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続いて検察官からの尋問がありました。事故についての質問についてはほとんど全てに記憶にありませんと回答していました。そして何より許せないと思った事は、償いについて質問された時に何も考えてない家族で力を合わせて乗り切りたいと答えたことです。私の父を惨殺し、母を半死半生にしたことは『乗り切る』ことと述べたのです。まるで、ちょっとしたトラブルに遭遇しているような、そんな態度でした。検察官:被害者に対して申し訳ないという気持ちはあるか?岩瀬:もちろんある検察官:何が申し訳ないと
ドライブレコーダーが流れた後、加害者弁護士からの被告人尋問となりました。要約すると、事故の約10分前からの記憶は無い眠気を催した覚えもないので居眠り運転ではない供述調書は警察が想像で作ったものということで、完全否認の主張でした。これを聞いている間、怒りのあまり私はずっと体が震えていました。岩瀬徹郎の目の前には、遺族の私がいます。でも、彼には私の姿は目に入らないのか、1度も謝罪もありませんし頭を下げることさえありませんでした。また、謝罪をしていないことをこちらのせいにしてきました。
第二回公判では、まずは加害者後方車のドライブレコーダーと岩瀬徹郎のドライブレコーダーが公開されました。後方車の方が『前の車なにしてるん!?』『ふらふらしてるなー』『(危ないから)離れていよう…』と呟かれているくらい、岩瀬のトラックはふらふらふらふらと、路肩にぶつかりそうになったり対向車線にはみ出したりしていました。そして、とうとう逆走したままノーブレーキで両親の車に激突していく様子が映っていました。【路肩にぶつかりそうな様子】【被害車両に激突する様子】ブレーキランプは付いていな
く最近かなり忙しくなってしまい、更新が滞っておりました。少しずつ、進めていきたいと思います。2023年1月24日、第二回公判期日となりました。この日の内容は、・加害者車両、加害者後方車のドライブレコーダーの確認・被告人尋問・被害者遺族の私の意見陳述でした。実はこの第二回公判日の前日に、FAXで岩瀬徹郎から被害者参加人の私と、弟宛に謝罪文が送りつけられました。保釈から4ヶ月経過しており、被告人尋問の直前で送って来ていることから、情状酌量を求める為の小道具であることは明らかでした。
第一回公判での岩瀬徹郎の供述を受けて、こんな理不尽には耐えられない、両親にこれだけの苦痛を強いておきながら、当の加害者が知らぬ存ぜぬで良いのかと考えるようになりました。そこで私は、SNSやメディアを通じてこの事故のこと、居眠り運転がどれ程危険なのか、加害者の不誠実さで遺族がどれ程踏みにじられるのか、発信していくことにしました。また、岩瀬徹郎にも届いて、自分が奪ったのは人間の命で遺族は悲しんでいるんだ、自分の言動で苦しませてるんだと気付いて欲しかったのです。そして願わくば、両親に謝罪し反省の
第一回公判が終わった次の日、本当は良くないと理解しつつもどうしても我慢ができず、岩瀬徹郎を雇用している春日物流の社長に電話をしました。岩瀬についている弁護士は会社が用意しています。なので岩瀬の突然の否認は会社も絡んでいると思ったからです。電話には、マネージャーとして働いていた社長の妻が出ました。社長に変わって欲しいと何度も何度も伝えて、渋々社長に変わりました。・岩瀬が自分に非はないと言っているのは知っているのか・会社もそう考えているのか・私の両親に、申し訳ないと感じないのか・遺族の
2022年12月15日、第一回公判期日がありました。事故からおよそ、3ヶ月後です。覚悟していたよりずっと早く起訴され、早く裁判が開かれることにほっとしていました。私は被害者参加制度を利用していました。この日、初めて岩瀬徹郎の顔を見て、声を聞きました。まず最初に、起訴状が読み上げられました。居眠り運転による交通事故であり、速度超過(15㎞オーバー)しながら対向車へと正面衝突させ、1人を死亡、1人を高次機脳傷害が必発すると見込まれる重傷を負わせた過失運転致死傷罪である、といった内容です。
裁判には、被害者参加制度を利用することにしました。岩瀬徹郎は、春日物流が保釈金を払い事故後2週間ちょっとで保釈されていましたが、全く連絡はありませんでした。裁判に参加するにあたり、事故の詳細や岩瀬の供述など知っておくために、担当検察官の方と面会することになりました。検察官の方から、事故現場のおよそ10㎞前から蛇行運転が始まっており、本人は早く帰りたかったから眠気があったけど走り続けた、仮睡状態に陥って反対車線に飛び出した、居眠り運転で間違いないと供述していた、と教えていただきました。岩瀬
母は日々、少しずつ回復してくれました。しばらくすると、文章はたどたどしく、誤字だらけだけれどLINEも来るようになりました。自分の状況は理解できていないのか、『知らない場所にいる』『帰りたい』といった内容で、心が本当に痛かった。自分達が事故にあったこともわかっていないようでした。父のスマホも大破していたのですが、新しい機種にしてアカウントを引き継ぐことができ、父のLINEにも母から『会いたい』『どうしてる?』と毎日連絡が来るようになりました。看護師さんのご協力で、ビデオ通話がで
関東に戻り、仕事にも復帰し、周囲の気遣いもいただきながら何とか過ごして2週間程経ちました。事故からおよそ1ヶ月経ち、母の意識が回復してきました。徐々に、でありましたが、簡単な指示(手を動かす)に反応するようになってきたのです。命も危なく、意識が2度と戻らない可能性もあると言われていたので、奇跡でした。主治医の先生も、とても驚かれておりました。医療従事者の方々と、頑張ってくれた母に心の底から感謝しました。これ以降、母の意識がはっきりする日が増えて、起きている時間には看護師さんが私が送った
事故から2週間程、忌引きと有給休暇を使っていましたが、いよいよ関東に戻らなければならなくなりました。意識不明の母を置いて、遠い関東に戻ることは心が引き裂かれそうでした。しかし、私も生活があるため、仕事を辞める訳にはいきません。本当に辛かった。このまま会社を辞めた方が良いのか、でもそうしたら生活費はどうなるのか、でも母を一人残していいのか、ずっとぐるぐる考えました。結局、母を支えるためにも収入の維持が不可欠と結論付けて、自宅がある埼玉に戻ることにしました。帰りの新幹線の中、ずっと涙が止ま
お葬式が終わって、弁護士さんを探すことになりました。もちろん、弁護士を探すなんて初めての経験です。弟の知り合いからの紹介で頼むことになったのですが、詳しく記載することはしませんが、個人的には失敗したと思うことになります。被害者にとって、代理人となる弁護士さんはとても重要です。熱意が無かったりコミュニケーションに難があったり…。しかし、弁護士に依頼する経験がある人はほとんどいないでしょうし、複数を比較している時間も無いのでこればっかりは運、不運なんでしょうね。
昨夜は加害者関係者達が通夜に来ましたが、結局焼香することも謝罪もなく、母の容態を聞いてくることもありませんでした。本当に何をしに来たのか、私達遺族が消沈している様子を嘲りに来たのかと思うくらいでした。加害者への憤りが増す中、お葬式となりました。全く晴れやかな気持ちで父を送る事ができなくて、今でも申し訳なさでいっぱいです。今までの感謝と、親孝行が全然できていなかった謝罪、そして未だに意識が戻らない母を、どうか守ってと祈り、父を見送りました。お葬式が終わり、遺骨を持って実家に帰りました。こ
お通夜の日になりました。事故から3日目…。依然として母は意識不明の状態で、家族の私達も現実を全く受け入れられないままにお通夜の日を迎えました。この日は、父の遺品の整理を少し行いました。父はお城巡りと御朱印集めが趣味で、沢山のお城のスタンプと御朱印がありました。一緒に棺に入れてあげようかとも思ったのですが、父が長年一生懸命集めたもので、それを見られなくなるのは悲しくて、残させてもらうことにしました。棺には、特に感動したと自慢していた西西表島と、立山登山他、家族の写真を沢山入れました。父が
午後、父が自宅に帰って来ました。うちは自営業だったので、一階は駐車場、二階は事務所で居住部は三階でした。エレベーターも無いのに、葬儀屋の方々は丁寧に父を自宅まで連れて来てくれました。棺の中で、父の顔は綺麗でした。まるで、普通に眠っているよう。葬儀屋の方が、言いづらそうに、『普段はいつもお休みだったお布団までお運びするのですが…どうされますか?』と言われるので、何となく、父の体の状態は察しました。父の体を確認できますか?と聞くと、少し沈黙の後、『お顔はそこまでお怪我が無かったので、綺麗にさ
事故の概要を聞きに、警察署に向かいました。この事件の担当の警察官の方が対応して下さいました。そのタイミングでは岩瀬徹郎の名前、供述内容等はお伝えできないと、とても心苦しそうにされていながら、それでも私の両親に落ち度は一切無かった。相手がノーブレーキで、逆走状態でまっすぐに両親の車にぶつかりに行っていた、と教えていただきました。絶対に罪は償わせる、そのために、捜査に全力を尽くします。お母様が1日でも早く意識を取り戻されることも、心から祈っています。と私の目をしっかりみて言って下さいました。
この日もほとんど眠る事ができませんでした。例のスーパー銭湯のオープンは7時。父と友人はいつもオープン時間に行っていたと聞いたので、オープン前の6時30分くらいに行ってみると、もう何人かが待っておられました。一人一人に、父の名前を知らないか聞いて回ると、協力してくれる人も現れたお陰で、2人の友人を見つけることができました。2人とも、大変驚かれ、言葉を失っておられました。明日通夜、明後日お葬式をすることを伝え、よかったら父を見送って欲しいとお願いすると、2人とも来てくれることになりました。私が
私も警察署で話を聞きたいと思い、電話をしました。担当の警察官に繋いでいただき、次の日の23日の午前にお約束をいただきました。夫は1度、埼玉に戻ることになりました。一睡もしていないこともあり、車はこちらに置いて、新幹線で帰ることにしました。私は実家の自分の部屋で休むことにしましたが、全く眠れる気はしませんでした。父は近所のスーパー銭湯が大好きで、朝のオープン時間に2日に一回通っていたこと、そこで仲が良い人達ができて、自宅に招いて焼き肉をしたことなど聞いていたことを思い出して、警察署に行く前
母に面会してから実家にどう戻ったのか、記憶がありません。夫が連れて帰ってくれたんだと思います。気付けば夕方でした。昨夜、埼玉を出発する前に会社の上司にメールで連絡をいれていましたが、その後何も報告していなかったことに気が付きました。会社携帯を確認すると、上司からの連絡、顧客からの連絡等いくつかきておりました。上司に電話すると、すぐに出てくれて、とても心配して下さっていました。しばらくそちらには帰れそうにないことと、顧客への対応などをお願いしました。こちらのことは何も気にしなくていい、ご両
母が搬送された病院は、京都の病院でした。集中治療室に行き、母の姿を見ました。たくさんの機械と、チューブに繋がれた姿でした。たった2日前に、LINEで他愛もないことをやり取りしていた私の母は、本当に目の前の人なのだろうか。そう、思いました。医師から、外傷性クモ膜下出血、脳挫傷により脳が腫れている状態。他にも頸椎骨折、肋骨3本骨折、肺挫傷、トラックに挟まれたことによる右足骨折、右ふくらはぎの皮膚壊死があると説明されました。自発呼吸も無い状態なのと、脳の損傷が重く、このまま亡くなることもあるし、意
2022年9月21日の13時、あの事故の瞬間から、私達は地獄の中で生きています。きっと、死ぬ瞬間まで地獄を味わっていくことになります。全ては岩瀬徹郎という人間によって引き起こされました。数ヶ月前には、居眠り運転のクレームが第三者から入る程で、居眠り運転の常習犯でした。何の反省もなく、謝罪をすることも1度もないまま2025年内に釈放されます。『居眠り運転は危険運転でない』『事故の事でクレームが入るのは被害者遺族のせいだ』と主張した、同じトラック会社で働くことも決まっています。あの事故から今日
午前8時過ぎ、弟が合流しました。警察署で聞いてきた話を共有してくれました。21日の13時頃、京都府の笠置町の163号で、対向車線のトラックが逆走して突っ込んできたこと、加害者はその場で逮捕、勾留されたこと、父と母は別々の病院にそれぞれドクターヘリで運ばれたこと、2人とも意識が無かったので、家族の連絡先の入手に時間がかかってしまったこと、父の遺体は今警察署にて安置されているということなどでした。事故のあった場所は、父方の祖父母のお墓と家に向かう道です。両親は定期的に祖父母の家とお墓のメンテナ
当時はまだコロナ禍であり、病院には立ち入れないとのことでした。母は意識不明の重態であることだけ、伝えられました。一旦、色々状況がわかるまでは実家で待機する事になり、実家へと向かいました。到着したのは夜が明けて、22日の午前6時くらいです。いつも帰省する時は父と母ふたりがいるのに、誰もいない。洗濯物は干しっぱなし。帰ってきたら準備するつもりだったのでしょう、下拵えされた食材が残されていました。長年育った心休まる家の筈なのに、とても薄ら寒く、慣れ親しんだ家とは思えない雰囲気を感じました。そ
私にその知らせが入ったのは2022年9月21日の23時頃でした。普段あまり連絡を取らない弟から電話があり、なんだろうと思いました。私が2ヶ月前に結婚したばかりだったので、様子を聞こうとしてくれてるのかな?くらいに思いました。しかし、電話の向こうの弟は明らかに動揺しており、『両親が事故にあった。詳しいことは俺まだわからないけど、おとんが死んで、おかんの容態は不明らしい。俺はこれから警察署に行ってくる』と話しました。私は当時、埼玉で暮らしていました。夫に事情を説明すると、すぐに行こう、と言っ