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(↑ちょしゃきんえい😣)拝啓、皆様こんばんは4月16日に書きました第17章からの続きで第18章に入ります。第18章、入ります!チョロの方角に城太郎は歩きました。チョロの前の道を左に曲がる事にしました。観光客相手のボリ価格のメシ屋がありました。場所が良いから家賃が高い上に更に庭主の区役所さまに納めるショバ代(庭代)も高いと言う事もあるんでしょうけども店の主(あるじ)が更に便乗してガメつく稼ぎ込みをしてる訳です。中央集権国家で幕藩体制の日本ではお上の幕府に年貢米の税金を納めると言うか
3月23日16時45分〜17時、時代劇専門チャンネルの「歴史を訪ねて日本の城関東・甲信越編3」で、以下の四つの城が紹介されました。①小諸城(長野県小諸市)1554年に佐久地方統治の拠点として、武田信玄の命で、軍師の山本勘助が縄張したとも伝えられる。1582年の武田家滅亡後は、不安定な政情にあった。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐後、仙石秀久により小諸城と城下町が整備された。1702年に譜代大名の牧野家が入封し、明治維新を迎えた。1626年に三層天守閣が落雷で焼失後、再建さ
3月15日8時30分〜9時、時代劇専門チャンネルで、久しぶりに「歴史を訪ねて日本の城」を見ました。北海道・東北編で、八つの城が紹介されました。①五稜郭(函館市)1854年の日米和親条約による箱館(明治維新後に函館と改名)港の開港に伴い、艦砲が届かない場所に幕府箱館奉行所を移転し、築造されたのが五稜郭である。1864年6月に奉行所が移転したが、全体の完成は1866年である。オランダ人から西洋軍学を学んだ武田斐三郎の設計した星形の日本初の西洋式城廓である。1868年の大政奉還
※こちらの記事は、平成19年6月26日に書かれたものです。まぁこの本は一般書とかではなく、普通に学術論文なので歴史史料の引用があって当たり前なのだが(ないと説得力を得るのが難しく、普通は論文として認められません)、それほど小難しい内容ではなく、在野(ざいや)の歴史ファンにも充分読める内容(そもそも僕自身も「在野の歴史ファン」だしwただし、この手の本が学術論文であるということは認識しておいてください)。笠谷和比古氏の『関ヶ原合戦(せきがはらがっせん)』。徳川家康についてもっと知りたい方は、下
62.市原の戊辰戦争④・幕末の市原幕藩体制は鎖国体制の行き詰まりに加えて領主層の財政難と「米価安の諸色高」という物価問題によっても深刻な危機にさらされていました。支配層は財政難を年貢増徴等の増税などで乗り切ろうとしたため、農民らとの軋轢を強めていったのです。市原でも各地で百姓一揆が起きています。特に天明の大飢饉の前後には養老川(江戸時代、関東では有数の暴れ川であった)の洪水が繰り返され、町田、廿五里から下流の村々は困窮を極めたに違いありません。市原を含む江戸周辺では大藩を設
藩とは何か?国替えという事件を通して、藩の姿が見えてきます。下総高岡藩主井上正紀(いのうえまさのり)は、酒価の値上がりを見越して、自領で百姓たちから自家用のどぶろくの買い集めを命じました。その折、結果として、天領で、高岡藩が二升の酒を仕入れるという、松平定信の触(ふれ)に反した行いが起きました。それを理由として、松平定信は高岡藩を含む三藩の国替えを企んだのです。正紀は、尾張徳川家の付家老である兄から、その話を告げられました。今回の国替えは高岡藩に対する懲罰的な意味合いを持っているため
原田伊織さん著、日本人が知らされてこなかった江戸世界が認める徳川日本の社会と精神。明治近代が貶めたエイドの価値明治維新という過ち原田伊織さん著、日本人が知らされてこなかった江戸世界が認める徳川日本の社会と精神。明治近代が貶めたエイドの価値明治維新という過ち[社会・政治・時事]日本人が知らされてこなかった「江戸」世界が認める「徳川日本」の社会と精神https://www.amazon....www.nicovideo.jp日本人が知らされてこなかった「江戸」世界が認める「
写真は昔からの天守閣が現存している島根県の松江城。文章とは関係ないです。。🙇前置きは省略して、、、😅伊達政宗公の御霊廟瑞鳳殿のサイトより。https://www.zuihoden.com/document/qa/others/#:~:text=%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%B6%E3%81%AF%E5%90%8D%E9%96%80%E3%81%AE,%E6%9C%89%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3
次の令和哲学の準備のために、最近幕末の状況を調べています。何となく触れたことはあったけど、改めて調べてみるとこういうことだったのかと新しい発見があります。江戸時代の幕藩体制は、すべてが幕府の直轄地ではなく、各地域を藩主(大名)が治めていました。親藩:徳川の血縁関係のある藩参政権なし譜代大名:関ヶ原以前から徳川の家臣や味方になっていた藩江戸から近い、要所に位置、参政権あり外様大名:関ヶ原の戦い以降に徳川の味方になった藩江戸から遠い地域に位置、参政権なし
特段、徳川体制だから諸侯に格差をつけたり格付をした訳ではない。これらは統治の基本スタイルであり、とやかく言っても始まらないが、かくもあれこれとなれば、一言揶揄めいた事を言ってみたい。山川日本史的には「親藩・譜代・外様」なる徳川宗家との縁により区別がつけられて、石高なる擬制的な経済力やらで位置付けが決まる、、、間違いではないが、そんな単純なものではない。誰が絵を描いたか知らないが、実に巧妙な仕組みなり運用だってことはよく分かります。だから二百数十年の命脈を保ったのです。基本は単純にして実際
皆さん、こんにちは。いつも本当にありがとう。一橋大教室➀(第5回)、明後日10日実施です(ハイブリッド講座)。扱う問題は演習5。テーマは幕藩体制。次のことも考えてみてください。「平和」の確立は主従関係のあり方にどのような影響を与えたか一橋大教室1日本史いよいよ一橋大日本史研究を本格的に開始します。一橋大教室①で扱うのは、前近代史(古代・中世・近世)を中心とする問題群。独特のやりにくさをもつ一橋大型論述問題(過去問+予想問題)をズラリとそろえる予定です。ほとん
ローマ帝国は、帝国主義のモデルとして考えられているが、実のところはどうなのだろうか?最近の研究に基づくと、ローマ帝国は最盛期で人口6~8千万人、その統治に関わった官僚的公職者の数は300人程度、騎士身分の公職者を含めても800人だったそうだ。近代国家のような大規模な官僚組織による中央集権体制、という訳ではなかった。江戸も町人50万人に対し、南北奉行所に与力25名づつ、同心100名づつで統治していたことを思い出す。統治組織がこれほど簡素であるのは、帝国内におのおの人口数千から一万人の都市
意外とこういうの知りたいときに手元にないのよね。連れ合いの誕生日にプレゼントしましたとっても喜んでくれて、毎日トイレの中で眺めてくれています
『人間というもの』ー司馬遼太郎●江戸と明治ー①✪江戸的身分制度は、ほとんど数学的としかいえないほどに多様かつ微細に上下関係の差が組み合わされている。人びとは相手が自分より上か下かを即座に判断し、相手が下ならば自分の体まで大きく見せ、上ならば体を小さくして卑屈になる。そういう伸縮の感覚が、江戸社会に暮らす上で重要になっていた。✪「能力」というだけでは、世の中は廻らない。それが、江戸封建制というものであった。武士は門閥や身分制の上にあぐらをかき、商人は株仲間という特権の上で安住して、関
まあ韓国が徴兵制度がある軍事政権と言う事や国際的にかなり変な国と思われてる事や火病の人が多くてサッカーの試合でラフプレイをしたり握手を拒否するなどのスポーツをする資格が無い国と言う事は別として自国民を救出する為に政府が素早く動いて軍隊も良く訓練されていて完璧に任務をこなしてアフガン在留韓国人400人余を全員救出して無事に祖国に輸送した事は事実なんです。僕は反日左翼でもありませんけど偏狭な右翼民族主義の嫌韓派でもありませんから事実は事実として認めます。韓国軍は見事だったと思います。日本の場合
日本でもテレワークとかが出来る人ばかりじゃないから通勤電車が密なんでしょうけどメキシコの場合はアナログって言うかアステカ戦士の国ですからテレワークとかの人の率が低いので通勤電車が密に成っちゃってるんです。😣まあメキシコの場合は新幹線とか小田急線の車内で密室で逃げ場が無い所で斬りかかって来る人が居ないだけ日本よりマシかも知れないんですけどもやはり密の状態だとウーファンウイルス(武漢ウイルス)ジー・ジンピン19号を抑え込めないから嫌な感じです。刃物で斬り込んで来る奴が居ないだけ日本よりはマシだと
徳川慶喜が目指していたのは、たぶん「大統領」的な地位だったろうと思います。江戸時代の「幕藩体制」というのは、ひとことでいえば「半独立諸侯が集まった連合国家」であり、中央政府は幕府、地方行政は藩、お互いの領分をきっちり分けるという地方分権体制です。これは、外からの敵はいない時代にはいいんですが、外国と軍事的・経済的な競争をしなければいけない、という時代には、そぐわない。慶喜はそれが分かっているから、幕藩体制をチャラにして、郡県制の中央集権制度に改革しよう、って考えていた。「将軍」のままでは
おはようございます。ワールド・ユースレス・グランプリ入賞者のトリです(要するに、使えない奴です)。『アエラ』という雑誌に、哲学者の内田樹先生がエッセイを書いていた。五輪組織委員会の森前会長による女性差別発言を批判した内容で、こういうホモソーシャルな人事をやっているから日本はダメなんだというお話だった。森発言の内容をあげつらって、つまらない批判に終始するのではなく、きちんと構造的な問題を指摘し、回答を要提示しているところはさすが当代きっての論客である。だが、ご立派なのはそこまでだ
甲府城下をぶらり江戸時代、粋な文化が花開き、小江戸と呼ばれた甲府城下。歴史と文化が息づくこの町に昔懐かしい蔵造りの街並みができました。時の鐘の音を聞きながら、ぶらり歩いてみませんか。以上、リーフレットより~●時の鐘明治初期まで、200年以上住民に時刻を知らせていた『時の鐘』…甲府城廃城となった、1872(明治5)年まで使われていた鐘桜を再現したもの…甲州夢小路には、移築した古民家や蔵、倉庫など昔の建築様式を取り入れた店舗が立ち並ぶ、レトロな雰囲気のショッピングエリアがある…また
外様、って、様がついている、つまり充分に尊敬されてる存在なんですよ。まあ「敬遠」って言ったほうがニュアンス正確かも知れんけど。譜代、外様というのは「徳川家の家来(内)か、お客様(外)」か、という区別です。徳川が天下を取る前から家来だった家が譜代、徳川と同格の「同盟者」だった家が外様、です。幕府の職というのは、いわば徳川家の台所、帳場の仕事ですから、これは昔から徳川の下働きをしていた家の出身の「じいや」がやる仕事です(つまりこれが若年寄とか老中とか大老とか)。これが「譜代」です。徳川家の「外
僕はあんまり好きになれなかったけど(というか権力を持ってる人は皆キライ)これだけ叩かれながらもよく頑張ったと思いますよ安倍さん。ちょっとした失言くらいですぐ辞めたくせにのうのうと俺は元首相だぞとデカい顔を晒してる頭の悪い人に比べたら全然立派だと思います。まあ今回の騒動は誰がやっててもしんどかったんじゃないでしょうか。オリンピックが絡んでたのでスタートで間違えてしまいましがそれ以降はある程度無難な対応だったんじゃないですかね。日本の文化ではスウェーデンのような思いきった策も
黒田52万石だろうと、加賀前田百万石だろうと、「徳川幕府」のなかでは何の役職にもつけません。なぜかというと「外様大名」だからです。従って「徳川幕府の中で重要視されたのか」という質問には「否」というしかありません。まずは「幕藩体制」というものを理解してください。江戸時代というのは、ひとことでいえば地方分権体制です。「幕府」と「藩(大名)」が並立している。国全体のことは幕府がやる。地方の統治は藩(大名)がやる。責任分担はきっちり分ける。これが「幕藩体制」です。藩、つまり大名というのは、いわ
中央集権制と地方分権制は、どっちもいいところと悪いところがあります。地方分権の国家が停滞すれは、中央集権にしなきゃダメだという「英雄」が現われて、統一事業をします。中央集権制に限界がくると、「これからは地方の時代だ」とばかりに、国がバラけます。歴史っていうのは、この両者のあいだを振り子のように揺れ動きながら進んでいくものです。日本史だろうと別のどこの国だろうと、地方分権から中央集権に一方向に進化していくわけじゃないし、その逆もしかりです。日本史をざっと眺めてみると、大和時代は豪族割
そもそも、何故、1669年6/21、メナシクルのシャクシャインが他部族にまで呼び掛けての一斉蜂起に到ったのか?きっかけはシュムクルのウタフの死が、松前藩による謀殺ではないかと疑われた事なのだが、これ程大規模な戦闘に発展してしまった理由はと言うと、アイヌと和人の交易レートで、アイヌ側がかなり不利だった事に不満を募らせていたからに他ならない。そもそも、当時は米が獲れなかった蝦夷地に於いて、アイヌの人々は、山での狩猟の成果や海産物を和人の持つ米と交換していたのだが、商才を持つ和人が自分の都
今回の本は👇のブログさまからのご紹介でした。ありがとうございます😊永井紗耶子さんはNHK朝ドラ「あさが来た」原作の一つでもあった「広岡浅子という生き方」の作者今作は江戸を舞台にした時代小説、かつ経済小説です永井紗耶子著「商う狼江戸商人杉本茂十郎」新潮社より時代は江戸後期。寛政の改革が終わり、その反動としての11代将軍徳川家斉の爛熟政治。またその反動としての天保の改革が始まる直前です主人公杉本茂十郎は、毛むくじゃらの妖狼というくらいの意味でしょうか「毛充狼」という渾名を持つ江戸商人。
尊王も攘夷も、幕府を倒すための大義名分に過ぎない、って柔軟に考えるべきです。長州も薩摩も、幕府を倒すために攘夷を大義名分にして天皇を担いだ、というだけのことなんです。幕府が天皇に無断で開国したから、よーし、「尊王攘夷」を旗標にすれば大義名分が立つぞ、ってことです。手段と目的を逆に考えては間違います。攘夷をやるために幕府を倒そうとしたわけでも、天皇のために幕府を倒そうとしたわけでもないんです。要するに、幕府がゆるーく大名たちをまとめる「幕藩体制」は限界にきていた、今のシステムのままでは日本
みんなの回答を見るしょうゆかみそ!国民こそ主権者・砂頭巾;雪組@553Sandhood明治(近代)幕府体制は江戸幕府体制と同質の「幕藩体制」。従って崩壊は幕府と人民の対立によってではなく、各藩の離脱による道投稿者:青トマト投稿日:2020年5月28日(木)植草事件の真相掲示板https://t.co/0MpABsCnde2020年05月30日21:28クッキー@cooo55#広島地検がんばれ#検察がんばれ河井陣営への原資の1億5千万円は官邸から出たと言わ
昭和を思い出す・懐かしのキャラクターたちニコニコニュース昭和を思い出す・懐かしのキャラクターたち.2020/05/2304:00ミドルエッジ.0.サンリオ..幕末の「海防」政策紹介郷土歴史博が企画展福井/福井毎日新聞会場では、松平春嶽が藩主としての心構えを学ぶために水戸藩主の徳川斉昭に送った質問とその回答の文書や、藩の軍事訓練の視察で海岸に向かうまでの道のり...河北抄(5/25):県境とは何だろう。幕藩体制を覆した明治政…河北新報幕藩体制を覆した明治
とうとう“関西3府県で緊急事態宣言解除へ”となりましたね。大阪・京都・兵庫で緊急事態宣言が解かれる…如月末にアサヒビール大山崎山荘美術館と中之島香雪美術館、卯月には伊丹市立美術館とあべのハルカス美術館へ行く予定だった〝火打石〟。SARS-CoV-2のおかげで観たい展覧会が軒並み開幕延期や中止となり、もうこの頃ではその状態に何も感じないほど心が虚ろになってしまっていましたが、このニュースには胸が熱くなる…このまま行けばもう少しで京阪で趣味を満喫できるかも。京都や奈
新派特別公演八つ墓村松竹新型コロナウイルス感染拡大と政府の緊急事態宣言を受け、6月に開催を予定しておりました「新派特別公演八つ墓村」の全日程の公演を中止することを決定...石見神楽の東京公演、中止決まる読売新聞石見神楽の日本遺産認定を記念して、8月25日に東京の国立劇場で開催予定だった「石見神楽国立劇場公演」について、公演実行委員会(事務局・島根県浜田...天皇陛下即位、令和元年から1年。過去の元号の2年目は?Yahoo!ニュース幕藩体制解体と財政安定のため実行さ