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大雄山の大楠の横に、幕末三舟の一人高橋泥舟の墓参りです。高橋泥舟幕末期の幕臣。天保6年2月17日生まれ。名は政晃、泥舟は号。山岡氏より高橋家の養子となる。山岡鉄舟は義弟。1855年(安政2)槍術家の兄山岡静山の没後、その門人を教授し、槍術の名人と称された。翌年22歳で講武所の教授となり、59年従五位下伊勢守に叙任。63年(文久3)新徴組の統率、浪士取扱を命ぜられたが、尊攘派志士と接触があるとの理由で免職となる。長州征伐のときには征長不可の旨を上書、慶応幕政改革にあたり、66年(慶応2)
ふと昔の知り合いを思い出すあの人はあれに関しては上手だったなと心から尊敬できるような能力けれど応用という意味では見事に利かなかったなぁとそんなものも懐かしく感じるそして幕末三船のひとり、高橋泥船あの人は本当のところどうだったのか本人的には本当に槍しかできないそんな言葉があったけれどでもだからこそ他のことを辞退する謙虚さを持っていたのかもしれないでも果たしてどうなのか?私のかつての知り合いにしても最初からできないと決
市内の高橋成蹊堂さんに修復リペアをお願いしていた当家に伝わる扁額が出来上がってきました。幕末維新三舟の書と伝わる物です。勝海舟「外寛内明」山岡鉄舟「山雨欲来」高橋泥舟「鳴鹿在悦」知り合いの書の専門家に見ていただいたところ、泥舟の「鹿」と「悦」はちょっと違う文字ではないかとの事で詳しく調べていただいています。いずれにしても、少なくとも120年以上も前の作で紙も破れひどく劣化していた物が、墨痕も鮮やかに蘇ってまいりました。高橋
2018夏新潟~山形38本間美術館8/16(木)②三館共通券を購入した我々が、次に向かう予定にしたのは本間美術館だったが、ここにもカフェがあるというので、半ばそこでの食事を目当てにした、というのはこのときの偽らざる心境だった。この美術館の敷地は広大、カフェがあるのは美術館とは別棟、池のある庭園を過ぎた先の丘に建つ、清遠閣と呼ばれる木造建築だ。雨の降りは時折ひどくなる。ちょっと分かりづらいが、これが庭園から見た「清遠閣」昭和天皇の行幸に際し、宿泊のために増築した一階部分
昨年末まで続いた、NHKの大河ドラマ『晴天を衝け・・・!』が終わったのと同じ時期に、この続編を怠って居たのは、つい、持病の『浮気癖・・・』が発病して居ただけで、『その気が失せた・・・』と云う訳では無かったのだが・・・(汗)などと云う前振り(=云い訳)はどうでも良い話で、昨年、年末の寒波襲来では、日本海側は、山陰地方から全体が『十年に一度・・・!』とも云われる豪雪に見舞われて居る内に年が暮れ、明けて『新年三が日・・・』にも、北陸以北は、再び豪雪に難儀されて居ると云うN
吾妻橋から隅田川を渡りアサヒビール本社前への北側・・・墨田区役所と東京スカイツリーその広場に立っているのは江戸幕末、三舟の1人勝海舟三舟については勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、安房、安芳とも)は、文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町(墨田区両国四丁目付近)で、父小吉の実家男谷家に生まれたました。海舟は幕末明治の激動期に、長崎海軍伝習所に入門し、江戸に軍艦操練所が開設されると、長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取となりました実は頻繁に
創業は1872(明治5)年、尾張出身の稲垣音次郎が、砂場本家の『糀町七丁目砂場藤吉(現:南千住砂場)』から暖簾分けされて琴平町(現:虎ノ門1)に【琴平町砂場】を開業したのが始まり☝️☺️なんと、あの『幕末三舟』(勝海舟×山岡鉄舟×高橋泥舟)も贔屓にしていたそうで...彼らが食していた同じ蕎麦を食べられるという「江戸オタク」としちゃあ、とてつもない特典付き~(笑)。建物は大正12年の関東大震災後に建てられ『国登録有形文化財』に指定されている。粋な佇まいでござんす😌。虎ノ門...隣
今日は小川町での所要を済ませ、以前から興味のあった「幕末三舟の書展」を見させて頂きました。山岡鉄舟・高橋泥舟・勝海舟の書が展示されてますが、特に目を惹いたのが二作品。図難於其易為大於其細(難しい事はそれがまだ易しいうちに手掛け、大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する」傲骨俠骨媚骨賎骨総成枯骨(みな朽ち果てるので我欲を強くするな」いつの時代にも当てはまる名言です。松坂喜浩
天正十年(1582)5月28日は愛宕山連歌会が開かれた日です「愛宕百韻」とよばれ、明智光秀が「時は今あめがしたしる五月(さつき)かな」と詠んだことで有名です「中国攻めがなかなかすすみません。援軍を」と秀吉からの要望に家康の接待役から外され先鋒として出陣することになった光秀が詠んだ句です「あめ」を「雨」と読むか「天」とするかなど「これは謀反の決意表明」「そんなことはない」と現在も解釈はさまざまでわかりませんこの4日後、6月2
こんにちは(・∀・)ノ谷中散策は飽きないですいろんな所が有って路地裏も沢山あるのですお寺も沢山有ってそのお寺には江戸時代のいろんな人達の足跡が有るのですこの前谷中から上野公園まで歩いた景色を何回かに分けてご紹介大雄寺古いお寺です大きな楠が境内ににょきっと高橋泥舟のお墓があるお寺です幕末三舟の一人勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟そんなお寺です
タイトルは幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟)の一人である高橋泥舟の言葉です歴史に弱い私には初めて聞いた名前でしたが、調べるにつれてその不器用で高潔、一途な生き方に敬服しました泥舟について詳しく知りたい方は是非wikiをご覧ください→https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/12/28/116091雪はあれよあれよと積もり、気が付くと何もかも真っ白な雪で覆い、進むべき道まで隠してしまいますその雪のように人間の欲とは限りないもので
【今年のまとめ】『レギオニス信長の天運』(中公文庫)http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/10/206653.html『立川忍びより』(KADOKAWA文庫)https://www.kadokawa.co.jp/product/321807000221/『立川忍びより忍ビジネスはじめました』(KADOKAWA)https://www.kadokawa.co.jp/product/321807000223/『レギオニス秀吉の躍進』(中公文庫)ht
『欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を失う。』勝海舟、山岡鉄太郎(鉄舟)とともに、〝幕末三舟“の一人として讃えられている、高橋泥舟の言葉です。私欲を満たさんがために、または自分を大きく見せたいがために、人の大切にしているものや存在を奪い、非難すれば、執着心がどうのこうのと文句を言って逃げていく。まさに自分のことしか考えぬ愚か者である。そういう愚か者は、自分が同じことをされた時、思い知らされることとなるのです。※私欲:自分
この7月に山岡鉄舟展があった。・埼玉県小川町立図書館と割烹二葉(“忠七めし”で知られている)での「山岡鉄舟展」・日本橋山本海苔店での「山本海苔店と鉄舟」・京橋の加島美術ギャラリーでの「西郷隆盛と幕末三舟の書展」開催期間中に3会場へ見学に行くことができました。写真撮影が可能だった作品から数点紹介してみたい。埼玉県小川町立図書館にて。いずれも鉄舟直筆。左は吉野神社の幟旗の原書(紙)で「天得一以清」と記されている(天の字が見えないのは残念!)。右は白鳥神社の幟旗(木綿)で「鴻澤霑民庶」とある
ご無沙汰の更新ですこの所、ちょいちょい忙しくて幕末三舟の記事が遅れましたあっ、別に待ってない?ですよねぇ~まっ、でも折角なので載せちゃいますWikipediaからの張り付けですけどね(画像拝借)慶応4年(1868年)、新たに設立された精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会する。2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて
続きですめんどくさいのでWikipediaから貼り付けました・慶応4年(1868年)幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く・2月12日(3月5日)江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛・4月11日(5月3日)江戸城開城。水戸へ下る慶喜を護衛勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代
ゴールデンウィークは様々なところへ行きましたその一つに明治維新ゆかりの人めぐり幕末三舟のお墓です。先ずは勝海舟彼のお墓は大田区の洗足池にあります。かつて、ここに別宅があったようで、遺言によりここにお墓を建てたそうです。これ、アヤメ勝海舟のお墓の隣に、西郷隆盛の菩提を弔う為に勝海舟が建てた留魂祠がありました。これは、西郷隆盛が沖永良部島へ流罪として送られたときに詠んだ漢詩だそうです。全く、読めませんんが、これは西郷隆盛の筆のようです。勝海舟は西郷隆盛の逆賊の汚名を晴らしたいと
藤枝市にある「田中城址」にやって来ました。今川氏が築城し、その後武田氏も入っています。本丸跡地は小学校になっていました。田中城址はこのように↓円形に造られていました。(画像お借りしました。)本丸を囲んでぐるぐると。本丸の南東に下屋敷という場所があり、こちらは見学できる施設になっています。駐車場もありますよ。昔は築山などもあり、四季折々の景色を楽しめたようですが、現在は当時と比べ、半分ほどの面積になっていますが、庭園や茶室など、いくつかの文化財がのこっています。冠木門と本丸櫓↓
『山岡鉄舟・剣禅話』ー高野澄(きよし)●総説-①✪幕末三舟ということばがあり、それは『幕末三舟伝』として書物の題名にもなっている。三舟とは、いうまでもなく、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人をさす。まず、勝海舟であるが、これはなんといっても著名人である。何をやらせても、みごとにやってのけることができた。ただし、嫌いなこととなると、絶対に首をたてに振らなかった男でもある。二番目をとばして高橋泥舟。この男は槍を握らせたら天下無敵だった。しかし、他のことはなんにもできない男である。自分でも槍
ほ〜✨慶喜公揮毫と伝わる、かぁ...「海舟」徳川十五代将軍慶喜公揮毫日本橋欄干、向島百花園や高幡不動宝物館でも観ることが出来るけど、ここにもあったのかぁ...的な、、その日、本門寺を辞した後、そうか、まだ勝海舟のお墓(奥津城)にはお参りしたことなかったなと、、ちょうど池上線沿線だし洗足池へここは海舟が洗足池の景観を愛でて洗足軒という別邸を構えたところ徳川十五代将軍慶喜公は達筆と言われるが、なるほどさすがに上手いねぇ「舟」は意外と形(というかバランス)が取り
はてさて。そしてまた彼らは彼らで。武人タイプ、美形・モテタイプの者たちも世界全体へと派遣する‼︎→先ずは英雄・武人タイプ。イギリス…アーサー王円卓騎士団(英国の上杉二十五神将?)、アイヴァンホー、トリスタン、ロビンフッドとその仲間たち、ハリー・スミス卿、フロビッシャー、チェルムズフォード卿、ドレーク。
持光寺の絵画など重文刀匠・久保さんは無形県教委指定/広島毎日新聞釈迦(しゃか)の臨終の景観を描いた鎌倉時代後期の仏画。横たわる釈迦を取り巻く民衆や動物の様子が卓越した筆致で描かれている。同時代の涅槃図は現存.11月15日は七五三。子供の成長と幸せを祈る七五三の由来は?HOME'SPRESS(ホームズプレス)平安時代、男女とも赤ん坊は頭を青々とそり上げ、3歳の誕生日、あるいは3歳になった年の11月15日を過ぎてから髪を伸ばし始めるのが一般的だった。ノーベル文学賞を受賞
山岡鉄舟は、幕末の幕臣。剣・禅・書の達人としても知られ、幕末三舟の一人で、その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。〔中略〕維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったとい