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6月29日の出来事1028年(長元元年6月5日)平忠常の乱。平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で、平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。1607年(慶長12年5月6日)朝鮮通信使が初めて江戸を訪問し、将軍徳川秀忠と会見。1797年ナポレオン・ボナパルトがチザルピーナ共和国を建国。1880年タヒチ島がフランスの領土となる。1928年治安維持法改正。反国体の結社
北山稲荷神社きたやまいなりじんじゃ平将門公ゆかりの坂東初参拝の北山稲荷神社へ🟣國王神社🔵延命院🟡北山稲荷神社位置確認です…歩けなくもないが🚘️だと数分で行ける距離感です北山稲荷神社とは…おそらく将門ファンでなければ國王神社ほどはあまり知られていない場所…なんと将門公終焉の地と言われています(終焉の地は他にも候補あるけどね)昭和50年に当地から「天慶三庚子年二月十四日」将門命日の板碑が発掘されたとのことですこれ、つい最近…平忠常の乱…将門公の孫(娘の
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「光る君へ」見てますかぁ〜最終回の感想、後半だね。前半はこちら⬇️『倫子に会って、時は流れる』皆さぁ〜ん、大河ドラマ「光る君へ」見てますかぁ〜倫子さんに呼び出されたまひろさん、なんか怖いぞーってことで最終回の感想ぉ〜道長とは会話できず、倫子に呼び出され…ameblo.jp倫子に呼ばれたまひろ。道長の容態は悪く、倫子はまひろに「殿の命を繋いで」と懇願。道長さんは自ら建立した法成寺に入って養生してたんだけど…まひろは1人で道長の枕元に…もう涙が出てきます…まひろは
大河ドラマ「光る君へ」のラストシーン。伊藤健太郎さん演じる「双寿丸」という武者と、その従者たちが、馬に乗り、旅をしている主人公「まひろ」と遭遇する。そして、双寿丸は、まひろに「東国で戦が始まった。自分は、朝廷軍として、東国に行く」と告げて、その場を去って行く。まひろは、それを見送りながら「嵐が来るわ」とつぶやき、ドラマは、終わりを迎えた。まるで、あの映画「ターミネーター」を思わせるラストシーン。公家による支配が終わり、武家が世の中を支配する戦乱の世が近づいていることを思わせる演出で
紫式部よ永遠に💜⋆͛こんにちは~(」・ω・)いつもありがとうございます(´꒳`*)今日はドラマの話を書きます📺ドラマが始まった時にも少し書きました✍️それは⬇これですっ(´∀`)σ『風俗博物館に行きました』風俗博物館に行きました👘こんにちは~(*ˊᵕˋ*)遅くなりましたがあけましておめでとうごさいます🎍🌅🎍そして更新サボってすみませんでした🙇🏻♀️🙇♀️🙇🏼…ameblo.jp大河ドラマの「光る君へ」の話ですっ✨見てない方にはちんぷんかんぷんな話かもしれませんが、お許
これがラストカットか!「道長さま、嵐が来るわ」凄い。なんか凄い。そのとき歴史が動いた。私の最終回予想は、ほぼ全て外れました。まあまあ予想出来たのは、まひろはもうトボケないだろう、倫子さまはもう怒らないだろう、ってことくらいで(いやまあ、ちょっとは怒ってたけど)。この人やっぱし上手いや、大女優だわ。双寿丸には賢子に出会った瞬間からフラグが立っている、おそらく刀伊の入寇で‥と思ったのだけど。すみませんでした。私の頭が平安でした。すでに、時代は新しくなっていたんです、この春夏秋冬の間に。
1027年(万寿4年)12月4日、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が死去。同日、道長を支えてきた藤原行成も死去。政権が不安定となる中、安房国で反乱を起こしたのが平忠常。忠常は1028年(長元元年)6月、安房国府を襲撃。反乱は、下総国・上総国にも広がり、平将門の反乱以来の大規模なものとなりました(平忠常の乱)。乱を鎮圧したのは、河内源氏の祖・源頼信。頼信が東国支配の礎を築いたことで、武士が本格的に表舞台に登場することとなります。源氏三代の墓(羽曳野市)河内源氏は河内国の壺井(現在
中野坂上から、北へ向かって歩いています。中野氷川神社にやって来ました。長い参道が続きます。100mは優にありそうです。二の鳥居。ここから階段です。拝殿前に到着。中野氷川神社は、1030年、源頼信によって創建されたと伝えられています。源頼信は、藤原道長にも仕えた武将です。平忠常の乱を平定する途上、この地を訪れました。これは龍でしょうか。頭部だけで、しかもこれだけ大きいのは珍しいですね。境内社の稲荷と塩竈(しおがま)神社。塩竈神社の総本社は
以前の太子町ツアーでご紹介してなかった歴史探訪家系的に鎌倉幕府初代将軍源頼朝に繋がる河内源氏三代のお墓を巡りました府道27号線通法寺の交差点を北へ電柱に近つ飛鳥の里太子太子町とありますここを東へ入っていきお墓の横の苔むした道を進んでいきますこれで合ってるのか不安になります昨年9月の台風で壊滅的にやられたビニールハウスがより一層不安を煽ります後からわかったんだけどこの上の道を右に行け
先日、インターネットTV“Will-BeStation”から生放送させて頂いた平成最後の『歴史のお話』“平忠常の乱”特集御覧頂き、ありがとうございました。関東に清和源氏が進出するきっかけになった平忠常の乱、見逃したというアナタは、こちらから録画を御覧下さい!↓https://youtu.be/g_YL7mfvPI8歴史のお話~第89回「平忠常の乱」~主演文化歴史学者KickMizukoshiとLife-Like、
改めて~今夜PM8:00~インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“平忠常の乱”生放送!教科書には出てこない平安時代の、あの戦い![出演]文化歴史学者KickMizukoshiシンガーソングライターLife-Like◆配信方法が“YouTubeライブ”に変わりました。是非、YouTubeで“WillBeStation”のチャンネル登録をお願い致します。(安心して下さい。無料ですよ!)●pm8:00少し前に、生放送URLを追
4/15(月)PM8:00~インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“平忠常の乱”生放送!平安時代の、あの戦い![出演]文化歴史学者KickMizukoshiシンガーソングライターLife-Like◆配信方法が“YouTubeライブ”に変わりました。是非、YouTubeで“WillBeStation”のチャンネル登録をお願い致します。(安心して下さい。無料ですよ!)●pm8:00少し前に、生放送URLを追記します!
旗岡八幡宮さんです。初めて上神明天祖神社さんに、行った際、歩いていたら、あったので寄った神社でした。参拝日H28.4.4この頃は、勢力的にあちこち行ってましたね笑でも、写真撮ってない…由緒書より写真拝借させて頂きました。平忠常の乱を治めるべく、1030年に朝命を奉じた甲斐守源頼信公が、上総・下総方面へ赴く際、この地に宿営しました。霊威を感じ、感得して源氏の守り神である八幡大神を奉斎し、戦勝を祈願したのが、発祥とされている。高台に陣を敷き、源氏の白旗を靡かせ武威を誇った事に
160年以上の歴史を持つ蔵元「溝上酒造」の蔵開き福岡のニュース160年以上の歴史を持つ蔵元「溝上酒造」の蔵開き.2017年3月11日(土)~3月12日(日)9:30~16:00、溝上酒造(北九州市八幡東区景勝町1-10)にて、...外国人から見た「ジェンダーレス男子」日本は歴史的にジェンダーを曖昧に扱ってきた?かいこれ!-bloggerミシガン大学の人類学教授が日本におけるジェンダーの歴史とジェンダーレス男子について語った海外記事。「cher」22年の歴史に幕ファ
都営浅草線中延駅から徒歩8分です。参拝した日がたまたま例大祭の日に重なりまして(´Д`)神楽殿が開いてたり、絵馬殿にお神輿が展示されてるのは嬉しかったんだけど〜、拝殿の前にまで出店があるし、人がすごいからすぐ帰ってきた(´Д`)御朱印はしっかりいただきました。(n´∀`n)美文字〜♡もう少し静かな日にまた来ようと、9/15に再訪しました◡̈1枚目の写真と雰囲気全然違うww御祭神は誉田別命(第15代応神天皇)姫大神(祭神の后神)息長帯比売命(神功皇后)です。長元元年(1
1031年春、平忠常は子と従者を従えて源頼信に降伏します。3年もの間、平直方率いる討伐軍に屈しなかった忠常が頼信の出陣でアッサリ降伏したのは過去に頼信の家人だったからといわれてます。忠常は戦のやめどきを計っていて、いいきっかけだったのかもしれませんね。頼信は忠常らを連れて京へ帰りますが、途中、美濃国野上で病死してしまいます。ーーーーーーーーーーーーーーーーー忠常の墓地が残されています。「しゃもじ塚」と呼ばれています。病気になった忠常に野上の村人がしゃもじに乗せた食べ物を差し出すと、忠
平忠常が乱を起こしてから3年、戦場となった上総国、下総国、安房国は疲弊しました。1030年9月、朝廷は鎮圧できない平直方に代わり、甲斐守・源頼信を追討使に任命しました。(頼信も最初の追討使候補の一人だったのです。)源頼信清和源氏で「平将門の乱」にも参加?した源経基の孫にあたります。また、父・源満仲は立派な武官で藤原摂関家につかえ、鎮守府将軍にもなりました。源満仲の像平忠常は以前、源頼信と戦い降参した過去がありました。さらに頼信の家人でもありました。頼信は準備を整えて甲斐国へ下向し
平忠常は郎党に書状を持たせて京へ送りました。しかし京で郎党は捕まってしまいます。書状は内大臣・藤原教通宛てで、追討令の不当を訴える内容でした。(藤原教通は関白・藤原頼通の弟でかつて忠常がつかえていた人物)1028年8月、追討使となった平直方と中原成道らの討伐軍200人が京を出発したのは任命から40日経ってからでした。吉日を決めるのに時間を要したらしいですが、危機感のないことですね。国家から謀反人とされた忠常は大椎城を拠点とし徹底交戦します。大椎城(今の千葉県千葉市緑区にありました)合
平忠常は1028年6月安房国の国府を襲撃、なんと安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こしました。平維忠は平貞盛の孫にあたる人物です。事件の原因は不明ですが、二人は対立していたと思われます。将門と貞盛も対立していたし、その流れが孫の代でも続いていたのでしょう。単なる一族の争いだけでなく、国府を襲ったことが乱を大きくしたと思われます。忠常はさらに上総国の国府をも占領します。(上総介の妻子は京へ逃れます。)この反乱は上総・下総・安房の三ヶ国に拡大しました。事件の報は朝廷に伝えられ、追討宣旨が
平忠常の祖父は平良文。良文は平将門の叔父にあたる人物です。良文は武蔵国村岡に土着し、下総国相馬郡の大半を所領としました。父は平忠頼で関東では名を馳せた有力な人物でした。忠常は祖父と父の地盤を継ぎ、常陸国・上総国・下総国を有し上総介と武蔵押領使に任官したといわれています。忠常の母は春姫といわれてます。春姫は平将門の次女…ということは忠常は将門の孫!この頃、桓武平氏の祖・高望王の子である平国香(平貞盛の父)の流れ、平良兼の流れ、平良文の流れが力を有していますね。将門の死後、平氏一族同士で