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先月の日経新聞「春秋」欄に、吉田茂を父に持つ文学者・吉田健一のエピソードが載っていました:作家の吉田健一は毎週木曜日の昼ごろ、神田神保町のビアホールに必ず顔を出していたという。窓ぎわの席でタンブラーを4杯、5杯と空け、帰りがけには熱い紅茶にウイスキーのダブルを注いで飲んだ。しかるのち、近くにあった大学で英文学の講義に臨むのである。・・飲酒後に教壇に立つ、なんてSNS拡散社会の今ならご法度、といった話が続きます。それこそ「ふてほど」(不適切にもほどがある)の世界になっちゃう、ということ
11月25日又命日が来ます幾つ作ったでしょう国を憂うる人の多いことを感じました辞世の句益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜散るをいとふ世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐
今日は曇り☁️のち晴れ☀️今朝は冷えましたねやはり冬が近づいてますねさて防衛省ツアーの続きです地下壕を見た後はいよいよメインのこちら市ヶ谷記念館昔、本館として使用していたものを老朽化に伴い解体して一部を記念館として移築(三井住友トラスト不動産よりお借りしました)この建物は歴史に残る建物です中に入るとあの東京裁判が行われた場所床や天井など当時の物だそうです映像などではすごく広いイメージでしたが以外と狭い場所だったんだなと思いました戦争に関する遺物が展示され
普段着はズボン派?スカート派?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようあ、5(こ)10(とん)でcotton(綿)の日か、なるほど去年か一昨年か、超人ゴトーの事を書いてなかったか?トールマンこと雷神トールが神の尖兵として混沌を法理とする悪魔を排斥し、選ばれた者にのみ許された楽土『千年王国』を築かんとする大天使ミカエルの選民救済計画を阻止するために悪魔と契約を交わして超人となり、市ヶ谷駐屯地を武力占拠するクーデターを起こした。真・女神転生Am
■日本人よ、独立を!インドネシアの英雄からのゲキ2018/9/13【葛城奈海の直球&曲球】日本人よ、独立を!インドネシアの英雄からのゲキ8月17日、防衛省の一角で、インドネシア独立の英雄であるスディルマン将軍の銅像への献花式が行われた。昨年からは防衛省の公式行事となり、小野寺五典(いつのり)…www.sankei.com8月17日、防衛省の一角で、インドネシア独立の英雄であるスディルマン将軍の銅像への献花式が行われた。昨年からは防衛省の公式行事となり、小野寺五典(いつのり)防衛
若松孝二が晩年に(と言っても不慮の、しかも何とも口惜しい事故死であれば晩年の自覚なんて本人にもなかったでしょうけど)どうして三島由紀夫の映画を撮ろうなんて思い立ったか、それはそう難しい疑問ではありません。『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(2008年)で雪に泥濘む籠城事件とそれに先立つ陰鬱な集団暴行殺人に埋もれる青年たちの生きざまを掬い上げて、それと同じ時代の対を市ヶ谷駐屯地を占拠して三島の自決事件に従った青年の姿に見たということです。若松にすれば彼らもまた切実な熱情に生きながら思うにならない
1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自決をした事件が起きた日である。三島事件と呼ばれる。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。51年経っても三島の望んだ憲法は改憲されず現在に至っている。三島の檄文を今日改めて聴いたら涙が溢れて止まらなくなった・・・、今まで何度も聞いたが三島の魂の叫びが私の心に突き刺さったのかも知れない
2012年の日本映画です🇯🇵監督は若松孝二。『金閣寺』、『憂国』などの傑作や話題作を放ち、文豪として世界からも高い評価を得ていた三島由紀夫(井浦新)。学生運動が全盛を極めている中、彼は民族派の若者たちを集めて民兵組織『楯の会』を結成し、有事が起きた場合には自衛隊と共に決起できるようにと訓練を行なっていた。しかし自衛隊には能動的に出動する機会も権利もないことを知り、落胆と不満を抱えていくようになる三島と『楯の会』の若者たち。そしてそのいら立ちは抑えられないところまでに達し、彼らは日本のみ
直球のタイトルですから、説明なしでも内容は想像できます。作家・三島由紀夫と、三島が主催した若者の集団「盾の会」との関り、そして、その三島の決起と最期を描いています。非常に真摯な捉え方には共感できるものがあるのですが、本作が決定的な資金不足の中で製作されたことが、画面を通じてひしひしと伝わってくるのがちょっと悲しい。ですから、決起後の屋外描写も一切登場しません。その意味では描き方に大きな制約をもたらしており、筆者的には残念無念の思いが募ってきます。こうした思想絡み政治絡みの作
行ってきた。後のとうは三島由紀夫が自決した市ヶ谷駐屯地。区内は旧陸軍の土地だった場所が多く、ここいらもそうなのかも。東芝の国産初のカラーTVだと。1960年製品うちは1972年か73年にカラーを親がかった。この洗剤のかんは良く覚えてる。
この作品の、アートディレクターを担当された、『EikoIshiokaさん・・・』は、アメリカで活躍されて居た方だが、生前の三嶋にも幾度と無く会って居られたそうで、『私は、三嶋が嫌いだった・・・!』と、添えられた『MakingVideo』の中で語って居られた。その理由は、『彼は、俺が・・・、俺が・・・の目立ちたがり屋で、品の無い人間だった・・・!』とも吐露して居られたが、その人間性を、『ああ云う人たち(=作家とか芸術家等)は、複雑な人間性を宿して居るし、複雑で無けれ
首のトラウマがあるミシマ三島市ヶ谷駐屯地で演説する三島✨まだ小学生だった頃の衝撃は今も鮮やかに脳裏に格納されてる❗演説からの切腹ハラキリ介錯,,確か?映像を見た様な.....,,そんな訳は無いのかナ💦,,ゴロンと転がってる首首,,ミシマの首トラウマだ❗,,三島✨の文化が好きだからミシマの記憶が鮮烈なのかナ💦,,,,👻
プログラマー♥マリリン・モンロープログラマーといえばマリリン・モンローまさにプロのグラマーである日本では朝丘雪路ボインの語源でもある偉大な人物である母は1925年生まれ大正14年であるでマリリン・モンローは1926年生まれ大正15年生まれである1925年生まれの三島由紀夫は1970年11/25市ヶ谷駐屯地を占拠し切腹した私はその時中学生だった父は国家公務員で何と近い所(市ヶ谷駐屯地)にいたわけである官舎からは富士山がよく見えたまさに昭和の原風景であるそれっ💃(#^.
作家の三島由紀夫らが1970年11月25日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で切腹した時、斬り付けられた自衛官が斬られた制服を保管していることを三島事件50年の節目に公開した。斬られた本人は三島を恨んでいないと報道陣に証言した。事件当時に東部方面総監部の会計課予算班長だった3等陸佐の寺尾克美(91)が、東京都の小平駐屯地に保管していた当時の軍服を時事通信に公開。1958年に導入された「58式冬服」には血痕が付着し、背中がコの字に引き裂かれていた。三島と楯の会の面々は、東部総監室で挨拶した益田兼利総
三島由紀夫が東部方面総監を人質にして総監室に立て籠もった時に救出に行った当時の三等陸佐の制服が現存していた。血染めのの軍服ならぬ血染めの制服だ。生々しいね・・・・・。以下時事ドットコムより転載作家・三島由紀夫=当時(45)=が1970年11月、「楯(たて)の会」会員と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室に立てこもった際、三島に切り付けられた当時の自衛官が着用していた制服が現存していることが分かった。25日で事件から50年となるのを前に、元自衛官が初めて
50年前の11月25日三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決してから早くも半世紀、そして今もTV等マスメディア初め映画や各種の評論など単行本や写真集等が発刊される等、この様に常に世の中で注目されている作家は未だ嘗て皆無だ、事程左様に三島由紀夫自身、著作や思想などが如何に日本に直接、間接的に浸透しているかの証だろう。そして三島は半世紀前に今の日本の状況を言当てており、しかも三島の憂いた通りの現状だから尚更だ。当然の事乍ら、何ゆえの自死なのか謎も多いことから係る状態は半永久的に続くのでは
「神戸ニニンガ日誌」(第2,448号)○三島由紀夫が自決して50年経った。1970年11月25日、三島は市ヶ谷駐屯地に押し入り檄を述べ自決した。○「檄」とは「敵の罪悪などをあげ、自分の信義・意見を述べて、決起を促す文」とある。三島は自衛隊の諸君に対して「決起」を促したのだ。○自衛隊は世が世なら「日本軍」である。「平和憲法」の下、便宜上自衛隊となった。三島は軍人たちに「自衛隊を愛するが故」の行動と述べる。○「檄」の中では自衛隊は「違憲」と書いているが、国軍であるべき姿を想定
1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自決をした事件が起きた日である。三島事件と呼ばれる。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。50年経っても三島の望んだ憲法は改憲されず現在に至っている。三島の檄文を今日改めて聴いたら涙が溢れて止まらなくなった・・・、今まで何度も聞いたが三島の魂の叫びが私の心に突き刺さったのかも知れない。
今夜は三島由紀夫特集をしていた。母も見ると言ってたので私も見る事に。私にとっての三島は東京市ヶ谷駐屯地での演説だった。『楯の会』のリーダーでその“キリリ”とした緊迫感ある演説姿は当時9歳のワタシにとって衝撃的な姿だった。その後の切腹事件は生涯忘れられない。見てはいけないモノを見た。彼は幼少期から虚弱な体質でコンプレックスを持っていたと言う。いつも迷いながら生きてきた三島にとても惹かれるのは自分もそうだからかな。ワタシが覚えてる三島は筋肉質で独特の魅力があったがそれは三島が毎日
11月25日は三島由紀夫の命日にあたり、毎年「憂国忌」が開催されています。今年で没後50年経ち、読者層は若い世代に読み継がれて、三島文学をこよなく愛する者からすると、頼もしくも嬉しい限りです。三島文学の魅力の一つは、作品の書き出しヶ所です・・・想像をかき立ててくれます。例えば、作品の潮騒では「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である」・・・・この冒頭の一文で穏やかな島で、これからどんな物語が展開されるのかと、読み手に清々しい期待感をもたらしてくれます。また、金閣寺では「幼児より
市ヶ谷にPAC3展開TVで何度か放送されたが空自PAC3が市ヶ谷駐屯地に配置された(その後、常駐)。北〇鮮が頻繁にミサイルを発射するから仕方ない。都内に落ちることは避けたい。一般国民は何の関心もないだろうが…PAC3が置かれて困るのはグランドが使えないこと。体力検定もサッカーもラグビーも出来ない。隊員達はストレスがたまる。1佐昇任後に体力検定を受けられなかった。更に左内門が使えない。薬王寺門に回らないと出入りできない。左内門を使う職員は通勤時間が増える。ただでさえ遅くまで勤務する
NAIA長時、二人の総監に支えた。総監と言えば同期の中で三本指に入る超エリート。色んなことを学ばせてもらった。旅団長の時と同じで正反対の二人だった。『二人の旅団長』軍神IO旅団長IO旅団長は陸幕研究課長の時から存じ上げている。末っ子が長女と同い年、小さなバッグから取り出した写真を見つめる笑顔を覚えている。『初の現地研究…ameblo.jp①SK総監NAIAならではの歓迎会SK総監は、人柄が良く、温厚で、ユーモアがあり、優しい。NAIAではSK総監との懇親会を開いた。飲酒許可を申
最近、耳にする言葉です。withコロナ。まぁ、そうなるでしょうね。それにしても、安倍さんって、都合悪くなると病院ですか・・。これって、やめる前の布石でしょ?前も調子悪くなったから病院でしたものね。結局、日銀総裁と共に経済をめちゃくちゃにして、自分に税金をたっぷりと振り分けて逃げるのですね。三島由紀夫みたいに国会で切腹すればいい。三島は市ヶ谷駐屯地でしたが・・。経済も三橋氏の言うように、自国民だけでやるからこそ高度経済成長なりうるのでしょう。外国人労働力
どうも三島由紀夫が亡くなってからもぉ50年になるという。3月には映画「三島由紀夫VS東大全共鬪~50年目の真実」が完成し上映されたらしい。最近私が映画館離れをしていることと新型コロナウイルス感染症の拡大で映画館へ足を向け難かったことから私は最近までこの映画の存在を知らなかった。そんな話を聞いてごそごそと書棚の奥から引っ張り出してきた本がコレだ。「討論三島由紀夫東大全共闘」討論があったのは1969年5月13日であり三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした19
異常気象でクソ暑い夏北国育ちにとって耐え難い暑さ。引越して直ぐにエアコンを買っても取付けに数日かかる。居間と寝室が離れているので夜寝苦しい。当時のCGSは8月入校(今は12月)のため直ぐに夏休みに入る。涼しい岩手にトンボ返り。夏休みが終わってからCGS1年目が始まる。幹部学校は市ヶ谷だった今の幹部学校は目黒駐屯地にある。でも、当時は市ヶ谷駐屯地にあった。二次試験の作業場は東京裁判が行われた大講堂。天井が高くて暗い。祭りのように裸電球がぶら下がっているのが印象的だった。三島由
【学びを続ける日々の中で】私は今朝、朝から一人でド派手にコケました!右膝を強打して、朝っぱらから一人で怒鳴り散らしました。痛い。涙。さて、私は、ここ数年、学ぶのが好き。と自分自身でも自覚するようになりコロナ前の動ける時期は、セミナーや講座、講演会など、都内にも出て勉強しに行ったり、自身でも本や雑誌、ネット検索など駆使して調べ物して学んだりと、流行には興味が無いタイプだけど自分が興味のある事に関しては偏執的に執着する傾向があります。しかし、最近ハマってる与沢翼さ
昭和の印象的な出来事は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう子供時代印象的だった出来事❗❗!(*_*)(;∀;)作家、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地でも演説のシーン。その後、切腹自殺した事❗❗!【盾の会】の仲間に介錯(かいしゃく)してもらった!!!(頭を切り下ろして。。。生々しい頭の写真見たような😢)!!(゜ロ゜ノ)ノ!Σ( ̄□ ̄;)子ども心に衝撃的で“ありあり”と脳の画像に残ってる。後は『浅間山荘立て籠り事件』機動隊の人達がカップヌードル食べて
こんにちはアメリカ国防総省か未確認物体の映像を出したやっぱりいたのかUFOそう思ったのは俺だけだろうか新宿の空に居るわけもないのに探してしまった。日がさして綺麗な雲だ。これはちょうど新宿区市ヶ谷駐屯地の上空なのだ。このニュースにわくわくした。楽しくすごす❗️押忍
いらっしゃいませコロナ、コロナで緊急事態宣言が発動される直前に見れた。正直言えば三島の作品は「金閣寺」しか読んでいません。せめて「仮面の告白」「豊穣の海」位は読んでおかないとね。この作品は、1969年5月13日。東大駒場キャンパスの900番教室に1000人を超える学生が集まり、今まさに始まろうとする、左翼の東大全共闘と右翼の権化とすら思わせる三島由紀夫の対決を今か今かと待ち受けております。遡ること4か月前の1月には東大安田講堂を占拠していた全共闘は警察機動隊の放水攻撃と
前宣伝で楽しみにしておりました三島由紀夫が当時市ヶ谷駐屯地での演説から割腹自殺と言う中学生の自分には衝撃的なことを今でも思い出すそれにしても当時の学生も大人も本当にパワーがあったのだと思い知らされるそして今はひっそりと暮らしてる人と今でも自分と戦ってる人がいるそして三島由紀夫当人がいないのが何よりも悔やまれるとしか言えないやはり天才は若くして逝くものなのでしょうか享年45歳とは.............