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花曇りの日が続きます。先週入学式を済ませたこくらげ姉妹2号は今週も早起き。幸いにも今のところ、大学が楽しいようです。玄関を出ると、いきなりオナガの大群が喚き乍ら電線に止まったかと思うと、また何処かへ慌しく飛んで行きました。都内の公立小中学校は4月8日に入学式を行うところが多いようですが、サクラが入学式迄持ったのは何年振りでしょうかバスを待っていると、ウグイスが遠くで頻りに鳴いていました。日曜日、録画して置いたNHK-G《よみがえる新日本紀行》を視聴しました。「川並衆角
昔:深川木場🖼冬の絵の傑作と言われている。縦の線や斜めの線をうまく使った構図である。掘割には藍の拭きぼかしが水の深さを、空のあてなしぼかしが冬空の空気を感じさせるなど詩情豊かな作品に仕上がっている。手前に二匹の子犬と版元魚栄の(魚)の字を入った傘が興を添えていて廣重らしい。『深川木場』廣重絵本江戸土産同じ廣重の〈深川木場〉添書きに「この辺材木屋の園多きにより名を木場という、その園中おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」とあり、材木商はぜいたくな屋敷や庭園を
簡易ブログにてお伝えします。〖国盗りクイズ答え〗若き日の秀吉が直属の家臣として召し抱えた、蜂須賀小六・前野長康などといった木曽川沿いの国人衆を指す言葉は?答え:3.川並衆〖城めぐりクイズ答え〗土田御前は本能寺の変で殺害された。○か×か?答え:✕〖コロナ対策〗使い捨てマスク❮安いマスク❯Youmayマスクホワイトmask使い捨てマスク50枚入保護マスクフェイスマスクmask個人不織布マスク防塵不織布花粉男女兼用白色Amazon(アマゾン)
『がんまくと一若』ここまで打ちのめされる秀吉を久しぶりに観た気がする。そして目は死んで居ない。自分のイメージする無名時代の秀吉はこういうイメージ。実は山窩の事はよく判っていないそうだ。そんなのは創作だと言う人も居る。自分も昔、一冊本を読んだだけ。じゃあもっと調べてから書け💢という話だが…🙇いわゆる民族としては居なかったかも知れないが山々を移動して生活する集団は居たと思うし海辺を移動する集団も居たと思う。土地を持たず生きる為に山の幸海の幸を求め移動する。全て生き
『秀吉は村長の子か、それとも…。』秀吉は山家(山窩サンカ)だったとか言う説もある。また村長の倅という説も。どうやら村長の倅の方が有力。百姓というのは本来農民の事ではない。百の姓、色んな職業の総称だ。いわば民衆ぐらいの意味だろう。その村の姓を束ねるのが村長でいわゆるお侍様と民衆の繋ぎ役でもある。蜂須賀小六ら川並衆とも村長の家に居たのならある程度顔見知りだったのではないか❓もっとも秀吉が寺に預けられたりその後、諸国を転々としたのも事実っぽい。寺では読み書きぐらい習っ
見逃した二話昨日昼間やってたんだ助かりました。○二話。久しぶりに戦のシーンに金を掛けてる大河を観た。素直に嬉しい❗大河はこうあるべき。○三話。観た時は二話観てなかったんで知られざる光秀の若き頃に何処まで創作していいのか苦戦している印象…。帰蝶役の川口春奈さん。素晴らしいね👍災い転じて…だと思う。○四話。いやあ〜。面白くなって来ましたなあ。本木さんや堺さんの芝居芝居した演技にも慣れて来ました。慣れて来ると本木道三凄い迫力…。菊丸って何者❓まんま秀吉でい
豊臣秀吉の作った初代伏見城(指月伏見城)は山の下の平地にあった。この地は北に京都、西に大阪、南に奈良があり、宇治川や巨椋池と言う水運に恵まれていた。もちろん、巨椋池や宇治川は外敵を防ぐ外濠の役割もあったと考えられる。秀吉の最初の城「指月伏見城」は奈良線桃山駅南側の「近畿財務局桃山合同宿舎」第15棟付近(参考)。再建後の二代目伏見城(木幡山伏見城)は現在の明治天皇陵がある山頂あたりである。現在の伏見桃山城の建物は昭和39年に伏見桃山城キャッスルランドのシンボルとして、近鉄が建設した。ついに平
蜂須賀小六の仲間の川並衆はチームワークで土木工事作業をこなし、豊臣秀吉に評価され重用された。彼らは江戸時代になると徳島藩の家臣となるが、彼らの弓術は日置(ヘキ)流と言い、製鉄や土木のプロの渡来人の秦氏の一派の日置族であった。東国の武士の末裔である織田信長や徳川家康や多くの武将らは地元の一向宗の門徒である農民を弾圧した歴史があり、長島輪中の一向宗の門徒への弾圧は長島一向一揆として有名な凄惨な虐殺事件であった。この輪中を作ったのが蜂須賀小六の川並衆である。すなわち、一向宗の門徒である農民と川並衆
豊臣秀吉は、部下の蜂須賀小六の集団の協働作業(チームワーク)を重んじる気質と価値観を持って、天下統一を成し遂げた。これは秦の始皇帝以来の渡来人秦氏の系譜であり、だから豊臣秀吉は尊皇の志があり、天皇の官僚機構のトップである関白・太政大臣に就任したのであった。鎌倉時代以来の支配者の武士の個性と個人技を尊重する気質と価値観とは異質なものであった。明治維新後は天皇の下に四民平等の画一集団の協働作業を重んじる気質と価値観が主流となったが、西洋列強に対峙する為の富国強兵・国民皆兵にも叶うものであった。こ
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