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先日、友人と須磨寺~須磨浦公園を散策してきました。一度訪ねてみたいと思いつつ、なかなか行けなかった須磨寺へ。源平合戦で有名な須磨。須磨寺の正式名称を上野山(じょうやさん)福祥寺。仁和2年(886年)に聞鏡上人が勅命により開山。聖観世音菩薩をご本尊として奉祀したのが始まりとか。山陽電車・須磨寺駅を降りて、商店街をまっすぐに山側へ向かうと石畳の向こうに山門が見えてきました。朱塗りの橋は龍華橋。橋の手前には、左に塔頭の一つ・正覚院(愛染明王)、右にはアジアの神々の石像が
神戸の須磨寺に行きました。平敦盛と熊谷直実の像の桜も咲いていました。心地よい日です。
真言宗須磨寺派の本山は、仁和2年(886)に、聞鏡上人が勅命を受けて、当地に聖観世音菩薩像を本尊として奉祀したのが始まりとされています。正式名は上野山(じょうやさん)福祥寺(ふくしょうじ)ですが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきました。須磨寺神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8拝観・駐車場は無料第二神明道路の須磨ICを降りて県道65を下り、須磨離宮公園前交差点を右に行くか~。阪神高速月見山ICから県道21を直進して「高倉トンネル」を過ぎたところ左側に須磨寺の駐車場があり
神戸の歴史では外せない源平合戦「一ノ谷の戦い」。源平合戦(治承・寿永の乱)は、平安時代末期に起こった国内の大規模な内乱です。敦盛塚神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4隣に駐車場がありますが有料須磨浦公園の西の端、国道2号に面したところにあります。目の前はひろ~い海!!須磨海岸があります。この塚の横には「そば処敦盛そば」があり、敦盛そばを食べることができます。平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれてい
呼ばれたとしか思えないこと3ー戦の濱・安徳宮・真理湖弁財天・敦盛塚いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!3回にわたって書いた記録も本日でおひらきです。続きです。須磨浦公園という大きな公園の一角にここが激戦地であったことを示す碑があります。1戦の濱注目すべきは、碑に書かれたこの場所の説明で、さらりと書いていますが、「一
呼ばれたとしか思えないできごと一の谷の合戦の日に一の谷へ行くいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!元々、今年行く予定でいましたが、5月くらいを予定していました。しかし、昨日いきなり、そういえば一の谷の合戦って旧暦で2月7日だったけど、今年だといつになるのかと思い、調べたら16日!(◎_◎;)でした。これは行った方がよいというか、もう呼ばれたとしか思えないと思い、行きまし
撮影で栃木県の湯西川へ行ってきました!その際にお願いして平家の里へも行きました動画はこちらから平家の里栃木県の湯西川にある平家の里へ行ってきました♡将門様の名前もあった♡(当たり前かぁ)笑手持ちなので手ぶれがあります!✿Bloghttp://ameblo.jp/ryuablog/「りゅうあのひとりごっこ」✿twitterhttps://twitter.com/Ryuacakesandale✿Instagram...youtu.beやったあああ昨年行きたかったけど電車が満席で行けな
『青葉の笛』作詞〜大和田建樹(1857〜1910)一、一ノ谷の軍(いくさ)破れ討たれし平家の公達(きんだち)あわれ暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか青葉の笛二、更くる夜半に門(かど)を敲(たた)きわが師に託せし言の葉哀れ今わの際まで持ちし箙(えびら)に残れるは「花や今宵」の歌※わが師・・・和歌の師匠藤原俊成。※言の葉・・・自作の和歌。※箙・・・矢を入れて背負う道具。◇源氏に討たれた才能に満ち溢れた二人の若き公達。一番は笛の名人平敦盛☆
少し前に苗字からご先祖様の血筋を探すというのをしてもらった時に我が佐久間家は平家の血筋と出た真贋はわからないが・・・「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」織田信長(享年49歳)が明智光秀に本能寺で襲われた際に幸若舞「敦盛」を舞ったとかその一文敦盛は平敦盛で笛の名手奇襲を受け「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走大事な笛を取りに戻った為に逃げ遅れ源氏の熊谷直実と一騎打ち17歳の敦盛は百戦錬磨の熊谷にかなうわけもなく・・・まだ子供だからと助けよ
源平合戦一ノ谷の戦い平安時代の末期寿永3年/治承8年2月7日義経率いる源氏軍による奇襲伝説として伝わる鵯越の逆落し考えもしない方向から平家の陣への奇襲源氏の圧勝により平家敗走この奇襲も軍略を感じ俺が義経が好きになった1つの出来事です✌️この戦で若くして命を落とした平敦盛熊谷直実が我が子と歳の変わらない敦盛を、、、、この事も多く物語で語りつがれてます敦盛といえば織田信長が好きな歌敦盛平氏は屋島へ!!【楽天ブックス限定先着特典】平家物語Blu-ray
〝人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如く也一度生を受け滅せぬもののあるべきか〟織田信長が桶狭間の戦いの際、一差(ひとさし)舞って出陣したことで有名な、幸若舞(こうわかまい=室町時代に流行した曲舞の一種)のひとつ、『敦盛』の一節。〝下天〟とは天界の中で最下位の世でありながら、その一昼夜は人間界の50年に当たるとされることから、「人の世の50年は下天の1日にしか当たらぬ(一瞬のこと)。この世に生まれた者には必ず死が訪れる。」と、人生の儚さを詠
今日は2024年1月29日(月)です。昨夜はNHK-BS「新日本風土記」を見ました。今回は関西淡路大震災の時に大きな被害の有った神戸の長田からです。============僕は2012年に須磨と新長田に行った事が有ります。懐かしいので振り返って見ました。過去記事です。↓=============2012年3月17日(土)の出来事です。この日は、彼岸の入りです。前日16日に・・お墓参りを済ませました。徳島の実家に泊まっていました。そして
昨日に引き続き、能に関連する記事です。「能」と言うと、世間一般で一番広く認知されているのは「織田信長の『敦盛』」と言えるでしょう。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬもののあるべきか」と桶狭間の合戦の前や、本能寺の変の自害直前に舞う姿は映像作品などで観たことがある方も多いでしょう。私も、「信長の野望」や歴史小説などを読む中で、中学生の頃には「能」と認識して、『敦盛』の一節をそらんじられるようになり
さてさて………………【須磨寺(すまでら)】兵庫県神戸市須磨区須磨寺4丁目6−8我々はいよいよ、その場所に辿り着いた……………【敦盛首塚】【平敦盛(たいらのあつもり)】平安時代末期の武将平清盛の弟経盛の末子。階位は従五位下。官職にもついておらず、「無官大夫」と称された。笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝(または青葉)』という笛を譲り受ける。【胴塚】は、一ノ谷(須磨浦公園)にあるという敦盛を討った熊谷直実は、この一件を境に出家の志が一段と強くなったと語られる。
さてさて…………………【須磨寺(すまでら)】兵庫県神戸市須磨区須磨寺4丁目6−8【宝物館】無料で拝観できる陣地であった【須磨寺】に首と笛を持ち帰った直実は、太子堂前の池でその首を洗った。そして、その前の大きな松の木の根方に腰掛ける義経が首実検を行った義経は「このお方は平清盛の甥の敦盛である」と言った平敦盛(たいらのあつもり)……………享年17歳であった持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはいなかったという【敦盛の笛】敦盛の愛用していた笛は、『青葉の笛』と呼ばれ、現在も【須
さてさて…………………日本100名城のひとつである【明石城】を出発した我々は、この日最後となる目的地に到着した…………到着したのは…………………【須磨寺(すまでら)】兵庫県神戸市須磨区須磨寺4丁目6−8正式名称は【福祥寺】。新西国三十三箇所第24番札所。「須磨寺略歴縁起」によると平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で聖観音像を引き上げた。その聖観音像を安置するために淳和天皇の勅命によって『恵偈山北峰寺』が建立された。そして仁和2年(886年)に光孝天皇の勅命によって聞鏡上人が上野山【
令和5年12月27日(水)湊川神社から須磨寺に向かう。14:15湊川神社を出発↓14:28高速神戸駅を出発↓須磨浦公園行特急に乗車14:42須磨寺駅に到着↓徒歩商店街を通り抜けて行く。14:53須磨寺に到着須磨寺は神戸市須磨区須磨寺町にある真言宗須磨寺派の大本山の寺院である。山号は上野山(じょうやさん)。本尊は聖観世音菩薩である。886年に、聞鏡上人が光孝天皇の勅命を受けて聖観世音菩薩を奉祀したのが始まりとされている。正式名称は上野山福祥寺という。源平ゆかりの
2023年12月20日水曜日晴れ今朝の比叡山です。朝食を済ませ、ゆっくり。朝一番に自転車でかかりつけ医へ行く。3カ月に一度の定期健診です。風邪治ってから医者へ行くのも変やな。熱ある時は医者の予約もめんどくさいです。処方箋をもらい薬局へ。コレステロールを下げる薬です。帰宅して、今年最後の庭掃除です。今日は茶室横の濡れ縁と蹲の周囲です。おひるをすませ、ちょと昼寝です。午後の比叡山です。午後は、バラと庭木の水遣りです。今年も良く庭で遊びました。ちょっとこのへんで洛中散歩の続きで
源平ゆかりのお寺として知られる須磨寺へ行き、紅葉を楽しんだりしました。『須磨寺の紅葉[神戸市須磨区](23.12.10)』須磨の現光寺を参拝した後は・・・『源氏物語ゆかりの現光寺(源氏寺)[23.12.10]』週末、兵庫にお出掛けしてきました。10月に「阪神・山陽シーサイド1da…ameblo.jp境内が広い須磨寺、まだまだ見どころが多いです。本堂慶長7(1602)年豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建。ただし内陣の宮殿は応安元(1368)年造だそう。こちらは、参拝客が引いた
うずしおクルーズは淡路島の南端にある福良港から鳴門海峡に向けて出航します。鳴門海峡に面しながら奥に入り込んでいるため天然の良港として知られているそうです。この入り込んだ湾内に2つの島があります。そのうち岸壁から約150メートルほど沖にお椀を伏せたような形の小島があります。これが煙島です。画像はお借りしました。手の届きそうなほど近くにある島ですが定期的に通う船もなくそれどころか上陸のためには許可が必要となります。むしろ古来より立ち入りが非常に制限された禁足地であると言
「百寺巡礼」の第148番は須磨寺です。須磨寺は神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派の大本山で、正式な寺名は福祥寺です。寺伝によれば、886年に光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に福祥寺を建立したと伝えられ、本尊・聖観世音は1169年に源頼政が安置したとされます。源頼政は平安末期に平清盛の下で源氏の長老として中央政界に留まり、清和源氏としては初めて従三位に叙せられました。この境内には敦盛首塚や義経腰掛の松などがあり、源平ゆかりの古刹と
今年もやってきました!今日は敦盛の誕生日。ついに18歳。平敦盛を超えました!!命名元:敦盛草(誕生花が11.30)その命名元が平敦盛。平敦盛は若くして亡くなった笛の名手で美少年なんだとか。享年が17とのことなので、実際は16とか15歳だったのかもしれないけど。(私の中で)目標としてた17歳を超えてくれました。名前をつけたとき、平敦盛を超えて欲しいって思ったの。人生の17歳は短命だけど、犬生としての17歳はかなりの長命。まだまだ元気にはしゃぐのでもうしばら
前回の続きです石山寺から山を隔てた反対側の京都市東部に位置する醍醐寺へ途中にある美味しいパン屋さん「たま木亭」でたっぷりお土産を買う京都に来た時は必ず寄るというUちゃん曰く「店頭に駐車できて、お客さんも空いてて並ばず買えるなんて初めてっ」だそうですそうして醍醐寺に向かい駐車場に停め事前に予約をしていたので受付でチケットを購入
嫁の方のお墓墓じまいすることになりました墓じまいの話は何年も前から出ていましたおばさんが「墓じまいしてから死ぬわ」と言っていたのですが「墓じまいを決意したらいろんな人が夢に出てくるのやめてと言っているんじゃないのよーもう少し置いとくわねー」と言って亡くなられました相談の結果墓じまいすることになりました私人生50年生きてきてはじめてのこと今まで生きてきてはじめてのこと我が家子どもが生まれた時隣のおばちゃん「良かったね男の子で墓守ができて」と言って
大変長らく、ご無沙汰致しました💦katoshiでございます。続きを綴らせて頂きます。のっけから、ででん!とお出まし遊ばしましたのは、平安時代の貴族でもあり、平敦盛殿のお父君でもある、平経盛殿でございます。私が訪れた時、赤間神宮宝物館で推し武将知盛殿と正室明子殿との間に飾られていたお一人でございます。前回、確か不思議な事が………と記させて頂きましたかと思いますが、このお方なんですよね。私は、長門国の赤間を訪れる前に、神戸市の須磨寺の敦盛殿の首塚、一ノ谷、須磨浦公園辺りの胴塚にご挨拶をして
年は考えるな、年を言うな、年のせいにするな、そう自分に言い聞かす毎日である。人生五十年と言われたのも懐かしい。織田信長が好んで舞ったという(幸若舞)の『敦盛』を、今一度読み返してみた。「人間五十年天下の内を比ぶれば夢幻の如くなりひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか」平敦盛が、十六の若さで戦死したことの哀れを歌ったものだが、僅か50年の人生は、夢か幻のように儚いものだと。私は敦盛の五倍以上を生きているが、それで
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり娑羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす平敦盛VS熊谷直実「平家物語・敦盛の最後」さてさて、無常観を感じに須磨寺に行ってきました。「敵に後ろを見せるは卑怯なり、返せ、返せ」と直実が敦盛に呼びかけてる場面ですね↑いや~、この局面、私ならガン無視して逃げてますよ(・ω・`)彡プィで、誕生寺に行ったとき、熊谷直実の鉦があってびっくり。えー、そうなんだ!?Σ(゚Д゚)
私の師匠主催のバスツアーで、真言宗18本山の1つ、兵庫県の須磨寺に行ってきました前は海、後ろは山・・・のなんとも風光明媚なところです↑三重塔の周りは四国88箇所の写し霊場です😍↑須磨寺御本堂・・・・・・・・・・・・須磨寺は、源氏と平家の戦場になったことでも有名で、↑平敦盛(水色=海側)その中でも、一ノ谷の戦いでは、源氏の熊谷直実(1141-1207)が平家の若武者、平敦盛(1169-1184)を打ち取るの
信長が愛し歌った幸若舞の『敦盛』について疑問があったので『幸若舞3』を読みました。敦盛は、16歳で討ち死にしていますが、、、なぜ、人間五十年・・・幸若舞3本書について本書は、幸若舞の作品として、以下の4つが所収されています。①烏帽子折(義経が元服して盗賊を退治)②敦盛(平敦盛と熊谷直実の一の谷の悲劇)③和田酒盛(和田義盛がのちに仇討ちを行う曽我兄弟の所で酒盛りする話)④夜討曾我(有名な曾我兄弟の仇討ち)私がこれを読もうと思ったのは、織田信長が、桶狭間の戦いの前などで好
“ある方”からのスピリチュアル系の仕事の案件ー“いろんな企業の方々が有志で集まり...、この世の中を良くしていこう・・・”といった案件について、話を聴く機会を得た...。その内容についてはここでは語れないが、話を伺っている時に...突如、ある啓示がやってきた。その“ある方”の過去世...が。この方は...、あの「平敦盛」の首を切った“熊谷直実”だった。(詳細は、【神さまの導き_0069】龍神様との縁(過去世:源義経)※part24)鎌倉時代...一ノ谷の戦いで