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【問題】【日本城郭検定3級】伊東氏と島津氏が長年争った城で、昭和53年(1978)に大手門が再建された城はどれか。【選択肢】人吉城飫肥城佐土原城岡城【正解】飫肥城【解説】飫肥城は廃城令で存城処分になっていたが、明治6年(1873)に大手門を含め城内全ての建物は取り壊された。他の城の現存大手門を参考にして、昭和53年(1978)に柱と梁で全体を支える在来工法で大手門は再建された。樹齢100年の飫肥杉4本が用いられている。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
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さっさとチェックアウト😤😤いらいらは事故の元。切り替えましょう〜今日は熊本から3号線を下って鹿児島まで走る。郊外に向けて走るのになんで渋滞?もう、イライラするやん!富合町に熊本総合車両所があるhttps://www.jrkyushu.co.jp/company/esg/kengakutai/見学出来るみたい。大人も楽しそう✨激安価格😄しかも甘〜い。八代の次がここ日奈久温泉昔、八代の花火師競技会行ってたころ、よく泊まった。山頭火も愛した温泉ですね。芦北、水
前回のブログ「高山町1~丸に十字の記号(心に降りてくる言葉)」の続きです。『高山町1~丸に十字の記号(心に降りてくる言葉)』ランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール…ameblo.jpランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール(アマネ・クルール)
【問題】≪難問≫島津氏の家臣・薬丸兼成は、次のうち何の達人といわれたか?【選択肢】神楽笛捕手術野太刀陰陽道【正解】野太刀【解説】薬丸兼成は島津氏の家臣で、野太刀(のだち)自顕流の開祖である。野太刀とは、3尺(約90cm)程度の刃長を持つ、実戦に使われた大太刀のことをいう。
ランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール(アマネ・クルール)・眞樹子です。メニュー・料金│アクセス│ご予約・お問合せ今回も、記録のためのブログ。あまりにも意味不明なキーワードだったので、スルーしていたのですが、スルーできない事案が発生。(←大袈裟w)まさかのみゆちゃんのブログ経由で、私が受取ったのと同じキーワードをキャッチしていることをブログで知った
昨日は、終了地点から一番近いビジネスホテルに泊まりましたが、設備もサービスも良かったです。繁華街には遠そうで、疲れてもいたので、コンビニ弁当を食べて、早々と休みました。始発のバス時刻が遅いので、タクシーを奮発して「石山小学校」まで戻りましたが、結構高額の支払いになりました。タクシー料金は、地方の方が割高に思いました。街道は、旧道から再度国道10号に合流し、歩いて行きます。流石に「都城の街」が近くなると、交通量が増えて来ます。「運動公園」の所を左折し、旧道に入ると「外城の一つ
テレグラム.EriQmapJapanより、Eriさんのポスト(旧ツイートの詐欺師・工作員情報)を一部抜粋し、共有させて頂きます。EriQmapJapan️️️️️️すべてのリンク:https://bio.site/EriQmapJapan_EriChat:https://t.me/+wgUQKKmwlBBmNGU1QAJFHP:https://qajf.netlify.app/https://www.buymeacoffee.com/okabaeriBt.me「EriさんのX[旧T
【問題】天正14年、島津氏と戦って敗れた筑紫広門は、次のうちどのように処遇されたか?【選択肢】肥薩国境で処刑された准一門格で登用された種子島に流罪となった筑後国内に幽閉された【正解】筑後国内に幽閉された【解説】天正14年(1586)、島津氏が大友氏を攻めるため北上すると、当時大友方であった広門はこれを迎え撃った。しかし、戦いに敗れて捕虜となり、筑後国内に幽閉された。
【問題】島津氏に仕えた東郷重位は、次のうちどの流派の剣術の開祖か?【選択肢】神道無念流天心流北辰一刀流示現流【正解】示現流【解説】東郷重位(しげかた)は、島津氏の家臣であり、剣豪としても知られる。京の善吉和尚の指導により日天真正自顕流を学び、薩摩に帰国後も研鑽を重ね、示現流の開祖となった。
多くのことを学ばせてもらっている「中世の足利学校と伊集院九華(大隅国出身)」https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/08/25/174927には、母方の家系である「税所家」が出てくる。かつて島津と闘ったことがあったとは・・・刊行が遅れている『税所一族千年史』(仮称)ではどんな風にこの部分が記述されているのだろうか。刊行が待たれる。*一度、拙ブログで書いたことがある。「霧島神宮と税所氏」を読み始める|嶺井正也のブログ(ameblo
2023.1.6のこと。道の駅都城に到着。この日、約300キロで9駅を回る強行な日程。HPやスタンプ帳では、午後6時まで営業となっていたが、この間コロナなどで短縮営業で、閉まっていたことも多かった。そこで午前中、夕刻になりそうな道の駅都城には、営業時間を問い合わせた。午後6時まで営業とのことで、安心して回れた。到着は5時前。ここで目を引いたのが、弓などの武具。駅の方に尋ねた。「ここは島津家の出身地だそうですが、そんな関係で武具の生産が盛んなんですか?」「このあたり、武具を作っていると
はい!奈央です。昨日は、西都市の黒貫寺(高屋行宮跡)、高屋神社(高屋宮)から移動して、都城(みやこのじょう)市のホテルに泊まりました。そして翌朝、都城市のホテルの窓から眺めた朝の景色です。深ーい霧!風のない朝水分を蓄えた霧が優しく街を包んでいました。きっと、今日は晴れるのでしょうね。ここ都城には、観光地や興味深い遺跡がたくさんあるのですが、今日一日しか宮崎を巡る時間がなく、今日中に、幾つかの目的の場所を廻った後、marineの仕事で再び熊本に移動する必要があるので、
<耐えがたきを耐え、、琉球国王➡臣下国土のため➡命どゥ宝➡DNAに>人を恨まない、非暴力、皆兄弟姉妹だ、命が➡アイデンティティへ琉球は島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、第二尚氏を存続したまま薩摩の間接支配を受けることになったのです。沖縄の歴史と文化»古琉球okinawanorekishi.net
『バテレンの世紀』を読んでいると、1)アラブ人・イラン(ペルシャ)人商人がアフリカ東岸からインド西岸まで、2)インドのグジャラート商人がインドネシアのマラッカ海峡まで、3)それ以東のベトナム、フィリピン、中国、日本までは中国の広州・福建商人らの倭寇(明王朝の許可を得ない武装商人)、と、それぞれが規模が大きく広域ではあってもエリア・プレイヤーであるのに対し、ポルトガルは規模は小さくても全てのエリアにまたがるグローバル・プレイヤーであったと感じる。そしてポルトガルの快進撃に
インタースコア(inter-score)という編集技法がある。相互棋譜、二つ以上のスコアを重ね合わせて新しく見えてくる情報を読み解く、というものだ。今、オスマン帝国史とインド洋海域史と北条氏と島津氏の年表をexcelに入力し、なにか見えないか探ろうとしている。島津氏は元となる年表が載った本が手元にないのでこれからだが、他の年表については入力し終わった。島津史については比較的新しい『島津四兄弟の九州統一戦』から暦象データを取り出そうかと思っている。オスマン帝国史をなぜインター
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が一段と面白くなってきました。長年鎌倉の近くに住んでいながら、これまで頼朝の墓は訪れたことがありません。北条義時や大江広元の墓も近くにあるとのことなので、9月の下旬の一日、3人の墓巡りに鎌倉へ行って来ました。歴史の素人には驚くことの連続で、ついつい長文になってしまいました。まずは、年初に七福神巡りでも訪れた宝戒寺に立ち寄りました。ここは、鎌倉幕府最後の執権北条高時が一族郎党870余名とともに自害して果てた鎌倉幕府滅亡の地です。その北条一族の
手子塚城に行った後に近くに長沼城があったのを思い出し寄ることに。手小塚城から車で10分位の場所に長沼城はあります。台風19号によって信濃川の堤防が決壊したのが、長沼城付近でした。現在もその時の爪痕が残されています。下の写真は長野市長沼支所で、窓の所がコンパネ養生されていますね。当時の状況を物語ってます。入り口にあった大きな石も倒れたままでした。支所の駐車場に停めさせていただき、周囲を散策することに。こちらは守田神社で新しくなってました。守田神社から土手側を見ると、発掘調
<千両の実が・・・>FUSAN78がつづられているブログ『上荒田日記(続)』をよみ、「惺窩は京都からどうやって大隅国の南端、内之浦まできたのだろう?」という疑問がわいた。『その62藤原惺窩が内之浦港にいた1週間』1596年夏、儒学者の藤原惺窩が、大隅半島(鹿児島県)の南端近くの内之浦港に1週間滞在した。この時期は、うちには関ケ原の戦い〈1600年〉の直前であり、ヨーロ…ameblo.jpそこでネット検索してみたら「海からみた鹿児島の歴史」(untitled(jcca.or.j
箕輪城の次に訪れたのが、今回の目的地である手良野口の春日城、野口春日城です。現在山に重機が入っており、木々が伐採されているとのこと。山の保水力が無くなって崩れる前に行っておくしかないということで訪れました。車は駐車場が判らず、この鳥居のすぐ横のスペースに停めています。てなわけで、先ずは野口八幡神社へ。少し進むと城跡らしい地形が現れました。いやぁ、立派な堀切だ。と思ったのですが、流石に宮坂先生の縄張り図には記載されていないので違うでしょうw写真左側を登って行くとハイキン
修論、能登を書いているのですが、北信濃に憩います。矢筒城の出入口構造矢筒城は2011年に歩いていて、その時の私には城郭遺構がよくわからなかった。11年も前かぁ。で、11年の時を経て、出入口構造(下図赤囲い部)を確認しに、再チャレンジ遠藤先生の(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」における評価この虎口は、形態は直方体形虎口で、入り口には段状構造が設けられ、形の面からは上杉氏領域の天正期の形式である。ただし、虎口部を形成する土塁に石材が使用され
前に投稿しました緩木高城に引き続き、緩木城も訪問しました。「高城」の際にも書きましたが、緩木城へのルートは祖母山など周回コース上にあるので、登山道もしっかりあります。(石ゴロゴロな場所も多いですがピンクリボンの提示があり、人の往来もあります)まずはスーパー地形にて。緩木高城から一見縦走できそうですが、途中の尾根は断崖絶壁なので行けません。こうみると結構ありますよね。あのぽっこりでてるのが緩木山、緩木城があるところ。途中、「シャー!」な光。フォトジェニックな光景を観つつコンクリートの林
〖蔓延防止対策も明けましたが、まだまだ警戒しましょう〗⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫【戦国庵】紋次郎のオリジナルアイテム通販↓こちらから!↓【戦国庵】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞〖ケータイ国盗り合戦国盗りクイズ〗【本日の問題】木崎原の戦いが行われた「木崎原古戦場跡」は、次のうちどこに所在するか?◎宮崎県えびの市○鹿児島県湧水町○熊本県人吉市○大分県佐伯市答え:○宮崎県えびの市【解説】「木崎原(きさきばる)古戦場跡」は、宮崎県えびの市に所在する。伊東氏の軍
【問題】天正8年、島津氏により大隅高山の所領を召し上げられ、薩摩へ移されたのは次のうちどちらか?【選択肢】肝付兼演肝付兼護【正解】肝付兼護【解説】肝付氏は大隅の大名で、兼続の代には島津氏と激しく争ったが、兼護の頃には島津氏に屈し、薩摩へ移された。兼演(かねひろ)は庶流で、島津氏に従い大隅国加治木を領した。
7世紀初頭、聖徳太子の送った遣隋使の返礼として隋の国から裴世清が渡来した当時、中国周辺の国々は『すべからく蛮国だ』と認識していた裴ハイ世清は『和国も同様だろう』と思っていたが対馬を過ぎ筑紫を通って豊の国→今の宇佐や田川地方に来たところ人びとは華夏カカと何も違ったところなくどうしてこの国を野蛮な国というのか不明であると隋書に書き残したこの豊の国こそ古くは物部王国応神よりのちは秦王国であったのちに、英彦山ひこさんに豊国法師が現れ『鷹と鹿の伝説』が残った豊の
「許されざる嘘」もう第11話になりました。こうしていると「あっ」という間に終わってしまうのだろなぁと思います。伊豆での流人時代から石橋山の合戦、安房へ逃れて、鎌倉に入り「鎌倉殿」になりました。今回のタイトルは「許されざる嘘(うそ)」沢山のうそが飛び交いましたが、「二つの嘘」◎義経が義円についた嘘◎伊東祐親に対する嘘うそと嘘の境目は義時がいう「じさまはかえってきません。」でしょうか?三浦義村のじさまがどうして急に死んだしまったのか?絶対に変だと思っているし…常
草なぎ剛がまるで皇帝ナポレオン演じる15代将軍の慶喜が和装から洋装に衣替えENCOUNT7月4日放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(日曜午後8時)の第21回もさまざまな動きが盛り込まれ、見どころ満載だが、視聴者の多くは衣装にも...柳楽優弥×有村架純×三浦春馬「映画太陽の子」試写会に800名招待PRTIMESそんな折、建物疎開で家をおわれた幼馴染の世津(有村架純)が修の家に住むことになり、時を...監督・脚本:黒崎博「ひよっこ」「青天を衝け」頭脳戦かつ奇襲作
薩摩半島西岸に位置する南さつま市といえば、坊津町が有名。唐の高僧・鑑真和上が日本上陸を果たした地で立派な鑑真記念館もあるのだが今回は割愛した。先ず目指したのが加世田の竹田神社で、以前、私が鹿児島を訪問して印象深く残っていたので是非、皆に見て頂きたいと思ってのことだった。島津氏中興の祖といわれる島津忠良公、のちの日新斎(じっしんさい)ゆかりの場所で、永禄7年(1564)島津忠良が再建した日新寺が、明治5年に廃仏毀釈で破壊され廃寺となり、翌年そのあとに、忠良を祀る社として建てられたのが竹田
中世前半の武士は「一所懸命」という言葉に代表されるように所領に根を下ろして土着しているイメージがあります。一言で言えば領地経営者でしょうか?実際の武士は広範囲を移動する存在で、本拠地近隣以外の土地も領有していると一族なり代官を派遣することになりますし、そうでなくとも京都に出仕して公的な権威(官位や権門との主従関係)を後ろ盾にすることが求められていました。そして京都で出会った朋輩とのネットワークを築き、海路で遠方とも交易をする存在でした。本書は千葉氏や島津氏など長距離を移動してい