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★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓に埋葬されています。高津宮(たかつみや)跡に創建された高津宮(こうづぐう)にかけられている絵。御名は大雀命/大鷦鷯命(おほさざきのみこと)。御父は応神天皇、御母は仲姫命。仁徳天皇は五世紀に活躍したとされる天皇で、大規模な土木工事を行い河内平野を開発し、応神天皇とともに「河内王朝」を築かれた天皇です。応神天皇崩御の後、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は兄の大鷦鷯命に即位してもらおうと即位されず、また大鷦鷯命
1月31日が命日・忌日の有名人・著名人1398年(応永5年1月13日)65歳崩御(?)崇光天皇陛下北朝第3代天皇光厳天皇の第一皇子1945年満24歳没(銃殺刑)エディ・スロヴィクさんアメリカ軍において脱走・敵前逃亡の罪で銃殺刑にされた唯一の人物1954年63歳没(自殺)エドウィン・アームストロングさん電子技術者周波数変調(FM)の発明者1956年74歳没(脳梗塞)A・A・ミルンさん作家『クマのプーさん』⇒『A・A・ミルン(1882年1月18日
北朝第五代後円融天皇は室町幕府三代将軍足利義満が権力を深めた時代、南北朝時代の北朝、持明院統の天皇です。なお、識者によれば、南北朝という表現は戦後一般化したもので当時南北朝などと呼ぶ人はいなかったそうです。つまり現在南朝と呼ばれているのは吉野朝であり、北朝は旧来通りなのであらためて北朝などとは呼ばれたりはしなかったということです。生年は延文三年(1359年)。御父は後光厳天皇、御母は藤原仲子(崇賢門院)。仲子の姉が母の足利義満とは従兄弟同士で同い年(新暦では一つ違い)。御名は緒仁(お
本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年四月二十二日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐
2022年6月23日この日は、近鉄『桃山御陵前駅』で下車した………何気に地図を眺めていると、ふと天皇陵の文字が目に入ってきたのだこれは行かなきゃranmarutenさんまたまた伏見にお邪魔していますちょっと迷ったけど、そこはJR『桃山駅』のすぐ近くだった。なんなら、線路沿いで車窓からも見える場所だった到着したのは…………【光明天皇大光明寺陵】【崇光天皇大光明寺陵】京都府京都市伏見区桃山町泰長老【光明天皇(こうみょうてんのう)】日本の北朝第2代天皇(在位:1336年〜
近鉄桃山御陵駅から歩きました〜京都市伏見区新町52216時14分。めっちゃ逆光。後崇光太上天皇伏見松林院陵。🙏1372-1456室町時代の尊称天皇。応安5=建徳3年3月25日生まれ。栄仁(よしひと)親王の第2王子。母は三条治子。崇光天皇の孫。40歳で元服し,伏見宮家第3代をついだのが45歳。応永32年54歳で親王となるが,後小松上皇と称光天皇父子の間で皇位継承問題がおき出家。称光天皇の死で長男彦仁(ひこひと)が即位(後花園天皇)したため,文安4年太上天皇の尊号をうけたが,翌年
本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年4月22日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐天
北朝第2代光明天皇大光明寺陵即位西暦1336年退位西暦1348年皇位年数12年北朝第3代崇光天皇即位西暦1348年退位西暦1351年皇位年数3年西暦1337年から1392年までの南北朝時代は、南朝と北朝、其々に帝が、つまり同時に二人の天皇が居た時代。南朝(吉野)と北朝(京都)のどちらが正統なのかの議論はさておき、明治時代に『南朝が正統』と決定され、北朝は天皇家第〇〇代にカウントはされない事になった。その関係か、御陵印は無し。でも当然、管
★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓に埋葬されています。『世界一大きなお墓ができたわけ』以前書いた困難な時代に繰り返し語り継がれる話、「民の竈(かまど)の煙り」で有名な仁徳天皇の陵(百舌鳥耳原中陵)は全長486m、高さ35.8mで日本最大の前方…ameblo.jp高津宮(たかつみや)跡に創建された高津宮(こうづぐう)にかけられている絵。御名は大雀命/大鷦鷯命(おほさざきのみこと)。御父は応神天皇、御母は仲姫命。仁徳天皇は五世紀に活躍したとされる天皇で、大
北朝2代光明天皇北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁。法名真常恵。後伏見天皇の第2皇子。母は広義門院寧子。光厳天皇の弟で、その猶子となった。建武中興崩壊ののち、足利氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光天皇に譲った。1351年(正平6・観応2)における南朝後村上天皇の天下一統に際して出家し、幽閉の身となり、光厳、崇光両上皇らとともに南朝根拠地の大和賀名生および河内天野の金剛寺に数年間を過ごした。のち京都郊外の伏見に帰還、同地の保安寺、金剛寿院また大光明寺に居住し、その後所々
★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓に埋葬されています。高津宮にかけられている絵御名は大雀命/大鷦鷯命(おほさざきのみこと)。御父は応神天皇、御母は仲姫命。仁徳天皇は五世紀に活躍したとされる天皇で、大規模な土木工事を行い河内平野を開発し、応神天皇とともに「河内王朝」を築かれた天皇です。応神天皇崩御の後、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は兄の大鷦鷯命に即位してもらおうと即位されず、また大鷦鷯命も父応神天皇の意に背くわけにはいかないと即位さ
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)2月に三連休で京都に行ってきました。三日目、竹田駅周辺の天皇陵、深草と呼ばれるエリアの天皇陵を巡りましたが・・・このまま天皇陵巡り続行です。深草から最寄り駅の京阪の藤森駅へ行き、電車を使用
【平成31年3月2日(土)】【北朝御座所】正平9年(1354年)-正平12年(1357年)所在地:大阪府河内長野市天野町996金剛寺観蔵院北朝初代光厳天皇在位:元弘元年(1331)~元弘3年(1333)北朝第2代光明天皇在位:延元元年(1336)~正平3年(1348)北朝第3代崇光天皇在位:正平3年(1348)~正平6年(1351)こちら北朝御座所は拝観出来ました。杉苔が見事な枯山水庭園奥殿賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、正平9年(1
北朝1光厳(こうごん)天皇㉓在位期間1331年~1333年なお、「㉓」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系23代遡る」という意味です。量仁(かずひと)親王。北朝初代。持明院統。後伏見天皇㉔の第1皇子。母は1352年に「治天の君」となる広義門院(こうぎもんいん)。光明天皇の同母兄。崇光天皇㉒&後光厳天皇の父。1313年生まれ。後醍醐天皇が元弘の乱を起こしたため、鎌倉幕府の手で18歳(数え19歳)で即位。しかし、1333年、後醍醐天皇方の軍勢によって捕らえられ、鎌倉幕府は滅亡。19歳(数
★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓に埋葬されています。高津宮にかけられている絵御名は大雀命/大鷦鷯命(おほさざきのみこと)。御父は応神天皇、御母は仲姫命。仁徳天皇は五世紀に活躍したとされる天皇で、大規模な土木工事を行い河内平野を開発し、応神天皇とともに「河内王朝」を築かれた天皇です。応神天皇崩御の後、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は兄の大鷦鷯命に即位してもらおうと即位されず、また大鷦鷯命も父応神天皇の意に背くわけにはいかないと即位され
続き明治天皇陵を南に下って🚶…(・・;)あれ?こっちじゃない少し迷って🚶💦とてもアップダウンな地形元々の地形を利用してるとは思うけど伏見桃山城🏯ってどんなんやったんやろ~と思いながら歩いてましたでもかなりの土木工事もしてたようなブラタモリでも言ってたな迷ったからこれ撮れましたぐる~っと回ってようやく着いた約700年程前に京都(北朝)と吉野(南朝)に天皇が並立してた時代の天皇さん北朝2代目光明(こうみょう)天皇と北朝3代目崇光(すこう)天皇後伏
応永二十六年六月十八日、1419年7月10日、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生されました。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇ま
【平成29年6月26日(月)参拝】大光明寺陵のあとは1ヶ月半ぶりの深草北陵へ栄仁親王は現在の天皇家に繋がる皇統で今回の巡礼で絶対に外せない重要人物です。栄仁親王墓は深草北陵にあります。栄仁親王墓御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区深草坊町京阪「藤森」駅伏見宮栄仁親王