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8月6日、父たちは太田川の土手で一夜を過ごした。呆然と目の前の川や遠くの山火事を眺めていたという。そのうち対岸の白島、常盤橋のあたりだろうか、崇徳中学の生徒がたくさん倒れているとの知らせがあり、一緒にいた同級生が川船を漕ぎ後輩を二人連れて帰ってきた。父も一緒になって後輩を荷車に乗せ自宅まで送ったのだが、二人とも荷車に乗せるのが可哀想なほどの火傷だったという。今考えてみれば、父はこの時の救護活動で放射線を浴びたのかもしれない。翌日、父は広島市から都谷村(つだにむら現北広島町)の我が家まで
リニューアル前の広島平和記念資料館に戻ろう。資料館は1991年に大改修され、廃墟の広島を再現したパノラマが新しくなり、ジオラマも大きくなって人形もロウ人形からプラスチック人形に代わった。それだけでなく遺品・遺物や写真が「熱線による被害」「爆風による被害」「放射線による被害」「後障害の苦しみ」と被害別に系統立てて展示された。展示の最後の方で佐々木禎子さんの折り鶴がケースの中でライトを浴びキラキラと輝いていたのを憶えている。1994年になると、それまでの「広島平和記念館」が取り壊され、新しい建
沼隈真澄さんが崇徳中学2年生の時、配属将校が校庭に居並ぶ生徒を前にしてこう言った。「諸君は、今の戦局を何と心得ているか。南方赤道直下、あるいは中国太平洋上で米英中を相手に戦っている兵士もいる。おそれ多くも天皇陛下の赤子であり、君達もそれと同じである。学内に貼られてある少年兵志願のポスターが目にはいらぬか。現在のところ、此の中学校は志願する生徒が全くといってよいほど少ない。これから七日間の猶予を与えるから、このことについて親に相談し、是非志願してほしい」(沼隈真澄『卒寿記念被爆に学ぶ—
私の父、精舎法雄が崇徳中学に入学したのは1942年だった。父は三男で小学校を卒業すると高等科に1年通ったが、長男の精舎善明は下半身不随、両足切断の体となって東京の病院に入院、次男は生まれてすぐに亡くなっていたから、寺の後継として本願寺系の崇徳中学に通わせてもらえることになったのだろう。寄宿舎で苦楽を共にした友人の沼隈真澄さんが詳しい手記を残しておられるので、戦争末期に父がどのような学校生活を送ったかがよくわかる。幼い頃から体の弱かった沼隈さんは兵隊になることにあまり乗り気ではなかったようだ
私の伯父の精舎善明が広島市内の崇徳(そうとく)中学に入学したのは1934年。中学時代の遺品として残っているのが「教練手簿」という小さな手帳だ。当時の中学には1925年から現役の将校が配属されて軍事教練が行われていた。1934年5月10日、伯父は「教練手簿」の最初のページに、この日までに習ったことをこう記している。一、学校教練ノ目的学生、生徒心身ヲ鍛錬シ資質ヲ向上スル二、各個教練ノ目的部隊教練ノ確乎タル基礎ヲ作ルタメ今の中学1年生の時から兵士にするための訓練が行われて
生き残った被爆電車広島市の『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』はこう指摘している。…屋外に逃れても、道路は建物や自動車の残骸で埋め尽くされ、特に自動車が炎上すれば、とりわけ避難の支障となるだろう。(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)1945年8月6日、崇徳中学1、2年生410人は爆心地から東に800mほど離れた八丁堀で建物疎開作業をしていた。広島城の堀を埋めたてて今の八丁堀西交差点から北に向かう京口門通りが作られ、当時
天満川沿いにある小網町の慰霊碑私の父は当時崇徳中学4年生で、南観音町(現観音新町)の三菱重工広島機械製作所に動員されていた。7月30日から小網町の建物疎開に駆り出され、毎日朝早くから夕方暗くなるまで「汗と泥とホコリに塗れての辛い作業」に当たった。作業は8月4日に終わり、続いて広島市近郊の祇園町(現広島市安佐南区)にあった三菱重工第20製作所の義勇隊が出動した。私達の作業は8月4日で終わり、5日は日曜日で休み、そしてあの6日の朝。また工場行きが始まるのである。靴を履きゲートルを
崇徳中学の3年生1クラス約60名は、第20製作所の隣にあった油谷重工から建物疎開作業に出ている。油谷重工は本社が大阪にあり、広島市祇園町公民館の『原爆と祇園町』によれば、祇園の工場は呉と広の海軍工廠の250キロ爆弾などを月産3000、それに戦時標準船の揚錨機を製造していた。それで正規の従業員は陸軍から兵隊に引っ張られないように全員が海軍の徴用工という身分になっていた。広島市の北隣にあっても、呉の海軍と強く繋がっていた工場だということになる。油谷重工の国民義勇隊は8月初めから市内中心部の
私の伯父、精舎善明は軍事教練の内容を「崇徳中学校教練手帳」に少しだけメモしている。たとえば「学校教練ノ目的、学生、生徒心身ヲ鍛錬シ資質ヲ向上スル」と。これだけなら今でも通用しそうだが、やっていることは軍人としての基礎を徹底的にたたきこむことだった。敬礼などの基本動作、兵の分類・階級など軍隊の基礎知識、そして9月になると広島駅北にあった東練兵場で最初の野外演習があった。手帳には配属将校の「訓条」が「必勝の信念を持て」などと二度も三度も記されている。配属将校の指示は絶対で、その評価は生徒の
1950年7月1日、よそに負けじと都谷村(つだにむら現北広島町内)の青年団も機関誌『青年』を発行した。初代編集長は私の父、当時21歳の精舎法雄(しょうじゃのりお)。同年9月に父親(私の祖父)が66歳で急逝したため寺の住職を継がなければならなくなり、編集したのは2回だけだった。しかし寄稿は何度もしている。『青年』創刊号には「逆境は恩寵なり―我々は不幸の中より幸福を見出した―」を書いた。今手元にある『青年』13冊の中に見られる唯一の被爆体験記であり、戦争についての考察である。被爆当
朱鳳碩さんは兄の朱碩さんに叱られて建物疎開作業をする八丁堀に向かった。自転車なら遅刻は間違いなしでも8時15分には現場についていたかもしれない。もしそうだったら引率教員から大目玉をくらったはずだ。そして原爆炸裂。私の父は崇徳中学4年生で、観音にある三菱の工場に動員されていたが、同じく6日は遅刻して「君たちはたるんどる」と先生に怒鳴られたという。その父が6日朝、寄宿舎を出る時のことだった。ふと思い出したのが、昨夜祇園の工場へ出勤している3年生の1人が言った「6日にはB29が広島へ
広島城堀端に残る広島陸軍幼年学校の門柱朱碩さんは日本に来て修道中学夜間部で学んだが、弟の鳳碩さんには陸軍幼年学校の受験を勧めた。戦時下の日本では軍人第一で、とりわけ尉官以上は“神様”とさえ言われた。そこで、自分たち朝鮮人への非道な差別から抜け出るには、職業軍人になるのが最良の選択だ、と心に決め、まず弟をその道へ誘った。(在日朝鮮人広島権利擁護委員会『あの日の悲憤はいまもなほ』非売品1996)少尉以上は「神様」だと言われてもなかなかピンとこないが、私の伯父は崇徳中学から陸軍士
広島市内中心部の金座街から電車通りを渡ると、交差点の角に「八丁堀外濠跡」の小さな碑がある。江戸時代は、ここから西に元安川まで、そして北は縮景園あたりまで広島城の外堀があった。縮景園に向かう堀は約900m、だいたい八丁の長さなので「八丁堀」だ。近代に入り外濠は埋め立てられて路面電車が走り、その両脇の家並みが八丁堀と呼ばれた(戦後に縮景園行きの白島線は1ブロック東側の通りに付け替えられた)。八丁堀の西隣は西練兵場や歩兵第11連隊などの陸軍の軍事拠点である。8月6日の朝8時、崇徳中学1、2年
高校生の平和教育の教材『明日に生きる』初版が出たのは1974年。もう半世紀も前のことである。ということは、私もすでに歴史上の人物?それは置いといて、『明日に生きる』はよくできた本だけれど、今から見れば残念なところもある。韓国・朝鮮人被爆者の生の「声」がこの本にはないのだ。『明日に生きる』が韓国・朝鮮人被爆者についてふれてないわけではなく、2ページちゃんと解説がある。しかし解説はあくまでも解説だ。そのころ、被爆者治療を求めて密入国した韓国の孫振斗さんが被爆者健康手帳を求める訴訟をおこ
私の父精舎法雄は被爆の翌日に原爆で焼け野原になった広島から家に戻った。それから半年間は放射能障害が出たのか、寝たり起きたりの生活で一日も学校に出られないまま、4年で崇徳中学卒業となった。当時旧制中学4年生の卒業では大学受験資格はない。父は龍谷大学の専門部(今の短期大学に近い)に入学した。そこで勉学に励むことができた期間はわずか3年。一緒に崇徳中学を卒業し龍谷大学専門部に入学した友人は引き続き龍谷大学に編入となったが、父は専門部を卒業するとすぐに故郷に戻った。法雄の父、私にとっては祖父にあた
私の父精舎法雄の少年兵志願がその後どうなったのかは分からないが、たぶん没になったのだろう。父は1945年4月には形ばかりの中学4年生となり、そして被爆した。父の兄、私の伯父である精舎善明は1934年に崇徳中学に入学し、4年生の時に陸軍士官学校を受験して合格した。伯父の遺した軍隊手帳には、1937年12月1日に「陸軍予科士官学校生徒隊入校」とある。その年は7月に日中戦争が始まり、学校教育においても軍国主義が一層強化された年でもあった。伯父は1939年3月1日に予科から本科の陸軍士官学校に
少年兵への志願には沼隈真澄さんの両親も「ウン」とは言わなかった。沼隈さんは小さなころから体が弱かったし、なによりも三男坊ではあっても、長男、次男が早くに亡くなっており、大事な大事な寺の後継者だったのだ。結果としては、志願者が多すぎて沼隈さんは志願しなくてよいことになったのだが、それにしても「少年兵」とは何だったのだろう。まず思いうかぶのは「七つボタンは桜に錨」の予科練(海軍飛行予科練習生)だ。1942年のミッドウェー海戦で熟練飛行士を数多く失った海軍は、1943年後半から3万人を超え
崇徳中学校教練手簿父の体験記を読むと、崇徳中学の寄宿舎ではそのころの流行歌「東京行進曲」のメロディにのせてこんな替え歌が歌われていたことがわかる。広い寄宿舎舎則で狭い時間厳守のアドバルンカチで目覚めてお経で暮れる明けりゃ味噌汁7分搗き「カチ」とは拍子木のこと。その音で起床すると洗面・掃除をした後、仏教系の中学らしく仏参があり皆でお経を唱えてから食事なのだ。しかし崇徳中学の勉強そのものは他の中学と一緒で、「仏教」といった教科はなかった。(そのかわり崇
私の父精舎法雄は被爆当時崇徳中学4年生。楠木町の学校と同じ敷地内にあった寄宿舎で生活していた。3年生になってからは南観音町(現広島市西区観音新町)の三菱重工広島機械製作所に動員され、授業の全くない名ばかりの中学生となった。1945年8月6日月曜日。土曜日までは小網町一帯で建物疎開作業にあたっていたが、予定より早く終ったので日曜は休みとなり、月曜からまた工場に出ることになった。作業が延びていたら、父も6日におそらく死んでいた。8月5日午後9時27分に空襲警報発令、11時55分解除。日付
兵器補給廠には崇徳中学、修道中学の男子生徒が主に動員されていた。4年生で繰り上げ卒業し(本来なら5年で卒業)、そのまま「付設科生徒」として兵器補給廠に動員されていた深田敏夫さんは小さなカメラをいつもズボンの後ろポケットに忍ばせていた。軍需工場内どころか市中でも見つかったらただではすまないご時勢だった。広島一中1年生だった兒玉光雄さんは原爆で校舎の下敷きになり、命からがら御幸橋まで逃れた。あたりは松重美人さんが写した写真の通り眼を蔽うような惨状だった。しかしどうも兒玉さんはその松重さんが中国
ViewthispostonInstagramおはようございます。本日44歳になりました。支えてくださった周りの方々に感謝しつつマイペースに楽しく過ごしてゆきたいと思います若き日の面白ろ写真が出てきたので投稿してみます。30年前と同じポーズ・表情にチャレンジしてみましたが、中学生時の表情ってできないものですね・・・精神年齢は14歳で止まっておりますが、これからも温かく見守ってください。#誕生日#44歳#昭和49年生#
1945年8月6日午前7時31分に警戒警報が解除され、崇徳中学4年沼隈真澄さんはホッとして寄宿舎の自室で少し休もうと上着、ズボンを脱いだ。この日沼隈さんは学校防衛隊員として8時30分から学校で銃の手入れをすることになっていた。しばらくしてB29の音が聞こえてきた。そろそろ学校に行こうと誘いにやってきた同級生が窓の外を見て「あそこにB29がいる」と指さし、沼隈さんも窓に近づこうとしたその時だった。その瞬間、目の前に太陽のような大きさの光の塊が光った。丁度マグネシュウムを一時に沢山たい
崇徳中学は爆心地から2.2km離れていたが、原爆の爆風で建物は倒壊し、しばらくして炎に包まれた。6日夕刻、私の父など数人が大八車をひいて学校の防空壕の中に保管してあった米を取りに行くのだが、その防空壕は崇徳中学寄宿舎食堂の前庭に生徒が掘ったもので、防空壕の上にはカボチャがうえてあった。父の手記ではそのカボチャを食べたのかどうかわからないのだが、今年、同級生だった沼隈真澄さんが自費出版された被爆体験記にそのあたりのことが書いてあった。防空壕の上に南瓜が植えてあって、よく焼けていたそう