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三島由紀夫の母親、平岡倭文重(しずえ)さんが生前に文芸誌「新潮」1976年12月号に三島由紀夫に就いてエピソードを書いている。【幼少期そして青年期の三島由紀夫と母親の平岡倭文重さん】この年の12月16日に三島由紀夫の父親の平岡梓さんが亡くなっている、享年82歳。倭文重さんは1987年に、夫と同じ82歳で逝去している。【右の2冊は三島由紀夫の父親、平岡梓さんが書き残した著書】閑話休題、三島由紀夫はいつも小説を書き終えると誰よりも先に
三島由紀夫は1925年(大正14年)1月14日、東京都四谷区永住町二番地(現新宿区四谷4-22)で、父平岡梓(31)と母倭文重(20)の間に誕生。『公威』の命名は祖父の定太郎によるが、此の名前は定太郎の恩人で土木工学博士、古市公威男爵から戴いた由、以前此れは一部当ブログに書いた。従い、本日が丁度生誕100年、没後55年となるので今年は様々なイベントが予定されている。👉1967年、三島は自刃の3年前に或る広告誌にこんな文章を書いている。参考まで全文引用する
77年前の12月24日、東大卒業後、高等文官試験に合格した三島由紀夫は大蔵省事務官の後期組として任官、そして銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。後日、大蔵省の官吏になった理由を問われた三島は、父親の梓が農林省勤務しており、大蔵省役人との予算折衝の際、常に頭を下げる事が多くそれが嫌で、役人になるのなら自分の息子には大蔵省に入る様に勧められた為、と語った由。【三島由紀夫自身は川端康成を「師」とは仰いではいなかった】終戦間もない故に当時、大蔵省は四谷小学校校舎に仮住まい中だっ
当ブログでは大分前に、三島由紀夫を巡る女性達に就いて書いた、勿論独身時代に交際関係にあった女性に限らず公私に亘り文壇、映画や舞台等々様々だが、三島夫人の平岡瑤子さん以外に、特に交流があった女性たちは、【平岡瑤子夫人】【女優の村松英子】【文壇】有吉佐和子/森茉莉/宇野千代【芸能関係】村松英子/越路吹雪/若尾文子/丸山明宏岸田今日子高峰秀子/石井好子【プライベート】豊田貞子/湯浅あつ子
あぁ天才平岡公威(ひらおかきみたけ)氏もとい三島由紀夫氏三島由紀夫-Wikipediaja.wikipedia.org2024年1月14日(日)、午前2時過ぎ遂に私もニューヨークで金閣寺を焼いた。夜が深い寝息を立てる丑三つ時に一人心臓を高鳴らせながら金閣寺を焼いた。アパート入り口の玄関付近にある姿見鏡が内側についた物入れのドアが開きっぱなしだった。その付近に自身の勉強机を置いているのだが、本を読み終わって席を立ち上がってパッと振り返ったら鏡に映る自分
三島由紀夫の誕生日は1925年(大正14)1月14日生まれなので、生きていれば今日で99歳、白寿だ。1924年に30歳の平岡梓と、19歳の橋倭文重が結婚し、翌年の今日、平岡公威(三島由紀夫の本名)が、現在の新宿区四谷4-22で生まれた。【学習院中等科時代の三島由紀夫】【三島由紀夫の父、平岡梓の”倅・三島由紀夫”】祖父の定太郎が家族の前で、奉書に『公威』と書いた。命名の由来は、定太郎の同郷の恩人である土木工学権威の工学博士、古市公威男爵の名前から頂いたと語られ
国内外共に波乱の令和6年も今日で終わり、そこで今年最後の当ブログでは三島由紀夫最期の年末はどうだったのか。何年か前にも当ブログで触れたことがあるが、三島の言動からは、少なくとも表面的には翌年の自決を感じさせるものは殆ど無い。1969年(昭和44年)12月8日作家野坂昭如(1930-2015)と、雑誌「宝石」の主催で”剣か花か”に就いて対談。野坂が「エロ事師たち」発表後、三島は『プレーボーイと空嘯いている野坂氏がこんなに辛辣な
今から53年前の今日(昭和45年11月25日)の三島由紀夫自決当日の事に就いては、当ブログでも何度か書いているが、もう一度改めて振り返ってみたい。【中学生時代の三島由紀夫、そして瑤子夫人】三島由紀夫は自刃前夜、新橋の「末げん」で楯の会の森田、小川、古賀、小賀らと鶏鍋で”最後の晩餐”をした。【三島由紀夫が楯の会の森田必勝らと最後の晩餐をした新橋”末げん”と女将】そして翌25日朝10時過ぎに父の平岡梓は、息子が「楯の会」の制服を着て出掛けて行
昭和37年に或る雑誌で、45歳で自刃した三島由紀夫が『遮二無二長生きしなければならない、(中略)そして遮二無二生きる他ない』と語っており、しかも“遮二無二”を二度も繰り返している、これは自死への気持ちが徐々に強まってきている事への自戒の為だったのかも知れない、全文引用する、『私も2,3年すれば40歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき時が来た。芥川龍之介より長生きしたと思えば好い気持ちだが、もうこうなったら、遮二無二長生きしなければならない。古来の
三島由紀夫が本格的に小説を中心とした著作活動に入る前、本名「平岡公威」以外に「平岡青城」「平岡公雄」「平岡雪翁」等のペンネームで詩集などを書いていた。閑話休題、数年前に当ブログに書いたが、昭和31年の雑誌「新潮3月号」に“作家の24時”として31歳の三島由紀夫が自分の日常生活に就いて詳細に書いている。今から67年前だ、彼の執筆は常に深夜から早朝とは、知られてはいるが果たして、起床時間:午後1時~3時/洗面、入浴20分和風ガス風呂/歯磨きLION葉
三島由紀夫が本格的に著作活動に入る迄は、本名「平岡公威」以外に「平岡青城」「平岡公雄」「平岡雪翁」などのペンネームを使って小説以外に戯曲や詩集等も書いていた。昭和31年の雑誌「新潮3月号」に“作家の24時”として31歳の三島がどんな日常を送っているか自身が書いている、誰もがコロナ禍で在宅時間が長くなっているが、今から67年前に三島由紀夫の日常は如何なるものだったのか、色々と調べて観た結果、彼の執筆は常に深夜から早朝にかけてなのだが……….31歳の或る日は、***
東京ディズニーランドは今年で40周年(昭和58年開園)を迎えるそうだが、三島由紀夫は自決の年、昭和45年正月、11歳の長女と8歳の長男を連れ家族で米国ディズニーランドに遊びに行こうと瑤子夫人に提案したが、夫人は「豊饒の海」を完成した後にしましょうと断った。【ロス近郊にあるディズニーランド】【山中湖畔にある三島由紀夫文学館】三島自身は、作家の三島由紀夫と、家庭人の平岡公威を日頃から厳密に使い分けている訳だが、同夫人は『私の結婚相手は平岡公威ではなく、実は三島由紀夫だ
川端康成と、26歳年下の三島由紀夫は文学上の師弟関係にあったと言われているが実は、三島は川端を決して「師」と仰いではいなかった。2人の出会いは三島の父、平岡梓の学友のその知人が川端康成だった関係で、昭和21年に学生の三島が文芸誌「人間」(7月号)に「煙草」と云う短編小説を発表したのだが、それは川端康成が推薦してくれたのが契機なのだ。それが三島の文壇デビューとなった。そして翌22年1月2日には三島は川端邸に初めての年始挨拶、こうして二人の交流がスタートした
平成10年5月25日初版の中央公論社『三島由紀夫未発表書簡、ドナルド・キーン氏宛の97通』と云う本がある(写真下右)三島由紀夫と米国の文芸評論家ドナルド・キーンの間の手紙のやり取りを収録したもの。当時キーンは京大で日本の古典文学研究をしていた。【”三島由紀夫未発表書簡”等ドナルド・キーン関連本】昭和29年11月三島歌舞伎『鰯売恋曳網』が上演されていた歌舞伎座で中央公論社の嶋中会長の紹介で二人は知合うことになった。その後昭和31年に
昭和12年、当時12歳の少年だった平岡公威(三島の本名)は学習院中等科1年生。同校文芸部の同人誌「輔仁会159号」に自身の詩作“斜陽、昼寝、秋二題”などを書いている。学習院では三島の書く詩は教師や生徒たちの間でも大変な評判。そして最初に三島の稀に見る才能を認めたのは、学習院中等科教師の清水文雄、そして三島より八歳年上の坊城俊民だった。彼は元華族の子息で学習院高等科3年生で、「輔仁会」の編集委員をやっていた。交友30年に及ぶ坊城は昭和46年に「焔の幻影回想三島由紀夫」(角
三島由紀夫が昭和33年に書上げた長編小説『鏡子の家』に就いて以前にも当ブログに書いたが、この小説のヒロイン友永鏡子のモデルは、後に外人タレントの草分けロイ・ジェームスさんと結婚した湯浅あつ子さん、そして同家のサロンが此の『鏡子の家』のモデルとなった。【ロイ・ジェームスと結婚した湯浅あつ子と29歳の三島由紀夫】ロイ・ジェームス(1929-1982)は1970~80年代にE.H.エリックらとTVやラジオで活躍した元祖マルチタレントだ
先日のライブに来られた方は内容が分かる話ですが、コミットメントを何とか守りながらやってますマジでふくらはぎが痛い健全な精神は、健全な肉体から宿るという言葉を信じます目指すべきは平岡公威あ、ホームページ変えましたので、またチェックよろしくお願いいたします
今から丁度52年前の今日、昭和45年11月25日の三島由紀夫自決前の経過は、次の通り、当日11月25日朝8時起床、10時過ぎに三島が楯の会の制服を着て出掛けて行く後ろ姿を、父の梓が見ていた。妻、瑤子は2人の子供(長男、威一郎と長女の紀子)を学校に送った後、乗馬練習の為に馬事公苑に行った。三島の母、倭文重は家庭裁判所の調停委員の仕事で出掛け既に不在だった。梓の著書「倅・三島由紀夫」にこう書いている、『また訓練をやりにゆくのか、と思っただけで、その儘見送った』と。三島は出掛ける前
三島由紀夫は何故ノーベル文学賞を取れなかったのかに就いては、大分前に当ブログで触れた事があるが、以下まとめてみる。【ノーベル賞受賞お祝いの為に川端邸に駆け付けた三島由紀夫昭和43年10月17日】三島の父、平岡梓の学友のその友人が川端康成だったのだが、昭和21年、東大生の三島が21歳の時に文芸誌「人間」7月号に「煙草」と云う小説を発表する際に川端が推薦してくれた事が契機となり文壇に登場、二人の交流が始まった。そして翌22年1月2日には義理堅い三島は川端邸に年始挨拶をしている。
数年前にも本ブログで書いたが、三島由紀夫は、実際にお付合いのあった人たちを自分の小説のモデルにしていることがあるのだ。勿論そのまま私小説として描いている訳ではないのだが、三島がいつ頃お付合いしていた誰々さんをモデルとしているのが容易に推定出来る作品が幾つかある。そして小説に書く前や、又は脱稿後に三島が、モデルにした当の本人に『今度の小説は君をモデルにしているよ』と伝えている場合もあるのだが、そんな三島に嫌気がさして交際が破綻した事もある。昭和30年に発表した『沈める滝』は、
77年前、昭和20年8月15日、二十歳の三島由紀夫は豪徳寺の親類宅を訪問していた、其の時、NHKラジオで天皇陛下の終戦大詔を聴いて、終戦を知った。この頃、三島は短編小説「岬にての物語」を執筆中で、昭和21年11月雑誌「群像」に発表した。この原稿用紙に三島は“昭和20年8月15日戦日終わる”と注記している。
久し振りに私淑する三島由紀夫に就いて書いてみる、今日のテーマは彼の日常生活、昭和38年『私の健康』(当時38歳)に、こんな事を書いている。【昭和41年公開の三島自作自演の映画”憂国”仏ツール国際映画祭で次点となった】”十分な睡眠、未だかつて睡眠薬といふものを使ったことがない。床に入れば余程の事が無い限り、間も無く眠りに入る。しかし睡眠儀式があり、左を下にして床に入り、2,3分後右に寝返って眠る。睡眠時間は午前5時頃から午後
51年目の憂国三島由紀夫1925(大正14年)生まれ-1970(昭和45年)本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)海乱鬼@nipponkairagi三島由紀夫自決直前の最期の演説『自衛隊にとって建軍の本義は何だ?日本を守ること。日本を守るとは何だ?日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。』https://t.co/lLzEeRj6u22021年11月25日08:23海乱鬼@nipponkairagi『人間
お得意の秘蔵芸を「おはこ」(御箱/十八番)と云うが、「おはこ」とは、そもそも歌舞伎の市川團十郎に代表される市川家が代々大切にしていた歌舞伎の暫、助六、勧進帳、鳴神等十八本の出し物を保管している「御箱」から来ている。そして歌舞伎と云えば、三島由紀夫は、人間国宝の中村歌右衛門(六世)に対しての傾倒振りは尋常でなかった、その証として彼の短編小説『女方』は歌右衛門を主人公として、そこに登場す
三島由紀夫は、歌舞伎、新劇、現代劇、アートシアター系映画等々、演劇好きである事も世に知られる処だが、彼の著書『私の遍歴時代』に中学1年生の時、祖母なつに連れられて初めて歌舞伎座に行き、花道に近い席から『仮名手本忠臣蔵』観て完全に歌舞伎に魅入られてしまったと、後々書いている。【三島由紀夫『芝居日記』平成3年7月5日初版発行】三島は、『芝居に行く時は丸本を携えて舞台を観ながらノートした』と話していたが、彼の自刃後、実
三島由紀夫は大正14年(1925)1月14日、東京都四谷区永住町2番地(現在の新宿区四谷4-4-22)で父、平岡梓さん、母、倭文重さんの長男として生まれ、梓さんの著書によると、本名『平岡公威』の公威の命名は祖父定太郎が同郷の恩人、男爵古市公威から頂いたとある。そして45年後に自刃した。(三島由紀夫写真集新潮社)(末げん女将丸武子さん)自決前夜の“最後の晩餐”は東京都港区の鳥料理店「末げん」だった。女将の丸武子さん(78)に拠ると、三島から帰り際に言われた一
三島由紀夫が昭和33年に発表の長編小説『鏡子の家』の友永鏡子のモデルは湯浅あつ子さんなのだが、後に外人タレント元祖ロイ・ジェームス氏と結婚した。湯浅家のサロンは、三島由紀夫の小説『鏡子の家』のモデルとなった。湯浅さんに依れば日本画の杉山寧画伯のお嬢さん瑤子さんと三島が見合いしたのは豊田貞子さんと別れて一年後の昭和33年の春。湯浅さんの娘と、杉山瑤子さんの叔母、小松静子さんの娘さんが学習院の同級生という関係で湯浅さんがお見合いを設定したのだ。しかし当初三島の方から縁談を断った、杉山夫人
前回は三島由紀夫が21歳の時のお相手の紀平悌子さんに就いて書いたが、今回は三島が29歳の時、正に相思相愛の相手だった豊田貞子さんに就いて書いてみようと思う。三島由紀夫自身、お付合いのあった人たちを小説のモデルにしている事が結構あるのだが、勿論其の儘私小説として描いている訳ではないが、いついつお付合いしていた何々さんをモデルとしていると容易に推定出来る作品が結構あるのだ。そして小説にする前や、又完成後に三島自身が『今度の小説XXXは君をモデルにしているよ』と本