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江戸時代の末期、徳川幕府が設立した「幕府海軍」に関して、この本から。幕府海軍ペリー来航から五稜郭まで(中公新書)Amazon(アマゾン)この本。幕府海軍の話が中心なのですが、古代の水軍から現代の海上自衛隊まで、幅広く、様々な話が詰め込まれていて、なかなか、面白いのですが、それら、全てを、紹介するには、なかなか、面倒な話になるので、幕府海軍の実務に関するものだけを、ここで、まとめて見たいと思います。幕府海軍が、実質的に始まるのは、「長崎海軍伝習所」が設立をされてからと
1855年、勝麟太郎(海舟)が一介の御家人から幕府要職に就く。阿部正弘によって取り立てられた。そして、「これからの日本は海軍である。軍艦が必要であるが、軍艦を操縦できる士官の養成も必要である」これで長崎海軍伝習所ができ、オランダ軍人6名が先生となり、幕府から抜擢された70名に加えて、諸藩からも130名藩持ち費用で抜擢。総取締は永井尚志でスタート。4年足らずで幕を閉じた海軍伝習所であったが、1859年オランダから、蒸気船であり、スクリュー船である、620トンの船を買った。(ペリーのサスケ
今日は、会社が主催するバーベキュー大会?があり、朝から大阪・豊中市の服部緑地へ行ってきました。服部緑地入口のモニュメント服部緑地は、「緑地」と言うだけあって色々な花が咲いており、一眼レフカメラを構える方もいらっしゃいました。フラワー通りの花壇令和の時代に会社でバーベキュー?とも思いましたが、それでも30人ほど来ていました。午前中でバーベキューは終わり、緑地の最寄り駅である「緑地公園」駅の東口から少々南へ行い、とある古書店に行ってみました。その古書店は「天牛書店」と
https://youtu.be/bMZ9EBw4NHU破れ奉行20幕府海軍異常あり#破れ奉行#萬屋錦之介#若林豪
この頃は仕事が忙しく、なかなかブログを書く準備ができません。このため、艦艇・船舶と関係のない記事が増えてきました。ブログを書くのは、普段の仕事から離れて趣味の世界に少しでも時間を割く、平たく言えば「気晴らし」の意味合いもあるので、これまでのように型にはまったような内容にこだわらず書いていきたいと思います。今回は手持ちの資料から。幕末から帝国海軍創世期に関する書籍は少なく、調べものをするのにも苦労します。その中でも比較的新しいものの、写真・図などが多く幕末の幕府・諸藩の艦船から明
一昨日から1泊2日で山陰地方の出張に行ってきました。米子駅では、建て替えのため9月4日で現駅舎が廃止され、仮駅舎へ移転するらしいです。現在の米子駅今日は久しぶりにサノヤスへ行ってみようかと思いましたが、体力が…。年ですかね。今回は幻の航空母艦を取り上げてみましょう。その名は「翔鶴」といいます。「翔鶴」は幻ではないだろう。珊瑚海海戦や南太平洋海戦で活躍したではないか。と思われるでしょうが、帝国海軍では「翔鶴」の名は3代にわたって継がれています。3代目が大東亜戦争で活躍した航
いつも和彩彩をご覧いただきありがとうございますさて、先月ご好評いただいた家紋布で作ったマスクの第2弾を受注販売いたします。今度は、幕末土佐藩、幕府海軍、戦国の3種類です!こちらは幕末土佐藩!坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、岡田以蔵、吉村虎太郎、吉田東洋、ジョン万次郎、土佐山内家の家紋をいれてみました。地色は白と黒。こちらは幕府海軍!以前、がま口を作った時と同じ柄です。青海波に幕府海軍の釦の柄を散らしています。こちらは戦国家紋です。戦国は、織田信長、明智光秀、斎藤道三、秀吉、
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【幕府海軍のストライキ】勝は腹立たしく気分の優れない毎日を過ごしていました。つい先頃開かれた防衛会議では、勝は暴論を吐く存在だと見る者もいました(海舟日記、文久三年8月16日)。前月、薩摩は藩を挙げて命懸けの戦を英国と行い、大きな犠牲を払いながらも本当の自分たちの力を知りました。こうした体験こそが将来、何倍もの
昨年、東京製綱所の創業時代の史料を、東京製綱所に譲渡した。該社からは、当社にもない貴重なもの、と感謝される。小杉家の資料を整理していて、ある図面と定款を見つけた。図面には東京製綱株式会社小倉分工場と判があり、定款には「浅野小倉製鋼所定款」との表紙がある。図面は、「Wallbox&shafts」と記され、ワイヤロープ製品のサンプルを展示するための入れ物の図面で、定款は、東京製綱の後の小倉工場の定款らしい。定款には、発起人として、山田昌邦、赤松範一の名がみえる。山田昌邦は、『逃げる
今年は、箱館戦争終結150年になる。一連の戊辰戦争の最後の戦いが、五稜郭の旧幕府軍の降伏で幕を閉じたのだが、この戦いでの旧幕府側の大きな損失は、当時の最新鋭軍艦・開陽丸の江差沖座礁沈没であった。オランダで建造されて進水4年目、横浜に回航されて3年目に沈み、活躍の機会は少なかった。2015年に、この開陽丸建造150年の記念式典がオランダ・ドルトレヒト市で開催された。この時、記念展示会、浸水場所での記念碑序幕の様子を、HNKがニュースで放映した。記録のため、当時報道されたニュース映像を以
前回は帝国海軍の終焉期の話題でしたが、今度は創設前後の話です。書店で雑誌「歴史群像」の2019年6月号を何気なく手に取ると、榎本艦隊に関する記事が…。早速購入し週末に読んでみました。そこには簡単ではあるものの、榎本武揚率いる旧幕府艦隊と新政府軍艦隊との宮古湾海戦、箱館湾海戦などの記述がありました。以前、新政府軍の「朝陽」について書いていますので、今回は榎本艦隊最後の艦「蟠龍」を取り上げてみましょう。以前、函館へ行った際に五稜郭で箱館湾海戦の解説があり、そこで撮った写真です。旧幕
本日、yahooブログからFC2ブログへ引っ越してきました。よろしくお願いいたします。先週、長崎県へ家族で旅行してきました。長崎市では港巡りの「観光丸」を予約したのですが、悪天候のため代船できず…。ですが、出航前に見学させてもらえることに。復元されたものとはいえ、優美ですね。復元された「観光丸」【要目】排水量:300トン、長さ:51.0m、幅:7.5m出力:100馬力、速力6.0ノット備砲:12門※引用:「日本海軍史第7巻」実際の「観光丸」ですが、18
最近、以前に撮影したスマホやカメラのデータを整理しているのですが、その中で一昨年に仕事で来訪した函館のデータがありました。時間を作って五稜郭へ行った際に何げなく撮った写真に明治新政府の軍艦「朝陽」の説明板を発見しました。新政府軍艦「朝陽」「朝陽」は元々徳川幕府が「咸臨」と共にオランダに発注した軍艦で、オランダ名は「Yedo(エド)」でした。安政5年(1858年)に長崎に回航され、長崎海軍伝習所で教練に使用されます。その後東京築地に海軍伝習所が開設されると、「朝陽」も本拠を東
前回の続きで「千代田」について書いていきます。この「千代田」の名前の付いた艦は多数の艦に受け継がれています。元々、「千代田」とはどういう意味でしょう。以前登場した「幕末以降帝国軍艦写真と史実」によると、『千代は徳川幕府の治所江戸城(現今宮)の別称なり。』とあります。江戸城は千代田城とも呼ばれ、現在の東京都千代田区の名称の由来ともなりました。さて、初代の「千代田」ですが、正式名称を「千代田形(ちよだがた)」と言い、徳川幕府の命により日本人の手で設計建造された最初の蒸気船とされていま
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。勝が痛恨の体験航海をして間もなくの頃のことです。伝習所所長の木村喜毅(よしたけ)には、幕府から翌年春に勝麟太郎ら旧伝習生をコットル船で江戸へ帰府させよとの方針が伝えられていました。木村からその方針を聞かされたカッテンディーケはまだ無理だと判断しました。コットル船は帆船です。蒸気機関を積まない帆船の方が蒸気帆船より高度な操船技術を必要とします。伝習生だけで帆船を操船して江戸に帰り着くにはまだまだ
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【長崎海軍伝習所が創設されたわけとは?】初仕事である海岸防備の視察から帰った三か月後の7月29日(安政二年)、勝は突然、幕府から長崎で蒸気船の運用伝習を命じられます。このときから安政六年まで足掛け五年、勝は長崎の地で海軍伝習生として航海訓練を受ける一方、幹部として伝習所運営の任にあたってゆきます。幕府はオランダから海軍づくりのための教育指導を行うという申出を受け安政二年10月、