ブログ記事59件
昨年(2022年)4月より開始しました『全国お城の「石・石垣シリーズ」』は、途中「お城紀行」等の投稿もあって、約1年2ケ月を要してやっとのことで終了しました。回数的には、このシリーズで約230回にものぼる投稿を行っていることから、「石垣」の奥深さを実感せざるをえませんし、「石垣」に対する人気が高いのも頷けます。お城の中において使われている「石」の加工程度や積み方、「石」の使われ方、「石」の素材や状態、「石垣」の使われ方という切り口で分類した一覧表に基づいて、私が訪城したことがあるお城のモノ
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「伊予」のお城(松山城)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「伊予」の順番が後になってスミマセン!「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法です。石をパズルの様に
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「遠江」のお城(駿府城、掛川城、相良陣屋)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「遠江」と次回投稿予定の「三河・美濃」の順番が後になってスミマセン!「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「畿内(後編)」のお城(和歌山城、新宮城、堺南台場)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法です。石をパズルの様に組合せ張り
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「畿内(前編)」のお城(大坂城、赤穂城、丹波亀山城、柳本陣屋、柳生陣屋)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法です。石をパ
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「加賀」のお城(金沢城)に特化してその中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。特に、「金沢城」の石垣は種類が豊富で、「切込接」の中でも「切石積み」が多いのが特徴です。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(159
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。順番が後になってしまいましたが、「関八州」のお城(前橋<厩橋>城、小田原城、品川台場)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法で
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。暫く「お城紀行」の投稿で中断していましたが、再開をしていますのでまた見てくださいね!本日は、「甲信越・北陸」のお城(龍岡城(陣屋)、新発田城、福井城、勝山城)の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。
す「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けしています。今回は、「江戸城(前編)」のお城の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法です。前回までは、石をパスルの様に組合せ張り合わす「乱
「石・石塁・石垣シリーズ」は、今回から下記の分類表「①②-(6)切込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてお届けします。まず最初は、「北海道・東北」地方のお城の中で見られる「切込み接・布積み」をお届けします。「切込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を徹底的に加工して、隙間を無いようにした方法です。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。年代的には、慶長年間(1596年~1615年)の後半以降に広まった加工方法です。石をパズルの様に組合せ張り合わす「乱
9月末に、鹿児島県のお城巡りに出かけ、その「お城紀行」を投稿していましたので、暫く「石・石塁・石垣シリーズ」をお休みにしていましたが、本日より再開します。「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、「福山城」「丸亀城」を採り上げています。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますの
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、「大坂城」(後篇)を採り上げています。「大坂城」は、「徳川秀忠」によって「秀吉」の「大坂城」を大改修して築城されていて、各所で「布積み」が採用されています。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケース
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、「大坂城」を採り上げています。「大坂城」は、「徳川秀忠」によって「秀吉」の「大坂城」を大改修して築城されていて、各所で「布積み」が採用されています。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケースもありま
「石・石塁・石垣シリーズ」は、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、山城(やましろ)の「二条城」、播磨の「赤穂城」、紀州の「新宮城」を採り上げています。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケースもありますが悪しからずご了解ください。「打込み接(はぎ)」は、積み石の接
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了しました。今回から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介していきたいと思います。「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケースもありますが悪しから
「石・石塁・石垣シリーズ」は、私が登城した全国の「野面積み」の「乱積み」と「布積み」を導入しているお城をお届けしてきました。只今は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を展開している写真をお届けしていて、今回は「江戸幕府将軍」の居城であった「江戸城」のそれをお届けします。「江戸城」では、「打込み接・乱積み」と「切込み接・布積み」がかなりの箇所で見られましたが、今回は「打込み接・乱積み」の紹介に留めておきます。「野面積み」の分類時にも記載しましたが、「切込み接」が導入された初期の頃の
普請方側近戸門跡の上から中川民部屋敷前段を上がって左に門があったのかその門の前を通り過ぎ左に折れ右に段を上がり西の丸御殿に通じる通路稲荷神社の下へ段の左手の石垣算木になってる…補強か布積み屋敷の通路側の石垣丁寧に積まれている普請方跡に残された手水鉢餅がつける石臼になりそう細工の痕でタイムスリップ普請方東側向かいは家老屋敷跡こ
新企画の「石・石塁・石垣シリーズ」を展開中ですので、どうぞご覧ください。初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から、全国のお城で「①②-(1)野面積み・乱積み」を展開している写真をお届けしてきて前回のブログで一応完了しました。今回は「①②-(2)野面積み・布積み」を使用しているお城の例を掲載しますが、使用例が極めて少ないです。その中でも特に「浜松城」は、「野面積み・布積み」の代名詞とも言われるくらいに有名です。また、他にもそれらしき積み方をしているお城のある
筋金入りの筋金門👈筋金門東塀天守台👉筋金門前虎口より見上げた天守その天守台きれいな切込接布積みここは200年ものですね天守鬼瓦葵の御紋ですね!松平のお殿様です!さ筋金門突破です!てっきり現存と思ってましたパンフレットでわかりました現存っぽく見えますこの門突
本丸広場真っ正面に本壇天守観覧料520円体温測定と連絡先書いてさあ本壇へ向かいます👆小天守(復建)👆大天守二ノ門南櫓👆姫路城と同じ連立式切込接布積みここは200年ものの石積です👆小天守👆一ノ門南櫓👆一ノ門東塀二ノ門南櫓👆共に現存天守が
きれいな横目地草♪今回は古橋から大門櫓前を通過して古い登城路を行こうと思ってたのですが鐙坂が工事中で通れませんでした桜祭り時季に工事とは計画ではなく震度5強の地震での崩壊があったのかもそう思いながら今橋門の方へむかいます時鐘櫓から海鹿櫓跡の間の腰曲輪石垣島津軍との戦後の普請ですねもう一度ぬのづみ~手前は堀になってますが元々は海臼杵城は島でしたさて今橋口ということ
👆欠けてるもしかして詳しい場所もわかる人が居るかも?野面から打込接に進化中?布積み城漆喰下見板張屋根瓦は葵現存天守いや~~天気にも恵まれすばらしかった~!!
ニの郭を後にこの奥に一の郭があります一の郭です一の郭では発掘が行われていました一の郭を後にします南の郭です久高遥拝所グスクは祈りの場でもあります南の郭を後にします夫婦井戸中城を後にします【マラソン】大阪マラソン走れなかったのは残念ですがいい記録でましたね私も練習しよう!
日本百名城でもある中城(なかぐすく)に入ります階段を登り三の郭を経由します布積みの城壁見事です本州の城とまるで違いますさて、私のお気に入りニの郭へ向かいますパノラマで撮ればよかったですね。。城壁に登ってみます城も風景も見事14世紀から作られた城15世紀に三の郭まで拡張されました琉球が統一されてからは首里王府の直轄になりました沖縄は激動の時代を送りましたが変わらぬ石垣と風景はそれを見つめてきたのだと思
0304再訪新田山橋(しんでんやまばし)鹿児島県曽於市末吉町南之郷新田山安楽川に架かる石橋橋長:12.50m橋幅:4.00m径間:9.00m拱矢:4.20m架設:1925年(大正14年)拡幅:1965年(昭和40年)石工:不明型式:単眼アーチ橋二重アーチ壁石:布積み地元の方の話だとこの辺の橋はほとんど石橋だったと言う事ですが、現在では撤去されたり、全壊したそうです。この橋は橋上が車社会に対応して昭和40年にコンクリートで拡幅されています。二重アーチで、壁
0305再訪境橋(さかいばし)鹿児島県曽於市末吉町平沢津大淀川に架かる石橋橋長:12.00m橋幅:4.00m径間:7.60m拱矢:3.20m架設:1912年(大正元年)10月拡幅:1943年(昭和18年)石工:不明型式:単眼アーチ橋壁石:谷積み(オリジナル)、布積み(昭和増設)国道222号を石原橋から南下し鹿児島県・曽於市との県境の平沢津から集落へ狭い道を入り込んだ場所に架かっています。今回、2014年6月以来の再訪なので降り口を間違えて民家に入り込んで
見事な打ち込み接ぎ布積み👆中央分離帯?👆埋門夏には完全に見落としてましてね見逃すというのがまさに埋門なんですが…巨大な門笑石の門も欲しいですが埋門もほしいしかもこんな紅葉までこんな埋門だと用が無くても何度でも…この埋門の手前に石段があり上を通ることになりますその上り口この礎
富山城の石垣は、富山を隠居の地とした加賀藩第二代藩主前田利長が、慶長10年(1605年)以降に整備した石垣がはじまりとされています。富山城は、土塁主体の城郭で、石垣は城内を守る鉄門(くろがねもん)、搦手門(からめてもん)、二階櫓門に築かれていたとされています。二つ目の写真左は、国際会議場前の鉄門から城内に入つたところの風景です。鉄門の内枡形は布積み(ぬのづみ)で、方形に加工された石材が水平に積まれています。また、何ヵ所かに大きな鏡石が据えられているのが特徴的です。鏡石は城主の威厳を現し