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旭川の女子中学生いじめ自殺、7000万円の損害賠償金支払う和解案が市議会で審議入り旭川市で、いじめを受けていた女子中学生が自殺し、遺族が損害賠償を求めて市を提訴した裁判について、きょう(20日)開かれた定例市議会で、和解に関する議案が提出されました。2021年3月、中学生だった広…www.htb.co.jp「面前DV=児童虐待」2006年朝日新聞子供のいじめ、虐待の
自分で言っちゃいますね!(笑)。『ぬかる道』の巻頭言が好評です。いつも好評(!)なのですが、先月号の「SNSの時代!?」には、とくに反響がありました。反響が多かったのが下記の部分デス(再録します)。「夕刊廃止なんて、存じませんでした」「新聞購読者は2軒に1軒以下!ビックリです」「紙媒体の現状をネットで調べ直してみました」等々。有難うございました。紙媒体Vs電子媒体《そうでなくとも、紙媒体は電子媒体に押されっぱなしである。そこで、紙媒体の雄たる新聞の現状を確認したい。
巻頭に題す将来国家の柱石たり将た大国民たるべき現時の青少年諸君が、立志躬行、鍛錬研磨、以て他日の大成を期せんとするに当り、其目的の如何を論ぜず、其業務の種別を問はず、苟も独立独歩の国民として、必須欠くべからざるの要素を修得具備するに非ずんば、到底活動奮闘の実社会に伍して、各自の本分を尽すを得ざるは、敢て吾人の冗言を待たざる所なり。然らば即ち、其要素とは果して何ぞや、曰く、国語及び漢文の実用力即ち是れなり。更に日常の人事、言論、文章、及び社交、其他一切の業務にるまで、苟も常識を養成し
北条(当時)理事長は「あとがき」に池田先生は、つねにこういわれる。「私は、恩師戸田城聖先生の御遺志をば、塵もあまさず実践し、永遠にこの世にのこしてゆくことしか考えていない。私の頭には、四六時中、恩師の声がかけめぐっている。恩師を世界に宣揚することが、私のただ一つの願いなのだ」と。また、「私は、自分のことなど考えたことがない。だから強いのだ。私の勝利は、戸田先生の勝利なのだ」と。戸田門下生の方たちは、常にこのように「あとがき等」で言われる。第三代会長を支え創価学会の組織を護るとい
あとがき池田先生は、つねにこういわれる。「私は、恩師戸田城聖先生の御遺志をば、塵もあまさず実践し、永遠にこの世にのこしてゆくことしか考えていない。私の頭には、四六時中、恩師の声がかけめぐっている。恩師を世界に宣揚することが、私のただ一つの願いなのだ」と。また、「私は、自分のことなど考えたことがない。だから強いのだ。私の勝利は、戸田先生の勝利なのだ」と。今日の創価学会は、まさしくそのことを証明している。創価学会の名とともに、戸田先生は世界に宣揚されたのだ。否、今後ますます、その輝
新しい道徳(二)現今の日本民族は、どんなことが、よいことであり、どんなことが悪いことであるかということや、また、どうすることが正しい生活かというような、すなわち、日常生活の基準をうしなっている。いな、日常生活の基準がないのである。国に忠義、親に孝行という儒教の道徳は、とうてい通用しないことは、だれ人もこれを知っている。いな、この儒教の道徳では、どうしても納得しえない現状である。しからば、民主主義ではどうかというに、その民主主義の道徳は、残念ながら、共産主義の道徳にたえず圧迫
新しい道徳(一)利善美の価値論については、当学会員は、十分にこれを知っていることと思うが、とくに、新しい会員は、その価値内容が分立しているかのごとく思考する。これはあやまりである。美の価値が、利の価値、善の価値と無関係に存立するものではない。いま、美の価値を考えるに、①美であって利であり、善である場合と、②美であり利であり、悪である場合と、③美であり害であり、悪である場合とがある。すなわち、名画家が、じつに見事な風景画をかいたとする。そのときは、その画家は美を創造し、し
国土の相を見る立正安国論(御書全集三一ページ)にいわく、『若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩(いそい)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以(いわゆる)他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊(おんぞく)国内を侵掠(しんりゃく)する此の災未だ露(あらわ)れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以(いわ
仏土われらがごとき凡愚の身も、あいがたき妙法極致の仏法にあい、末法の三宝の御名を聞いて、未曾有の御本尊を受持した功徳で、仏の境地をえらるるとうけたまわる。じつにこのうえなき歓喜である。御義口伝(御書全集七五二ぺージ)のおおせにいわく。『如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり』と。この御
三宝自我偈にいわく、『憂怖諸苦悩。如是悉充満、是諸罪衆生。以悪業因縁。過阿僧祇劫。不聞三宝名』と。憂い、すなわち、心配ごとや怖れ、すなわち、おそろしいことなどのたくさんの苦しみが充満した世のなかに、人々は生活して、苦しみ、なやんでいる。このような人々は、過去世の悪業の因縁で、かぞえることのできないほどの長い阿僧祇劫という年月の間、『三宝』の御名を聞かないので、幸福な生活になれぬのだという意味である。三宝の御名を聞くことのできる者は、この長い間の苦悩の生活も一時に断壊し
折伏われわれ日蓮正宗の信者は、一度、御本尊を受持して南無妙法蓮華経と読誦したてまつるときは、覚知すると、しないとにかかわらず、凡夫の生活そのまま仏の本眷属として、即身成仏の境涯がえられるのである。されば、われわれは、仏の本眷属として功徳、利益をうけ、幸福生活へと向上するとともに、仏の使いとして世に処しなくてはならない。すなわち、日常の凡夫の生活に、功徳、利益を甚深にこうむるのは、本眷属の当然の資格であり、仏の使いたる者の果報のいたすところである。ゆえに、信仰のおかげにより、生活が
罰論罰ということばは仏教用語である。このことばを現代語でいうならば、『反対価値』というべきで、われわれの生活に不幸を感ずる現象のことである。この現象が、われわれの生活にあらわれたとき、罰にあたった、罰をうけたと称するのである。すなわち、反対価値とは美の反対たる醜、また利益の反対たる損、また社会に損害を与える現象たる悪をいうのである。この悪、損、醜なる反対の価値が生活の内容となるときを罰の生活と称するのである。さて、信仰生活にしろ、不信仰生活にしろ、人が生活する以上
如来秘密神通之力『如』とは『ごとく』と読み、また『そのまま』『ありのまま』と読む。戸田城聖なるものは、五歳のときが絶対の実在たるもので、その他のときはそうでないとはいえない。十歳のときが、ほんとうの戸田であるとも、きょう、いまの私が真の実在ともいえない。きのうの私が真であり、あすのものは仮りとはいえない。生をうけて終わるまで、戸田如きものの連続である。いな、見方によると、『戸田そのまま』『そのまま』の存在であり、『ありのままの戸田』としての連続である。戸田は『如
牧口先生薬王菩薩本事品に、薬王菩薩が仏および法華経に、身を焼いて供養したてまつったのをほめていわく、『是の如き等の種々の諸物を以って供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。仮使国城妻子をもって布施すとも、亦及ばざる所なり。善男子、是れを第一の施と名づく。諸の施の中に於いて最尊最上なり』と。牧口先生は人格高潔、物事にたいしていやしくも軽々しく事を行なわず、一文半銭も貪ることなく、清貧に甘んじて、いっさいの衆生のために仁慈をたれられたお方である。こと不義と名のつくものには仮借なくこれを
最高の経とはなんぞや経とは、仏典の経文のことを経と世人は思っている。しかるに仏教上の経とはしからず。雀がチュウチユウと鳴き、猫がニャゴニャゴと鳴く。犬はワンワンとほえ、おかみさん方は井戸端会議、人のうわさをする。これが経である。すなわち、宇宙の森羅万象の語言・動作、ことごとく経である。賢哲の言動も経であれば、一凡愚のさけびも経である。この経は、そのもの自体の真理と価値を表明する。ゆえに非情より有情の経は高く、有情のうちでも、猫・犬より凡夫の経が高いのである。また、人のなか
一仏乗経にいわく、『舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし』と、また『舎利弗、十方世界の中には尚お二乗なし、何に況や三あらんや』と。仏のご出現は、一大事の因縁のためのご出現であります。すなわち、仏知見の開示悟入にあらせられる。菩薩を育成し、二乗を教化するためではないと、方便品において、強く強くおおせられたのであります。日蓮大聖人のご出現も、末法時の現代において、仏知見の開示悟入のためであって、けっして、菩
小さな発見仏法で、劫ということがある。これは時間をあらわしたものである。人類の平均年齢は最長八万年生きられる時代がありとし、また、平均年齢が、十歳の時代がありとする。その十歳のときから、百年ごとに一歳ずつ平均年齢が増していって、八万年の平均年齢にくる。それを増劫の一小劫といい、また、人類の平均年齢八万年のときから、百年ごとに一歳ずつ人類の生命が減っていって、平均年齢が十歳にいたるまでを一減劫という。この劫が二十小劫で一中劫という。二十中劫で一大劫という。宇宙の生命は、これによ
如来の事を行ぜよ妙法蓮華経法師品第十にいわく、『当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり』と。これは、法将に滅せんとする末法事の信者をさして、申されたことばであります。ことに、われわれ学会員が、大聖人より賜わりたるおことばで、仏から証明されました文証と確信いたします。そのゆえんは、われわれは『地涌の菩薩』であります。いかんとなれば、私どもは『南無妙法蓮華経』と唱えております。大聖人出世の本懐たる御本尊を信じ、ちょうだいしておりますゆえに、『名字
折伏の功徳妙法蓮華経随喜功徳品にいわく、『又阿逸多、若し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生まれん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の輦輿(れんよ)を得、及び天宮に乗ぜん。若し復人あって講法の処に於いて坐せん。更に人の来ることあらんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん、阿逸多、若し復人あって余人に語って言わく、経有
価値論抄価値とは人間は、無関係の存在には、少しの注意も払わない。あることすら、意識しないことが多い。しかるに、吾人の生命に、なんらかの影響を与える存在にたいしては、判然と意識し、その関係性を感得する。人間の生命を危うくする存在には、なおさら、その注意を怠らない。野獣と家畜との差異は、人生に有する関係性の有無と相違にほかならない。すなわち、はじめ、人生にたいして無関係として放置されたものが、一朝なにかの動機によって、そのなつきやすい柔順性が見出され、それが、知らず知らずの間に利用
付録についてここに、付録として収録した戸田城聖先生の論文は、昭和十六年および昭和二十一年ごろの「価値創造」に掲載されたものである。「価値創造」は、聖教新聞、大白蓮華が発行される以前の唯一の創価学会機関紙であった。戦前は初代会長牧口常三郎先生、昭和十六年七月二十日、タブロイド版四ページ活版印刷で創刊されたが、当局の理不尽な弾圧をこうむり、第九号をもって廃刊となった。正法弘通のため大法難をうけられた第二代会長戸田城聖先生は、昭和二十年七月三日出獄されるや、ただちに創価学会の再
私の闘病八十日小事にすら前兆がある。ましてや、大事においておや。私は第一回逢難のときに、その前兆をしみじみと感じたものである。昭和二十六年、会長就任いらい、まさに七年、ふりかえって考えるに、そのとき『七十五万世帯の日蓮正宗信者を作りえなければ私の墓は建てるな、骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに大御本尊のご威光盛んにして、三十二年度に、もうすでに七十五万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、木門戒壇の大講堂落成を目の前にみるにいたった。愚人の
小野君の死を悼む小野君、きみの死を聞いて、ぼくは非常におどろいた。わが学会は、ぼくが会長就任いらい、大幹部の死は一人もみない。また青年部において、いかなる意味においても、部隊長級の死は、いまだ、これをみない、ましてや、その死が横死においておやである。きみは電車事故の横死と聞く。大御本尊様に奉仕する身として、一時は、ただ、おどろくのみであった。それ、生命について、これを論ずれば、三世の宿命を基礎としなければならぬ。生命を持続するために必要な条件は、肉体と精神である。肉体の健康維持
自界叛逆難を反省せよ咋秋、人工衛星が出現して、世界の人々の耳目が、それに集中した。わが国の人たちも上下をあげてそれに気をとられ、アメリカにたいするソ連科学の優位に失望する者、あるいは逆によろこぶ者、また原水爆から誘導兵器、弾道弾から人工衛星と、限りなく発展する軍事科学にたいして、ますます不安を増した人々など、ラジオを聞いても、新聞、雑誌をみても、しばらくそれでうずめられ、いまもなお、それが続いているのである。このすがたをみて、吾人は、しみじみ、次のように考える。すなわち、日本の国
年頭のことば人生には、希望がなくてはならない。いや、あらゆる人が希望のなかに生きているのではなかろうか。もし希望のない人生に生きている人がいるとすれば、それは敗残者である。若人の希望は、老人のそれと比して大きく、またあかるいものである。それが、また若人の特権ともいえるであろう。あかるい大きな希望をもった若人も、年をとるにつれて、だんだんと小さく、だんだんと実際的になり、最後に、しぼんだ花のような希望になるというのが現実の状態である。希望が大きく、希望があかるい、その希
仏法で民衆を救済昨冬、ハンガリア問題が世界の注目を引いた。そのくわしい事情については知るよしもない。ソ連政治のやりかたが正しいものやら、ハンガリア政府のやりかたが正しいものやら、吾人にはわからないが、ただ、国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる。貧乏と困苦の生活の上に加えられたものは鉄火の見舞いである。悲しむべき民衆ではなかろうか。われらは、この苦しみを想像しうる位置にある。なぜかならば、十数年以前に同じ事情にあったからである。これを根本的に救えるものは政治であろうか、権力で
三大秘法稟承事を拝したてまつる一、『夫れ法華経の第七神力品に云く』より『寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり』までの文。この文は、略して三大秘法をあかされている。文底深秘の大法を会得しないで、この御文を拝すると、文上脱益の本尊を中心とするおそれがある。そのゆえは『答えて云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし、涌出品まで秘せさせ給いし』の御文に執着を強くするからである。されば次下の『実相証得の当初修行し給いし』の御文は、"第
聖人御難事御書を拝して一、『去ぬる建長五年』より『其の間の大難は各各かつしろしめせり』の文。(御書全集一一八九ぺージ)この御文のうち、天照大神の御くりやが、東条の郷において今は第一なりとのおおせは、政治の実権が関東一門に移って、京都にはその実力がなくなったゆえに、鎌倉をもって『王』と、みなされたとも、拝されるのである。御書に、『小国の王』『小王』とかと、おしたためあられるが、みな鎌倉の執権をさしているのであって、けっして京都の天皇をさしているのではないことを、記憶しなくてはならない
聖教新聞創刊五周年に際して聖教新聞発行せられてまさに五年、その間広布のために役立った功績は多大なものである。思うに、われらが日蓮大聖人の門下として、しかも、その正統たる富士大石寺の信徒たる以上は、広宣流布のために不自惜身命の覚悟がなければならぬ。七百年来、夢のように言いならされてきた広宣流布実現のときは、いままさに、そのときである。火難、水難、飢饉の難、自界叛逆難、他国侵逼の難は眼前である。この国難はなにを意味するのであろうか。加うるに主権は天皇を去って民衆に移っている。これ
佐渡御書を拝してこの御抄を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人ご自身のお命もあやうく、かつはご生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく、いつくしむ愛情が、ひしひしとあらわれていることである。春の海に毅然たる大岩が海中にそびえ立ち、その巌のもとに、陽光をおびた小波が、あまえている風景にもにているような感がある。私が学生部のとき、あれは、バイクに乗って家に帰っているとき、スポーツセンターの入り口辺りにバイクを止め、休憩していた時、たまたま佐渡御書を読んで、なんか