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志布志城(Ⅰ)志布志市志布志町帖創設年代・・・・平安時代創設者・・・・・畠山直顕形態・・・・・・平山城遺構・・・・・・曲輪・土塁・堀切・石垣・井戸等シラス台地を迷路のような空堀と堀切で固めた城!ポイント志布志は日向と大隅の国境の要衝であり、軍事・海運・商業の中心で海上・陸上の交通の要所、物流の要所である。城は内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭で構成されている。主城の内城は、南北朝期までは本丸と矢倉場のみで、新納氏の時代に中野久尾・大野久尾を拡大し
いぶすき菜の花マラソン大会のブログを書くにあたって、SNSを検索していると、驚くべき史実が次々と分かってきました。まず、島津家は鹿児島の豪族ではありません。鎌倉幕府の御家人でした。惟宗忠久と名乗っていました。源頼朝に気に入られて1185年大隅国、薩摩国、日向国の下司職に任じられたのです。大隅国、薩摩国、日向国というと、近衛家の領地で、島津荘と呼ばれ、日本最大の荘園でした。(凄い!)その後、惟宗忠久は、2代目、3代目と島津荘の地頭、守護職に就くようになり、島津家を名乗るようになりました。
1月10日、住吉大社に参拝してきました。普段からよく呼ばれる住吉大社ですが、お正月は凄い人が集まるので、三が日には行きません。😅この日も参拝者は多かったのですが、人が沢山写りすぎたので上の写真に写った人は消しました。海の神お祓いの神安産の神昨年出産予定だった知人に住吉大社のお守りをプレゼントすると、とても喜ばれました。無事に出産されたので、この日はお礼も伝えてきました。住吉大社は旧官幣大社であり、摂津国一宮。全国の住吉神社の総本社です。本殿に参拝したあと、摂末社、境外末社にも
去年は11月12月といろんなことで怒涛のように過ぎていきブログも数週間遅れのアップなどタイムラグが多くまだ下書き保存に4つ、5つ?いや、遡ればまだ下書きがあるかもしれません年は変わりましたが2025年の下書きブログからアップしていけたらと思っておりますどうぞよろしくお願いします「島津」と聞くと薩摩や鹿児島を思い浮かべるかたが多いのではないでしょうか島津亜矢さんを思い浮かべる人もいるかも実は、島津は宮崎県都城ととても深い関わりがあ
【問】鎌倉時代に、将軍源頼朝と御家人島津忠久という関係で結ばれ、800年以上を経た現在でも市民有志の交流が続くなど歴史的な縁が深く、また両市共に美しい海岸線を有しているなどの地理的特徴や、国際観光都市として発展しているなど多くの共通点があることから、2023年(令和5)に鎌倉市と文化・観光交流協定を締結した都市はどこか。(第19回2級)2023年(令和5年)12月26日、鎌倉市は鹿児島市と文化・観光交流協定を締結しています。☆☆☆☆☆島津忠久は、薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。
長戸今回は梅雨の中休みの6月28日に書き始めた、と。千佳近畿以西は梅雨あけしているんですよね。豚白このまま降水不足も怖いが、8月雨ばかりって年もあったからそれも心配だ。それでは始めよう。長戸前回は相撲見物が目立っていたな。豚白1227年4月13日、地震が起きた。千佳今回もこういうスタートですか。豚白これとは別に、前日までの天変等を理由に泰山府君祭が行われている。長戸陰陽師の出番からだな。豚白4月16日、最近は急死する人が多いからと、供養を御所でも行うことになった
上の記事の続きです。4月14日に安産祈願で有名な中山寺に呼ばれたあとも、出産と誕生のサインが続きました。誕生のサインでワタシがすぐに思いついた神社は、しょっちゅう呼ばれている住吉大社です。先月も呼ばれたのにまた?って感じですが、大阪・関西万博も始まりましたし、神々の守護力を高める為にも定期的に祈りに行く必要があるのかも?と感じ、行って参りました。なんせ住吉大社は大阪を代表する神社ですし、摂津国一宮です。全国に2300社ある住吉神社の総本社。海の神・お祓い厄除けの神・安産の神です。大
こんにちは、スタルペスです。「薩摩びと、いかにやいかに、刈萱(かるかや)の関もとざさぬ御代(みよ)とは知らずや」江戸時代の終わり頃の寛正4年(1792年)、諸国を行脚して勤王を説いて回った、高山彦九郎(たかやまひこくろう)が、この場所で薩摩の入国を拒否された時に詠んだ句です。※ここが野間の関です。彦九郎は古代の大宰府にあった刈萱の関を引き合いにし他藩では自由に通行させているのに、薩摩藩はどうなっているんだと訴えたといいます。そして2週間、米ノ津の宿屋に留め
前回の続きです。今回は三浦一族の墓から大江広元の墓です。前回の北条義時法華堂の平場です。下図し付近です。Google地図です。三浦一族の墓の前に来ました。穴に近づくと三浦一族の墓です。この穴のことをやぐらと言います。墓石が風雨に晒されないのでいいですね。(ストロボ撮影しています)解説板です。鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏は、1246年(寛元4)に名越(北条)光時が前将軍頼経と謀って執権時頼を除こうとした事件に、泰村の弟光村が荷担していたこ
長戸9月は晴天が多かったが10月は雨の日が多いみたいだな、と感じさせられる10月4日に今回は書き始めた。千佳どんな月になるのかはまだまだ始まったばかりでわからないけどね。豚白未来のことはわからない。だから歴史を学ぶ。それでは始めよう。長戸前回は【得宗】北条義時の遺領相続の話をしていたなあ。豚白1224年9月9日、【関東の宿老】足利義氏に数ヶ所の新恩を与えている。千佳数ヶ所の新しい領地を与えたということですよね。長戸北関東の実力者である足利氏を懐柔するためなんだろうな。
先月末、ソウルファミリー6名が集結し、兵庫県の戸隠神社・肝川龍神・来見社に参拝したあと、流水堂でランチを楽しんできました。↓この日運転してくれたEちゃんの親戚が、なんと肝川龍神の近くに住んでいるとのこと。縁のある多田神社にも参拝したいとのことで、最後に多田神社に向かいました。🚙多田神社は、肝川龍神から車で10分ほどの場所、川西市にありました。女優の松下奈緒さんは川西市出身だそうです。Wikipediaを読んでいたら、ワタシの妹と同じ誕生日(2月8日生まれ)でビックリ。『2月8日
・亀田俊和氏の『南朝の真実』、『高師直』を買った書店で購入する。・野口実氏の著書を読むのは初めてである。・日本を移動する武士たちの動向について書かれている。「土地に根を下ろす」武士像は一面的な見方であることを痛感する。・平安武士=都会的なセンスを兼ね備えていて政治経済を知悉している殺し屋と言うべきか。従来、歴史的な造形作品にたいしては、美術的ないし有職故実的な視角からの考察ばかりがなされてきたきらいがある。しかし、アプローチ次第では個々の造形遺物は無限の情報を語ってくれるはずであ
鎌倉散策源頼朝墓がある階段を下りて再び階段を上ります。史跡法華堂跡(北条義時墓)源頼朝墓の東側の平場で平成17(2005)年に発掘調査を行い建物の遺構が発見されました。発見された遺構の位置が鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位や地形と一致したことから遺構は北条義時が祀られていた墳墓堂「北条義時法華堂」の跡であると推定されています。前回訪れたのは何年前になるでしょうか?そのときは急な階段を上ることが可能でした。北条義時墓の平場の北側には2列の石
お出かけblogゆっくりボチボチと更新中入来峠付近お出かけblog⑤鹿児島市花尾神社鳥居に㊉の印が参拝見事な造り♪島津忠久が建立した花尾神社本殿が絢爛豪華であることから日光東照宮に例えてさつま日光とも呼ばれている格子天井には草花の絵401枚が描かれていて美しい本殿横㊉島津家代々の守護神稲荷大明神春日大明神神社は木々に囲まれていてパワーをもらえました朱塗りの社殿が素晴らしくとても素敵でした
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…西御門来迎寺界隈の次は北条義時の墓のある場所へ…鎌倉にはあちこちに案内板が有って助かりますこの階段を上がりますが急階段です燈籠と鎌倉殿の13人の幟旗北条義時の法華堂跡と義時の墓義時の墓は、この石碑のみです源頼朝の墓所より東へ100メートルの所に法華堂跡と北条義時の墓が有ります源頼朝の死から25年元仁元年(1224年)北条義時は死去しました頼朝の法華堂より東の山に、新たな当時の権力者である北条義時の新法華堂が建てられ、葬られたと吾妻鏡には記録が残
台風の住吉大社さんオオアメニモマケズお詣り続けますSさんは初住吉大社参拝えらい日に初めまして。一生忘れないだろうなぁ今回ご一緒することになったSさんとは、四柱推命のお勉強仲間。Sさんの四柱推命の命式の柱には、「辰」が3つ並んでいる。そんな命式をお持ちのSさんなので、ぜひ次回は住吉大社さんの初辰さんへと初辰さんのお詣りの仕方をご案内しながら順番は違うが楠珺社、種貸社、浅澤社、大歳社を巡った。(※初辰さんのお詣りは
久々に、ガイドブックに出て来る王道の鎌倉。頼朝の法華堂(墓所)の次は、すぐ隣の斜面のこちら。大江広元&毛利季光親子と、島津忠久のヤグラ。↓ヤグラとは、鎌倉特有の中世横穴墓。斜面に三つ並んだヤグラの、一番右側は、島津忠久。前の記事(源頼朝の墓)でも書いたが、幕末に御家の正当性をアピールしようとしていた薩摩島津家が、頼朝の御落胤等という噂の有った初代・忠文の墓所を探し出し(ww)、石造りの玉垣等を整備したという物。↓中央は、『鎌倉殿の13人』にも出て来た鎌倉幕府の重臣・大江広元の
こんばんは~今日は、先日スマホ容量不足のせいで消えてしまった、記事のリベンジになります!先日から不定期連載でお送りしている昨年のお出掛け記事。「鎌倉殿」の鎌倉文字どおり大河ドラマ「鎌倉殿の13人」縁の地を中心に、鎌倉を訪問した時の記事になります。出掛けたのは12月20日。もう年末モードになり始めていた頃で。寺社ではその時期らしい光景もありましたが。幸いにまだ紅葉も残っていて写真もたくさん撮れた一日でした🍁さて、源頼朝のお墓参りをした後には、お隣の北条義時の法華堂
北条義時(1163~1224)・・・鎌倉幕府第2代執権。江間小四郎と称す。源頼朝挙兵のときから父・時政と共に各地で戦功を挙げ、頼朝の信任を得る。時政失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。承久の乱で朝廷方を制圧し、幕府権力を確立。「鎌倉殿の13人」の主人公。11月末の平日鎌倉日帰り旅・・・まだまだ続きます。前回の記事・・・『【み】源頼朝(みなもとのよりとも);鎌倉日帰り旅行⑦』源頼朝(1147~1199)・・・鎌倉幕府初代将軍。源義朝の
前回からの続き(10月15日)のことになります長香寺を後にして、再び高倉通りを下り、五条通りを越えて、富小路通りを下って行きますこの日最後に訪れたのも令和4年度京都浄土宗寺院特別大公開のお寺になりますこの日10ヶ所目、トータル12ヶ所目となります新善光寺があるとこから、もう少し下った左手の奥に山門があります極楽寺住所・京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町540御本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)札所洛陽四十八願所地蔵めぐり(46番)すっかり忘れていたのですが、こちらには以前伺って
厚木市小野にある小町神社から始まった追跡劇ですが、その後の調査から分かった事を加えると次の様になります。①比企尼は元々は京都に居た。②丹後局は吉見系図によると「無双の歌人」だったそうです。③丹後局は惟宗広言との間に産まれた子が「島津忠久」となった。④比企尼には三人の娘がいる。⑤長女の丹後局は惟宗→安達へと嫁いでいる。⑥次女は河越へと嫁いでいる⑦三女は伊東→平賀へと嫁いでいる⑧次女の娘が「源義経」の妻となっている。これらの情報を図に起こすと次の様になります。最初は初
10月30日(日)、上總介塔~朝夷奈切通~光触寺と巡った後は、『久々の鎌倉(壹):鼻欠地蔵・上總介塔・朝夷奈切通・光触寺』10月30日(日)、鎌倉へ行ってみることに。奈良へはほぼ毎年行っているのに、我が家から徒歩でも1時間余で行ける鎌倉を訪ねたのは、2013年3月に当時鶴岡八幡宮…ameblo.jp更に歩を進め、浄妙寺、報国寺、杉本寺といった古刹・名刹は割愛し、かねがね見てみたいと思っていた「永福寺(ようふくじ)跡」へ。それから荏柄天神社の前を通り、久々に源頼朝の墓へ。そして10
階段を下りて東へ約30m行ったところで同じような階段を上ります。位置関係ややこしいのでGoogleマップのお力拝借。少し開けた所で先ほどと同じ碑。結局、北条義時公の墓碑があるわけではありませんでした。法華堂にお墓があったのでこの一帯がお墓ということみたいです。お堂の建物跡を示すものがありました。代わりという訳ではないですが、洞穴(やぐら)には三浦泰村以下三浦一族の墓。義時の良き理解者風に上手く立ち回っている三浦泰村ですが・・・説明板には「鎌倉殿の13人」の
北条義時法華堂跡には、三浦氏一族のやぐら、更に奥には鳥居があります。神社があるのかな…鎌倉幕府政所初代別当の大江広元の墓。大江広元大江広元(生年不明~1225年)は鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物です。幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家(朝廷の貴族)出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えました。広元の墓のすぐ左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四
法華堂跡には、源頼朝や大江広元などの墓があります。今回は、島津忠久の墓所を巡ります。鎌倉殿の13人では、出てきませんでした。島津忠久とは鎌倉初期の武将。島津氏の初代。「島津家譜」などの系図類によれば、源頼朝の庶長子、母は比企能員の妹丹後局で、近衛家の家司惟宗広言の養子とするが疑問。近衛家の家司出自説が有力である。生年については1179年(治承3)説があるが不詳。姓は惟宗、のち藤原とも称した。1185年(文治1)6月、伊勢国須可荘・波出御厨地頭職に補任、以降、島津荘下司職・信濃国塩田荘
何だかあっという間に夏休みが終わりました宿題がたくさんで丸つけや見守りが大変でした特に絵がもう何枚描くのと思ってました今年は天神祭もあり賑やかな夏休みでした陸渡御は実施し、船渡御や奉納花火は中止奉納花火がなかったのは残念でしたが170年ぶりに新調した三ツ屋根の地車も曳行されて2年ぶりに活気ある天満さんでしたこれから祭事を実施するところが増えていきますコロナもなかなか収束せずにいますがお祭りは途絶えてはいけないと八坂さんを見て思いました
鶴岡八幡宮の付近に点在する鎌倉武将の墓石を散策しました。源頼朝墓⬇三浦義村墓やぐら⬇源頼朝墓北条義時墓⬇大江広元墓⬇毛利季光墓⬇島津忠久墓⬇
8月8日(月)北条義時の墓参りのあとは、更に階段を上がって大江広元、毛利季光、島津忠久のお墓へ段数は56+34の合計90段途中で二ヶ所を繋ぐ連絡通路があります。大江広元は旧姓中原、晩年、大江姓を名乗るようになったようです。元々は貴族であり、兄と頼朝の縁もあって、後に鎌倉幕政のナンバー2として幕府を支えた功労者ですここは供養塔のようです。江戸時代に長州藩によって作られましたが、本当のお墓は十二所の山中にあるようです。毛利季光は広元の四男で、季光は毛利家の祖。山口県出身なのですが初めて知
8月8日(月)15時10分鎌倉の西御門にある北条義時の墓にお参りして来ましたこの石段は48段足が縺れていた私には少し恐怖を感じました大江広元・島津忠久・毛利季光のお墓は、更にこの先の階段を90段上がらないといけませんこちらが北条義時法華堂お墓今度、詳しく調べてみますしかし、今から7世紀以上も前の住居跡が残っているなんで、普通じゃ考えられませんよね。そして、法華堂近くには三浦氏が供養されているやぐらがあります。13世紀の日本では、親兄弟でも殺してしまう世の中だったようで、わたし
●島津忠久(丹後内侍)の家系図(番外編)(丹後内侍たんごのないじ。比企掃部允・比企尼の長女)◎比企掃部允(ひきかもんのじょう)&比企尼妻・比企尼(惟宗忠康の親族?)(源頼朝の乳母)長女・丹後内侍(夫・源頼朝)島津忠久(落胤説)(夫・惟宗広言)養子・島津忠久(夫・安達盛長)養子・島津忠久◎惟宗朝臣(これむねのあそん)惟宗忠友(八文字民部太夫)(出自不詳)惟宗忠康妻?