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昨日2024年5月2日。GWで長期休暇となったので、福岡に帰宅し、その中日にプライベートで、大分県豊後大野市と、竹田市に出撃レポをアップしましたが、その2日目。前日に引き続き、大分県竹田市に出撃して来ました!2024年5月1日の大分県豊後大野市・竹田市出撃速報レポ『昨日は、大分県豊後大野市・竹田市に出撃!』昨日2024年5月1日。GWで長期休暇となったので、福岡に帰宅しているんですが、その中日に、プライベートで、大分県豊後大野市と、竹田市に出撃して来ました。ゆっ…ameb
阿蘇神社、岡城阯、別府温泉に行ってきました。https://maps.app.goo.gl/ePZXbXmtHe2mVHp6A阿蘇神社·〒869-2612熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083−1★★★★☆·神社maps.app.goo.glとり天定食https://maps.app.goo.gl/LykfDH8nsuY92mzs5竹田丸福·〒878-0012大分県竹田市竹田町560−6★★★★☆·鶏料理店maps.app.goo.glhttps://maps.ap
大分旅行3日目はQ地図様やGoogleMapを見るだけで隧道がボコボコ見つかる竹田市で隧道巡りをしました。宿をチェックアウトしてまず向かったのがこちらです。立派なしだれ桜。今年は桜(ソメイヨシノ)の開花が遅かったですね。そこから少し進むとこんな雰囲気になって…。すぐに素掘り隧道が姿を現します。で、この時、向かって右手の方でガサガサ音がしました。風とか鳥とか、そういうんじゃなくてもっと大きなものが動いてるような音…。音の方に目線を向けると…何かでかい茶色いものが藪の
「竹田ダム」九州電力管轄のダムが多いですね…2月でも門松ハッピーなダムでございます。公園に見えるところは実は個人宅の敷地内。正面からみるためには橋の方まで下がらなければなりません。橋の方にいこうかどうしようかと悩みましたがせっかくなので行ってみることに。バイクの方も足を停めていたのでなおのこと気になりまして。するとどうでしょう、見事な自然の芸術品が!やっぱり見てみて良かったです。耶馬溪にしても、川の侵食作用でこういう絶壁が形作られやすいのは大分の岩石の成分のせいなのかしら?「
詩荒城月第一章春高楼の花の宴めぐる盃かげさして千代の松が枝わけいでしむかしの光いまいづこ第二章秋陣營の霜の色鳴きゆく雁の數見せて植うるつるぎに照りそひしむかしの光いまいづこ第三章今荒城のよはの月替らぬ光たがためぞ垣に残るはたゝかつら松に歌ふはたゝあらし
〖石川県能登地方での地震による被害を受けられた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。〗義援金受付窓口↑ニセサイトではありません💦石川県のホームページのリンクを貼ってあります。力になりたいと思われたら訪問してみて下さい!みんなで助け合いましょう‼️⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫愛用です😉店頭よりかなり安く買える魅力🐸【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス21枚Amazon(アマゾン)ドラゴンボールZ[お菓子チョコレート]仙豆チョコポット/バレンタインAm
【問題】【日本城郭検定準1級】岡城と日出城に共通する建造物があるが、それは何か?【選択肢】かまぼこ形石塀埋門石垣に接した井戸石樋【正解】かまぼこ形石塀【解説】「かまぼこ形石塀(かまぼこ塀)」は、現在のところ、城郭(城下を除く)では大分県の岡城と日出城でしか確認されていない特異な石塀になる。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
下土井城(相生市若狭野町下土井)別名:岡城・大田林山城・下土居城『岡城記』によると、文永四年(1267)蒙古軍の来襲に際し、初めて豊前守に任ぜられて九州へ下り、彼の地で戦功があり、凱旋後矢野荘を賜り、大田林山に城を築いて居城としたとある。岡豊前守の後裔で、城跡の近くの八洞に住む岡家には次の下文が保管されている。播磨国赤穂郡矢野庄二万八千九百八十五貫余右、令采地、全可為地頭職者也、文永四年十月八日在判岡豊前守殿以来、初代光国、二代光信、三代光明、四代光清、五代光重、六
広大な素晴らしい石垣に圧倒される岡城跡‼️半端ないよ‼️難攻不落の堅城と謳われる岡城。その所以は周囲を囲う「断崖絶壁」と、その絶壁上に築かれている「石垣群」戦国時代末期の天正14年(1586)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大軍が攻め入ってきましたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退したという歴史が残っています。岡城跡国指定史跡岡城跡堂々たる石垣郡の山城、名曲「荒城の月」を生んだ難攻不落の名城・岡城.okajou.jpスケールのデカさに驚きます。美
こんにちは。前回の続き、2023年訪れた城趾・館跡のパート2です。城趾に行くとついつい写真を多めに撮ってしまいます。さて、このブログにどの写真をチョイスするか・・・他で公開されていないような写真をわざと選択してアップしようと考えましたが、やっぱりある程度標準的なものに落ち着いてしまった感じがありますね。では、ご覧ください。金沢城(石川県金沢市丸の内訪問日:2023年7月)金沢城は、加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にある日本の城。江戸時代
毎日を駆け抜けるアラフィフのhacchaです。2023年6月に行った大分旅行記です。るるぶ大分別府湯布院くじゅう'25(るるぶ情報版)[JTBパブリッシング旅行ガイドブック編集部]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}前回の記事はこちら↓『大分8豊肥本線に揺られて豊後竹田へ』毎日を駆け抜けるアラフィフのhacchaです。2023年6月に行った大分旅行記です。るるぶ大分別府湯布院くじゅう'25(るるぶ情報版)[JTBパ…
毎日を駆け抜けるアラフィフのhacchaです。2023年6月に行った大分旅行記です。るるぶ大分別府湯布院くじゅう'25(るるぶ情報版)[JTBパブリッシング旅行ガイドブック編集部]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}大分2日目は、豊肥本線に乗って豊後竹田を目指します。オットが以前TV番組で観て気になっていたという、石垣がすばらしいらしい岡城跡に行く目的です。まあオットよりも私が石垣好きってのもありますけど。兵庫の竹田城(やはり城跡で、石
平家物語に出てくる平安時代末期に大分県豊後大野市緒方町に移ってきた宇佐神宮の神官だった大神氏の宇田姫と祖母山の大蛇神との神婚譚生まれた子供は緒方氏を名乗り頼朝に追われた義経を匿おうとして大分県竹田市に岡城を築きました。岡城は戦国時代には大分の大友氏を攻めようとする3万の島津軍を退け秀吉も驚く難攻不落の天空の城となりました。岡城は九州東西の守りの要として秀吉、家康からも大切にされ岡藩として明治維新まで存続します。岡藩の家老の家に生まれたのが滝廉太郎で岡城は世界中で愛される荒城の月のモデル
「ぢ:あさぢから歩いて歩いて奥豊後オルレ」(←📚豊後大野かるた、覚えてね♪)おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・´)ゞ秋も終わりへ。今年も紅葉を楽しめましたか?大分県豊後大野市や竹田市では、紅葉もほぼ終わりの印象🍁▽先日の、📝豊後大野市清川町の「宝生寺」さんの紅葉も記憶に新しい✨(記事はこちら)そんな晩秋でも、大分県豊後大野市青年団なないろベースでは、豊後大野市&竹田市の紅葉を堪能🍁2023年11月18日(土)、「九州オルレ奥豊後コース」を歩き
「起業キャリーupアカデミー11月度本講座」が11月18日に開催されました。#高松義美先生から毎回聞いているのに自分で出来ていないところなどわかりやすい事例を出して講義をしていただきました。.今回もお客様目線をもってサービスを提供する側の心構えを学ばせていただきました.特別講義として#岡城美雪先生から低血糖のお話を聞かせていただきました。専門的な話なのにとってもわかりやすく講演してくださりまさにお客さん目線での説明だと感心致しました。.今回ブレイクアウトルームで
今年の大分県の紅葉は、暖冬の影響で全般的にハズレですので、数年前に撮影した、岡城の紅葉をお届けします。岡城は竹田市の天神山(標高325m)に築かれた山城です。天守などの建物は残されていませんが、石垣は当時のまま現存しています。中世の山城の有様を現代に伝える遺構として、高い学術的価値を持っています。国指定史跡です。「日本100名城」にも選ばれています。「日本桜の名所100選」にも選ばれています。毎年4月上旬に「岡城
岡城跡をあとにし、『岡城のピアノ』という場所に向かいました。(^0_0^)岡城の近くにポツンとあるグランドピアノ。なんか粗大ゴミとして回収され行く運命にある、悲しいピアノのように見えました。手を入れなおせば息を吹き返し、素敵な音色を奏でることができるでしょうか。( ̄^ ̄)いろいろ調べましたが、これ以上はわかりませんでした。( ̄^ ̄)石のピアノの近くには、壁に歌詞が書いてありました。(~o~)『箱根八里』氷川きよしかと思いました。(^^)『雀』麻雀かと思いました。(^0_0^)『月
『西中仕切跡』という場所に着きました。(^∇^)城内で最も狭い場所で、石垣により通路を折り曲げ、敵が直進できないようにしている。また、その先を門により遮断することで、大手門方面から岡城中心部へ向かう敵の侵入を防ぐ機能を有していた。本丸の東側には東中仕切があり、西中仕切と同様に重要な防御施設の役割を果たした。階段を登って見ましょうね。(*^o^)/\(^-^*)イッツビューティフル絶景、絶景‼️(^∇^)確かに直進出来ないように入り組んだ作りになってますね。(~o~)『太鼓門跡』ま
中川覚左衛門屋敷跡の石垣を二段に積み上げた部分は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれ、かつては藩主が訪ねて来た際に城内を展望したよう。屋敷内には付近には季節折々の植物が植えられています。(^^)ρ(^^)ノ付近には、普請方(ふしんかた)や来客の待機所であった賄方(まかない)跡、もう一人の家老中川民部の屋敷跡もあり当時の様子を知ることができます。(~o~)確かに絶景ですね。(*^o^)/\(^-^*)ここは『埋門』というみたいです。( ̄^ ̄)埋門とは、日本の城における門のうち、敵からは出入り口
岡城跡後半の歴史の流れです。( ̄^ ̄)中川氏入部と同時に、志賀氏時代の岡城を総石垣の城郭へと大改築をおこなう。( ̄^ ̄)文禄3年(1594)から慶長元年(1596)かけて普請が行われ、本丸を始めとした主要な曲輪、大手門などの登城口が完成した。西の丸御殿は第3代藩主中川久清の隠居所であったが、時代と共に増改築されていき、城の中心部となっていった。本丸、西の丸、御廟など城の大半を焼く大火が起こる。安永3年(1774)本丸御三階櫓が再建。安永8年(1779)に西の丸御殿が再建。岡城はた
大野郡緒方荘(大分県豊後大野市)の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流されていた。『豊後国志』によると、豊後国守護大友氏の支族である志賀貞朝が、旧堡(古い砦)を修復・拡大し、岡城と称し居城とすると記されている。志賀氏の直入郡(現竹田市)への進出は応安2年(1369年)頃であるため、応安2年以降に志賀氏が岡城を居城としたと考えられる。豊薩合戦では島津
『大手門』に着きました。(^^)ρ(^^)ノ大手門は、城の正面玄関であることに加え、防御施設でもある。(^0_0^)大手門の石垣上には櫓が渡されており、櫓上から敵を攻撃できるようになっていた。(^_^ゞ現在残る石垣や礎石・車敷等から大手門の大きさが伺える。(>.<)y-~古大手門は南東向きでしたが、熊本城に行く藤堂高虎が岡城に立ち寄って「それでは、朝日が当たると戦いで不利になりはしないか」と助言があったそうだ。その後、初代藩主・秀成公の晩年に改修されました。そのまま大手門跡から『西ノ
岡城の入り口である大手門では、まるでヨーロッパの古城のような形の石垣を見ることができます。また、大手門の裏にはアーチ状に積まれた石垣があり、当時の城主である中川氏の美に対するこだわりをうかがうことができます。(^_^ゞ現在来城者用の入り口として使用されている大手道には不思議なアーチ形状の石垣、通称「かまぼこ石」が見られます。制作技法などについては謎の部分も多く、他の城では見られない岡城の特徴のうちの1つです。岡城の石垣には多くの技法や積み方が用いられています。城内見ることができる石垣
難攻不落の堅城と謳われる岡城。(^0_0^)その所以は周囲を囲う「断崖絶壁」と、その絶壁上に築かれている「石垣群」であると言えます。(~o~)戦国時代末期の天正14年(1586)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大軍が攻め入ってきました。だが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退したという歴史が残っています。当時の岡城には現在見る石垣群は無く、土塁や空堀など土で造られた山城でした。(^^)文禄3年(1594)に岡城主となった中川秀成が、島津氏撃退でも証明された要害堅固
通称「下木の滝」。台地を流れる城原井路の終点が下木にあり、豊後竹田駅の北側の高さ40m余りの断崖から流れ落ちます。JR竹田駅の中に入れなかったので、出来るだけ近寄って撮影。なんも流れてませんね。井路に水が流れる季節には、豊後竹田駅を背景に布を垂らすような落水を見ることができます。今はその時期じゃなかったんでしょうね。(~o~)この落水は、江戸時代の文人たちの間でも有名で広瀬淡窓は「落門の滝」または「布引きの滝」と呼び漢詩にうたいました。(^_^ゞ竹田橋から眺める楼閣もあったそうです。落
現在の竹田の城下町は、文禄3年(1594)中川秀成が岡城の大改修をやるとともに、挟田・十川の城下町を竹田に移転させたものである。その当時の竹田は単なる農村にすぎなかったが、城下町を整備するために、丸山藤右衛門孫六を任命し、水盛の名人布屋吉左衛門とともに縄張りに着手。(;^ω^)T字路やL字路を組合せた従来の城下町特有の街路形式をとらず、街路を碁盤状とし、中央の低地に商人、町人を住わせ、その外側に寺院を配し、岡城に連なる周辺の丘陵には武家屋敷を配置するなど新しい城下町を造成された。現在は屋
『広瀬武夫』と書かれた銅像がありました。広瀬武夫(ひろせたけお、旧字体:廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日)-1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。(*^^*)日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は軍神として神格化された。(^^)兄の勝比古も海軍軍人である。(=^・^=)長い石の階段がありました。何があるのかな?鳥居があって、神社っぽいですね。(=^・^=)ここは『広瀬神社』というそうです。(^^)大分県竹田
『明治という国家』ー司馬遼太郎●廃藩置県ー第二の革命ー⑲✪滝家は、廉太郎の祖父の代から、この小さな大名の仕置家老---門閥でなく能力を買われてなった家老でした。石高は200石、小藩の200石ですから、大したものです。廉太郎の父の吉弘は有能な実務家で、新政府からその能力を買われて、大蔵省、内務省の下級官吏になり、のち県に出向し、晩年は故郷の大分県に帰り、竹田の町に住んで郡長を務めておりました。維新によって没落をまぬがれただけでなく、なんとか世を渡って行ったほうに属します。廉太郎が音楽のような分
みなさん、こんばんは^_^連休初日、いかがお過ごしでしたか?熊本では藤崎八旛宮秋の例大祭が開催中で、たぶん、熊本市内は通行止めがあったり、凄い人で賑わっていた事と思います。そんな中、熊本市内から離れ、久しぶりに阿蘇方面へドライブへ🚗とっても良いお天気で、阿蘇方面は熊本市内よりずいぶん気温も低めで涼しい♪ツーリング日和で、バイクの集団も多かった^_^とは言っても、みんな熊本市内へお出掛けなのか、観光地の連休初日にしては、ちょっと人が少いようにも思いました。黒川温泉へ川を
かねてから訪ねようと思っていた、大分県竹田市の岡城跡に行ってきました。国指定史跡岡城跡堂々たる石垣郡の山城、名曲「荒城の月」を生んだ難攻不落の名城・岡城.okajou.jpこの城は、壮大な石垣で有名ですが、想像の5倍!くらいとんでもないほどの石垣だらけの城でした。まずは入場料300円を支払います。ちなみに城下町からここまで、車で数分かかるくらいの山の中腹です。城の大手門まで数百メートルほど歩きますが、早くも石垣が姿を現します。かなりの高さの石垣で、期待