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歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきます歴史上の人物の系図を追っていく歴史系図トリビアです。はい(´Д`)。本日は「平忠常の乱」で知られる平忠常の系図を見ていきたいと思います。平忠常は平安時代中期の武人で、房総半島の豪族です。父祖の地盤を引き継いで房総半島に勢力を有し、上総権介、下総権介などに任じられました。藤原道長の生前から対国衙闘争を始めていましたが、道長の死を契機に本格的な国衙襲撃を開始し、安房の国守を滅ぼして上総の
平将門(903–940年)は、桓武天皇から五代目の後裔で在地豪族の「県犬養春枝」を母に持つ「非藤原系平氏」の中心人物です。彼の信仰は、妙見信仰(北辰、北極星、太一)で「九曜紋」という星紋をを家紋としました。史実としての将門は、朝廷に反旗を翻し「新皇」を名乗った反逆者であり朝廷側の記録では「朝敵」として描かれました。しかし、関東の在地社会では彼は中央の圧政に抗い民衆のために立ち上がった“坂東武者の英雄”として語り継がれています。このような二面性は単なる善悪の
北山稲荷神社きたやまいなりじんじゃ平将門公ゆかりの坂東初参拝の北山稲荷神社へ🟣國王神社🔵延命院🟡北山稲荷神社位置確認です…歩けなくもないが🚘️だと数分で行ける距離感です北山稲荷神社とは…おそらく将門ファンでなければ國王神社ほどはあまり知られていない場所…なんと将門公終焉の地と言われています(終焉の地は他にも候補あるけどね)昭和50年に当地から「天慶三庚子年二月十四日」将門命日の板碑が発掘されたとのことですこれ、つい最近…平忠常の乱…将門公の孫(娘の
山代温泉の専光寺で、コンテンポラリーダンスの上演があるというので…行ってみました。入場料はなんと500円。高校生以下無料。夫と息子と3人で行ってきました。←夫と息子は全く興味ないのでしぶしぶついてきたお寺でコンテンポラリーダンスなんて…初めてです。一体どんな公演なんだろう。これは文化庁も後援しているプロジェクトのようで、コンテンポラリーダンスの新進振付家育成事業の一環として、石川県ではここ山代温泉がピックアップされ。若き振付家たちが8月にここ山代温泉に滞在し振付のワークショップを受け、そこか
箭弓稲荷神社やきゅういなりじんじゃ埼玉県は東松山市の箭弓稲荷神社へ行きました日本十大稲荷とか関東五大稲荷とかの中に名前が出てくるお稲荷さん…諸説ありますが、大きめのお稲荷さんであることは間違いないでしょう東武東上線「東松山駅」初めて降りました実は意外とアクセスが良かったカラッカラの好天気眩しい青空と白い雲稲荷系の参拝にぴったりですね駅から徒歩数分で鳥居と参道に辿り着きました見えてきました雲が綺麗~ここでスマホが熱くなりすぎてカメラ機能停止…夏の参拝にありが
小四郎よ、これからワシの言うことをよく聞け。話は我が家系のことだ。北条時政は、長男の宗時が石橋山の敗戦のあと、伊豆平井郷で敵の手にかかって死んだと知らされて、義時と二人だけになったとき、そう言った。ワシが石橋山の戦いのとき、敵味方の前の舌戦したのを覚えていよう。時政は、石橋山の戦いの冒頭、敵味方を前にしてこう言った。わが御大将は清和天皇の後裔である八幡太郎義家殿の4代の後胤、先の右兵衛権佐である頼朝殿である。亡き義家殿が奥州の安倍宗任、貞任を攻めて以来、東国の武士は代々源氏の家人であ
2月6日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、見ごたえがあった。というのも、放送開始早々にして、このドラマのテーマ、主人公・義時の人生においてなすべきことが語られたと思うからである。それは、偶然にも、前稿の最後に述べた〝鎌倉武士たちの精神の源流〟と同じものだった。源流をたどるために、時代を少しさかのぼる。平安時代は、桓武天皇の平安京遷都にはじまる。朝廷には常備軍があり、諸国には軍団が置かれていた。桓武の治世も晩年になると予算が枯渇し庶民は疲弊した。参議・藤原緒嗣は桓武に向かって方
武士の起源については諸説あり確実なことは言えませんが、後世に武士団の棟梁となった人物の多くは平将門の乱の関係者であり、後に征夷大将軍となり本格的武家政権を開いた源頼朝や足利尊氏の先祖は平忠常の乱を平定した源頼信です。本書は将門・忠常の乱の過程を見ることで、平安時代の武士が発展していく過程も同時に見ることができます。それにしても、頼信の祖父にして全ての清和源氏の祖でもある経基のヘタレエピソードは子孫のそれと比べると非常にらしくないのですが、彼が武門としての源氏の礎を築いたのも
3密回避で美術館の「大量動員至上主義」は変わるか日本経済新聞3月半ば、東京・上野の東京都美術館で約1カ月後に開幕予定だった「ボストン美術館展芸術×力」が延期となり、その後中止に追い込まれた。ボストン美術館が...もうひとつの江戸絵画大津絵展後期入り福島県立美術館福島民報福島市の県立美術館で開かれている「企画展「もうひとつの江戸絵画大津絵展」の後期展示は九日始まった。来場者はコレクターに愛された素朴な絵柄に見入っ.高知県立美術館で企画展「西洋近代美術にみる神話の世界
源頼信は、藤原北家出身の門閥貴族・藤原道兼に仕えていました。ところが、正暦元年(990)、その道兼を抜いて、兄道隆が関白となると、頼信は、「わが君(道兼)のおんために中関白(道隆)を殺すべし」(『古事談』)と豪語します。わたしが剣を持てば誰も止めることはできないと、自身の武技の高さを誇ったわけです。結局、兄頼光に諫められ、道隆暗殺を諦めることになりましたが、関白殺害も辞さずという頼信の豪胆ぶりは関東にも伝わりました。平忠常の乱が勃発したころ、頼信は
平将門の乱からほぼ一世紀たった万寿五年(1028)六月、関東で平忠常が蜂起したとの報に接し、朝廷はただちに忠常追討の宣旨を下しました。その追討使に任じられたのは、検非違使の平直方。直方の父惟時は、忠常が「先祖の敵」と呼んだ貞盛の嫡流です。忠常に「敵」と呼ばれた維時が時の関白・藤原頼通へ働きかけ、次男の直方を忠常の追討使にゴリ押ししたといわれています。一門から反逆者を出して結束を固めるどころか、互いに足を引っ張り合っているのだからどうしようもありません。しかも、直
4/15(月)PM8:00~インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“平忠常の乱”生放送!平安時代の、あの戦い![出演]文化歴史学者KickMizukoshiシンガーソングライターLife-Like◆配信方法が“YouTubeライブ”に変わりました。是非、YouTubeで“WillBeStation”のチャンネル登録をお願い致します。(安心して下さい。無料ですよ!)●pm8:00少し前に、生放送URLを追記します!
こんにちは。今日は平氏について解説します桓武天皇桓武天皇の子孫たちが桓武平氏を名乗った。長岡京・平安京遷都や健児などを行った平高望桓武平氏の祖平国香平将門のおじ。将門に討たれた平将門新皇を名乗り、平将門の乱を起こした。瀬戸内海で起きた藤原純友の乱と合わせて承平・天慶の乱↑平将門平貞盛平国香の子。平将門の乱を鎮圧した平忠常平忠常
13-3東国での源氏の成長11世紀になると、東国に源氏が進出した。➊平忠常の乱(たいらのただつねのらん)(1028~31)房総(ぼうそう)半島一帯に反乱を拡大させた平忠常が、朝廷から派遣された源頼信(よりのぶ)に戦わずして降伏。以後、源氏が東国に進出していった。➋前九年合戦(ぜんくねんがっせん)(1051~62)陸奥(むつ)の豪族安倍氏(あべし)(「安倍」は漢字に注意)が反乱。源頼義(よりよし)(頼信の子)・義家(よしいえ)父子が出羽(でわ)の豪族清原氏の援助をう
1031年春、平忠常は子と従者を従えて源頼信に降伏します。3年もの間、平直方率いる討伐軍に屈しなかった忠常が頼信の出陣でアッサリ降伏したのは過去に頼信の家人だったからといわれてます。忠常は戦のやめどきを計っていて、いいきっかけだったのかもしれませんね。頼信は忠常らを連れて京へ帰りますが、途中、美濃国野上で病死してしまいます。ーーーーーーーーーーーーーーーーー忠常の墓地が残されています。「しゃもじ塚」と呼ばれています。病気になった忠常に野上の村人がしゃもじに乗せた食べ物を差し出すと、忠
平忠常が乱を起こしてから3年、戦場となった上総国、下総国、安房国は疲弊しました。1030年9月、朝廷は鎮圧できない平直方に代わり、甲斐守・源頼信を追討使に任命しました。(頼信も最初の追討使候補の一人だったのです。)源頼信清和源氏で「平将門の乱」にも参加?した源経基の孫にあたります。また、父・源満仲は立派な武官で藤原摂関家につかえ、鎮守府将軍にもなりました。源満仲の像平忠常は以前、源頼信と戦い降参した過去がありました。さらに頼信の家人でもありました。頼信は準備を整えて甲斐国へ下向し
平忠常は郎党に書状を持たせて京へ送りました。しかし京で郎党は捕まってしまいます。書状は内大臣・藤原教通宛てで、追討令の不当を訴える内容でした。(藤原教通は関白・藤原頼通の弟でかつて忠常がつかえていた人物)1028年8月、追討使となった平直方と中原成道らの討伐軍200人が京を出発したのは任命から40日経ってからでした。吉日を決めるのに時間を要したらしいですが、危機感のないことですね。国家から謀反人とされた忠常は大椎城を拠点とし徹底交戦します。大椎城(今の千葉県千葉市緑区にありました)合
平忠常は1028年6月安房国の国府を襲撃、なんと安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こしました。平維忠は平貞盛の孫にあたる人物です。事件の原因は不明ですが、二人は対立していたと思われます。将門と貞盛も対立していたし、その流れが孫の代でも続いていたのでしょう。単なる一族の争いだけでなく、国府を襲ったことが乱を大きくしたと思われます。忠常はさらに上総国の国府をも占領します。(上総介の妻子は京へ逃れます。)この反乱は上総・下総・安房の三ヶ国に拡大しました。事件の報は朝廷に伝えられ、追討宣旨が
平忠常の祖父は平良文。良文は平将門の叔父にあたる人物です。良文は武蔵国村岡に土着し、下総国相馬郡の大半を所領としました。父は平忠頼で関東では名を馳せた有力な人物でした。忠常は祖父と父の地盤を継ぎ、常陸国・上総国・下総国を有し上総介と武蔵押領使に任官したといわれています。忠常の母は春姫といわれてます。春姫は平将門の次女…ということは忠常は将門の孫!この頃、桓武平氏の祖・高望王の子である平国香(平貞盛の父)の流れ、平良兼の流れ、平良文の流れが力を有していますね。将門の死後、平氏一族同士で