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上大伏山城(西脇市黒田庄町大伏)詳細不明。主郭南二郭南三郭南三郭西帯曲輪南三郭東帯曲輪南四郭南五郭溜池状窪地南六郭上がって南七郭上がって南八郭少し離れて南九郭上大伏山城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ旧多可郡黒田庄町の城
小苗前山山城(西脇市黒田庄町小苗)詳細不明。北六郭北五郭北四郭北三郭北三郭西帯曲輪尾根からの西竪堀北二郭東腰曲輪北二郭土橋状尾根主郭北帯曲輪主郭東二郭東三郭東四郭東五郭上がって東六郭東七郭上がって東八郭西二郭西三郭西四郭西五郭西六郭西七郭西八郭小苗前山山城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ旧多可郡黒田庄町の城
西仙寺山砦(西脇市市原町字山脇神)詳細不明。東麓の西仙寺東出丸主郭東出丸南二郭東二郭主郭帯曲輪状の西二郭西三郭西四郭土橋の架かる西堀切西堀切の北竪堀西堀切の南竪堀西五郭尾根状の西六郭西七郭西仙寺山砦遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図西脇市の城
伊勢山城(西脇市上比延町字伊勢山/黒田庄町福地)詳細不明。北西六郭北西五郭南帯曲輪北西五郭北西四郭緩傾斜の北西三郭北西二郭主郭南東二郭南東三郭伊勢山城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図西脇市の城旧多可郡黒田庄町の城
宇仁山城(西脇市水尾町字宇仁山/加西市国正町亀山・油谷町宇仁山)詳細不明。南西畝状竪堀群(南)南西畝状竪堀群(中)南西畝状竪堀群(北)南西十三郭南西十二郭南西十一郭南西帯曲輪南西十一郭南西十郭南西九郭と南西十郭間の堀切南西九郭南西八郭緩傾斜の南西七郭南西堀切南西六郭南東腰曲輪南西六郭南西五郭南西四郭南西三郭南西二郭主郭主郭南東帯曲輪東二郭東三郭宇仁山城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図西脇市の城加西市の城
大木城(西脇市大木町杉ノ谷)別名:野中城・平野山城大木城の城主は明らかではないが、黒田荘の黒田重勝の弟である光氏が野中六郎と名乗って野中城に居住したという伝承がある。当時この付近は富田荘の野中郷と呼ばれていたことから、この大木城が伝承の野中城であるとも考えられる。(※現地説明文より)帯曲輪状の南西四郭南部南西四郭西部浅い北堀切主郭と南二郭を囲む第三郭北部第三郭東部第三郭南部第三郭西部南二郭主郭大木城遠望軌跡ログ西脇市の城
昨日の続きです。今回は本丸台所門跡から出丸までです。下図①の所です。正面に二の丸土塁が見えます。カメラを右に回すと帯曲輪から出丸に行くので、この坂を下ります。コーンがある下図②が見えてきました。さらにこの坂を下りると下の出丸に行けますが。ここは③の帯曲輪の方に行きます。上図②の本丸下帯曲輪です。解説板です。高度差はこの位置から上の本丸土塁上までは25mあり、また下の水堀までは15mあります。敵が来た時に
宮の沢城(神戸市北区淡河町行原・北畑)詳細不明。北西四郭墓地となっている北西三郭北二郭北二郭東帯曲輪主郭浅い南堀切北東二郭北東三郭宮の沢城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市北区の城
東畑城(神戸市北区淡河町東畑)詳細不明。広大な南二郭南二郭の南東土塁南東土塁外側の帯曲輪東横堀主郭への登り土塁主郭東畑城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市北区の城
尾上城(神戸市北区淡河町野瀬)詳細不明。北東出郭北東四郭北東四郭北帯曲輪上段北東四郭北帯曲輪中段北東四郭北帯曲輪下段東三郭東二郭主郭東腰曲輪主郭緩傾斜で帯曲輪状の西二郭西堀切西堀切からの北西竪堀少し離れた南二郭南三郭自然地形の北二郭自然地形の北三郭鉄塔が建ち改変された出丸状の北四郭尾上城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市北区の城
昨日の続きです。今回はおとめ桜の昔話と天守前です。天守の方に行きます。下図⑯付近から本丸御殿跡です。右に行くほど小峰が丘は高くなります。カメラを右に回すと小峰が丘の頂上付近が天守です。石段を上がり天守前⑰に行きます。⑰から西方向の眺めです。下の帯曲輪は工事中で立入禁止です。堀は外堀です。鹿島建設Webページより石垣修復工事の様子です。10年前の東日本大震災により崩れた石垣図カメラを右に回すと帯曲輪の北側に外堀があり、
ワクチン接種券は遠に届いてるが、接種予約が休止したままになってる。もぉええわ滋賀県蒲生郡日野町佐久良近江・佐久良城(さくらじょう)の続きです。Ⅱ郭、Ⅲ郭は藪でろくに散策できず。主郭を囲む土塁上を南方向に歩き、主郭西の搦手を目指します。南東隅の望楼跡。望楼の説明。主郭南面の土塁上を進む。南西隅の望楼跡。主郭の西側、土塁上から見る搦手門跡。主郭へ突入搦手から突入して蜘蛛の巣にひっ搦まくりスンマセン
城ヶ市城(神戸市西区櫨谷町寺谷字城ヶ市)端谷城の支城の一つ。城主は衣笠氏。帯曲輪状の西五郭南西六郭南西六郭東腰曲輪南西七郭南六郭南西五郭南西五郭の畝状竪堀地形帯曲輪状の南西四郭南西三郭南西三郭の竪堀南西二郭主郭北東二郭上がって自然地形の北東三郭城ヶ市城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市西区の城
帯曲輪北東の一番端っここっから向こうは川というか海でした隅から東側の石垣画面奥が南になります👇積みなおしたのでしょうかね~隅から北側の石垣画面奥が西ですこれはやっぱ積み直してますね石垣をじろじろうろうろしてる変なオヤジが居るきっとそう思われている…どうも昔ながらの積み方じゃない気がする…
西盛城(神戸市西区押部谷町近江)別名:近江寺砦詳細不明。別所氏の支城の一つと思われる。東二郭東二郭の西土塁東横堀東横堀からの北東帯曲輪状の横堀主郭北帯曲輪北東二郭北東横堀主郭南帯曲輪主郭東腰曲輪主郭主郭南西腰曲輪西堀切西堀切からの南竪堀土塁状の西二郭自然地形の西三郭実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ西盛城遠望神戸市西区の城
恐るべし宇喜多氏の家臣、荒神山城主・花房助兵衛職秀に攻められ落城した城、美作・神楽尾城(後編)現地縄張図。水色の竪堀は新緑のヤブヤブ状態で見難いのが難点。この季節はしゃーないか。本丸方向へ向います。一の曲輪へは登り土塁が通路となっています。この右側の平場は武者溜。井戸跡があるので、土塁の左の道へ。行けども行けども井戸跡あらへんがなもしかして見落としたもしかしての見落としてた無駄に歩いてしもたしんど井戸跡これを見落とすのは無理はな
帯曲輪石垣の向こうは現存人質櫓露出を変えながら…人質櫓近くで見たいのですけどね~公開なんてしないのでしょうか?あくまでも石垣に露出合わせました北東の隅👇おや♪石垣を撮るふりをしながら…ピントは…エスロンの排水溝?ということは
池谷城(神戸市西区櫨谷町池谷)池谷城の築城時期や城主などを知る史料は今のところ見当たらない。鎌倉時代中頃、池谷城のある櫨谷の地には、櫨谷の荘園管理者として赤松一族の衣笠氏が入った。衣笠氏は以後同地に住み着き在地領主化していったと思われ、そのことに関連した記事が『如意寺旧記』『如意寺寺社改』にみえている。池谷城はこの衣笠一族の城の一つと考えられる。天正七年(1579)、織田信長の三木城攻めの際、衣笠氏の本城端谷城は羽柴秀吉に落とされ、滅亡した。この端谷城攻防戦で、池谷城は秀吉の手に落ちたらしく、
美作に侵攻してくる毛利に備えるべく、恐るべし宇喜多直家が家臣・花房職秀により築かれた山城美作・荒神山城その2。登城道から西に延びる郭を通り、主郭部の西にあたる西曲輪への枡形虎口から曲輪内へ入りました。曲輪内部ですが、あまり整備されてないんですよね。曲輪の周囲には土塁が巡ってます。看板は字が消えちまってます。この土塁には折れ(横矢)が付けられており、その折れの部分ですがぁ、反対から写したらよかったかな、分かりにくい?ちょっと失敗。土塁の上には必ず乗
脇田城(三木市吉川町富岡)脇田城は脇田小次郎の居城で、弘治年間(1555~1557)に古川城主井口備前守時重の家臣の攻撃を受けて落城したと伝えている。『備前守井口君祠記』によると、脇田村脇田小次郎は荒川村藤田某や古川村井口備前守時重と親しく、3人は常に会っていた。小次郎は井口時重が藤田某の酒宴に招かれた帰り道に襲って殺し、丹波へ逃げた。弘治年間の正月十六日のことである。主人を殺された時重の家臣は脇田城に攻め入り、その妻子や一族を惨殺したという。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北西二郭(二
西畑城(三木市吉川町奥北字南ノ垣内)中西兵助正常の居城と伝わる。城史などは不明。北東二郭広大な主郭北西二郭北西三郭墓地となっている北東出丸(奥に土塁らしきものがあるが、遺構かどうか不明)西畑城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ旧美嚢郡吉川町の城
ちの門備前門を出て左(北側)にある扉がこちらに開いている天守側=内側こちらということ門は左右は番所この先には搦手口との一門さらには北曲輪に抜けるへの門へ位置関係はこれがわかりやすいかな?折廻櫓ちの門⇧備前門→↑→井戸櫓備前丸搦手口との二門~四門の間はお
また緊急事態宣言だと。「まんぼう」はなんやったのか?同じことの繰り返しやな。だめだこりゃ残るは二の丸だけなんで行っときます。播磨・駒山城(後編)土橋から二の郭への坂道。坂道から左を見ると二の郭の帯曲輪(東面)二の郭の虎口状空間。二の郭、ぢゃなかった、二の丸まずは二の丸北にある一段低い腰郭の方へ行ってみます。この看板にビビりこれ以上進まなかった。実際超激な絶壁デス。現地縄張図にはこの先が書かれてなかったので何もないと思
正法寺城(三木市別所町正法寺)詳細不明。南三郭の南土塁内側の堀状の地形南三郭の南土塁南三郭の南虎口南三郭南二郭主郭北二郭西上段北二郭東下段最高所の北三郭正法寺城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
小和田神社付城(三木市別所町小和田)三木城攻めの包囲陣の一つと思われる。詳細不明。南十二郭南十一郭南十郭南九郭南八郭(現参道)南東七郭南六郭南五郭南四郭南三郭?(社殿下)社殿の建つ南二郭?主郭小和田神社付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
萩原城(神戸市北区淡河町萩原)三津田城主の有馬則頼が、永禄四年に淡河町本町の天正寺山(標高230m)に城を築いて移ったと云われている。その数年後、萩原城(淡河町萩原)に移り、さらに天正七年(1579)に淡河城(淡河町本町)に移ったとされる。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)南二郭(南丸)南堀切南堀切からの南東竪堀主郭の南虎口主郭主郭の北虎口主郭の北土塁主郭の西土塁主郭の東土塁北二郭(二の丸)主郭西帯曲輪萩原城遠望軌跡ログ神戸市北区の城
久留美村大屋谷上付城(三木市久留美字西ノ谷)三木城攻めの包囲陣の一つ。加藤光泰が布陣。広大な主郭主郭東帯曲輪主郭南東の櫓台櫓台西脇の虎口帯曲輪状の南二郭帯曲輪状の南三郭帯曲輪状の南四郭南五郭久留美村大屋谷上付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
小沢城(加東市小沢字北山)『加東郡誌』には文治二年(1182)、依藤豊季が東条谷の地頭職に任ぜられて、居城を小沢に置き、その末裔豊秋の時に小田に移したと記されている。しかしこの城の築城時期、城史等は不明であり、おそらく「豊地城」の支城の一つとして築かれたものであろう。ただ、『依藤系図』には、天正六年(1578)五月、三木の細川冷泉家が別所氏の夜襲を受けた際、これを救援したのが小沢城主依藤太郎左衛門であるが、依藤野にて自刃したとある。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)図に無い東三郭北東三郭
片山城(加東市岡本小字片山)念仏城支城群のうちの一つと考えられるが、城としての伝承は残されていない。東条谷南側、南の山塊から北西に出た尾根の突端に位置する。標高133m、比高40mである。硯安寺の裏山にあたり稲荷神社の境内(12m×40m)となっている。社殿裏の尾根に堀切がある。この堀切は社殿改築の際、機材搬入のために原形を失ったが、現在でも堀も確認できる。この城の背後には東条、吉川を結ぶ旧道があり、旧道を500m登ったところに現在金比羅宮がある。この地点より左右に往時の通路があり、それぞれ
天神山城(加東市天神小字城山・掎鹿谷小字城山)『加東郡誌』では、天正八年(1580)の三木合戦の際、武功のあった久米荘(加東郡社町)の土豪久米五郎の居城であったとしている。しかし、『清水寺文書』などによって、これ以前にこの地には東条氏のいたことが知られており、天神山城を東条氏の本城と考える。城跡は吉川(美嚢郡吉川町)からの旧県道が突き当たる真正面の「旧天神村」と「掎鹿谷村」境の独立丘にある。城下の字「中筋」付近は交通の要衝で中世末頃から吉田本荘内随一の町場を形成して、天神町と称していた。(※