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皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜さぁ平家との直接対決だぁ〜って第9話の感想ぉ〜!いよいよ富士川の戦いです。しかし、同じ源氏の武田信義っていやらしいなぁ〜頼朝を酔わして合戦の抜け駆けをしようとは…やれやれだな平家の軍勢は5万とも7万とも…って義時が言ってたけど、実際には無理やりかき集められた兵が多く、戦意も低く、途中で逃げるものがいたようで、富士川に着陣した時は兵の数は減っていたようです。平家は富士川の陣では遊女を呼んで兵を繋ぎ止めてたのかな「富士川の戦い」
大河ドラマの鎌倉殿の13人よりほんの少し時代が先に進んでいるアニメの平家物語まさに悲しい悲しい壇之浦前回はとうとう敦盛様が直実に打ち取られてしまいました敦盛様~そういえば中村吉右衛門さんを偲んで『熊谷陣屋』がテレビで放映されていましたねこちらはこちらで熊谷二郎直実の嫡男小次郎が敦盛様の身代わりになる、という……こちらもなんともせつないせつないフィクション鎌倉殿の……では先週はいよいよ『富士川』でした平家物語では巻第五『冨士川』三谷幸喜さんの脚本ではどんな風に
ついに鎌倉入りを果たした源頼朝の一党。敵対した平氏方を捕らえるため、頼朝は競わせるように和田義盛と畠山重忠を派遣します。義盛は鎌倉初期の武将で三浦氏の一族にあたります。侍所の初代別当となったことで知られていますね。頼朝の死後は、13人の合議制に加わって有力御家人として幕府で存在感を示しました。北条義時と三浦義村は、祖父である伊東祐親と江間八重を救うために急いで伊東へと向かいます。そのころ、都を出発した平氏の追討軍が東海道を進軍。平維盛を総大将とする追討
ゆづる君表紙の雑誌ananね発売日は即完売した書店もあったそうでhttps://twitter.com/kyobunkwan/status/1501758104211718145?s=12一階雑誌売場からお知らせです!発売日に即完売してしまった、#ananの増刊号が再入荷しました✨✨#羽生結弦さんの表紙のスペシャルエディションです⛸お早目にお求めください😊#マガジンハウス#アンアンpic.twitter.com/PSBCqTJ52I—教文館〈公式〉(@kyobunkw
平維盛。イケメンですねー。ご本人も光源氏の再来とまで言われたらしいからそれなりのメンズを起用したのかもねでもドラマからはあっという間に消えちゃうかな、きっと。「盛者必衰」平家が衰えはじめてますね。先週は平家物語に出てくる場面、富士川の戦いで水鳥の音で狼狽する平家が描かれてました。発端を北条時政にしたのは大河ならではなのでしょうけど。次回はやんちゃ義経くんが活躍するのでしょうかね。ちょい話はそれますが、、、義時のパパ、時政ってなんか憎めない可愛さがありますよね(笑)まっい
所在地福井県今立郡池田町谷口(梅田氏庭園)特徴倶利伽羅峠で敗れた平維盛の末裔が、池田郷に土着して梅田氏を名乗ったとされる。立派な石垣の虎口や堀を有する館で、庭園が文化財に指定されている。感想「中」にしたくなる遺構だが、内部が公開されていないので「低」とした。
平清盛が亡くなる少し前から平氏は美濃を制圧し、そこから東へ、鎌倉勢への圧力を加えようとしていました。墨俣はそのための拠点でした。富士川の合戦に敗れた平維盛が墨俣で軍勢を立て直そうとしたのもそのためです。長良川沿いの墨俣は左右に揖斐川と木曽川を配し、物流の拠点でした。と同時に、東西両勢力の境界線という位置付けでもあります。平氏方は兵や兵粮をその墨俣へ集めていたのです。源行家がその平氏の拠点へ、夜陰に乗じて急襲しようとしました。ところが、平重
こんばんは~予定からだいぶ遅れましたが先週のアニメ平家物語。書いていきたいと思います。徳子がスゴくかっこいい回でしたね複雑な運命に翻弄されながらも凛と生きることを決意する。平家物語のヒロインは徳子なのだ!と改めて認識しました。出だしは、笛の共演以来、すっかり仲良しらしい、清経と敦盛が仲良く毬杖(ぎっちょう)という、新しい遊びに興じているところからでした。ただの無邪気な遊びのシーンでは終わらないのが、このところの平家の現状で清経は南都の僧たちがこれを”清盛の頭“と呼んで
平維盛らがもう少し耐え忍んでいたなら、平氏に挽回のチャンスは十分にありました。というのも、平清盛はこのとき軍勢を大増派する秘策をめぐらせていたからです。『山槐(さんかい)記』によりますと、平頼盛・教盛らの弟たちを源氏追討のために下向させることに加えて、清盛は、「鎮西武士、船より遣わすべき」という画期的な作戦を練っていたことがわかります。この時代の軍勢召集方法は、陸路の行軍にあわせて現地の武士団を糾合するのが常識です。ところが、清盛が立てた策はその
『アニメ平家物語5話視聴”』アニメ平家物語5話視聴しました。平清盛の暴走を止める役だった長男重盛の死は本当に大きなものでありました。平家とその他の勢力との間にあったわずかな…ameblo.jpアニメ平家物語第6話視聴しました!↑ありがたい、解説動画。◎福原に遷都◎平敦盛初登場Wikipediaより笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[注釈1]という笛を譲り受ける。承安4年(1174年)から治承2年(1178
以上みてきますと、富士川の合戦の本質がみえてきます。平氏の追討軍が富士川で戦おうとしていた相手は、その軍勢を急襲した甲斐源氏だったのです。つまり、頼朝は甲斐源氏と合流して後詰しようとしていたにすぎなかったことになります。そして、頼朝と甲斐源氏との連携を策したのが北条時政でした。それでは最後に、美濃の墨俣まで兵を撤退させた追討軍のその後の動きをみてみましょう。総大将の平維盛はそこで軍勢を立て直すどころか、追討軍から投降者が相次ぎ、もともと「四千騎」いた「官
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』『吾妻鏡』読み進めます治承4年(1180)9月のつづきです上総広常〈佐藤浩市〉9月19日上総権介広常が上総国中の輩を集め二万騎を率いて隅田川辺に参上します武衛(頼朝)はしきりに遅参を怒りあえて許そうとはしません広常は密かに今時の武士は皆平相国禅閤(清盛)に従うのが当たり前頼朝が流人でありながら安易に兵を挙げたとはその容貌に高度な相が無ければ直ちに討ち取り平家に献上すべしと内に二心を挟み外面は帰伏のふりをして
こんばんは~先日のアニメ「平家物語」第5話今週も観ました!全体に、重盛の死後の、平家一門の政治動向を追った場面が多かったですね。新しく棟梁となったのは、重盛の異母弟の宗盛。このアニメでは変顔のイヤな奴という役まわりびわは、重盛の“死者が見える眼”を受け継ぎましたが、今回はあまり何を見るということはなく。徳子の産んだ親王(のちの安徳天皇)と遊んでばかりいましたそんなびわの傍らで悲しい顔の徳子。高倉天皇の新しい妃(坊門殖子)に皇子が産まれ、その皇子の乳母に、兄・知盛の妻がなったので
『日本アニメ平家物語2話/』私は、いわゆるオタクな歴女だから粗方平家物語の内容を理解した上で毎回拝見させて頂いております。本当になかなかよく出来たアニメだと改めて思っております。…ameblo.jpアニメ平家物語第3話視聴しました。平維盛(平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。)長子気質なんですかね?私も長子なんで似てるものを感じる。維盛のパパの重盛さんも長子だからな彼も同じ気質だけど彼らの臆病でかつ正
こんばんは~昨夜深夜放送のアニメ「平家物語」第4話、さっそく録画で観ました!重盛、死んじゃったよ~の回でした以前から書いてますが、私、ホント平家物語あまり知らなくてまぁ一応は歴女を気取っているので、まったく知らないわけでもないのですが、断片的なものだから、ひとつひとつがあまり繋がってないんですよ~それがこのアニメのおかげでだいぶ一本に繋がりましたにしても今回も盛りだくさんエピソードが多すぎて追うの大変でした冒頭、懐妊中の徳子が病に苦しんでいて。鹿ヶ谷事件で死んだ人たちの
TVアニメ「平家物語」第3話で、平維盛が厳島神社で舞楽「蘭陵王」を舞うシーンに、天王寺楽所雅亮会が「陵王乱序」の音源を提供しました。龍笛を吹いています。TVアニメ「#平家物語」第三話で平維盛(CV.#入野自由)が「蘭陵王(らんりょうおう)」を舞うシーンは、厳島神社でも演奏されている天王寺楽所雅亮会さんにご協力いただきました🙌⛩pic.twitter.com/QclvkLSDEo—【公式】TVアニメ「平家物語」(@heike_anime)2022年1月28日
こんばんは~昨日深夜に放送された、アニメ「平家物語」第2話。さっそく観ました今回は、清盛や後白河法皇の出番も多く、なかなかヒストリアしていましたが、メインは祇王・祇女、仏御前といった、清盛をめぐる白拍子たちの話でした。主人公・びわの母も白拍子らしく。消息を探してやりたいと願いつつも、運命に流されていく、祇王たちと徳子を描いていました。画がキレイ~音楽もいいし~琵琶の調べもステキ重盛は「燈籠殿」と呼ばれるくらい闇を怖れ、邸内に光を灯していましたが、この辺り物語にもあるみたいですね。
○雑誌「あまから」1950年から60年代に大阪で発行されたタウン誌です。食に関するグルメ雑誌のさきがけ。以前に取り上げましたので、2回目の続編になります。○池竹中郁1904-1982詩人●大正7年か8年かだった。そう。7年の夏には神戸には米騒動の焼き討ち事件があったので、その明くる年の夏休みだ。8月2日か3日かに兄に連れられて大峰山に登った。●大峰山は修験道の山伏姿で登るのが近畿の風習であったが、そのころ日本にはやりはじめた近代登山のつもりで、兄や兄の友人が企画したらしい。それ
ご来訪ありがとうございます。平清盛が造営したといわれる福原京…ほんの一時期…凡そ半年とのこと…凄い高低差の鵯越…生者必滅会者定離…幻の都「福原京」の考古学生まれ育った地元を歴史散歩12/15(水)17:00神戸市埋蔵文化財センターの企画展「『福原京』の考古学」に行ってきた。1991年に開館した当センターには、「福原京」関連の考古資料・データが保管・蓄積されてその解明に取り組んでいる。平安時代末期の治承4(1180)年に神戸にひらかれた「福原京(和田京)」は、半年で都がえりしたの
関西はちらほら紅葉便りが聞こえ始めました。高野山へ‥と、思ったら、人が多すぎて‥。素通りして、高野山龍神スカイラインを通って、標高1000mを超える護摩壇山へ。ここは源平合戦に敗れた平維盛(清盛の孫イケメンらしい)が落ち延びて、護摩木を焚いて命運を占ったところ。一条の煙は地を這う凶兆だったそうです。その後、維盛は那智の滝にて自決。今は何もないところですが、紅葉は美しい。途中、買ってきた駅弁「うに(もどき?)弁当」ご馳走さまでした💕にほんブログ村
北関東あたりではいよいよ紅葉シーズン本番・・・という時節ですが、〝食欲の秋〟真っ盛り(?)の今日・11月1日は、寿司の日なのだそうです。歌舞伎・義経千本桜の『鮓屋の段』・・・平維盛(たいらのこれもり)が壇ノ浦の戦いで敗れた後、鮎を材料とする鮓屋に身を寄せます。そしてそこの娘・お里と恋仲になり、侍を捨て養子となり鮓屋を継ぐ決心をして、弥助と改名したのが11月1日だった・・・。この逸話を記念して、今からちょうど60年前の1961(昭和36)年に開催された全国すし商環境衛
維盛塚源平の戦いで敗れた平維盛が生涯を終えた地と伝えられています。
平家越えは、富士川の戦いで平家軍が陣を置いた場所ともいわれています。源頼朝が挙兵し鎌倉に入ると、反乱の芽を摘む為に平家が東に向けて軍を発しました。富士川の戦いで平家軍の大将を務めたのは平維盛。平清盛の嫡男として期待されながら若くして亡くなった平重盛の嫡男です。本来なら清盛の嫡孫として中央政界で育つ立場なのですが、重盛死後は平家の中でも微妙な立場になっていたのです。そんな維盛でも容易に勝てるであろう軍勢を引き連れての東進でした。治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで対峙した維
皆さま今晩はカオルです😆今日は仕事の都合で三重県に前泊しているのですが、昨日に前入りするからとその周辺を調べてたら伊勢神宮が近いのは最初から知ってたんだけど、少し上をgoogleMAPで見てたら、何と私の父方の実家、津市が近いですやん!😮先月に三重の隣、奈良吉野郡十津川の五百瀬にある先祖のお墓参りをしたので、『玉置神社と先祖のお墓参拝』皆様こんばんはカオルです😄小笠原観光記の途中ですが、今日は昨日唐突に決まった玉置神社⛩と御先祖様のお墓に参拝してきました。朝6時に自分の運転🚗で家
皆様こんばんはカオルです😄小笠原観光記の途中ですが、今日は昨日唐突に決まった玉置神社⛩と御先祖様のお墓に参拝してきました。朝6時に自分の運転🚗で家を出発!大阪市内から順調に9時過ぎに玉置神社に着き初めて行った2年前に地元の方から教えて頂いた、駐車場の裏から玉置山山頂まで登りそこから玉石社へ下り玉置神社へ参拝祈祷して夫婦杉と神代杉と大杉に挨拶に行きました。去年に神様としての自分に心願成就をそこで祈祷して自分のチャレンジしたい事と行きたい場所に無事に行きジャンルを問わず良き
石川県河北郡津幡町と富山県小矢部市にまたがる倶利伽羅峠。古代より北陸道がこの峠を通っていました。1183年に源氏と平氏による戦いがあり「倶利伽羅峠の戦い」と呼ばれています。この戦いでは木曽義仲(源義仲)が行った「火牛」という奇襲が有名ですね。倶利伽羅峠を越える道は建設省の歴史国道に選定され、北陸道の峠道が歴史的価値の高い道路遺構であるため石川県の史跡に指定されています。峠の頂上辺りは「倶利伽羅公園」になっています。津幡町観光ガイド石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠
2020年12月11日(金)前回の旅を終えた頃…コロナの影響からストップしていた講座が再開したとの連絡が入り、私は静岡県富士宮市へと向かいました。消えゆく虹の向こう側~女たちの生きた証~ーその①ー『消えゆく虹の向こう側~女たちの生きた証~ーその①ー』2020年11月21日(土)早朝。長野県諏訪市のBlueLineGarageCafe18での定期イベント『湘南日和vol.13』開催のため、長野県へ…ameblo.jp※前回の旅とはこちらの記事から始まる旅です。ぜひお読みくだ
5月11日の○○1183年のこの日、越中加賀国境の倶利伽羅峠で木曾義仲が平惟盛軍に、牛の角にたいまつをくくりつけて放つ「火牛の計」で大勝しました。倶利伽羅峠の戦い1183年5月11日、、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現:富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つです。砺波山の戦いとも言われています。