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【神社名】當島八幡宮【鎮座地】山陽小野田市大字西高泊1019【御祭神】應神天皇仲哀天皇神功皇后【旧社格等】村社【御由緒】平安時代の仁和元年(885)ごろ宇佐八幡宮を勧請、社殿を創建。天正年間(1573~)炎焼したと伝える。現在の本殿は慶安元年(1648)、拝殿は元文二年(1737)の改築今は小山の上に鎮座。昔は干拓池の中だったんですね(@_@;)安政6年(1859)2月建立の狛犬。風化が進んでます。文字が読めません。何て刻まれているんでしょう(2
どうも。わらびです。今日は溜まっていた分をたくさん更新する日。相も変わらず八代のかつての離島、干拓後に陸続きになった島跡編をやっていきます。今回探索した小島跡は前回探索した産島のオマケみたいなモノです。===↓他の八代探索はこちら===・小鼠蔵(干拓で陸続きになったかつての離島)・白島(干拓で陸続きになったかつての離島。八代城の城壁の採石地)・産島(古墳や貝塚の残るかつての離島跡)・国道219号球磨川橋梁旧道(球磨川橋梁をくぐるかつての国道)・旧・萩原橋と旧道(球磨川
どうも。わらびです。またまた八代のかつての離島、干拓後に陸続きになった島跡編です(あと何回かツヅキマス)。今回取り上げるのは探索した中で一番北に位置する産島跡。明治~昭和にかけての干拓の拡張の過程で陸続きになりました。===↓他の八代探索はこちら===・小鼠蔵(干拓で陸続きになったかつての離島)・白島(干拓で陸続きになったかつての離島。八代城の城壁の採石地)・小島(産島跡の近くに残る小さな離島跡)・国道219号球磨川橋梁旧道(球磨川橋梁をくぐるかつての国道)・旧・
どうも。わらびです。色々忙しくて前回から随分と時間が空いてしまいました。今回も八代編を続けていきますヨ。今回探索するのは八代干拓にあるかつての島跡、白島です。===↓他の八代探索はこちら===・小鼠蔵(干拓で陸続きになったかつての離島)・産島(古墳や貝塚の残るかつての離島跡)・小島(産島跡の近くに残る小さな離島跡)・国道219号球磨川橋梁旧道(球磨川橋梁をくぐるかつての国道)・旧・萩原橋と旧道(球磨川に架かっていた旧橋とその前後の旧道)===========
大鷹・蒼鷹♀L♂50cm♀56cmW105cm~130cm鳴き声「キッキッキッ。キュー、キュー。」農耕地、市街地漂鳥or留鳥背面は青みがかった灰色。腹面は白く横にさざ波模様。白い眉斑が太く、目は黄色い。オオタカ、ハイタカ、ツミ、アカハラダカをハイタカ属と呼ぶ中で最大種。青みのある姿から蒼鷹(ソウタカ)が転じてオオタカになったらしい。樹や茂みに潜んで、直線的に飛び出して獲物を襲う。ハトやムクドリ、ネズミやウサギ、時にカラスやシラサギ等の大型の鳥も襲う。そろそろ猛禽類の春の
どうも。わらびです。先日肥薩おれんじ鉄道八代駅のレンタサイクルを利用しまして、今回から少しだけその時に探索した八代のモノを取り上げます。八代は熊本の南、球磨川の下流域にある地域です。===↓他の八代探索はこちら===・白島(干拓で陸続きになったかつての離島。八代城の城壁の採石地)・産島(古墳や貝塚の残るかつての離島跡)・小島(産島跡の近くに残る小さな離島跡)・国道219号球磨川橋梁旧道(球磨川橋梁をくぐるかつての国道)・旧・萩原橋と旧道(球磨川に架かっていた旧橋とその前
調整池にアカハジロが来ていると教えてもらい行ってみたがわからず出会った人からマガン2羽いたということで探すとすぐにわかった。カワウに囲まれて居心地悪そう久しぶりに訪れた干拓地ではミサゴヘラサギ撮った時はカルガモと思っていたが拡大するとマガンだった後方に飛んで行ったのでどこへ降りたか探すこと1時間半何度も通ったはずの麦畑にいつの間にか降りてた近くにはヒシクイがタゲリ
昨日今日と寒かった。霜で真っ白。オオヒシクイの監視小屋に車の影。来たのかな?稲敷雁の郷友の会、稲波干拓のオオヒシクイ、オオヒシクイ、オオヒシクイ観察小屋、霞ヶ浦群の雁、稲敷市(relaxbach.sakura.ne.jp)
毎晩酔っ払って寝落ちしてブログは空白。後で思い返してもその日は何をしたのか思い出せない。その日この日心は大波、小波、さざ波。無心。支払い。ATMで入金して、家に帰ってネットで確認したらさっそく引き落としてあった。午後の干拓は風強し。寒かった。
道の駅坂本を走り出して、まずは昨日も周辺を走り回った葉木橋を渡って右岸の線路沿いへ。こちらは橋を渡ってすぐにある葉木駅。駅の時刻表やそのほかの看板は、付け替えられてそれほど立っていないように見えます。しばらく走ると、レンガ隧道が見えてきました。この日最初の橋ですから、せっかくなので覗いてみましょう。葉木駅付近はそれほど雑草もありませんでしたが、もしかすると、地元の方が手を入れていたのかもしれません。ですが、この辺りではすっかり放置された状態です
八代を出発して、この日に目指すのは人吉ですが、正直、寄り道しながらだと、人吉までたどり着ける気はしません。ですが、2年前の熊本豪雨災害を覚えているでしょうか?あの災害では、人吉から八代へと流れる谷あいの球磨川が大規模な氾濫を起こし、その被害はまだ復旧できていません。つまり、単に走るだけなら、簡単な観光をしながらでも半日で走れる距離だけれど、それなりに観光しながらでは、途中で日が暮れるのは確実なのだけれど、宿泊施設は人吉盆地に抜けるまではほぼ皆無です。さりとて、そ
熊本の宇土で一泊した翌日、目指す八代方面に急ぎたいところですが、宇土にも見ておきたいものがいろいろとありまして。なお、地名を見ると、ターレットが回る酸性雨の町を思い浮かべるかもしれませんが、濁らずに「ウト」です。宇土でまず見ておかなければならないのが、船場橋と船着き場跡の雁木の風景でしょう。雁木は最近の補修の手が入ったものも多いのですが、この辺りはそのままの自然な感じが素敵ですね。なお、石アーチの船場橋に代わって架けられた現在の橋は、これ
JR長浦駅の国鉄時代の写真と資料https://youtube.com/watch?v=bPAc_CAC2io&si=r7pJxcj7QJ_ORZOL昭和30年代頃の国鉄長浦駅先日ご紹介させていただきました写真を元に長浦駅の動画を作成してみました♪今回、新たに分かったのが先日ご紹介した写真の中に長浦駅のホームとしてご紹介した写真は地元の方に確認していただきましたところ「別の駅ではないのかな?長浦駅は昔からホームは1つだったはず」と言うご意見をいただき今回の動画には場所が確定している3枚
こんばんは。昨日から仕事に復帰しましたが,今週は研修の講師の仕事がたくさん入ってて,いきなりハードです。病み上がりの身体にはきついです。さて,コロナのせいで途中となってしまってた前々回の記事のちょこ乗りで訪れた場所ですが,それは,岡山県浅口市寄島町の干拓地でした。今の時期でこの干拓地と言えば,そうアッケシ草です。3年ぶりに見に行ってみました。というのも,地元の新聞にも取り上げられてたし,なんとNHKの朝
笠岡干拓のアッケシソウがいち早く紅葉してました。10月23日。
おはようございます本日も倉敷の続きですお昼前まで美観地区をウロウロと歩きました倉敷は400年前までは海だったそうです江戸時代に干拓が行われて今の倉敷の街が出来たそうです和と洋が共存する独特な街ですねこれで倉敷の散策は終わりです
佐賀駅から電車に乗って、肥前竜王駅で下車しました。昨年もここへやってきましたが、今年もまたやってきました。駅前から、有明海の海岸線まで歩いてみたいと思います。駅から、海岸まで5キロちょとあり、徒歩で向かうとおよそ1時間程度です。バスなど公共交通機関はなく、レンタサイクルも近くにはなさそうで結局歩くのが一番効率が様さそうです。帰りの電車の時刻もチェック、佐賀へはバスも走っていますが本数はそれほどありませんし、電車以上に時間がかかります。ここから海岸までの5キロの
おはよーございます前夜お世話になったのは道の駅おおがた夜に着いたんで何も見れなかったので朝に周辺を散歩しましたまぁ、愛犬”うに”の運動不足解消ですね道の駅には自販機が沢山ありますがもちろん少々お高めの値段設定しかし裏手に回ると関係者用?の自販機がお安めの値段での販売でした道の駅の裏側に広がる干拓された平野できればこちらを正面から拝めるような配置にして欲しかったなぁ~なんてかつては日本第2位の面積を誇った「八郎潟」これを干拓して農地にしようなんてすごい発想ですよね
八代市鏡町塩浜に所在する七百町新地潮受堤防跡です。文化財の指定は受けていません。文政4年(1821年)に行われた七百町新地の干拓事業で作られた潮受堤防です。近くからみると城の石垣かと思うほど迫力があります。※写真は2017年12月撮影
八郎潟が気になって、船越水門から眺めて来た翌日、晴天の八郎潟に行ってきました。この、下の切れているところが船越水門で、晴天だとこんな感じ。そこからぐるっと左回りに、水路沿いに走りました。その東側(左側)に残存湖があります。アップで見ると、確かに、問題になっているアオコがこれか?緑色に見える。残存湖の向こう、八郎潟の東側の山かな?まもなく、残存湖が消えて、あたりは、たんぼとなる。稲刈りシーズンなので青い所はもう刈った後らしい。干拓博物館の方は、「耕作放棄地はない」と言
12月公演✨黄金のあしあとお稽古スタートしております。台本を通して読んだあと胸に残るあたたかさ...いい脚本だなぁと思いました🥲実際にあった話しがもと、余計胸に響きます。クラウドファンディングもさせて頂いてましたが、そういった皆さまのお気持ちを頂戴するのにふさわしい作品だなと感じました✨(ご協力頂いた沢山の皆様方に本当に感謝です🥲)みんなで稽古して、良い作品をさらに素敵な作品にしていきたいです✨公演楽しみにしていてくださいませ以下実行委員さんより御礼メッセージです✨→クラウドファ
岡山市東区水門町には驚く風景がありますそれがこれ・・写真ではなかなか伝わらないのでGoogleMapでみるとこんな風に川の中に小さな出島?があるのです千町川大水門(東側)・千町大水門(西側)をつなぐ堤防の上にできた島で数軒の立派なお家が建っていますまるで軍艦のように凛と威容を称える姿で川上から見えたお家はお蔵や茅葺の母屋もあります大水門の歴史は貞享元年(1684)幸島新田の完成に遡ります江戸時代・・岡山の新田干拓は
かつて宮城県の中部に品井沼(しなぬま)という大きな沼がありました。図1.図2.かつての品井沼この沼は、江戸時代から干拓が始められて、現在では消滅して広大な水田地帯となっています。いまではその痕跡は品井沼駅と(下図A)いう東北本線の駅名に残されているのみです。図3.品井沼駅周辺図(地理院地図に加筆)東北本線品井沼駅東北線列車が入線その品井沼駅に行ってみますと、駅名の由来がかかれた立札がたっています。品井沼の「しない」は"si-nai"であり、アイヌ語地名説が
妻です。今年は地元福山の花火大会は、台風で中止となりました。コロナ禍前も台風で中止となっていたので、多分5年連続で中止‥💦だけど、昨日9/2、笠岡市で花火大会🎆があり、急遽、見に行こう!となり、夕食後出かけました🚙花火大会というものを久々に!!福山市民も大勢行ってたと思います😁我が家は、笠岡の干拓の道路脇に車を停めて鑑賞。花火の写真を撮りたい私は必死💦が、シャッターのタイミングが合わず、花火が消えていくタイミングだったり、開ききってないタイミングだったりで、子供達、大笑い😁開きき
柳井白壁通りから横に逸れて、宝来橋に行ってみました。17世紀に古開作が干拓された当時、最も下流にあった橋で司馬江漢も天明8年(1788)にこの橋を渡っているそうです。以前は「広瀬川土橋」「古市橋」「善元橋」とも呼ばれていましたが、現在の橋名になったのは明治15年(1882)で、当時の石垣が橋の下に残されているそうです。宝が柳井津に来るようにという願いをこめて付けられたとの事でした。昭和13年頃の道路台帳によると、長さ22m、幅4.05mの土橋で、橋脚は3本立ちの2組、大正4年1月竣功
玉名市横島町横島に所在する国指定重要文化財の旧玉名干拓施設です。説明板によると、明治20年代から40年代にかけて築造された、末広開潮受堤防、末広開樋門、明丑開潮受堤防、明豊開潮受堤防、大豊開潮受堤防が、国の重要文化財指定を受けています。明治時代に起源をもつ干拓関係の施設が、総延長約5.2kmにわたって良好に残存しているのは全国的にも稀です。各部分で石の積み方が異なる状況から、潮害のたびに改修されながら使用されてきたことが分かります。
氷川町網道に所在する町指定有形文化財の沖塘(おきども)樋門群です。干拓地内にある、ひろぎ遊水池に所在します。氷川町HPによると、沖塘樋門群は、嘉永5年(1852年)に砂川尻新地の一部である網道新地の干拓に伴って造られた施設です。樋門は干潮時にたまった水を海へ排出する役割だけではなく、かんがい用水を確保する役割もありました。現在5枚戸の樋門が2ヶ所、3枚戸の樋門が4ヶ所あり、一部コンクリート造りに変わっているものの当時の石積がよく残っています。なお、6ヶ所のうち、北側の4ヶ所が町指定
我が故郷、鳥取県を地図上で確認すると、首のない犬のような形をしています。丁度尻尾の部分は、先端が境港市で、付け根が米子市です。中間どころ、住所は米子市ですが、弓ヶ浜という地域があります。ここは西に中海、東に日本海があります。丁度、弓を引いているように、見える場所です。中海側は、干拓を行った地域で、ここには糠蚊というやっかいな虫が、生息しています。メスは、蚊と同じ吸血昆虫です。まだ、一度も刺されたことはありません。大きさが蚊より小さく、網戸を通り抜ける大きさです。糠
八代市鏡町両出に所在する市指定史跡の鹿子木謙之助墓です。この墓は、鹿子木量平とその息子・謙之助が手掛けた3つの干拓でできた新地の接点に所在します。説明板によると、謙之助は量平の第四子として生まれ、諸国を回りながら土木技術を学びました。これらの経験を活かし、四百町、七百町新地などの干拓事業を成功させました。左の墓が謙之助の墓です(真ん中が量平の墓です)。※写真は2020年12月撮影
八代市鏡町両出に所在する市指定史跡の鹿子木量平墓です。この墓は、鹿子木量平が手掛けた3つの干拓でできた新地の接点に所在します。鹿子木量平は、現・熊本市に生まれますが、寛政の大津波の事後処理に手腕を発揮し、文化元年(1804年)に野津手永惣庄屋になりました。その後、干拓事業に着手し、いくつもの新地を作り出しました。真ん中が鹿子木量平の墓です。鹿子木量平を祀る文政神社です。墓の隣に所在します。※写真は2020年12月撮影