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いまやアカデミアでは支持者のいない、岩付城(岩槻城)太田氏築城説。史料を再検討することで、同説には成立の余地があることを論じました。各所での講演で用いた講演レジュメを公開します。拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』のサマリーとしてお読みいただけますと幸いです。本レジュメを引用するケースは無いと思いますが、もしも引用される際には出所明示をお願いします。講演レジュメ岩付城(岩槻城)太田氏築城節を再考する岩付城築城者論レジュメ一般.pdfdrive.google.com
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黒田基樹(2021)『図説享徳の乱』(戎光祥出版)を購入しました。29年間にわたる享徳の乱の歴史を、第一人者の黒田先生が、最新研究を踏まえて時系列、それも月単位で進行を追う。これまで無かった素晴らしい書籍です。図説享徳の乱Amazon(アマゾン)1,980円しかし、岩付城築城者論にこだわる者としては、やはりこの問題がどう書かれているかが気になります。かつては享徳の乱初期に太田氏が築いたとされた岩付城。黒田先生は、“岩付城の構築はこの時ではなく、しかも築城者は太田氏ではなく成田氏
ここまで、岩槻城(岩付城)成田氏築城説について、以下の内容を紹介してきました。人物比定や築城時期の比定が複数回見直されている(①と②参照)一時は公的出版物や他の研究者の通史書に全面的に採用されたが、1.の変容と前後して、不採用や批判が生じるに至っている(③参照)『岩槻城成田氏築城説の通説化と課題①』拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在最も蓋然性が低いとされていた「太田氏築城説」の再検討を行いました。玉隠と岩付城築城…ameblo.jp『岩槻城
「岩槻城成田氏築城説の通説化と課題②」では、1994年に提起されて成田氏築城説が、2012年と2013年に大きな変更が加えられたことを紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変遷②』「岩槻城成田氏築城説の課題と変遷①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変…ameblo.jpその③となる今回は、成田氏築城説が、どのように広がって通説化したかどのような批判が登場したか他の研究者が通史叙述で
「岩槻城成田氏築城説の通説化と課題①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。『岩槻城成田氏築城説の課題と変遷①』拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在では蓋然性が低いとされる「太田氏築城説」の再検討を行いました。当初の原稿では、蓋然…ameblo.jp1994年の時点では、岩付城築城者「自耕斎」(正等)を成田氏系譜の「成田顕泰」に比定した結果、岩付城の築城時期は文明年間後期と特定されました。しか
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在最も蓋然性が低いとされていた「太田氏築城説」の再検討を行いました。玉隠と岩付城築城者の謎(自耕斎詩軸并序を読み解く)Amazon(アマゾン)1,980円実は、当初の原稿では、蓋然性が高いとされる説「成田氏築城説」や「渋江氏築城説」についても検討を加え、両説にも課題があることの指摘も行っておりました。しかし、頁数が増えすぎてしまい、これらの記載は大幅に削除することに。このままパソコン内で腐ら
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』において、岩付城の築城詩「自耕斎詩軸并序」の依頼主「岩付左衛門丞顕泰」に比定した、太田六郎右衛門尉。六郎右衛門尉は、一次史料の記載から実在が確かですが、実は太田氏の系譜史料には登場しません。六郎右衛門尉は、なぜ系譜史料から消されたのか。その痕跡はどこにも無いのか。頁数の制約で、『玉隠と岩付城築城者の謎』からは削られた、考察をここに記載します。↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓■系図から消された六郎右衛門尉太田六郎右衛門尉は、一次史料によってその存
埼玉の戦国武将「太田資正(おおたすけまさ)」や、その領国「岩付領」、そして居城であった「岩付城(岩槻城)」について、勝手研究をしているアマチュア史家です。ツイッターで「太田資正と中世太田領の研究」というアカウントで活動しています。https://twitter.com/medieval_ootaこれまでツイッターでフローで流し続けてきた情報を、今後は少しストックにしていこうと思い、ブログも始めることにしました。ご縁があって出させていただいた、2冊の本、・『太田資正と戦国武州大乱
今回から岩槻城の紹介です。2020年8月9日に訪問しました。地形は元荒川(当時は荒川の本流)の南西に広がる湿地に突き出した岩槻台地上のヘリに主郭が築かれました。岩槻城は赤い下線部です。(国土地理院地形図とグーグル地図の合成より)黄色い線の内側が台地です。久伊豆神社のある南西に新正寺曲輪、本丸の南側に新曲輪、西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。石垣は使われていない城です。現地案内板より江戸時代の岩槻城です。かつて存在していた水堀の面
【問題】永禄7年、太田資正は居城・岩付城を追放されたが、その経緯として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】酒宴中に簗田晴助の奇襲を受けた子の氏資によって城を占拠された徴兵農民がクーデターを起こした側室の逆鱗に触れて締め出された【正解】子の氏資によって城を占拠された【解説】太田資正は岩付城(埼玉県さいたま市)を拠点としていたが、永禄7年(1564)に親北条派である息子の氏資によって城を占拠され、資正は追放された。
太田資正は武蔵国岩槻の国衆で、かの太田道灌の曾孫にあたる人物。晩年は号して「三楽斎」。逸話の多い人で、例えば『名将言行録』の「太田資正」の項はこんな話で始まります。―資正、幼より犬を好み、岩槻にて飼い育てたる犬五十匹を松山に置き、松山にて飼い育てたる犬五十匹を岩槻に置く…(『名将言行録』より)太田資正は幼少の頃から犬好きで、領内の岩槻(岩付)城と武蔵松山城でそれぞれ50匹の犬を飼って行き来させたので、世の人は「資正はうつけだ」と噂していた。ある時、松山城が「一揆」に囲まれ窮
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沖縄空手道無想会の新垣師範が、『中国拳法への、二つの大きな(そして怖い)疑問』というブログ投稿をされています。空手の形の解明(無想会では、従来の形理解を根底から覆し、用法や形の構成の面から整合的な形解釈と稽古を行っています)に一段落つけた新垣師範が、今度は中国武術(中国拳法)のトウロの解明に足を踏み入れています。そして、このところの投稿を見るに、恐ろしい仮説に行き着いてしまったことが伺われます。・・・ゴクリ(゚A゚;)・・・楽しみですが、怖いですね。個人的には、新垣師範の次の一文に目が
岩槻城址公園の桜。
銅銭は14日~18日まで一般公開されています。見に行かれるかもしれませんが、行かれないかもしれません…。太田資正の家臣、野口多門は太田資正が岩付城を追放されると、「帰農」したのだといいます。そんな彼、あるいは彼らはなぜ、こんなに大量の銭(日本最大級)を持っていたのでしょう。一番古いものは鎌倉時代の銭で、一番多いものは室町時代の銭だといいます。(毎日新聞より)一番新しいものは1408年のものなのだそうです。(埋蔵物センターの資料より)金とか小判とかではないのです…。コツ
ひとりブラタモリ♯岩槻城も、今回でいよいよ完結です。2週間前に行った3時間弱のサイクリングの記録ですが、今後、岩槻城の痕跡を岩槻の街並みの中に探そうというマニアの方々の一助となれば幸いです。ちなみに、前回はこちら。さて、岩槻城三ノ丸跡=「城址公園前」交差点からラストスパートです。↓「城址公園前」交差点を直進し、岩槻城址公園に向かいます。以前も書きましたが、今日の城址公園は、岩槻城の南の守りである、新曲輪と鍛治曲輪を公園化したものです。↓道を進むと、開けた場所に出ます。↓↑奥の林が、
今朝の岩槻駅前駐車場からの眺め。久しぶりに雪が積もりました。雪を乗せた岩槻の眺めは、私に470年前にこの地で起きた出来事を想わせます。今年、平成三十年(2018年)の470年前は、天文十七年(1548年)。この天文十七年の正月、岩槻は、合戦の最中にありました。攻めるは関東の覇者、小田原の北条氏康。守るはこの地、岩槻(当時は岩付)の当主となったばかりの若き知将・太田資正。合戦は、岩槻城(岩付城、埼玉県さいたま市)を舞台として展開された攻城戦・籠城戦です。前年、天文十六年から続いたこ
息子を「緊急サポート」先に預けた後で通りかかった、岩槻の「仲町」と「城町」の境目の某所。道が二股に別れていますが、左に向かう主道に対し、右に向かう支道は高佐が一段下がっています。岩槻城絵図と対応させると、この辺りはちょうど、大構(城を城下町ごと囲む土塁・空堀)が通っていた場所です。秀吉の北条征伐の際、北条側の重要拠点の一つだった岩槻(当時は岩付)は、大構を以て秀吉率いる上方勢を迎え撃つ構想でした。おそらく、一段高い主道は、大構の土塁を切り崩した跡地に作られた道。この数10センチメートル
今朝も晴れ。地平線は霞がかっていますが、筑波山のシルエットは確認できます。昨日見つけた、岩槻城本丸跡地のマミーマートの看板も。戦国武将・太田資正が、その前半生において居した岩槻城(当時は岩付城、埼玉県さいたま市)の本丸跡地と、後半生を過ごした片野城(茨城県石岡市)の傍らにあった筑波山。この二ヶ所を同時に望むことができるのは、この岩槻駅前の駐車場くらいではないでしょうか。太田資正の人生を眺めている気分です。
今朝の駅前駐車場からの眺め。晴れていますが、靄がかかっているため、他見の山は見えません。その代わりと、足元をよく見てみると、これまで見つけられなかった岩槻城の本丸跡地(現マミーマート)を望むことができました。↓の黄色の○のあたりです。ちなみに、現在の岩槻駅は、岩槻城の大構(城下町ごと城を囲む土塁)の少しばかり外側に位置しています。大構の西の端から本丸まで、こんなに距離があるのだなぁと、改めて実感しました。北条氏房による岩槻城下の総城塞化は、かくも雄大な規模のものであったか。・・・と
今朝は曇天でしたが、雲の色に少し鮮やかさがありました。写真右奥は、以前も紹介した岩槻城の南の守り、鍛治曲輪と新曲輪の森。しかし今日は、この森の彼方先、元荒川の下流に少し思いを馳せました。元荒川(戦国時代は荒川本流)は、下流で中川に合流して江戸湾に注ぎます。小田原北条氏が江戸と河越(川越)を押さえてしまった戦国時代中期以降、この河川ラインは、内陸に辛うじて生き残った旧勢力・扇谷上杉氏が、海上物流にアクセスするための最後の生命線となったそうです。それゆえ、中川の河口には、この河川ラインの海へ
先週末のことですが、岩槻郷土史料館の「岩槻古城八景」展を見に行きました。「岩槻古城八景」は、かつての岩槻城の名勝を描いた屏風絵。明治時代に入ってから、“ありし日の岩槻城の風景を後世に残そう”と、旧岩槻藩士達が絵師を雇って描かせたものだそうです。描かれた時代には、既に岩槻城は取り壊され、存在していません。「岩槻古城八景」に描かれたのは、旧岩槻藩士達の記憶に残る岩槻城の姿ということになります。旧藩士らは、かつての岩槻城の姿を時に正確に、時に美化しながら、絵師に伝えたことでしょう。「岩槻古城
店主の古書目録(平成29年9月15日)『太田道真と道灌』河越・江戸・岩付築城五百五十年記念目次
このところ朝の無想会空手の稽古場となっている駅前駐車場。その写真が、Vシネマの決闘場のごとく殺伐としているので、今日は最上階まで登って、青空を撮ってみました。空が、もう秋ですね。ちなみに、写真の右奥の森っぽいところが、岩槻城址公園。かつて、豊臣秀吉の“北条征伐”に際して、北条側の城であった岩槻城(当時は岩付城)が、防衛強化のために新たに築いた「新曲輪」「鍛治曲輪」を、現代になって公園化されたものです。各曲輪の地形は、今でも良好に残っていますので、“土の城”がお好きな方は、岩槻絵図を持って
戦国武将・太田資正(三楽斎)が、故国・岩付を追われ、放浪の憂き目にあったのは永禄7年半ばからの約2年間半。放浪生活も3年目に入ろうとした永禄9年の年初には、常陸国の強豪・佐竹氏に招かれ、その勢力の南端に位置する片野城に入り、“城持ち武将”として復活を果たしました。しかし、片野城は小さな山城です。大宮台地の一角(岩槻支台)の地形を生かし、雄大な縄張りを誇った岩付城(岩槻城)と比べ、資正一行には、貧弱な小城と映ったことでしょう。片野城が資正に与えられたのは、まだ佐竹氏が実効支配することが叶わ
天正18年の豊臣秀吉による“北条征伐”。豊臣・徳川連合軍による岩付城(岩槻城)攻めは、その最中で行われました。堅城と名高い城を敢えて選んで力攻めし、凄惨な落城ぶりを周囲に喧伝して戦意を失わせる。そんな秀吉の策において、岩付城は、力攻めで落とす対象とされた堅城と名高き城の一つでした。【参考】豊臣秀吉は、岩槻城(岩付城)をどう見ていたか?この岩付城陥落劇においては、体を張って城内の者達の命を救った“心剛なる女人”がいたと伝えられています。軍記物『北条記』が書き記す、長林院の物語です。【参
戦国時代の関東を舞台とした歴史小説を多数執筆している人気作家、伊東潤。私にとっても、好きな作家の一人です。史実を猛烈に調べ込んでから小説の構想を練るスタイルの伊東氏ですが、残念ながら、さいたま市の名将・太田資正については史実の確認が甘く、「え?」と思ってしまう展開が少なくありません。【参考】伊東潤『戦国北条記』ネット上の同士(数少ない太田資正ファン!)の比企下総さんが、その点をツイッターで指摘すると、伊東氏本人からの“解説”?が!https://twitter.com/hikisimou
史跡で辿る太田資正の生涯その3。その2では、北条服属時代(天文17年(1548年)~永禄3年(1560年))の岩付領主時代の資正関連史跡を紹介しました。その3以降では、太田資正が再び北条氏に対して戦いを挑んで行く永禄3年以降の“武州大乱”期の史跡を巡りたいと思います。(今日の岩付城(岩槻城)の本丸付近)※11.岩付城本丸(埼玉県さいたま市)永禄3年(1560年)の秋、この時38歳の太田資正は、北条氏康からの書状を受け取ります。その内容は、太田資正に北条氏への忠誠を改めて促し、謀叛を疑