ブログ記事52件
先週の土曜日に放送された『ブラタモリ京都・鴨川』(NHK)で、長年見たいと思っていたあの場所が取り上げられていました。それは二条木屋町の高瀬川の樋口、現在は某料亭の庭園となっている場所です。文久二年七月二十日の夕方のこと、安政の大獄や和宮降嫁問題に暗躍し、勤王の志士たちに命を狙われていた九条家の家臣島田左近は、木屋町二条下ル東生洲町の町家に潜んでいたところを薩摩の田中新兵衛らに襲撃され、塀を乗り越えて逃げたところを角倉(すみのくら)屋敷裏の空き地の、高瀬川の樋の口のあた
島田左近と島田魁との間に、実はかなり深い関係があった可能性がある・・・という考えを突き詰めていくと、もうひとつの可能性を考えてみたくなります。それは、二人が同一人物なのではないかということです。いうまでもなく、島田左近は文久二年(1862)に田中新兵衛らによって殺されているのですが、実は田中新兵衛は左近の顔を知らなかったばかりか、いざその時になって襲った相手に対して、「貴様が島田左近か」とわざわざ尋ねているのです。もちろん相手は「違う」と答えるのですが、すると新兵衛、「島田左近ならば九条家
島田左近や水野弥三郎と同様に、美濃出身で西本願寺と縁があり、幕府のために働いた人物がもう一人います。それは新選組の島田魁です。島田魁は美濃国方県郡雄総村(かたがたぐんおぶさむら。現・岐阜市長良雄総。旗本領)の郷士で木曽川奉行であった近藤伊右衛門の次男として文政十一年(1828)一月十五日に生まれました。のちに同国の石田村(中島郡。現・羽鳥市下中町石田。尾張藩領)の永縄半左衛門の養子となりますが、養父半左衛門死去ののち、厚見郡日野村(現・岐阜市日野。磐城平藩領)の川島嘉右衛門の養子となりま
名古屋のシンゾウです「いつも迷ってしまう!!」...何故でしょうか。私なんか中途半端に沢山のことを覚えようとしていますので、当たり前といえば当たり前なのですが、混乱の原因がハッキリする場合もあります。PC上に誤ったデータが登録されていることです。例えば、養蚕神社or蚕養神社、名月管弦祭or名月管絃祭等々です。公式テキストの誤りヵ所が正しく直してありませんでした。勿論、誤入力も沢山あります。自分で自分の首を絞めている感じです。「いつも迷ってしまう!!」と思ったら、データをもう一度確かめた
猿の文吉一家の本当の親分は島田左近だったのではないか、という話を『猿の文吉と都の闇(7)』で書きましたが、島田左近がやくざの親分だとしたら、どうしても関係を疑いたくなってしまうのが、濃州岐阜の親分“岐阜の弥太郎”こと水野弥三郎です。水野弥三郎は文化二年(1805)に美濃国厚見郡矢島町(現・岐阜市矢島町)に生まれました。生家の水野家は代々大垣藩に仕える医者の家柄でした。一方、島田左近の出身地に関しては諸説ありますが、以前記事に書いたように、美濃の出身と考えてほぼ間違いないものと思われます
さて、今回は少し妄想を膨らませた話をしたいと思います。文吉の家屋敷は高倉通押小路上ルにありましたが、実はそのすぐ近所で生まれ育ったとされる人物がいます。それは新選組の加納惣三郎です。加納惣三郎については、新選組の名簿に名前がないことから、実在の隊士であったかどうかに慎重に考えなければなりませんが、ここでは実在したと仮定して話を続けたいと思います。惣三郎は押小路通の裕福な商家の次男に生まれたといいます(『明治英雄情史』鹿島桜巷/大正3年)。押小路通は木屋町通から千本通
文吉はやくざの親分でありながら目明しとなって幕府に協力していたわけですが、その延長線上で考えると、これまでわかっていなかったその正体が推測出来る人物がいます。それは島田左近です。島田左近に関しては、むかしだいぶ書きましたが、出自が謎に包まれていること、京に来てから異常なほどの出世を成し遂げていること、殺害される直前まで無官であったにもかかわらず、義母千賀浦とともに九条家を牛耳っていたとされること、安政の大獄で文吉率いるやくざ者たちを手足のように使って志士の摘発に功を上げていたこと、そして左
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました
ちょっと順番が前後してしまいますが、京都において近藤勇の首が晒された場所について少し考えてみたいと思います。近藤勇の首が晒された場所に関してはよって余儀なく明治辰年四月二十五日誅戮いたされ、それよりアルコウルにて首をしめ、西京三条河原へ曝(さら)す。~『浪士文久報国記事』(永倉新八)近藤勇、のち板橋に於いて斬首し、首を京師に送り三條河原に梟首す。勇、往年京師に在り新選組の長たり。~『香川敬三事蹟』負傷治療のため横浜修文館にて静養中、東北地方征討のため諸軍出払いになって色々と
文久二年七月二十一日早朝、二条木屋町の長州藩邸裏の高瀬川に首のない遺体が浮かんでいるのが発見されました。その遺体は、東生洲町の妾宅で前日三人の武士に襲撃されたあと行方不明となっている島田左近である可能性が高く、京都町奉行所は、関係者として九条家の家臣二人と、左近の叔父もしくは伯父とされる、綾小路通大宮西入ル坊門町・聖徳寺住職の随誉(もしくは実正)を呼び寄せ、遺体を検分させました。そして、この左近のおじの聖徳寺住職の「膝の擦り傷あとや足の指の特徴に見覚えがある」という証言から、遺体が島
実を言いますと、古高俊太郎と越後浪士本間精一郎との関係も、非常に微妙なものがあります。まず、二人には梅田雲浜の下で活動していたという共通項があります。そしてもうひとつの共通項が輪王寺宮です。古高俊太郎は毘沙門堂門跡、つまり輪王寺宮の家来だったわけですが、本間精一郎にも輪王寺宮との接点が、わずかながら見て取れるのです。その要因のひとつについて、残念ながら出典が何だったのかをメモし忘れていました。ひょっとしたら本間を主人公とした小説『幕末の影武者』(作・有馬寛/恒文社/昭和61年)かと思
古高家と島田左近の「近さ」は、何も家屋敷の話だけではありません。左近は九条家の家臣でしたが、義母で愛人関係にもあったとされる千賀浦(ちかり)と二人、九条尚忠の厚い信任を得て、「九条家の事は大小となく、一に二人の意に出づ」と言われるほど専横を極めていました。古高俊太郎の妹・智恵の夫・田村勝剛は、その“島田左近の思いのままになっていた”九条家の家臣だった、というのは以前お話しました。それだけではありません。古高俊太郎自身にも左近との接点が見えます。古高俊太郎は、かつて烏丸家に家
以前、『池田屋事件の研究』を読んだ時は、事件そのものの経緯の方に興味が集中してしまい、古高俊太郎の出自や経歴に関するページは、ほとんど読み流していたのですが、今回あらためて読み直してみて非常に驚いたことがあります。それはタイトルどおり、古高家の住まいが「堺町通丸太町下ル」にあったという点です。弘化四(1847)年、古高俊太郎の父周蔵が山科毘沙門堂門跡の家来となると同時に移り住んで以降、文久二(1862)年に俊太郎が枡屋を継いで西木屋町の真町に転居するまでの間、古高家はずっとこの地に居住し続
武士となった田中新兵衛でしたが、悲劇はすぐに訪れます。久光一行に先行していた森山新蔵が、主命を待たずに勝手に上京したとして、西郷吉之助や村田新八と共に捕縛され薩摩に連れ戻されてしまったのです。更に文久二年(1862)四月二十三日、伏見の寺田屋に結集していた有馬新七ら薩摩藩士が、島津久光の命によりその鎮撫に当たった同じ薩摩藩士奈良原喜八郎らにより殺傷されるという事件が起こります。俗に言う寺田屋騒動です。この斬り合いで森山新蔵の息子新五左衛門も重傷を負い翌日切腹、その報を耳にした新蔵もま
清水寺の島田左近が建てた常夜燈の側に立つ四体の首のない石仏。アップにしたのが下の写真です。いずれも首の部分で切断されているのがわかります。中でも驚いたのが前列真ん中の石仏です。他のものは切断面がゴツゴツしているのに対して、これは非常に滑らかでした。わざわざ磨いたとも思えないので、この石仏は刀で文字通り一刀両断したのではないかと思われます。だとしたら、実行者は凄まじい剛力の持ち主だったかも知れません。やはり実際に左近本人を殺害した田中新兵衛が有力候補でしょうが、左近を狙い
安政の大獄で志士の弾圧に暗躍したとされ、一連の天誅事件の最初の犠牲者となった島田左近。その左近が寄贈した常夜燈が、安政の大獄で命を落とした、つまり弾圧された側だった月照・信海兄弟が住職を務めていた清水寺に今も残されている事を以前ブログで紹介しました。その側面には九条殿御家臣嶋田源龍章建立之と彫られています。さて、本題に入る前に一つ訂正させていただきます。以前、この西門前階段を挟んで立つ二対四基の常夜燈すべてが左近の寄贈したものだと
昨日は清水寺に行ったあとに大谷本廟に島田左近のお墓参りをしました。島田左近に関しては、また近いうちに書くつもりですが、それはさておき、昨日は以前からやってみようと思っていた事を実現してみました。それは大谷本廟の横を走る国道1号線を歩いて帰ることです。国道1号線には、狭いながらも歩道が設けられています。途中何人かのお年寄りと行き違いましたが、会釈してもみんな無反応でした。ちなみに、この国道1号線沿いには各寺の墓地や公営の火葬場などがあるので、あるいはお墓参りの帰り
島田左近が暗殺された文久二年当時、京都東町奉行所与力だった平塚表次郎(清影)の手記に「京師朝敵討伐血祭之巷説撮合」と題して、左近殺害の経緯が詳しく記されています。このブログでさんざん紹介してきましたので今更かも知れませんが、再度紹介したいと思います。安政の大獄で尊王攘夷派(もしくは一橋派)の検挙に暗躍した島田左近は、その恨みから浪士たちに命を狙われていました。左近は「木屋町二条下ル樋口」の黄檗山印房勝兵衛方の座敷を借りて潜んでいましたが、この場所は現在の東生洲町、二条橋の南側のたもと
千賀浦は、文久二年に起きた一連の天誅事件の最初の犠牲者である島田左近の義理の母にあたる人物です。本名(本姓?)は増田(『平塚清影雑集』による)というらしく、千賀浦というのは、どうやらかつて芸者だった時の名前のようで、どういうわけか島田家に嫁いだのちも千賀浦と呼ばれ続けていたようです。千賀浦は「ちかり」と読むらしい。ちなみに、千賀ノ浦(ちがのうら)ならば現在の仙台塩釜港の事を指しますが、何か関係があるのでしょうか。先日宮川町を訪れた時に偶然知ったのですが、この「千賀~」と
兄宗吉こと専海が町娘お久と恋に落ち、女犯の禁を犯してしまったのに対し、弟の八蔵こと蔵海は牛額寺の惠卓和尚のもと、仏道修行に精進していました。ちなみに、ここから先の話は、少ない史料の中で時系列が若干異なって書かれているので、客観的に見て、この流れがもっとも自然だろうと判断したものを書かせてもらいます。専海の師である惠卓は、すでに牛額寺を去り京都清水寺の(おそらく成就院の)住職となっていて、専海の弟蔵海が牛額寺の住職を継いでいました。が、その蔵海もやがて惠卓の招きにより京へと上って
島田左近が月照の弟である可能性、それを探る為には、まず月照の生い立ちを知らなければなりません。月照については、ウィキペディアに「文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生まれた」とあり、コトバンクに引用されている各百科事典にも「大坂の人」「大坂の町医者玉井宋江の子」などと書かれていますが、厳密に言うと、これは正しくありません。月照は讃岐国多度郡吉原村(現・香川県善通寺市吉原町)の農家竹森家の次男宗吉の長男として文化十年(1813)に生まれました。月照の父宗吉には宇八と
山伏の子で九条関白家に仕えていた島田左近が、なぜ宗派の違う清水寺に常夜燈を寄進したのか。その答えのヒントは、案外あっさりと見つける事が出来ました。清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。(ウィキペディア「清水寺」より引用)江戸時代の清水寺は真言宗の寺院でもあったのでした。また、左近が
島田左近はなぜ清水寺に常夜燈を寄進したのか、その謎に迫る前に、もう一度左近の生い立ちを振り返ってみたいと思います。左近の生い立ちに関してもっとも具体的な内容が記されているのは、おそらく明治26年発刊の『維新史談』(松村巌)でしょう。以下がその記述となります。『維新史談』より島田左近の出処島田左近はもと美濃の国、解魔法師(ヤマブシ)の子なり。長じて京師に出て聖徳寺に依る。その生母の此(これ)に在るを以ってなり。既にして報恩寺に奉公し、尋て烏丸家に奉公し、既にして九条家の臣島田
安政の大獄で一橋派の弾圧に暗躍し、為に天誅事件の最初の犠牲者となった島田左近について、これまで色々と調べてきましたが、その出自に関しては、むしろ調べれば調べるほど謎が深まってしまいました。特に謎なのが、左近が清水寺に寄進した常夜燈です。九条殿御家臣嶋田源龍章建立之(これを建立す)と刻まれたこの二対四基の常夜燈ですが、困った事に、寄進されたのが嘉永七年である事が常夜燈の裏側に記されているのです。嘉永
今回の京都行きは、個人的に大変大きな収穫がありました。ある場所を訪れた際に、ご厚意により昔の絵図面を見せてもらう事が出来たからです。それは島田左近暗殺の現場となった東生洲町全体の、各家の間取りまで細かく描かれたものでした。絵図面は明治になってから作成されたものでしたが、そこに描かれている町の様子は、島田左近暗殺事件に関する当時の史料に描かれた様子とほぼ完璧に一致し、幕末の頃のままの姿なのだろうと思われました。やはり左近がここで殺害された事を示す、非常に価値の高いものでした。
島田左近は正妻ゆかとの間に三次郎と彦の二男をもうけましたが、実は二人の間にはもう一人子供がいました。その子は女子で、二人にとって最初の子供だったようです。しかし、残念ながら大人になる前に死んでしまいました。島田左近の娘の墓は、西本願寺大谷本廟の南谷墓地に、父左近龍章の墓と並んで建っています。島田左近の娘の墓。左に傾いてしまっています。正面には「染香院釋真英童尼」と刻まれています。「童尼」は「童女」と同じく5歳から15歳ぐらいまでに亡くなった女子につける位号です
さて、「島田左近暗殺始末」は一応前回で話をまとめ、締めくくったつもりでした。そして今回、まだ紹介していなかった島田左近に関する二つの“ある物”を紹介して、それでこの話を終えようと考えていました。その二つのうちの一つが、京都を代表する観光名所である、清水寺の西門(重要文化財。現在改修工事中)に建つ常夜燈です。(画像はお借りしました)この写真の最前列に建つ四基ニ対の常夜燈が、実は島田左近が寄進したものなのです。ちなみに、今日撮ってきた改修工事中の西門前の写真がこちら
さて、島田左近とは一体何者だったのでしょうか。いきなりですが、これまで調べてきた事を元に、僕なりの結論を出したいと思います。それは島田左近とは、もともと島田正辰が幕府の隠密として長野主膳(井伊直弼の側用人)らと連絡を取り合う際に用いた変名であった。というものです。西本願寺の御家司筆頭にして九条家諸大夫であった正辰は、そのままでは疑われやすかったはずです。だからこそ、島田左近という別人があたかも九条家に仕えていた事にして、万が一長野主膳らと交わした書簡が尊王攘夷派の手に渡るような
「そもそも島田左近はいなかった」とはどういう事か。この事件の真相と島田左近の正体を考えていて、どうしても引っかかったのが、同じ九条家に仕えていたもう一人の「島田左兵衛権大尉」です。※.『雲上明覧大全』(安政六年版)より。九条関白家の家来。矢野遠江守までが諸太夫。島田左兵衛権大尉以下の五名が「侍」となっている。同じ『雲上~』の文久元年版を見ると、島田左兵衛権大尉の名はなくなっており、代わりに諸太夫として島田陸奥守が登場しています。※.『雲上明覧大全』(文久元
アレックス・ロッコのお墓お墓ネットネット上のお墓で、アレックス・ロッコさんのお墓参りができます。アレックス・ロッコさんへの想いを追悼のコメントとしてお届けいたします。高橋のぶのお墓お墓ネットネット上のお墓で、高橋のぶさんのお墓参りができます。高橋のぶさんへの想いを追悼のコメントとしてお届けいたします。5045六代目・中村伝九郎墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)drunkenjohnny-Muragon5045六代目・中村伝九郎墓(台東区谷中4-2-5・瑞輪寺)-