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※私に見える人、話せる存在とのやり取りです。エンタメとして見ていただけたらと思います🙇♀️前世は卑弥呼の魂だったって言われたという人や、卑弥呼は火の巫女で職業の事を言っていてその魂だった人はたくさんいるというのを聞いたことがあります。私も何人かから前世は卑弥呼の魂だったと言われたうちの1人です。守護霊さんから卑弥呼の名前は天照大御神と言われたから火御子の第一号が教科書に載ってる「卑弥呼」の事なのかな?と思っていました。すると卑弥呼と火御子は全くの関係ない別物だと教えてもらい
◯前に、ブログ『忠盛灯籠』を書いた。その『忠盛灯籠』の案内板の下に、次の案内板が設置してあった。なかなか面白いので、今回、ここで取り上げておきたい。祇園社乱闘事件八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から八六五年前に、平清盛に関わる乱闘事件がありました。時は久安三(一一四七)年六月十五日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在七月二十四日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)の日の事。中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園
人形劇「平家物語」は平治の乱の場面でした。どうも源義朝は権力がほしい藤原信頼に平清盛を攻撃させて厄介払いをさせようと騙されてようです。恩賞が不公平だったのは、ここから計画がはじまっていたようです。平清盛たちが熊野詣に行くと聞き藤原信頼は源義朝に決起を促します。平清盛たちが旅立つと藤原惟方に命じ帝を閉じ込め、源義朝は三条殿に火を放します。信西(藤原通憲)は追っ手に見つかり切られます。平清盛たちは追って知らせに来た者の情報で都の異変を知ります。熊野詣の途中から戻った平清盛は藤原惟方を寝返
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310043_00000
御霊神社のお隣り、安福寺。桜🌸、見損ないました。『朝ん歩小さくのどかな景色の中で』今朝も朝ん歩ウォーキング🚶♀️初夏の空気を浴びて微かな蓮華草の甘い香りを感じ小鳥の声小川(農業用水)の流れの音危ない!大きなサギが頭の上を飛ぶ小さ…ameblo.jp安福寺の桜、こちらで拝見させていただきました〜☝️平重衡の墓。平清盛の息子、南都焼討牡丹が綺麗に咲いてましたえ〜なぁ。『令和6.4.20.御霊神社(京都府木津川市木津宮ノ裏285)』御霊神社の藤棚の様子を伺いに。大国魂
大河ドラマ「平清盛」も41話まで視聴終わりました。残り、9話。最後は清盛の死で終わるのか?それとも平家の終焉で終わるのか?そして、今回読了したのは永井路子さんによる清盛の妻、時子目線の本です。波のかたみ:清盛の妻Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}ある意味、世の頂点に立った清盛な訳でその妻であるならば満ち足りた気持ちになりそうですが次世代もいや、永遠なる平家の維持を考え続けなければならないのって常に不安との戦いだったんだ
三十三間堂の次は歩いて六波羅蜜寺に向いますいよいよ六波羅に足を踏み入れます👣三十三間堂からは歩いた方が早そうなので、徒歩移動🏃🏃🏃約20分程で着きました六波羅蜜寺の山門の写真が観光客で撮れなかったので、弁天堂側からの出入りを……📷六波羅蜜寺の縁起案内板空也上人像と文化財リスト手水舎一願石と十一面観世音菩薩阿古屋塚宝塔は鎌倉時代作平景清の思い人で、五条坂の白拍子だった阿古屋の菩提を弔うための宝塔平家残党を探す畠山重忠は、阿古屋を捕え詮議のために、琴三味線胡弓を弾かせ
◯八坂神社境内に、次の案内板が設置してあった。忠盛灯籠永久年間の頃(十二世紀)、白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。法皇は供の平忠盛に討ち取ることを命じられたが、忠盛はその正体を見定めての上と、これを生捕りにしたところ、油壷と松明とを持ち、灯籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光を受けて銀の針のように見えたので
穀雨April明菜さんの、「サザン・ウインド」正に「自然に体がリズムとる」「パナマ帽くるくると指で回して」生演奏ほんと凄いサザン・ウインド/中森明菜ザ・ベストテンより1984年4月11日作詞来生えつこ作曲玉置浩二youtu.beNHKラジオ「小学生の基礎英語」に出て来た、アンツオンアログ(丸太の上の蟻)という、おやつに食べるもの、初耳だった。プレーヤー|らじる★らじるNHKラジオラジオ第1(R1)・ラジオ第2(R2)・NHK-FM放送の音声をライブスト
大河ドラマ光る君へで藤原道隆を演じておられる井浦新さん大河ドラマ平清盛で崇徳上皇を演じられた。土スタのゲストで出演されて、そのことに話が及んだ。けっこうな時間をそれに使ってくれた。なんと井浦さんは、崇徳上皇が好きだったとのこと。崇徳上皇は日本三大怨霊と言われる中のひとり(菅原道真平将門そして崇徳上皇)まだ記憶にのこっている。平清盛のときの崇徳上皇の怨霊のすがたほんとすごかった。まるで映画陰陽師
大河ドラマ『光る君へ』は、第15話「おごれる者たち」で、永祚2年(990年)から正暦4年(993年)へ、一気に3年の歳月が過ぎ去りました。この間に起きた歴史上の出来事で、関心事になることはいくつかありますが、今回はその中の1つ。藤原為光(ためみつ)の薨御を取りあげてみたいと思います。正暦3年(992年)6月16日、薨御。享年51。亡くなる前年「太政大臣」に昇っており、最終官位は「従一位・太政大臣」。「恒徳公」と謚されました。藤原為光@阪田マサノブさん2024年大
2024年4月9日12時過ぎ京都市東山区京都の桜1日目-2蓮華王院三十三間堂後白河上皇が平清盛に建立のため資材を提供させて1165年完成。1249年焼失し1266年本堂のみ再建。「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数。本堂西側の軒下(長さ約121m)を、南から北に矢を射通す通し矢が有名。桜の名所ではないが妻のリクエストで120mの長いお堂を見に行くことに。本堂のそばと庭園に小さな枝垂れ桜が咲いていたが桜の数は少ない。きれいな紅白の花があっ
先週、土曜日から遅くなったけど孫のお宮参りとお食い初めの為大阪に行っておりました。その集まりは日曜日だったので前日、土曜日に読メのお友達と再会する予定だったのですが急遽、お友達の都合がつかずで一人で土曜、月曜とアチコチ行ってきました。その様子は自分用の備忘録として後程ブログアップしようと思っています。さて、往復の新幹線の車内で前編に続く後編へを読了したので。後編もブックオフで購入↓後編、最初の方は前編から続く俳優の方々へのインタビ
右衛門佐は包を開いた。四角い盆の上に紙と巻物があった。「なんですかこれは」秀島は左足を延ばしてゆっくり座り床に手をついた。「とりかへばや物語とう奇怪な物語だ」「奇怪?誰が書いたのですか」「藤原の京家の者らしいとか聞いておらん」右衛門佐はこたえた。「藤原一族は人が多いですからね」右衛門佐を見て言った。右衛門佐も藤原一族の者だ。だから従五位上になれたのであろうと秀島は思っている。従六位上と従五位上では間に天の川が流れているくらいの差がある。殿上人と官人の差は大きいのだ。「
蝶の縁起「蝶」は、世界中に広く分布し、その種類は知られているものだけで約17,600種といわれています。日本では約260種が知られており、日本で最初に発見された「オオムラサキ」は日本の国蝶とされています。春になると身近に見られる蝶ですが、ギリシャ神話や中国の故事、仏教やキリスト教の教えの中にも登場し、洋の東西を問わず、幼虫からサナギを経て成虫となるその劇的な変化によって、輪廻転生や復活、長寿などの象徴とされてきました。■日本における「蝶」の縁起●仏教では極楽浄土に魂を
次に、展示会と平家関連場所に行きました。東北地方の仏様が、味の有る雰囲気の姿をしたものが印象に残っています。平清盛の終焉地です。ビルとビルの間に何気なく景色に溶け込んでいました。地元、和歌山県の展示会で明恵上人に関する展示会が有りました。それぞれの場所で僕に関連するお役目をしました。住まいの近くで、この日のお役目が終了したので早い目に自宅に到着して良かったです。
あらためて『平家物語』を復習したくて、吉野敬介さんの『1日で読める平家物語』を読んでみました。考えてみれば、高校の古典の授業で『平家物語』の一部分(たしか「敦盛の最期」だったと記憶してるのですが)を教材として勉強しましたが、通して読んだことってなかったような…。著者の吉野敬介さんは予備校の先生だそうで、語り口はわかりやすく読みやすかったです。ただ、「1日で読める」と銘打ってありますが、おそらく多くの方は1日では読めないのでは?と思えるボリュームでした。読んだのはこの本
■干支だけで観るとそうでもない歴史人物の算命学鑑定やってくださーい♪歴史好きのお客さまからリクエストがありました古都の遠縁のご先祖さまにもあたる平清盛を算命学鑑定してみようかしら♪今宵は歴史好きによるロマンとリスペクトをこめて算命学鑑定です♡平清盛の生年月日をWikipediaさまで調べましたら永久6年1月18日生まれ先発グレゴリオ暦1118年2月17日先発グレゴリオ暦って何なのかしら!さらに調べましたら1582年から採用されたグレゴリオ暦を1
NHKオンデマンド「平清盛」は昨日で33話まで視聴終了で残り17話となりました。ここで、少し前にブックオフで購入していたドラマ本を読み返してみることに。まずは前編を。主演の松山ケンイチさんはもちろん素晴らしいのですが後白河天皇役の松田翔太さんの憎たらしさの陰にある孤独の中に育った憂いの切なさと言ったらもう・・・。この二人の共通することはコンプレックスがあるからこそ変なプライドがない処という感じでしょうか。美福門院得子役の松雪泰子さんの言葉の「権力者はいつの時代も
1993年から1995年に放送されていた人形劇「平家物語」をご存知ですか。わたしは見たことがありません。で、今録画して見ています。とりかへばや物語が書かれた時と同じくらいの時代です。で、平清盛と源義朝は人形劇の様子ですと仲がよかったようです。ですから保元の乱では一緒に行動したようです。ところが恩賞で不満を持った源義朝が平治の乱を起こしたようです。どうして平等に恩賞を与えなかったのでしょう?平治の乱までは書かないつもりですがどうして差をつけたのでしょう?「とりかへばや
京都の八条西大路にある若一神社は若一王子を祭神として祀る平清盛公ゆかりの神社⛩️です。小さいながらも立派な楠の御神木がシンボルで目立つので京都の人は車の多いメインストリートの一つである西大路を通るとこの平清盛公手植えの大楠を一度は目にしたことがあると思います。若一王子さまとは熊野権現由来で熊野先達をさせてもらっているととても親しみを感じる神様です。ここでは、平清盛公が土中の若一王子神を掘り当てて祀ったところ太政大臣に出世した由来から、開運出世の神さまとして慕われてい
今日は2024年4月9日(火)です。「大仏の日」です。全国にある大仏の中で僕が見た大仏シリーズをお届けします。過去記事です。↓=================2013年3月16日(土)の出来事です。前の記事からの続きです。↓前の記事http://blogs.yahoo.co.jp/zirosan067500/36933369.html最初に訪問したのが神戸大仏「能福寺」です。清盛は、ここで剃髪して入道になります。京都で亡くなって
桓武天皇の皇子・葛原(カズラワラ)親王は、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳朝に亘って、諸官を歴任し、特に33年間も式部卿の職にあり、親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていた。その子に、高棟王・善棟王・高見王がいたが、その後、臣籍降下させて平朝臣姓を称することを上奏して許されている。葛原親王の長男・高棟王(タカムネオウ)は臣籍降下して平高棟と名乗る。父と同じように淳和・仁明・文徳・清和朝に亘って、諸官を歴任し、文徳朝では参議となり太政官に列し、大納言まで至った。その
『脱出ゲーム香川県からの脱出』に登場する歴史上の人物を訪ねる旅。阪和線の鳳駅から、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をまつる大鳥大社を目指します。1.7km行ったり来たり。JR阪和線、たった1駅の東羽衣支線「先が見通せるお守り」が人気の大鳥大社(前編)堺の大鳥大社(後編)日本武尊にゲームのヒット祈願大きな仁徳天皇陵の最寄り駅は小さな百舌鳥駅JR阪和線、南海高野線、バス、南海本線を細かく乗り継ぐ阪神なんば線に乗り、難波から尼崎経由で神戸三宮へ向かう甲子園球場の思い出と、クリス
後白河上皇(1127~1192)が離宮として建てた法住寺殿の一画に建てられたのが、蓮華王院だ。久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、法住寺殿で、上皇として「院政」をおこなった。三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建された。その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復がおこなわれた。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の
林真理子さんの「平家物語」を読んでから私の中でちょっとしたブームが起きておりここの処、毎日のようにNHKオンデマンドで「平清盛」を観ていて昨日で24話目を終了。保元の乱が終わってからそれまでライバルでもあり友でもあった平清盛と源義朝との関係がズレ始め不穏な空気が漂い始めています。この後に待ち受けるのはきっと平治の乱・・・。同じように身内を処刑させられた二人でその苦しさを共有しているはずだったのに・・と思うと切ない・・。さて、「平清盛」関連の本を探していた
こんにちは😊しなやかな身体づくりをサポートするフィットネスインストラクターFitnessOZ-オズ酒井です🍀(プロフィールはこちら)今日は、仕事の移動の合間に「若一神社(にゃくいちじんじゃ)」に立ち寄りました。行かなきゃと思いながら、なかなか足が運べず今年、初参拝です⛩️京都駅のお隣「西大路駅」から、徒歩5分ほどの神社です。平清盛公ゆかりの地でもあり、座敷童子で有名な神社でもあります。大通りに面しているのですが、一歩鳥居をくぐると、一気に空気が変わる
高田崇史さんの小余綾俊輔シリーズ『源平の怨霊』を読みました。高田先生の手にかかると伝説の人物が全部「怨霊」になってしまうんじゃないかと思うくらい(笑)またや、タイトルは「怨霊」です。でも、この本の内容に関しては歴史上に人物が「怨霊」だというよりも、なぜ「怨霊」になっていないのか?の論証にになっているようです。何故、平清盛は源頼朝を処刑しなかったのか?その疑問から端を発し、源平合戦が歴史の上でどんな流れとなっていたのか、源平合戦の真の姿とはどんなものなのか、を解明する歴史ミステリー
こんにちは😃今、広島旅行の真っ最中です♪広島は、父の実家の島根に行く時も母の実家の愛媛に行く時も毎回通るので馴染みのある場所なんですけどただ通るだけで、観光したことがなかったんですよ😅でも宮島の厳島神社⛩️に行きたくて今回家族旅行することになりました😊うちから宮島までは高速使って7時間ぐらいなんですよ😅私があまりにも方向音痴で地元しか運転できないので、ずっと旦那が運転してくれました💦申し訳ない🙇♀️朝の4時に出て11時に到着✨宮島に行くにはフェリーに乗ります🛳️10
だけど、そのうち半分は、「女性」ですよね、石川県選出の、「森喜朗元総理」の、「平清盛」のような、専横政治を許していると言うことは、ミャンマーのような汚職政権を、日本女性が認めていると言うことになりますよね、裏で政治を操るような、薄汚い、「森喜朗」の存在を許し、政治の、「自浄化」ができない自民党政権は、いつかは。かならず滅びるものなのです、祖国日本の、「子孫」たちが死ぬことを選んだのは、日本の女性有権者たちです、結果には、必ず、原因があります、いいのですね?「森喜朗元総理」の、専横を許して!