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るそんべえです。1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。メンバーは、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎、加橋かつみの4人でした。そんな中、メンバーは、専属ボーカルの必要性を感じたようです。そこで、「サンダース」で、ボーヤ兼ボーカルをやっていた沢田研二を勧誘。そんな中、テレビ番組「ザ・ヒットパレード」の出演するためにディレクターのすぎやまこういちと会います。すぎやまは、彼らに「大阪から来た、それじゃあ、タイガースだ」と言って、改名したとか。そのころ流行ってい
ご来訪ありがとうございます😊ファファファさんからのリブログです…いつも変わらず素晴らしい記事です…半世紀前が…今のことのようです…
森本太郎さんブログ更新です🎵京都の北野中学校の同窓生瞳みのるさん岸部一徳さん太郎さんのと3人で九州ライブを敢行なさいます❣️この仲良しの3人からザ・タイガースが始まったのです❣️ピーとタローが仁和小学校のクラスメートでピーとサリーが北野中学でクラスメート!サリーとタローは同じ中学ながら知らなかったと言います!ピーが言うには僕らは北上しタローは難航していたのか南行してきた🤣そしてタローが言うには河原町通り蛸薬師通りかな?とか…3人の偶然の出会いは縁を紡いで
20240915夕アルバム「チャコール・グレイの肖像」全曲感想のラスト曲。サリーさん作詞の「あのままだよ」をめぐって。曲の音源、映像等は、使っておりません。チャンネル登録といいねをぜひお願いします。藤谷のXかYouTubeでご覧下さい。来週からは、新しいアルバムを取り上げます。藤谷蓮次郎2024年9月15日
「青い鳥」ザ・タイガースザ・タイガース1967-1968-レッド・ディスク-Amazon(アマゾン)ザ・タイガース1968-1971-ブルー・ディスク-Amazon(アマゾン)良品ザタイガースTHETIGERS20HISTORY2LP~沢田研二岸部四郎加橋かつみ岸部一徳森本太郎銀河旅行にほジュリー歌手グループサウンズタイガースAmazon(アマゾン)
ザ・タイガース・サウンズ・イン・コロシアム(Live,1970.8.22)RecordedandShootedLiveatthe田園コロシアム,東京,August22,1970THETIGERS『リサイタルサウンドinコロシアム』1970年8月22日(土)田園コロシアムより凄まじいライブです。00:00素晴らしい旅行02:40スージー・Q06:41アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー11:13MC11:40ルート66!14:17ドッグ・オブ・
仕事終わって、帰宅してテレビのチャンネル回しても見たい番組やってなくてBSの番組表見てたら『ジュリー観てるよ』通販CMに、見たことのあるCDが出てきたので記念撮影。黒い方はもってません。後年、レンタルしましたけどね(ゝω・)沢田研二様BSTBS様素敵なテレビ番組を…ameblo.jp6月に放送してたジュリーの特番を再放送しているというではないか!言っといてほしかったなあ、TBSぅ~。慌ててチャンネルを会わせると番組は後半も後半・・・(>_<)ちくしょうめー。岸部一徳さんの言
前後編でお送りするビートルズの特集観ましたよ。だいだい知ってる話ばっかしでしたが、「そうそう!」「だよねー!」とか言いながら観てました。リトル・リチャードが取り上げられてましたが岸部一徳は出ませんでしたよ。(^ー^)
「81年1月、解体が決まった有楽町の日劇(日本劇場)で行われた、「日劇最後のウエスタンカーニバル」における、「奇跡」とまでいわれた2日間だけの再結成が大好評だったため、翌年本格的に再結成。あわせて行われた全国ツアーの模様を収めたライブ盤LP3枚組(82年5月発売)。このときのメンバーは、沢田研二(Vo)、岸部一徳(岸部修三。B,Vo)、加橋かつみ(G,Vo)、森本太郎(G,Vo)、岸部シロー(Vo)。ドラムの瞳みのるは、日劇のときに続いて今回も不参加ではあっ
3枚目のシングル「モナリザの微笑」(67年8月発売)の発売から間もない67年8月22日、東京・サンケイホールで行われた、初めての単独ライヴを収録した、ザ・タイガースの初めてのアルバム(67年11月発売)。メンバーは、沢田研二(Vo。当時19歳)、加橋かつみ(G,Vo。同19歳)、森本太郎(G,Vo。同20歳)、岸部修三(B,Vo。同20歳)、瞳みのる(Dr。同21歳)。この時点でのタイガースは、「僕のマリー」(67年2月発売)、「シーサイド・バウンド」(
編年順再公開1968年10月シングルJ=ビートエッセイ98793ザ・タイガーストッポの象徴性「廃墟の鳩」をめぐって沢田研二「廃墟の鳩」(1968年10月)作詞・山上路夫作曲・村井邦彦編曲・村井邦彦ザ・タイガースから一曲。トッポ(加橋かつみ)離脱の二つ前のシングル「廃墟の鳩」。彼らにとって自信作のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』(1968年11月)
ひとつ前の当ブログで、萩原健一さんが沢田研二さんと組んだ「PYG」について堺正章さんに「1+1が10、20になるどころか0になってしまったんですよ」と語り、「ただ、歌に関しては僕は沢田とは張り合えない。客が入っていなくても、ファン同士が喧嘩していようが沢田はいつも一生懸命歌っていた。『歌が命だ』と言って誠実に歌っていた」と称賛していた話を書きました。このショーケンとマチャアキの対談が放送されたのは2018年11月19日、TBSで放送された「歌のゴールデンヒット~年間売り上げ1位の50年~」とい
ひとつ前の当ブログで書いたように、萩原健一さんの推薦で『太陽にほえろ!』の音楽を作ることになったときは、「井上堯之バンド」はまだ「PYG」名義だったそうです。井上堯之さんと大野克夫さんが在籍した「スパイダース」は次々にヒットを出し、映画にも出ます。(スパイダース映画については当ブログ5月29日をご覧ください)やがて、GSブームの退潮とともにスパイダースは1971年1月の「日劇ウエスタンカーニバル」のステージを最後に解散します。他のGSも次々に解散したその年、スパイダース、タイガース、テンプタ
「看板ボーカリストの沢田研二と並ぶ人気者だった、トッポこと加橋かつみの脱退に象徴されるように、一気に下火になっていったGSブームのなかで行われた、いまはなき田園コロシアムにおける解散目前時の2枚組ライヴ(71年発売)。メンバーは沢田研二(Vo,Per,Dr)、森本太郎(G,Key,Vo)、岸部修三(B,Vo)、瞳みのる(Dr,Vo)、岸辺シロー(G,Vo)。前半は得意の洋楽カバー、後半はほぼすべてのシングルヒット曲と、解散を意識しているかのように多くの曲が演奏され
タローさん貴重な写真のご紹介ありがとうございます🥰🥰
1月24日50年前武道館でザ・タイガースが解散ラストライブは”ビューティフルコンサート”このライブが当時どれだけのことだったのか後追いYouTubeファンのMAMADAISUKIは知ることができないけれど…2011年のほぼタイガースの武道館公演を見て北側の3階席まで埋まる客席を見たときああこのグループはすごかったんだと知った初めて一人でコンサートに出かけたのは多分同窓会コンサートでそれをブログに書いたのがきっかけでタイガースファンの数名の方がご連絡をくださり銀座タクトに
音楽雑誌「ミュージックライフ」で73年からはじまった国内アーティストの部門別人気投票で1位に輝いたのは大野だけであったが、74年には堯之、岸部、大野、そしてジュリーが堂々の1位を獲得、ドラムでは元メンバーの原田が4位、大口ヒロシが3位(田中清司は圏外)であった。しかしバンド自身の単独行動がなかったこともあってか、グループ部門でベスト20位にもランクインされなかった。続く75年では堯之バンドとして9位にランクイン、堯之、大野、ジュリーは連続1位、岸部は4位に後退した。(ドラムは原田4位、大口9位)
ジュリーは1974年11月発売のシングル「愛の逃亡者」はイギリス、翌年の「巴里にひとり」でフランスへと海外へ進出をはかる。暮れに日活で初主演映画の「炎の肖像」が封切られ、人気歌手役で主演(偶然にも役名は後にドラムで参加する“鈴木二郎”と同姓同名)。過激なラブシーンありのワイルドでダーティーといままでとは真逆な役柄だが、冒頭インタビューや堯之バンドと実際に行なったライブ映像を使用しているため、どうしても実在のジュリーとオーバーラップしてしまう中途半端な映画のように思える。音楽は堯之と大野が担当
日テレアウトロー路線だった「傷だらけの天使」。製作費も超低予算で濡れ場や暴力シーン満載なのは当時中学生だった私が茶の間で親とみるにはキツかった。結局低視聴率に苦しんだ末、2クール目から義理人情路線に軌道修正で人気回復、私も毎回安心してみることが出来た。前半100%見ていないのであいまいだが、オープニングタイトルは数パターンのバリエーションがあった気がするので調べてみると、とあるショーケン・ファンのサイトによると第7話まで、1.牛乳をぶっかける2.牛乳を口からこぼす3.修が画面から消え
74年9月、ジュリー5枚目となるアルバム「JEWELJULIE~追憶」が発売される。ラストの「追憶」以外はジュリー&堯之バンドのメンバーの手によるオリジナル曲、大野克夫がチーフ・アレンジャーを務め演奏は堯之バンドと、仮にPYGが存続していたなら「JULIEIV今僕は倖せです」は2nd、これが3rdアルバムに値するだろう。曲目は1.お前は魔法使い(詞曲:沢田研二)2.書きかけのメロディー(詞:沢田研二/曲:大野克夫)3.親父のように(詞:岸部修三/曲:速水清司)4.ママ
1974年6月9日、メンバーチェンジ初のレコーディングは「太陽にほえろ!」の新刑事“テキサス”他のテーマ曲録音を、また同時期に「傷だらけの天使」の劇伴レコーディングも行っている。この時期あたりから、大野はハモンドに加えて“ファルフィッサVIP500”のキーボードをレコーディングに使用しはじめる。9月OAの“テキサス刑事登場”のシーンに使用されたのは傷天用に録音された「天使の太陽」。75年発売されるアルバムには傷天曲として収録されているが、92年発売の「太陽サウンド・コレクションVol.1」にレ
PYG~堯之グループのドラマーであった原田裕臣が74年6月頃に堯之バンドを脱退する。岸部とは最強のリズム隊、特に「太陽のほえろ!」でのスリリングなグルーヴ感あふれるドラミングは原田ならではのテクであった。後任には候補の中から“田中清司”が決定する。田中は井上陽水、よしだたくろうなどのバックや歌謡曲のスタジオワークなどで売れっ子ドラマーで、69年にはスパイダースの田辺昭知の後任としても名前があがったほどの腕前。ライブ初登場は6/29の渋谷公会堂「ニッポン放送20周年コンサート」であった。74
今まで情報が全くなかった「太陽にほえろ!一周年記念主題歌集」のレコードを入手できたのでご紹介。OA開始から“13日の金曜日マカロニ死す”と“ジーパン刑事登場!”の時期が一周年にあたる。推測だがマカロニ時代に企画され、ジーパン登場後の募集、プレゼントされたものと思われる。制作はポリドールでディスクNoはDI1216、ステレオ音源の6曲が収録。ジャケットには「一周年記念主題歌集」の横には「作編曲・大野克夫演奏・井上堯之バンド」とクレジットされ、写真はボスとジーパンが大きくクローズ・アップ、他
「太陽にほえろ!」はジーパン刑事の人気も上々、堯之バンドが演奏するメイン・テーマのレコード化を望む声も高くなる。放送開始1周年にあたって番組視聴者プレゼント企画に100枚限定で「1周年記念主題歌集」レコードのプレゼントを募集をしたところ、なんと数十万もの応募が殺到、1974年5月には待望のレコード化が実現する。動いたのは制作する東宝のグループ会社“東宝レコード”、当初乗る気ではなかったのか?堯之バンドと契約しているポリドールは、他社から発売されるのはまずいと思ったのか遅れて販売が決まる。なお発
この動画初めて見ましたヾ( ̄o ̄;)(//∇//(//∇//(//∇//)ああ…リアルタイムで観たかったo(TヘTo)
1974年ジュリー&堯之バンドは前年と同様に大阪フェス、日劇での「沢田研二ショー」でスタート。大阪からギターに“速水清司”がメンバーとして参加、堯之バンドは5人となる。速水はスパイダクションに所属していた元「チューリップス」のメンバーで、「ジプシー・ブラッド」時代にミッキー・カーチスのプロデュースでアルバムを1枚出しているが、ミッキーに紹介したのが堯之だったという。速水の参加で、堯之とは違った持ち味のギター・プレイは勿論ではあるが、高いファルセットのハーモニー、後にソングライターとしてジュリー
3年11月、ジュリーは「危険なふたり」で歌謡大賞受賞、年末のレコード大賞は残念ながら大衆賞で終わったもののソロ・シンガーとして大躍進、一方ショーケンはドラマ、映画で大活躍。逆にPYGとしての活動価値が失われた年でもあった。ショーケン不在から苦肉の策的にはじまった“ジュリー&堯之グループ”。ファンから見れば“PYG5/6”、いつの日にかまた6人が揃う場所を残していたかようにも思えたが、74年から堯之バンドは完全にジュリーのバック・バンド及び劇伴のバンド専念という形となっていく。当の堯之の本音とし
73年ジュリー+堯之グループの主なライブ活動としては、7月の浅草国際でワンマンショー、8月は梅田コマ(4日間)のショー、10月には中野サンプラザ(5日間)で行われ、内容は全般的にオールディズR&Rやシングル、アルバムからの選曲であった。PYGでは決して自分たちの過去の歌を歌うことはなかったが、ジュリーのソロのコンサートではタイガース時代の曲を取り上げることが多かった。71年の初めての日生劇場や72年の各地のコンサート、73年の日劇ワンマンショーではメドレー形式で9曲、神戸では「ラブ・ラブ・ラブ
73年5月、富山、金沢のロックフェスティバルに堯之グループとして参加、そして6月20日には“太陽にほえろ!”のレコーディングに入る。マカロニ刑事に変わるジーパン刑事用のテーマ曲の録音のためであった。ショーケンは製作スタッフになにかと自分の意見を通そうとしてきた。刑事が主役を殺してしまうアイデアはジュリー出演の「そして、愛は終わった」で実現したものの、若者にありがちな性的犯罪がないことに何度抗議しても取り上げないスタッフに不満が積み重なり、73年に入ると自ら降板を申し入れる。スタッフは高視聴率の