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大僧正天海(270)【島原の乱⑧】しかし、いつしか陣中に「板倉の失策続きに、どうやら幕府は見切りをつけたらしい。」との噂が広まっていった。12月28日、各藩家老と持久戦で臨むことを打ち合わせたその夜に、重昌のもとに兄・重宗から早馬が届いた。「新たに上使として老中・松平伊豆守が下向する。これでは武士の面目が立たぬ、到着前に何とか城を落してくれ。」この手紙に重昌は愕然とした。自分の立場はそれほど危ういのであろうか。続けて、大政参与の井伊直孝
大僧正天海(269)「こと成れば栄を子孫にのこし、成らざるもまた老境の一快なり。」と思って始めた一揆が、よもやここまで大事になるとは、甚兵衛も伝兵衛も思いもよらなかった。「これも神のお導きだ。」と伝兵衛は言うが、甚兵衛は微塵もそうは思わない。甚兵衛にとって基督教は、人を動かすための方便に過ぎなかったのである。「今の幕府や大名に一泡吹かせたい。」甚兵衛の心の底には宿痾の如く固まった怨念があったのだ。重昌は城内からの矢文に返事はしなかった。
大僧正天海(268)「四郎を巻き込んだのは済まなかった。」と伝兵衛は言うが、今更の話である。「事ここに至れば、致し方ない。それより、いかにしてこの局面を打開するかだ。」と甚兵衛は答える。二人は天草・島原を席巻し、長崎を落し、北九州を制して、山陽道を進む構想を持っていた。甚兵衛は宗教的熱狂とは無縁の男であった。一揆勢が戦勝に浮かれている中、冷静に戦況分析していた。「本来であれば、幕府に不満を持つ、西国大名や牢人衆が決起してもよさそうなものであるが…。」と伝
大僧正天海(267)立花軍は一揆勢の猛攻を受けながらも一歩も引かず、攻め続けた。そこで重昌は、松倉軍に対して「直ちに立花軍を救援する」ように命じた。ところが、松倉軍は「たとえ応援しても、立花家の手柄になるだけだ。」と考え、いい訳程度の援軍しか出さなかったのである。そこで、軍目付であった府内目付の二人を松倉軍の陣に派遣したが、家老の岡本新兵衛に助勢を断られたのであった。この度の攻撃は、立花軍と鍋島軍が先陣であったため、有馬軍と松倉軍の動きは誠に低調だっ
島原の乱の最後の総攻撃では幕府軍は女も子供も殺したからこの絵巻の女子供の集団埋葬は幕府軍の犠牲者かと思っていたが、一揆側が口減らしのために殺害していた遺体だそうだ。3万いた一揆は最後は2万だったらしいが、脱出投降した1万人も殺害されたかと思っていた。幕府側は殺してはいないが、島原に住んではいけないとして東北に移住した者の子孫の方がコメントしてるのを見た。広島市可部町の農民(裕福だったろう)で信仰心の篤い男が人夫として動員され、惨状を目撃したトラウマ
大僧正天海(266)「天草の徒党ども明けしりぞき、居り申さず候につき、島原へ御人数つかわさるべしと肥後様(細川光利)より、仰せただされ候。その上にて、御越し候の儀ご無用と仰せられ候はば、御了簡なき儀に候。」(「綿考輯録」)「天草の一揆勢はすでに撤退し、どこにもいないので、我らは島原へ軍勢を出すべきであると細川光利から仰せがあった。それなのに上使から『来るには及ばぬ』といわれては、こちらの忠義をご理解いただけていないということだ。」細川光尚(光利は初名
大僧正天海(265)【島原の乱⑦】12月10日の10時頃、待ち切れなくなった征討軍は、上使の指示もないまま勝手に原城攻撃を開始したのであった。鉦や太鼓を打ち鳴らせながら、鍋島・松倉軍は大手口と搦め手に殺到したのである。両軍は銃撃しながら、勇躍堀際まで迫っていった。一揆勢はこれを充分引き付けると、頭上から一斉に鉄砲を放ったため、次々と死傷者が堀に転がり落ち、両軍の進撃は阻まれたのである。これを見た重昌は、「即座に之を踏み破る事は難儀ゆえ、一旦引き
大僧正天海(264)「一、一揆側の女や子供、およびこちらに敵対しない者は、斬り殺してはならないこと。一、一揆の者たちが、味方になりたい(投降したい)と言ってきた場合は、そのまま(陣中へ)通して受け入れること。十二月五日石谷十蔵(貞清)板倉内膳正(重昌)」上記の命令書は、いささか甘い。幕府征討軍の前に、投降するものがいる前提で命令書を出している。あれほど、兄・重宗から忠告を受けていたのにも関わらず、まだ宗教一揆の恐ろしさに気づいていなかった
大僧正天海(263)さて、もう一つ気づくことは、天草勢の少なさである。本渡の戦い8,800名、富岡城攻めでは12,000名であった天草勢は、島原勢の救援部隊2,300人を引いても、9,000余名はいたはずである。それが、原城に籠ったのは、たった3,000人であった。しかもその半分以上が女子供となっている。籠城軍を37,00人とすると占有率は10%未満である。多くの農民にとって、海を越える決断は難しかったのであろう。この籠城出来なかった人々が、後に隠れ切支丹に
今年は作家司馬遼太郎没後三十年の節目の年である。ということで文春のユーチューブチャンネルで月一、司馬の特集をやっている。四月は東出昌大とAマッソの加納愛子がそれぞれの推しの司馬作品を熱く語っていた。大変面白い回だった。私が司馬の小説をよく読んだのは十代から二十代前半にかけて。それ以降、司馬小説は全く読まなくなった。それについて何か理由があったかとは思うが、それは思いつかない。強いてあげれば私の歴史に対しての興味が司馬が書いてない時代に移ったからなのかもしれない。このことは司馬の歴史小
大僧正天海(262)食糧庫を訪れた有家監物は「おお、これは壮観だな。」と山のように積み上げられた米俵に歓声を上げた。島原勢を率いてきた監物は、本丸大将に任じられている。「5000石か、これだけあれば食料は、当面大丈夫であろう。」と宗意軒に同意を求めた。「一人が一年で一石を食べるとすると、5千人で1年、1万人で半年、3万人で2か月、という所だ。できるなら、もう少しは集めたいが、米が難しければ、魚や海藻を集めるしかあるまい。」と宗意軒は冷めた表情で説明した。「
大僧正天海(261)「城内にこもり申し候浪人、四十人御座候。年頃は、五、六十ばかりの者どもにて御座候。かの牢人ども、何方よりこもり申し候か、在所の儀は存ぜず候。」(「右衛門作口書」)大量の土石が運び込まれ、溝を掘り、城の外側には塀が巡らされ、二歩ごとに銃座を設けた。特に塀は厳重に作られ、松木数千本を一丈にそろえ、三尺を埋めた。横木を二本差し、竹束で柵を設け、板で打ち付けた。本丸の中央に四郎のための礼拝堂を建てた。同年代の小姓と共にそこで祈りを捧げるのである。
大僧正天海(260)【島原の乱⑥】11月10日、江戸を出た板倉重昌は、16日には伏見に着いた。わずか7日で京都に入ったことになる。京都所司代である兄・重宗は、『今回の任務は、容易なことではない。生きては帰れないのではないか。』と懸念していた。「内膳、これはただの百姓一揆ではない。宗門との戦いは、命を懸けた戦いと心得よ。」といい、上使が小勢では侮られると思い、自らの手勢300名を重昌に預けたのである。重宗は、淀川まで重昌を見送ると、「遺髪」を遺す
大僧正天海(259)翌日から、江戸城は大騒ぎになっていた。「どうやら、再び征討使が派遣されるらしい。それでは先に派遣された板倉内膳の面目は如何なさるのか。」「一揆は数万に膨れ上がり、手が付けられないらしい。誰を派遣するつもりなのか。」太平の世に慣れ親しんだ旗本たちは、誰一人火中の栗を拾いたいとは思わなかったのである。さて、大久保彦左衛門忠教は、この時すでに78歳であった。もはや晩年といって差し支えないが、毒舌は衰えていなかった。寛永12年(163
大僧正天海(258)両目付は「知っている」はずの、説明を聞いて大いに驚いていた。それを見て、細川家の家老はただ呆れていた。「これは恐らく、江戸からの下知が来るまでの時間稼ぎでしょう。」そこへ、天草の本渡で大きな野戦があり、富岡城代・三宅藤兵衛が戦死したとの一報が入ったのである。これに両目付は顔色を失った。「天草がこれほどまでに甚大な被害を蒙る事態になった以上、もはや軽々しく手出しができる状況ではない。いよいよ上意を待って行動すべきである。天草の件につ
大僧正天海(257)城攻めの惣奉行を務めた森宗意軒は、その夜の軍議に出席し、城攻め継続を主張したが、同意は得られなかった。「もうすぐ松倉長門守が小倉に入る。その後に幕府の征討使がやってくる。そうなれば、鍋島藩も細川藩も参戦するであろう。ここで一揆勢が分散していては勝機がない。そこで一旦有馬に引き返し、戦線を立て直すことにした。」と益田甚兵衛が説明する。これは蘆塚忠右衛門も同意していた。「口惜しいのは理解できるが、富岡城はさほどの重要拠点ではない。島原
大僧正天海(256)その夜、一揆勢は軍議を開いた。「戦勝の勢いで城攻めに入ったが、いささか見通しが甘かったようだ。」と天草側の大将であった益田甚兵衛は、苦虫を嚙み潰したように言った。「物事には勢いというものがある。やむを得ぬことだ。それより、何か策はないのか。」と大矢野松右衛門は、森宗意軒に尋ねた。「時はかかるが、弾除けの竹束を作る他あるまいな。」と宗意軒は答えた。「うむ、全員で取りかかれば、半日もあればできよう。城攻めに参加できるものは限ら
大僧正天海(255)【島原の乱⑤】敗走した唐津軍は、富岡城に逃げ帰った。そして、すぐに原田伊与、並河太左衛門、三宅藤右衛門らが軍議を開いたのである。「敵は大軍であるから、ここは一旦唐津に引き上げよう。」という意見が大半であった。しかし太左衛門は、「この城を一揆勢に渡すことは断じて許さない。籠城して最後の一兵まで戦うべきだ。」と強く主張し、議論は行き詰った。そこで、敗死した藤兵衛の嫡男である藤右衛門に意見を求めたのである。「父、藤兵衛は雑人どもに
大僧正天海(254)「十五以上の者は召し連れ候へ、十四以下の子供は男女とも召し連れ候こと無用の由、山野に捨ておく事もならず、十四以下は淵これある所に夜々連れ行き、刺し殺し、水底に沈めたる由なり。」(「細川家記」)その頃、天草一揆勢は上津浦城跡に6500名が集結していた。一揆勢は村々に基督教改宗を迫り、改宗せぬものは皆殺しにした。天草の一揆は宗教一揆であり、異教徒に対しては実に残虐であった。このため、殺されたくなくて上辺だけ改宗したものも多数存在したのであ
大僧正天海(253)もちろん、私はそうは思っていない。緊急対応に追われ繁忙を極めた家光が、わざわざ自ら天海の宿坊を訪れるとは、よくよくのことである。ましてやこの時、天海は102歳である。将軍としてもっとも気力に溢れていた時代の家光が、今更何の助言をもらうというのだろう。私の古い読者であれば、家光が訪ねた理由は、わかるはずである。家光は、一揆が天草に及んだと聞き、仰天したのであろう。天草の番代(城代)は三宅藤兵衛重利であり、外ならぬ天海(明智秀満)の実
大僧正天海(252)「(寛永十四年十一月)十二日使番松平甚三郎行隆は、いそぎ肥前島原にまかり、一揆騒乱のさま巡察して来るべしとめいぜられいとま給ふ。」(「大猷院殿御實紀」)翌12日、この日も、島原擾乱の注進が相次いだのである。家光は少し心配になり、松平行隆を島原に遣わした。この日、保科正之、酒井忠当、松平定行、松平定房が領国に戻るため、あいさつに来た。13日になると江戸在府の九州大名、細川忠利(肥後国熊本)、黒田忠之(筑前国福岡)、木下延俊(豊後国日
大僧正天海(251)この日、柳生宗矩は有馬豊氏の邸で猿楽を楽しんでいた。寛永13年(1636年)宗矩は、大和国柳生藩を立藩し、その時、総目付(大目付)を辞している。このため、恐らく島原の乱の評議には参加していなかったのであろう。その席で、豊氏から「肥前国高来郡」の土民蜂起を聞かされたのである。「苛政に苦しんだ松倉の土民が、耶蘇教を奉じて蜂起したそうだ。どうやら、追討使には、板倉内膳正が選ばれたようで、すでに今日の未明に発向したらしい。」という。すると
大僧正天海(250)【島原の乱④】さて、人間には「脊髄反射」という機能がある。生体の危機回避のため、大脳を経由せず、脊髄が直接命令を出す防衛反応である。もし、幕府が「脊髄反射」するとすれば、大坂城代と京都所司代が揃う畿内であろう。しかしこの時、両職の権限が曖昧で、十分機能しなかったのである。このため幕府は、乱後に大坂城代を「西国の司令官」と再定義し、軍事指揮権を明確にしている。11月8日、江戸の島原藩邸に一揆の一報が入った。松倉勝家はすぐに江戸
大僧正天海(249)細川藩は、まず小左衛門と小兵衛を脅して、嘘の書状を書かせた。「甚兵衛殿と四郎殿が一旦宇土にお帰りならねば、我等は天草に戻れません。」父・伝兵衛には「甚兵衛殿と四郎殿がそこに居られては、当地も迷惑でございます。お二人を当国へ戻されますよう。」と書き綴った。これに対して伝兵衛の返書は「甚兵衛殿と四郎殿は、現在長崎にお越しである。」というものであった。「島原の様子、追々申し上げ候ところに、御下知しだいに仕るべきの由、かしこみ奉り存じ候。
大僧正天海(248)府内目付は小禄で、九州の大大名に気後れしていた。このため諸大名からの催促と幕府の御法度の間に挟まれ、何の決断もできなかったのである。「加勢の儀は、とかく江戸より御下知あるべく御座候間、そのうち彼の者ども、何とぞ静まり申す様の手立てあるまじく候や。かようの儀は、各藩のうち御一人出で候て、御相談あるべく儀と存じ候。」(「細川家史料」)「加勢については、いずれにせよ江戸から下知があるはずです。それまでの間、あの者共を、どうにかして静めさせるため
大僧正天海(247)天草の一揆は、静かに進められていた。26日には、すでに大矢野の浄土寺が焼討されていたのである。27日には、渡辺小左衛門(伝兵衛の子息)が40~50人の農民を連れて、「宗門への立ち帰り」と「転び証文の返還」を求め、栖本郡代・石原太郎左衛門の役宅に押しかけた。28日に、三宅藤兵衛は、本渡、志柿、島子方面へ斥候を出している。藤兵衛の家人・山本五郎兵衛、亀井六郎右衛門が大矢野の異変を聞き付け、小島子まで行くと、庄屋善左衛門が農民を引き
大僧正天海(246)「態々一筆啓上せしめ候ここもと百姓ども切支丹にわかに立ち上がり、一揆の仕合にて村々焼き払い、城下まで焼き申し候。下々の儀に御座候へども、人数五、六千ほど御座候。隣国の儀に御座候間、さっそく御加勢下さるべく願いたてまつり候。」(「綿考輯録」)島原の三家老は、恥を忍び熊本細川藩や佐賀鍋島藩等に救援を依頼した。島原城下には各地から一揆勢が続々と集まり、すでに5~6千人程になっていた。城下の住民は北目の村に避難したという。監物と五郎左衛門
よく食べるおすすめパンは?▼本日限定!ブログスタンプ我が家は毎朝パン食ですね…🍞😋「パンの記念日」1842年(天保13年)伊豆国(静岡県)の韮山代官において西洋流兵学者・江川太郎左衛門英龍が軍用携帯食糧として「兵糧パン」と呼ばれる「乾パン」を作りました。乾パンは少年工科学校時代に消費期限ギリギリの物が支給されて土日のおやつでした…😁「世界宇宙飛行の日」1961年(昭和36年)世界初の有人宇宙衛星船・ソビエト連邦のヴォストーク1号が打ち上げられました…🚀ヴォストーク1号は地球を
大僧正天海(245)【島原の乱③】一揆勢は、庄屋邸まで追い詰められていたのに、突然、島原軍が退却したことが不思議でならなかった。しかし、間もなく布津・堂崎・有家村から援軍が到着したのである。五郎左衛門が「武器や鎧が雲泥の差だ。今の装備ではどうにもならん。」と嘆くと、忠衛門は「それは致し方あるまい。我等は数で押すしかないであろう。」といった。ところが、監物はまた違った感想を持っていたのである。この深江合戦で、一揆勢は100人ほど死んだ。一方で島原軍も
大僧正天海(244)10月26日、岡本新兵衛と多賀主水は、陸上部隊を引き連れて島原城を出た。先頭は長柄隊、次に弓隊、鉄砲隊と続き、両家老と馬廻り衆、後詰は平槍を持った徒侍、小荷駄隊と続いたのである。総勢は300名、鉄砲は70挺であった。「全く面倒をかけおって。百姓どもが、どれほどのものか。五・六人も死ねば逃げ出すであろう。」「所詮は烏合の衆に過ぎず、恐らく戦にもなるまい。」と両家老はしきりに農民らを罵ったのである。一方、有馬村には武装した村人たち