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素晴らしき本丸というか、岩殿山山頂でした。しかし、難攻&難攻、足が、膝が、爪が痛くて痛くて、泣いた!よくぞ無事に帰還出来たと(嬉泣)。好天無風に恵まれ、こんな感じで北側ルートから景気よくスタートしたのだが。挑むは、中央線大月駅あたりからも見上げて驚くこの山。中央道高速からも誰しも見上げる岩殿城。勝頼さんがついに行かれなかったこの城、いやこの山。山の麓から見上げると。今から18年前、ふと東京からの帰途についでに登った。「けっこう、まぁきつかったかな」この安直な昔
先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。前回の「お城紀行」で「上田城」を投稿しましたが、その後「長野新幹線」で東京に戻り、特急「かいじ」で「大月」まで足を伸ばし宿泊をして、翌日の6城目の「岩殿城」登城に備えました。当日の天気予報では”晴れ”になっていましたが、ホテルの窓からはどんよりした鉛色の空が見えて少しガッカリしました。ホテルで重い荷物は預かっていただき、「大月駅前」7時25分発「富士急バス日影行」に乗車し、「自動車教習所前」が登城口に近いと
<速報>2泊3日(3/6~8)の「春のお城めぐり」ツアーをスタートし、本日帰宅の途中です。行き先は、1日目は長野県、山梨県の2県、2日目は長野県上田市・千曲市の山城めぐりをしまして、1日目の夜は山梨県大月市に宿泊しました。天気を気にしながら起床して、3/7は「岩殿城」へ向かうべく、7時半に大月駅前から登山口近くまでバスに乗り、雪で滑りやすくなった登城路を途中ツルっと滑りながらもやっと登城できました。本来は、表側(北側)の岸壁が見える所からの登城が一番「岩殿城らしい」のでしょうが
新年1城目はやはり…ここでしょう今回は必ずや〜石門を見るぞっカウンターちん途中、手を合わせてご挨拶ひたすら登ります迷いません休み休み進んでいくと〜結構、あっという間岩殿城本丸跡に到着ぅこの本丸ナイスview富士山くっきりdayに登城できました狼煙台サイコーの気分汗もひいたので、お目当てのものを見に行ってこよう馬場をスルー展望台になっている兵舎跡もスルーキターーーーっどーーーん岩殿城の城門、健在っかっちょええ天然の要塞大好きこれ見たさだけの、岩殿山
皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。新年早々、能登半島地震、羽田空港航空機衝突事故と、大変なことが起こってしまいましたね…。能登半島は珠洲の「奥能登国際芸術祭」や「のと鉄道」の旅、「対決旅4」の能登の陣、北陸新幹線のイベントなど、何度も訪れたことがある大好きな場所。ニュースで深刻な被害状況が明らかになる度に胸を痛めています。能登半島地震、航空機事故により犠牲となられた方々にご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方々に心よりお見舞い申し上げ
大月。河口湖への玄関口です。いつも中央線特急あずさから富士急行線に乗り換える重要な駅ですが、乗り換えのためにしか利用したことがありませんでした。今回、初めて大月に泊まりました。前日は、何度か行った事のある駅前の居酒屋です。翌朝、ホテルの部屋からの景色です。残念ながら、富士山とは反対側の部屋でした。今回、岩殿山にある岩殿城跡が目的でした。距離は短いですが、頂上まで登るには、岩場の鎖場を登る本格的なルートです。しかし、手がかじかむほど寒いのに手袋もなく、富士山も徐々に雲に隠れ始めて絶
明智秀満(66)吾妻郡岩櫃城には潜龍院跡といわれる遺跡がある。勝頼が逃げ伸びてきたときのために造られた御殿であったという。その後、祢津潜竜斎昌月という人物がもらい受け寺院にした。「兄者、本当に父上は信長相手にここで籠城するつもりなのですかね。」と建築途中の御殿を見上げて真田信繁が言うと、「分からんなあ。1年や2年は持つであろうが、父上の事だ、単純に籠城するとは思えない。現に誼を通ずるため、信長には馬を送ったらしい。」と真田信幸は言う。「そもそも上臈衆を抱えた勝頼
明智秀満(65)「晴豊公記」『今日、明智人数しなのへちりちりとこし候なり。今度大事の陣の由申す。人数各いかにもしほしほたるていにて、せうしなるよし京はらへの言いなり。』天正10年(1582年)3月4日、明智隊は京都に向けて進軍した。しかし目の肥えた京の人々には何だか「ちりぢりばらばら」で統制が取れていない軍勢のように見えた。参加の兵士も何やらしょんぼりした感じで、こんな大切な戦なのに、このような有様で大丈夫かと、京童にも笑われたという。「兼見卿記」『
甲州街道の続きを歩きます。上野原の駅からスタートして、まずは甲州街道に合流しなければ😊と言うことで国道20号を目指します。写真には撮りませんでしたが上野原の町はお祭り当日だったようですね。鶴川宿を過ぎて車では見慣れた風景ですが徒歩で見るとまた新鮮ですね。拡張とルート変更により使われなくなった高速道路。奥に新ルートが走ってます。小さく見えるのが談合坂サービスエリア。今回の道中もほぼ山の中ですね。恋塚一里塚ちょっとロマンチックな名前の一里塚ですね。三大奇橋の猿橋。今は街道としての
そんなわけで稚児落しを出発し、岩殿山へ向かう。その間も岩っぼい稜線が続き、危険な所は迂回しますが、それはそれで急な道もある通行可能なクサリ場もあり、練習がてらなるべく鎖に掴まらずに通るしばらく進むと岩殿城の入口だったという築坂(ちくさか)に到着しばらく登り、城門跡を通り岩殿山の見晴らし台に到着眺めが良いなー。眺めが良いので〜、もちのろん〜岩殿山で銀河高原ビールです〜美味い〜冷え冷えですよ〜満足。すぐ近くの岩殿山(いわどのさん)【634m】山頂へ後は下山するだけ。登って
再来月に迫った大キレット縦走。少しでも岩場や高度感に慣れておこうと行って来ました。稚児落し&岩殿山です〜岩殿山に来るのは2回目ですが、こないだ“日本百低山”で岩殿山をやっていたので思い出して。そんなわけで、いつもよりゆっくり来た大月駅駅からすぐ近くにそびえる岩山が岩殿山さっそく出発〜天気はまあまあ、釣りをする人々がたくさん今回は浅利登山口からスタート途中から急に高度を上げ始める時間的に、ほどほど登山者がいましたな。急登をグングン登り、あっという間に稚児落しに到着ここ
『信玄滅ぶ』結婚の出会い探しは”イイネ”たくさんいただき♪そして、ぽちっと応援も、ありがとうございます!NHK大河で、信玄公が、そろそろ終わるので。武田信玄さ~ん…ameblo.jp大河では、武田勝頼、そろそろ滅び頃、あたり。ちょうどタイムリーですね。武田の家臣&岩殿城主・小山田信茂が織田方に寝返り、主君の勝頼を追い返したのが岩殿城。小山田は勝頼滅亡後に織田に出仕するが、不忠を咎められ甲斐善光寺において処刑され、小山田氏は滅亡する。小山田氏にしても領民、家臣とかのこ
2月19日に、息子のリクエストで、山梨県甲府市にある要害山城を目ざしてみたのですが、天気予報外れて雨。ここが目的地ですが、雨。この日はリベンジを誓って帰ってきたのですが、リベンジ果たして来ました!連休後半初日とあって、朝7時半頃に圏央道は八王子付近で30kmの渋滞。手前で高速降りたんですが、高尾山手前で渋滞に巻き込まれる。中央道高尾山口IC超えたら解消したけど、そのあと相模湖手前の峠でまた渋滞。2時間足止めくらう。恐るべしGW。そして、9時間かかって目的地に到着。京都まで行けた
ご無沙汰しております。ぬるですけども本日は中央本線大月駅に来ております。大月駅は富士急行が発着する駅で富士山の眺めがとても良いですが、反対側には岩殿山があり駅の背後にそびえ立ちます。JR線ホームは3番線、富士急ホームは2番線あります。神社…三島神社、三嶋神社、大嶽山神社、天満宮、平安清明教大月本宮、秋葉神社寺院…行願寺、法輪寺、覚宝寺、光照寺
都道府県別索引へ岩殿城の大手虎口たる揚城戸から出て、稚児落しに向かう。この時は、稚児落しは岩殿城の付属品みたいなもので、城からそう遠くない位置にあるのかと思っていた。まさか、あんなに遠いとは…😮ちゃんと下調べしとけよな…😳南側へ降りる道が分岐していたが、すぐ下で封鎖されていた。西の方に降りる道は通れたので、どんどん下ってゆく。上の方に西物見台下の岩盤の補強が見える場所を通過すると、道が大きく抉られた上にS字にクランクしている場所があった。ちょうど、右上の西物見台から攻撃できそ
都道府県別索引へ新府城を放棄し郡内地方を目指した武田勝頼一行が、郡内の領主だった小山田信茂に背かれて天目山で敗れ自害した。岩殿城は、この甲斐武田家滅亡の最後の引き金を引いた小山田信茂の居城と言われていたが、最近では武田氏が小山田氏監視のために築いた城だったと考えられるようになっている。小山田信茂は甲斐善光寺で処刑されてしまい、追討軍が迫る岩殿城から逃れた婦女子が、泣き止まない我が子を崖から落として捨てたという『稚児落し』の断崖とともに、落城の悲話として語られる。この岩殿城、中央道の
先々週からダラダラと書いてきた、甲州攻めの回顧も今日で終わりです。よく考えたら、秩父三峯神社は武州であって、甲州でないことに書いていて気付いた。今回もブログを意識した写真でないため、まともな写真が少ないです。その点ご容赦ください。そして、タイトルはあまり気にしないでください。日曜夕方の長寿番組を見ている人にはピンと来るはず?二日目、攻めた城と巡った寺社(先週と同じです)(毎回お世話になっています、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)甲府城→躑
令和3年11月4日(木)昨日は武田信玄公生誕500年の御祝いと特別御朱印等で気持ちも盛り上がり、そのまま行きたかった恵林寺って思ってました。でも、急遽予定変更した新府城で武田家滅亡について調べ、雲峰寺で最後に残された旗の実物を見て、勝頼が逃れる途中に立ち寄った大善寺に行って・・・全て偶然だけど、最終目的の岩殿城の御城印を授かりに大月市観光協会観光案内所(大月の駅の前にあります)って最後に勝頼が逃げようとしたところでしたただ、限定の御城印を目的に来たんだけど、武田家の滅亡を追いか
こんばんは。本日2本目となります。さて、『道の駅つる』から、10分くらいで岩殿山畑倉登山口に到着しました。途中、岩殿山の姿が見える場所に車を停めて撮影しました。岩殿山…これを登ります。前日の要害山の登山と同様に、登山仕様に変身してからの登山になります。いくつかの登山口があるみたいですが、本丸や山頂まで行けるのは、今はこの畑倉登山口だけみたいです。(数年前に台風や大雨などで崖崩れしたりして通行止めみたいです)唯一の畑倉登山口。トレッキングシューズを過信する訳じゃないですけど、やはり
甲州街道大月宿~猿橋宿先週末(4/10)、山梨に帰省する際に立ち寄ったのが大月の岩殿山、岩殿城跡です。江戸時代の大月宿には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠2軒があったそうです。大月宿手前から北側の桂川対岸に見えるのが岩殿山で、戦国時代には岩殿山に小山田信茂の居城、岩殿城がありました。小山田氏は武田信玄の配下であり、甲府盆地の東の守りを任されていました。武田信玄亡き後の1582年(天正10年)織田信長の軍に攻められた武田勝頼は本拠地の新府城(韮崎)を捨て、岩殿城
山梨県大月市にある山城、岩殿城。岩殿山の山頂にあるので、岩殿山城とも呼ばれているが、地元の人は岩殿城と呼ぶ。甲斐武田氏の家臣、小山田氏の居城で、織田氏の甲斐攻めの際、武田勝頼は、小山田氏の岩殿城に逃れようとしたが、小山田信繁が武田勝頼から離反し、城に入れなかった。進路、退路を断たれた武田勝頼は自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。というのが一般的な説です。通るたびに下から眺めて気になっていて、いつか登ろうと思っていた山です。今回のルート。大月駅~畑倉登山口~岩殿山~
岩殿城『別名』岩殿山城『所在地』山梨県大月市賑岡町岩殿84付近『城主』小山田氏、徳川氏『遺構』曲輪、堀跡、井戸『城郭形態』山城『駐車場』あり『歴史』岩殿城は、昌泰3(900)に天台宗の岩殿山円通寺として開山された事が始まりと伝えられています。享禄5(1532)に小山田氏が甲斐武田氏に被官し、小田原北条氏との国境に接した詰城として改築し城郭化したと言われています。天正10(1582)に新府城にいた武田勝頼は織田氏の進軍に対して、小山田信茂の進言により新府城に火をかけ
起きたら気持ちいい天気。夕方から予定があるので、夕方までに行って帰ってこれる所まで走りに。。以前から気になっていた、中央自動車道を走っていると見える大月の岩殿城跡(岩殿山丸山公園)へGo.頂上まではバイクで行けないので、急な登り坂をヒィーヒィー言いながら歩いて頂上へ。頂上からは富士山がらよく見えるようだが、雲がかかり一部だけ。残念😭でも大月の街、中央自動車道がよく見えるのと、復元した櫓内には写真などが展示されているので休憩しながら観賞。また、機会があったら立ち寄ろうかな。。#岩殿城
週末は絶好の行楽日和だったので、武田信玄ゆかりの地を巡って、塩山や甲府を散策してきました。その前に、大月に寄り道して、岩殿城の御城印を頂きました。さて、塩山まで行き、信玄公の墓所がある恵林寺です。続いて、甲府に移動して、信玄公誕生にまつわる積翠寺。それぞれ、御朱印を頂きましたが、積翠寺のご住職は歩くのも辛そうなほど足が悪そうでしたが、丁寧に接して頂きました。あまりに天気が良すぎて、気温が高く、残念ながら富士山や南アルプスは霞んでよく見えませんでした。そして、次は信玄公をお祀りしている
10月25日今日は山梨県大月市にある岩殿山武田24将の1人、小山田信茂の居城だった岩殿城跡に登リました。ここは武田三堅城の一つに数えられる険しい山城で、難攻不落と言われた名城です。遠景はこんな感じで、中央道を走っていると目にする方も多いと思います。岩殿城に登るには市営駐車場に車を止めて、この急な斜面を登って行く事になるのです!6年前位になるか?当時勤務していた会社の娘と登リましたが、かなりキツかった覚えがあります💦💦近くから撮影した姿がこれです↓通常の登山口に行くと崩
2020.09.18日本海側は雨で関東は晴れとの予報を受けて、上越国界の三国山の予定を変更。先週の群馬・岩櫃山からの流れで山梨の岩殿山へ。総勢12名。岩櫃山も岩殿山も堅牢な山城だったという共通項がある。武田勝頼は新府城に火を放ち家臣の小山田信茂の手引きで岩殿城に向かう道中に信茂の策略で命を落とすが、真田信繁の進言を聞き入れ岩櫃城に逃れていれば武田氏の滅亡はなかったかもしれない・・・というのが通説だったりするのだ。いつものように丸山公園駐車場。登山準備して登山口へ向かう。すると、告知が
御城印をわけていただきました。山家城。尼崎城。中山城。岩殿城。
石垣すっきり金沢城公園、除草作業始まる47NEWS石垣すっきり金沢城公園、除草作業始まる.2020.6.2414:06北國新聞.24日の石川県内は高気圧に覆われて晴れ、前日に続き気温が上昇した。正午までの...“密”にならない光秀観光を提案スマホで使える「古地図でぶらふくち」=京都府福知山市時事通信このマップは、新型コロナウイルスの影響で、福知山城と福知山光秀ミュージアムに一度に大勢の観光客を迎えることがまだまだ難しい状況のなか、“密”に...猫城主さんじゅ
潜龍院跡です。長篠の戦い敗れて7年後、相次ぐ家臣の寝返りで求心力を失った武田勝頼は織田軍の侵攻に耐え切れず、完成間近の新府城に火を放ち逃れます。その時、小山田信茂の岩殿城か真田昌幸の岩櫃城か迷った末に岩殿城に逃れようとするのですが・・・。その時、勝頼を迎え入れるために急ぎ作ったのが潜龍院です。潜龍院とは岩櫃城廃城後の名前で、当時は古谷館(多分、「お館」)と呼ばれていました。岩櫃山のふもとの、古谷(コヤ)集落の中では一番の高台にありますが、木々は刈り払われていたはずですから