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『江戸の備忘録』ー磯田道史●太田美濃守資正ー軍用犬戦国時代、埼玉の岩槻に岩槻城という城があった。城主の太田美濃守資正(すけまさ)は無類の犬好き。それで世間から馬鹿よばわりされていた。たしかに資正の犬好きは尋常ではない。なんと100匹もの犬を飼っていた。[太田美濃守は、うつけたる者なり。稚(いといけな)き者の如く犬に好かるる]と、いつも子供のように犬とじゃれあっていた。それで世間は「あれでも名将太田道灌のひ孫か」とあきれていた。ところが、この資正の犬の飼い方はどうも奇妙であった。犬が好きな
皆さ~ん、最近歩いていますか散歩っていいですよさあ、散歩に出掛けましょう散歩は大人の休み時間一歩踏み出せば、冒険が始まると言う訳で、ラーメンついでに徒歩でさいたま市岩槻区にある岩槻城祉へ現在、一部は公園や球場となっているものの、当時は城下町まで含めた外郭は周囲8kmと小田原城並みの総構に鎌倉時代~明治の廃藩置県による廃城まで残り、沼に浮かぶことから「白鶴城」「浮城」とも。戦国時代には、小田原の北条氏房の居城として秀吉の小田原攻め
9月18日、埼玉県岩槻市の岩槻城を攻略。9月18日、東武アーバンパークラインの岩槻駅へ。左端に岩槻駅、右の緑色が岩槻城址公園かつての岩槻城は後北条氏の拠点だけに、「大構(おおがまえ)」と呼ばれる土塁で、小田原城と同様に城と城下町をまるごと囲んだ総構え(そうがまえ)を築いていました。現在、岩槻城址公園となっているのは赤丸部分。この部分が岩槻城址公園となっています。まずは岩槻城の情報があると言われているさいたま市岩槻郷土資料館へ。昭和初期に建てられた旧岩槻警察署
さて、先日の【日光御成道】の街道旅、日本橋からてくてく、てくてく38km歩いて到着した「岩槻宿」。そのまま歩いて日光街道と合流、幸手宿まで一気通貫で歩いても良かったのですが、せっかくの街道旅ですから、楽しまないと・・・と言うことで岩槻宿散策とその先の道中はGW中の楽しみと言うことで。特に岩槻城を中心に栄えた岩槻宿は日光へ向かう徳川将軍の宿泊地でもあったとの事。城内であった本丸、曲輪、三の丸、武士の居住区だった小路、さらに庶民の住んでいた町、それらをゆっくりと巡ってみたいと思
この渋すぎ色に斬新カバ顔のデザイン東武鉄道が誇る昭和デラックス-ロマンスカー特急電車1720系先頭車(1726)昭和感じわじわ。昭和35年からの60年以上前から就役して活躍。理より、乗りもの感。昭和デラックス。そんなにデラックスじゃない??当時の最新機能盛りだくさん、と来ましたよ。懐かしいなぁ。東岩槻大勝軒へ行こうと思った理由のひとつは、『何十年もずっとすれ違って…関東ラーメンツーリング』ずっと近くにあったけれど、知らなくて、ずっと出逢わなかった…そんなことって結構多いんで
都道府県別索引へ雛祭りやDRCにうつつを抜かして城攻め忘れやがったなんて後ろ指さされれんよう、城、城っと💨ここからは土の遺構出てくるよ〜🙌→現在位置八ツ橋の架かる池の横が新曲輪の北端にあたる。斜面の立ち上がりの外側に土塁、その内側は堀だったらしい。沼沢の広がる岸寄りに土塁を築いて、わざわざ堀を入れている…😮この堀は新曲輪の外側を這った後、岩槻城址公民館のところで途切れている。→現在位置野球場の方から入ってくる道があって、ここに大きな説明板が立っている。往時
都道府県別索引へ岩槻城は、今の東武野田線岩槻駅の東北東1km強の太田二丁目の県道2号周辺に本丸を構えていた。往時は沼沢に囲まれた台地で、南東の対岸に新曲輪と鍛冶曲輪、西には新正寺曲輪を置いていた。また岩槻駅付近まで広がっていた城下町を「大構」と呼ばれる塁壁で囲んでいた。遺構は南の方の岩槻城址公園の東側、新曲輪から鍛冶曲輪のあったあたりに土塁、空堀などが残っている。また、大構の一部が岩槻駅東方の愛宕神社境内に残っている。実は昨年夏、梅雨が明けたばかりの気温38℃の中で岩槻城址公園を
2023/1月無事に御城印も確保でき今年初の攻城です無料駐車場は数ヶ所あり今は公園として整備されていますご自身の目的にあった場所がいいと思います遺構を見学するのであれば第一駐車場がいいかもです遺構の一つ黒門黒門の近くにある裏門関係ないですがポケモンGOでも有名みたいですポケモンGOポケットオートキャッチReviverDiaPlus防水防塵BrookPocketautocatchオートキャッチリバイバーダイア
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いまやアカデミアでは支持者のいない、岩付城(岩槻城)太田氏築城説。史料を再検討することで、同説には成立の余地があることを論じました。各所での講演で用いた講演レジュメを公開します。拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』のサマリーとしてお読みいただけますと幸いです。本レジュメを引用するケースは無いと思いますが、もしも引用される際には出所明示をお願いします。講演レジュメ岩付城(岩槻城)太田氏築城節を再考する岩付城築城者論レジュメ一般.pdfdrive.google.com
🏯岩槻城下の鐘楼、時の鐘(市指定有形文化財)に行って見た🌈
🏯ふらっと岩槻城跡(県指定史跡)へ鎌倉時代以前に築かれた平山城で園内は、城門、池と八ツ橋と桜、人形塚🌈
■太田道灌過度な歴史マニアでもない私でも名前は聞いたことはあります。知っていることといえば、戦国武将で江戸城を作った人で文武に長けた人物。この程度の知識だったので、江戸城=江戸時代と短絡的な思考でそう思っていました。ところがよくよく調べたら江戸時代より200年近く昔の室町時代1400年代の武将と知って驚きました。なぜ今時太田道灌なのかというと。私の住んでいるさいたま市にかつて岩槻城という城があったというのは昔から知っていました。その城を建てたのが太田道灌でした。(近年は新説がある)
食べ物紀行(丸中給食センター)イカのステーキ的なモノに、ヘニャっとした天ぷら、春雨サラダがなんとも給食を思い出させてくれる懐かしい弁当。画面に写していないが、コンビニで買った葉野菜のサラダや味噌汁、新型コロナに罹患した際に支給された焼鮭ほぐし瓶も一緒に食べている。なので腹は膨れる。弁当の品数もそれなりにあるので食べ応えは満足である。
歴史探偵佐藤二朗が探偵社を結成、歴史に挑む新感覚番組。現場調査、科学実験、シミュレーションを駆使。古代、戦国、幕末、あの大事件の真相に迫ります。www.nhk.jp13日(水)になりました。#歴史探偵「戦国の忍び」今回は#戦国の忍び。舞台は伊賀でも甲賀でもなく関東!初めて見つかった忍びの武器は土や石で出来ていた。戦国大名のもと暗躍した謎の忍び集団の知られざる任務も明らかに![総合]夜10:00https://t.co/0fyGlPJNS8—NHKドキュメンタリー(@nh
こんにちは。今回は前回の続き=太田道灌さん・まとめシリーズの続きです。道灌さん銅像は結構な数がございますので、2回に分けさせていただきました。前回はカッコイイ系・ドラマチック系・激シブ系・コワい系とバラエティに富んだ道灌さん像でしたが、今回はすべてfrom埼玉の道灌さんになります。前回のように面白くなるかどうか、、、どうぞよろしくお願いします。では、まず前回のダイジェストから、、、【太田道灌(日暮里駅)】【太田道灌(新宿中央公園)】【太田道灌(佐久駒場公園・佐久市
岩槻城に行ってきましただからといって特に面白いこともなくただただ、行ってきたのです岩槻城へ築城したのが誰なのかは諸説あるみたいだけれど戦国時代に太田資正の居城だったのは間違いないようですうーん期待していなかったのだけれどかなり良い感じ深い堀の跡が遊歩道になってる城址公園として良く整備されています家族連れが楽しそうにキャッキャキャッキャ!チラリとカメラ向けながら足早に通り過ぎるボクなのですイッチニィ!イッチニィ!目をギロギロ三角に吊り上げてナンバ歩きをす
【注意】今回はお城に99%関係ない話ですだらだら語ると長くなるのでなるべく箇条書きのようにいきます城プロというアプリで城に興味を持つ自分乗り物大好きで、特に鉄道大好きな3歳児の相棒ある日、買い物ついでに【新幹線の見える立体駐車場】とやらに行き線路を見つめること約10分テレビでしか見たことなかった北陸新幹線がタイミング現れ手を降ると運転手はホーン鳴らし、相棒は感動、脱糞本物の新幹線との接触に、より鉄道への熱をあげる相棒特にシンカリオンの存在が熱を加速させる一方、城に興味を持っ
一重のヤマブキと八重のヤマブキの花です山すそで多く見られるヤマブキの花はほとんどが一重ですそしてどういう訳か山の斜面から垂れ下がるように咲いています八重の花よりは一重の花の方が大きく見える気がします----------------------------------------------------------------------------埼玉の岩槻は太田道灌公の城下町です太田道灌公と云えばゆ
3月27日(土)は埼玉県さいたま市岩槻城での見学会があり参加しました。日本城郭史学会主催の見学会です。昨年の武漢ウィルスの影響で2020年は3月以降の活動は一時中止となり約1年ぶりの城郭史学会の見学会でした。今回の見学会は史学会委員の阿部和彦さんが案内してくれました。阿部さんは2019年6月の小金城以来の案内です。城郭史学会のイベントがなかったので当ブログも久しぶりの更新です。岩槻城址公園の桜当日は岩槻駅改札外に集合です。集合時間が近づくと参加者は徐々に集まり始めました。1年ぶり
黒田基樹(2021)『図説享徳の乱』(戎光祥出版)を購入しました。29年間にわたる享徳の乱の歴史を、第一人者の黒田先生が、最新研究を踏まえて時系列、それも月単位で進行を追う。これまで無かった素晴らしい書籍です。図説享徳の乱Amazon(アマゾン)1,980円しかし、岩付城築城者論にこだわる者としては、やはりこの問題がどう書かれているかが気になります。かつては享徳の乱初期に太田氏が築いたとされた岩付城。黒田先生は、“岩付城の構築はこの時ではなく、しかも築城者は太田氏ではなく成田氏
ここまで、岩槻城(岩付城)成田氏築城説について、以下の内容を紹介してきました。人物比定や築城時期の比定が複数回見直されている(①と②参照)一時は公的出版物や他の研究者の通史書に全面的に採用されたが、1.の変容と前後して、不採用や批判が生じるに至っている(③参照)『岩槻城成田氏築城説の通説化と課題①』拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在最も蓋然性が低いとされていた「太田氏築城説」の再検討を行いました。玉隠と岩付城築城…ameblo.jp『岩槻城
『江戸の備忘録』ー磯田道史●太田美濃守資正ー軍用犬✪戦国時代、埼玉の岩槻に岩槻城という城があった。城主の太田美濃守資正(すけまさ)は無類の犬好き。それで世間から馬鹿よばわりされていた。たしかに資正の犬好きは尋常ではない。なんと100匹もの犬を飼っていた。[太田美濃守は、うつけたる者なり。稚(いといけな)き者の如く犬に好かるる]と、いつも子供のように犬とじゃれあっていた。それで世間は「あれでも名将太田道灌のひ孫か」とあきれていた。ところが、この資正の犬の飼い方はどうも奇妙であった。
「岩槻城成田氏築城説の通説化と課題②」では、1994年に提起されて成田氏築城説が、2012年と2013年に大きな変更が加えられたことを紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変遷②』「岩槻城成田氏築城説の課題と変遷①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変…ameblo.jpその③となる今回は、成田氏築城説が、どのように広がって通説化したかどのような批判が登場したか他の研究者が通史叙述で
「岩槻城成田氏築城説の通説化と課題①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変遷①』拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在では蓋然性が低いとされる「太田氏築城説」の再検討を行いました。当初の原稿では、蓋然…ameblo.jp1994年の時点では、岩付城築城者「自耕斎」(正等)を成田氏系譜の「成田顕泰」に比定した結果、岩付城の築城時期は文明年間後期と特定されました。しか
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在最も蓋然性が低いとされていた「太田氏築城説」の再検討を行いました。玉隠と岩付城築城者の謎(自耕斎詩軸并序を読み解く)Amazon(アマゾン)1,980円実は、当初の原稿では、蓋然性が高いとされる説「成田氏築城説」や「渋江氏築城説」についても検討を加え、両説にも課題があることの指摘も行っておりました。しかし、頁数が増えすぎてしまい、これらの記載は大幅に削除することに。このままパソコン内で腐ら
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』において、岩付城の築城詩「自耕斎詩軸并序」の依頼主「岩付左衛門丞顕泰」に比定した、太田六郎右衛門尉。六郎右衛門尉は、一次史料の記載から実在が確かですが、実は太田氏の系譜史料には登場しません。六郎右衛門尉は、なぜ系譜史料から消されたのか。その痕跡はどこにも無いのか。頁数の制約で、『玉隠と岩付城築城者の謎』からは削られた、考察をここに記載します。↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓■系図から消された六郎右衛門尉太田六郎右衛門尉は、一次史料によってその存
埼玉の戦国武将「太田資正(おおたすけまさ)」や、その領国「岩付領」、そして居城であった「岩付城(岩槻城)」について、勝手研究をしているアマチュア史家です。ツイッターで「太田資正と中世太田領の研究」というアカウントで活動しています。https://twitter.com/medieval_ootaこれまでツイッターでフローで流し続けてきた情報を、今後は少しストックにしていこうと思い、ブログも始めることにしました。ご縁があって出させていただいた、2冊の本、・『太田資正と戦国武州大乱
岩槻城趾公園は、今は盛りと美しい紅葉の見頃を迎えている。🍁岩槻城の近世期以前の遺構が僅かだが残されている。岩槻城城門と裏門である。いずれも岩槻市有形文化財である。岩槻城城門は、木材部分が黒く塗られているため「黒門」の名で親しまれている。黒門と裏門は、岩槻城のどの場所にあった門なのかはハッキリしていない。明治維新の廃城令により、他の城同様に岩槻城も解体された。黒門と裏門は、岩槻城の数少ない遺構の一つ。黒門を裏側から見た様子。黄金色のイチョウの葉が黒門の姿を引き立てる。黒門は城の解体