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おはようございます。今日は、1156年に保元の乱が起こりました。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退。(新暦7月29日)この保元の乱とその後に起こる平治の乱は登場する人物も多く、人間関係も入り組んでいてわかりづらいですが、今日はほんの少し。保元の乱は,藤原忠通,頼長兄弟の争いが崇徳上皇,後白河天皇兄弟の対立と結びつき,保元1(1156)年7月鳥羽法皇の死を機に勃発した戦い。上皇側は敗れ,崇徳上皇は讃岐に配流,頼長は敗死し,天皇側を勝利に導いた源義朝,平清盛ら
三条殿(三条東殿)襲撃のころ、清盛は熊野詣の途上でした。京でヤバいことが起きている報告を受け、信西と組んで出世もしていた清盛、相当焦ったようです。そりゃそうでしょう。この状況でのこのこ京に戻ったら殺されてもおかしくない。でも、クーデター発生の8日後、普通に、何食わぬ顔で帰京します。ただ、ひそかに伊勢あたりの郎党を加えて事に備えてはいます。ここで、物々しい登場の仕方をすれば、内裏を舞台に、天皇・上皇を人質にした
源義朝伝源氏の流儀(文春文庫)Amazon(アマゾン)1,006〜2,112円Amazonで表示される書名は『源義朝伝源氏の流儀』になっていますが、奥付の記載は『源氏の流儀源義朝伝』です。高橋直樹・著。2012年発行。文庫書き下ろし。内容紹介(裏表紙のあらすじより引用)鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして、日本史上の稀代の英雄、源義経の父にして、太政大臣・平清盛の最大のライバルと目された男、源義朝。平家に比肩すべく、関東を源氏の拠点として作り上げ、頼朝再起の基礎を作り
日帰りで紀伊路を歩いて来ましたが、今日からの一泊二日で、紀伊路の旅は終了です。大きな峠越えもなく、海に近い平坦な道を歩きます。「湯川中学」の交差点を出発し、御坊の街中を抜け「日高川」に架かる「野口新橋」を渡って進んで行きます。橋の欄干が「龍の頭」になっていました。暫く歩くと「57岩内王子跡」があります。「岩内郵便局」の先に「焼芝王子旧社地」と刻印された石碑が立っていました。ここが「57岩内王子跡」とされますが、本来の王子社の跡地は「日高川の氾濫」等で、熊野古道の道筋と共に不明で
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...4月19日(火)#先負(壬寅)旧暦3/19月齢17.9年始から109日目(閏年では110日目)にあたり、年末まではあと256日です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..今朝も昨日と同じダイヤの電車⤵️6時回ってしまつた😅💦池
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその44第10回根拠なき自信登場人物おさらいその3足立遠元(あだちとおもと)について。実衣(宮澤エマ)が「あれが一番得体が知れない」と言った足立遠元(大野泰広:私と一字違いなので親近感マックス(笑))。彼は、藤原摂関政治で有名な藤原北家(ほっけ)の家系で、頼朝の父義朝の代からの家臣だ。『平治物語』(平治の乱を描いた軍記物:13世紀半ばに成立?)でその活躍が描かれている。1159年12月9日丑の刻(午前2時ごろ)、源義朝と藤原信頼
新・平家物語05:常磐木の巻/吉川英治Amazon(アマゾン)5,002円★★★★★平治の乱は旅路にあった平氏が奇襲を試みた源氏に勝つ。中立であった源頼政を源悪源太義平が攻めてしまい敵方に追いやるあたりがなんとも戦略的には難しく切ないところ。源義朝は東国へ落ちる途中図られ殺され、源頼朝や源義経らが助けられる。いよいよ、NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」のストーリーと徐々に繋がり始めてきている。
カリスマ指導者の条件|千世(ちせ)|noteトップ画像出典:Wikipedia以前の投稿記事で、平清盛と織田信長が似ていると書かせていただいた事があります。この二人は、活躍した時代は大きく違いますが、私なりの見方をすれば、同種の天下人だと思えるのです。今回は二人の人物像の共通点を簡単に検証してみました。↓対象記事↓🔥スーパー下克上者清盛>平治・保元の乱…note.com
新・平家物語04:六波羅行幸の巻/吉川英治Amazon(アマゾン)5,000円★★★★★保元の乱が終わる。崇徳上皇は讃岐の国に流され、悪佐府藤原頼長は流れ矢に当たり死ぬ。それまで日の目を見なかった藤原信西が実権を握るものの薬子の乱以降廃止されていた死刑を多数執行し、源為義らを処断。信西と武力的な後ろ盾である平清盛への不満が高まり、清盛が熊野詣に出ている途中京で政変、平治の乱が起こる。土の中に隠れるとは策士なりに考えたようだが、信西はどうしてもNHK大河ドラマの
源頼朝、義経の父、源頼朝。平治の乱で平家との戦いに敗れ、逃れた知多半島で長田氏に殺されてしまいます。ドラマでは頼朝役の大泉洋があのキャラでやってくれているから笑いもあるのですが、実に凄惨な経験を経て成長し、容易に人を信じられないのもさもありなんです。\#鎌倉殿の13人あらすじ/第8回「いざ、鎌倉」公式HPではフォトギャラリーなどのコンテンツもお楽しみいただけます。あす2月27日(日)[総合]夜8時[BSP・BS4K]午後6時#小栗旬#新垣結衣#菅田将暉#小池栄子#
前回はこれhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728681117.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート④*千本下立売を東へ*』前回のはこちらhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728524239.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート③*朱…ameblo.jpつづきです暗殺者の逃走ルートは①四条河原町を西に↓②四条千本を北に↓③千本下立売を東に↓④下立売智恵光院を北に↓⑤西側の松林
吾妻鏡抄第一治承四年(1180年)九月治承四年九月大一日(庚戌・かのえいぬ)源頼朝(武衛・ぶえい)は上総介広常(房総平氏惣領家の当主、上総・下総二国を所領。上総は親王任国なので、介が実質の国府長となる。)のもとに行こうと言った。北条時政をはじめ、皆がそれが良いと言った。安房国住人安西三郎景益は、源頼朝が幼少の頃、特に側近として仕えていた。そこで最初に御書が送られた。その内容は以下の通り。「令旨は厳重なものなので安房国の在庁官人等を誘って来るように。また、安房国で京
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...1月19日(水)#仏滅(壬申)旧暦12/17月齢16.4年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..嗚呼〜今週は何だかお疲れモードかなぁ定刻よりも目は覚めるがアラ
1159年(平治元年)、後白河院政派と二条親政派が対立し、さらに院内部でも信西と藤原信頼が対立します。そして、12月9日、藤原信頼と組んだ源義朝は、後白河上皇の院御所「三条殿」を夜襲。後白河上皇を連れ去って幽閉し、信西を殺害。信西追討の恩賞として播磨守に任官され、嫡子頼朝は右兵衛佐に任ぜられました。しかし、12月27日、二条親政派の平清盛に敗れ、後白河院政派は壊滅。義朝は都を落ちて東国へと向かいますが、尾張国野間で家臣に暗殺されています。頼朝は捕えられて伊豆国流罪となりました。三条
9月21日(火)13:35今朝も寒かったのに今は真夏ι(´Д`υ)アツィー今日のお祭りの人形は「旧山田酒屋」さん作の人形で『不倶戴天悪源太の怒り布引瀧霊討』で「悪源太義平の霊」と「平清盛入道」解説は、こちら&昨晩、知り合いから頂きました。もう一日早くくれてれば~~~!!玉ねぎ煎餅、じゃなくて玉ねぎ煎昨日の「源為朝」に載せたかった!
何味のグミが好き?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようグミは食わんのですよ。洪水に巻き込まれそうになる夢を見たんですが漏らしてなくて良かったでも朝から大雨でした☔何事も無く仕事終わって明日から三連休なんですが、土曜は2回目のワクチン接種って鬱になりそう…平治物語を読了。平治の乱と言う平清盛VS源義朝(頼朝のパパ)の対決で勝利した平清盛の平家の全盛期が始まりますが、平治物語の次に平家物語読んだら面白いかと思うんですが、以前、何回か読んだ事
・・・一連の乱を何と云うか?保元の乱後、平清盛は後白河上皇の寵臣・藤原通憲(ミチノリ・(信西・シンゼイ))と結んで権勢を誇ったが、恩賞の薄かった源義朝は信西と対立していた院近臣・藤原信頼と結んだ。平治元年、清盛が熊野に参詣している最中に信頼と義朝は挙兵し、後白河上皇の三条殿を焼き討ちし、上皇を幽閉し信西を殺害した。急ぎ京に戻った清盛が、乱を平定し信頼も義朝も討たれたのが、平治の乱である。
おはようございます。なかなか雨雲が日本列島から離れてくれません。先日来の雨で地盤の緩んでいるところも多いかと思います。どうぞ、お気をつけてお過ごしください。今日は、1156年に保元の乱が起こりました。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退。(新暦7月29日)この保元の乱とその後に起こる平治の乱は登場する人物も多く、人間関係も入り組んでいてわかりづらいですが、今日はほんの少し。保元の乱は,藤原忠通,頼長兄弟の争いが崇徳上皇,後白河天皇兄弟の対立と結びつき,保元1(1
読書記録歴史は変わるのか?「歴史のIF(もしも)」本郷和人著(扶桑社新書)歴史やスポーツなどの結果・結末に対して「もし、そのときこうだったら・・・・」とか、「こうしていればよかったのに・・・・」とか言ってもしょうがない、「たら」「れば」は禁句である。。。。。。とはよく言う話です。でも、歴史や過去の失敗事例を研究・検証して未来に活かすならば、「あのときこうしていれば、歴史はどう動くか」と考えることは意義がある・・・・・ということで歴史学者で「東大教授が教
舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)舞はぬものものなら馬(むま)の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん踏み破(わ)らせん真に美しく舞うたらば華の園まで遊ばせん舞うとはカタツムリが角を出して這いまわるさまである。子供の遊び歌を題材にした今様の一節だ。平治の乱の主役である藤原信頼であるが、平治物語ではこの人のことを文もなく武もなく、単に後白河院の寵愛の下で異例の出世をした人、合戦の際は極度の緊張のあまり馬に乗り込む際に勢い余って反対側に顔から落ちて鼻血を出すなどみっともない分不相応な地位に就いた
仏は常にいませども現(うつつ)ならぬぞあはれなる人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ後白河院が編纂した梁塵秘抄の中の今様の一節である。内容は仏は夜通し瞑想にふけって明け方にうつらうつらとまどろんだ中に初めてその姿を目にすることができるといったものだ。僧信西は保元の乱の後に後白河天皇の側近となり国政を担った人物だ。その実務能力は当時の公家社会にも認められていたほど高かった。博識のある学才でもあった。保元の乱の処分を下したのも実質的には信西である。崇徳上皇を讃岐へ配流し、平清盛に叔父の
〇318~319番歌建春門院の死去に関する歌群なので、まず建春門院に直接仕えていた待賢門院兵衛の318番歌を先にあげた。直前の詞書的地の文に「すぎにし春の御賀の舞……」が318番歌の「春の庭」に対応する。賀茂の重保は祈禱僧としての立場で、やや離れた立場であったので、その歌(319番歌)が後に置かれたのだろう。ただし318番歌の中にある「涙時雨る」から319番歌の「露はこぼれし」は有機的につながっている。なお、建春門院は後白河院に寵愛された人物であり、高倉天皇は後白河院と建春門院の間に生まれた子
「京都」の誕生武士が作った戦乱の都桃崎有一郎電車通勤になって本を読む時間が増えました。私たちが京都といえば思いつく有名な観光地はほとんど平安京の中にはなく平安京の外にあるという点からも京都=平安京ではないと著者は指摘しています。この本は平安京周辺の地域が武士の出現・台頭とともに拡大され市街地化されていき私たちが知っている京都に変遷していく様を書いています。その変遷をリードしたのは院政と武士(主に平家)だったとのことです。本の内容は学術的な研究に基づいて書かれているようですが、様々な事件
法泉寺の奥にある子之(ねの)神社にお詣りします。子之神社という名は、祭神である大国主命の遣いが子(ねずみ)であることに由来しています。子之神社の創建年代は不明ですが、源為朝が兄である源義朝に放った鏃(やじり)を義朝の子である義経が受け継ぎ、それを祠に納めたことから、根之神社と言われていたのだそうです。明治期に改称され、子之神社となりました。元々の由来には、ネズミは関係なさそうですね。源為朝は荒くれ者だったので九州へ追放されるのですが、九州でも暴れ回って一帯を制圧し、鎮西
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...1月19日(火)#赤口(丁卯)旧暦12/7月齢5.9年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に行き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..そうですか✋東京五輪中止な雰囲気になって来ましたよね。。。_| ̄|○..
カラオケ好き?嫌い?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう皆さんこんにちは:-)&:-(さあ今日はなんの日でしょう、、、、!「のど自慢の日」だそうだ。解説:1946年のこの日、NHKのど自慢の前身にあたる、「のど自慢素人音楽会」のラジオ放送が始まった。初めて一般の聴衆者が参加できる娯楽番組としてスタートしたのど自慢素人音楽会の第一回放送・予選会では約900人も集まったそうだ。当時は合否の鐘も無く司会者が口頭で合格の場合は「合格です」不合格の場合は「けっこうです
源頼朝を旗頭とする東国武士団にしても、どこか現代社会と似たところがある。東国武士団には、大企業から中小零細企業、さらには個人事業主まで、さまざまな事業者がいることだ。源頼朝を石橋山で敗走させた大庭景親の一党や前稿で登場した三浦義明の三浦一族などはさしづめ千人規模の中規模企業だ。小山、足利、上総、多気は万規模の大企業。畠山氏も大きいが、出自が同じ秩父平氏による連合カルテルのようだ。のちに鎌倉幕府執権となる北条氏は旗揚げ当初は意外にも小規模企業級だ。こんな話がある。源頼朝が、
午後は京阪電車に乗って木幡駅に降り立ちます。私は木幡は「こはた」と思っていたら、京阪の駅名は「こわた」なんですね。JRは「こはた」なのに何でや?。とにかく、京阪では初めて降り立つ駅です。木幡は京都市ではなく宇治市になります。はじめは五ヶ荘の許波多神社を目指して黄檗方面に向かったのですが、マンションが延々と建ち並び、Googlemapにも出てこないから諦め、次に予定していた寺院へ向かいました。この途中、マンションに挟まれた公園でおにぎりを食べてる時の虚しさといったらなかったですね。そんな
日本史の勉強をしました。京都の文化財の勉強をしていると、多く登場する「保元の乱」と、3年後なので登場人物の重なる「平治の乱」について、勉強しました。人間関係や文化財との関わりがわかって、面白かった~。文化財の勉強で、たびたび登場する白河天皇から平家滅亡まで、近日中に頭に入れよう。京都の文化財と日本史を一緒に勉強するの、何とも楽しいです。真由美
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし祇園精舎の鐘の音は、諸行無常というこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きのようだ。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。『平家物語』の冒頭の文章です。高校生の頃に古典の授業でお覚えさせられたというひとも