスノキです。幕末・維新とあまり関係なさそうですが、会場・スタート・ゴールすべてが京大構内ですので....。なお、この日は行きませんでしたが、時計台の建物には、ショップがあり、京大グッズを買うこ
🌸はじめに…またまた,桜の写真で恐縮です。若い頃は,今年は花見などしなくてもまだまだ,いくらでも花見は出来る,と思っていました。しかし,この歳になると,あと一体何回観れるだろうかという思いになり,今年も花見をしない訳にはいかないと思う今日この頃です。先日1日(月)の舞鶴公園(舞鶴城跡)の花見に続き,昨日3日(水)は統一地方選の期日前投票を市役所で済ませた後,福岡市内の主要な花見どころの一つ西公園(さくら名所100選の地)の桜を観に行きました。若い頃,一度行ったくらい(定かな記憶なし)で