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中山道の加納宿にきた道は、茶所の名鉄名古屋本線の踏み切りを越えて加納宿の入口しなる加納八幡町にいきました。ここから加納大橋を渡り加納宿の東番所跡にいきました。ここは柳町を曲がった善徳寺の手前にあり、ここが加納宿の東口になります。道はここを後にして左接していくと前方に浄土真宗本願寺派の、親鸞にゆかりの善徳寺があります。ここの少し西には専福寺でここには信長が、専福寺や門徒が石山本願寺に加担することを禁じる朱印状や豊臣秀吉、池田輝政が発注した文章が残されている。寺院を後にして進んでいくと右側
今日は愛知県一宮市へ行った。先週の土曜日に、愛知県豊橋市の豊橋市二川宿本陣資料館を訪れた際に一宮市博物館の特別展「岐阜街道」が11月24日まで開催中と知って、この土日の休みに観に行かなければと今日は午前中から出掛けた。一宮市博物館で特別展のテーマとなった岐阜街道は、別名「御鮨街道」とも呼ばれ、江戸時代には尾張藩の藩庁所在地の名古屋と尾張藩領だった岐阜を結ぶ主要街道として、そして岐阜の長良川の鵜飼いで獲れた鮎を名古屋や江戸へ運ぶ輸送ルートとして尾張藩が整備管理していた
2025年11月19日水曜日いい天気です御嶽山(木曽)もくっきり望めますさて・・一宮市博物館@ichhinomiya_city_museum一宮市大和町妙興寺2390イサムノグチ特別展岐阜街道なぜ岐阜街道は「御鮨街道」と言われたのか?※許可を得て撮影しています一部の資料は撮影禁止です一宮市博物館–一宮市博物館の公式ウェブサイトです。愛知県一宮市博物館のウェブサイトです。www.icm-jp.com
上画像は、岐阜市加納八幡町の石碑「鏡」。花筒を見ると、左右に「鏡岩」「妙壽寺」、台座には「鏡岩濱之助」とあるので、ここはかつての妙寿寺跡。鏡岩濱之助の建立ということになるでしょうか。また、道標の文字は「江戸木曽路」「東海道いせ路」、側面には「天保十二年辛丑十一月鏡岩濱之助」「建之」。修復された形跡があり、台座も補強されているので、移設された可能性もあるのでしょうが、手前の交差点がかつての木曽路(中山道)と、熱田で東海道いせ路に合流する岐阜街道(笠松街
(前回「岐阜街道:一宮から清須へ(中)」より続く)岐阜街道を稲沢市下津町から、清洲駅に向かいます。家並の中を南進すると、東海道本線に沿って歩くようになります。ここはかつてはの稲沢操車場で、現在は愛知機関区。上画像の電気機関車は、EF510-508。かつては、寝台特急「北斗星」を牽引していたでしょうか。青地に金色のストライプが見えます。同市井之口町に入ると道端に、祠と常夜燈。そして、四ツ家追分
上画像は「赤池一里塚址」。碑文には、四ツ家追分から下津一宮黒田を経て、岐阜に向かう岐阜街道の一里塚であった。この街道は十六夜日記又源平盛衰記等にも出ている。昭和四十四年五月稲沢ロータリークラブ建之と書かれていました。下津、一宮、黒田は、近世の岐阜街道であるともに、中世の「海道」筋。例えば、下津~一宮間に位置する「赤池」は、鎌倉時代中期の成立とされる慈光寺本『承久記』*に、去程ニ、海道ノ先陣相模守ハ、橋下ノ宿ヲ立テ
先日、JR尾張一宮駅発で、岐阜街道を歩いてみました。岐阜街道は、松田之利編『街道の日本史29名古屋・岐阜と中山道』(吉川弘文館、2004年)によれば、岐阜から加納・笠松・一宮をへて四ツ家追分に至る約26kmの道のり一宮市『一宮市史下巻』(1939年)の第八編第一章第二節第一項「岐阜街道と一宮宿」に、平岩親吉尾張藩家老の時即ち慶長年間當地から岐阜への直通道路を開設せられ、岐阜街道の一驛となった。と書かれているように、一宮は岐阜街道の宿駅でした。
笠松町歩き、御鮨街道を歩き笠松の旧市街を北から南に縦断しました。今、最南端の木曽川堤防上にいます、例の木戸跡の辻から、まずは街道の西側の町をうろつきます。左、いせ道方向に。こちらも街道ですからよい感じの道。古い木製の町名の表示板。笠松別院の前で堤防に登っていきます、この道はこの先は町を出て堤防を行く道なので、今日はここまでで折り返します。コンクリート製の防火用水。右から書かれているのでかなりの年代物ですが現役?歴史ある大きな町なので街道沿いでない道にも
お休みの日に時間があって、朝早くには動き出せなかったのですがどこかに行きたい。岐阜街道(御鮨街道)上では比較的大きな岐阜県笠松の町、街道歩き時にスッと通り過ぎただけだったので一度うろうろ歩いてみようと思い立ち、名鉄電車でGO。御鮨街道というのは岐阜街道の別名(江戸に献上鮎鮨を運んだことによる)です、岐阜でもこの名前を多く解説板や案内板に使っています。やや遅めの午前中、笠松駅に降り立ちました。電車内から東口のあたりがレンガ建築に見えたのでこちらの改札から出てみました。おー!って
名鉄岐阜駅。今日は岐阜市内に残る古い町並みを探して歩きます。岐阜市内は戦災でかなりの範囲を焼失しています。しかし北部(岐阜公園あたり)は比較的被害をうけなかったエリアです。国立公文書館デジタルアーカイブここに全国の都市の戦災地図がありました。古い町並みの残る町を探すヒントになりそうです。他にも江戸時代の国絵図なんかもあって興味深いサイトです。人気の川原町はその代表ですが今まで岐阜に行った折、住宅地にも古い家が点在しているようなので気になってました。今日はスマホの地図
今回の杉屋佐助さんは、愛知県愛西市佐織町渕高にある道標です場所は名鉄尾西線の丸渕駅と渕高駅の中間点から東へ150mほど行った所へありました。日光川右岸から一つ中の道です。道標は祠の前にあります。しかし、見ての通り電柱とピッタンコ!!!『郷土文化50巻』では「文字が書かれているが、電柱に接し確認できない。」と記載されています。なるほど確かに!このため、これまで北面に何が彫られているか謎とされていました。(※ぷかぴこ調べ)名古屋郷土文化50巻は1996年に出版されたた
・・・ここから、今回のJR清州駅までは、さらっと・・・見どころは、以前歩いた岐阜街道との分岐点である四ツ家の追分があることでしょうか・・・・・・追分までは、何処にでもあるようなフツーな風景の中テクテクです・・・・・・追分までは、東へテクテク・・・・・・近くまで来ました・・・・・・踏切渡った先に追分の石標・・・・・・追分先を右折し南へ・・・・・・以前アップした長光寺と道標・・・・・・この道標は、大きく
・・・あと少しなので、のんびり歩きます・・・・・・この辺りからは、趣のある建屋が見られるように・・・お店を構えている建屋が多いですね・・・・・・広い道に出ました・・・ここからは、岐阜城がよく見えます・・・・・・岐阜街道は、この道路を渡り北へ・・・・・・この辺りは、初めて歩くのですがなかなかいい雰囲気です・・・・・・堤防道路手前を右折し・・・川原町へ向かいます・・・・・・狭い路地を出たら左折します・・・・・・そしてこの先の橋を渡
・・・ここからは、岐阜街道を岐阜公園まで4.2㎞をテクテク・・・・・・名鉄名古屋本線を渡ります・・・・・・岐阜街道沿いには、岐阜公園までの距離が道路にペイントされています・・・・・・今度は、JR東海道線の高架を潜ります・・・・・・岐阜街道は、路面舗装をうすだいだい色のカラー舗装となっています・・・・・・案内板も設置されています・・・・・・こんどは、名鉄各務原線を渡って一枚・・・・・・さあここからしばらくは、フツーな道の
・・・岐阜街道は、少しの間中山道と重複します・・・・・・中山道と御鮨街道の道標・・・・・・茶所から左折、西に進むこと50mほどで、右折北へ・・・・・・右に、加納宿の案内石版を見ながら橋を渡ります・・・・・・橋を渡ったら、正面に駐車しているワゴン車の前を左折・・・・・・ここには、石標が・・・・・・秋葉神社を通過・・・・・・この辺りの、道路側溝のグレーチングは・・・・・・県道1号線岐阜東通りを渡ってすぐの広い市道との隅に
・・・名鉄竹鼻線踏切渡ってからは、ジミーな街道歩きとなります・・・・・・建物の下をくぐっての神社・・・・・・春日町の交差点を通過・・・・・・三つ目川を渡ります・・・・・・鏡川沿いを・・・・・・鏡川を渡り、県道14号線を北上し、西川手8交差点を渡り・・・・・・そして東川手5交差点より、右手の道に入ります・・・・・・愛宕神社・・・今回街道筋に多い感じ・・・・・・昔ながらの、道筋っぽい・・・・・・馬頭観音と??神社・・・・・・橋のそばの建物・・・和洋折衷・・・・・・順勝寺前を・・
・・・ここからは、木曽川を木曽川橋で渡ります・・・・・・右手に、歩行者専用の橋で・・・・・・橋上からの風景・・・・・・アップで・・・左手山の山頂には、ちっちゃく岐阜城・・・・・・橋を渡り、右手に・・・笠松湊跡へ・・・・・・遠くに、138タワー・・・・・・雑草茂る中に・・・笠松湊・・・・・・新しい?道標・・・・・・全体・・・・・・横には、芭蕉句碑・・・・・・ここの休憩所でもぐもぐタイム・・・1時間ほどま
・・・今回は、JR木曾川駅からスタートです・・・・・・まず、気になった黒田小学校にある黒田城跡を見に行きます・・・・・・街道とは、反対方向へ・・・すぐに、小さな公園に正岡子規の碑・・・・・・今回の街道巡りは、好天時は、青色のワンポイントカラーで、曇りがちの日は赤色のワンポイントカラーでパシャしています・・・今日は、赤色のワンポイントカラーをメインとしています・・・・・・ワンポイントカラーで撮影してますが、同時に通常カラーも保存するようにセットしてますので、所々では通常版を掲載・・・
・・・酒見神社を出てからは、県道190号線をトレースします・・・・・・しばらくすると、道路沿いに野宮神明社・・・・・・ここの狛犬君は、一風変わり種?・・・・・・神明社横には、祠もありました・・・・・・これと言ってパシャするのがないので・・・・・・馬寄バス停・・・・・・時刻表は、1時間に1本・・・・・・馬寄交差点の先は、県道は名鉄を高架で跨ぐ形となりますが、街道はその手前で県道から別れ沿線に沿って進みます・・・・・・道筋に、石刀(いわと)神社
・・・前回に続き岐阜街道をお写ん歩・・・今日もいい天気・・・・・・で、JR一宮駅からの再開です・・・・・・アーケードに到着・・・・・・アーケードを抜けて行くと、正面に新清田神社が見えてきます・・・・・・神社を後に街道へ・・・・・・振り返って、一枚・・・・・・今回は、JR木曽川駅当たりの黒田地区までを予定・・・・・・この辺りの街並みは、いたってフツーな街並みです・・・・・・街道(フツーな市道)から県道190号に合流し、
・・・続きです・・・・・・右折してからすぐに、右手に山神社・・・・・・地蔵祠を右に見ながら・・・・・・信号交差点を越えます・・・・・・渡った先での風景・・・左手には頓乘寺と、趣のある建屋・・・・・・このお宅は、かなり立派な建屋でした・・・・・・またもや地蔵祠・・・・・・そして、郊外に出ました・・・・・・そして、コーナーの所には・・・・・・昭和天皇御巡幸碑と赤池一里塚が・・・・・・この辺
・・・続きです・・・県道136号を右折し、北へむかって歩きます・・・この道は、せまいですが一応県道155号線です・・・・・・常夜灯を見ながらテクテク・・・・・・すぐ横は、JR東海道本線・・・・・・数百メートルも歩くと、東海道本線からは離れていきます・・・・・・住宅の間からは、以前養老山地の庭田山頂公園から見えた稲沢市の三菱電機の高さ173mのエレベーター試験塔・・・・・・下津下町辺りに差し掛かりますと、街道の雰囲気がぐっとアップしました・・・
・・・今回は、岐阜街道をお写ん歩開始・・・岐阜街道は四ツ家追分で美濃路と分かれ、一宮宿を通り木曽川を渡り笠松宿から、中山道の加納宿に至りさらに北に進み、尾張藩領の岐阜町に至る街道で、岐阜の方からは尾張藩が長良川で獲れた鮎を鮎鮨にして江戸の将軍家へ献上するため継ぎ送った道で、「御鮨街道」と呼ばれたそうです・・・グーグルマップでは、鮎鮨街道とYAHOOマップでは岐阜街道と表記されます・・・・・・今日は、JR清州駅近くのコインパーキングに車を止めて、JR一宮駅までお写ん歩しました・・・・
「御鮨(岐阜)街道」は歩き終えましたが、その周辺を散策しています。岐阜城を見上げる金華山の麓に「岐阜公園」があります。ここは戦国時代の「斎藤道三」や「織田信長」の居館があったところです。元々このお城は、鎌倉時代に砦が築かれたとされます。この城が歴史に登場するのは、天文8年(1539)斎藤道三が入城し、ここに居住したことにはじまります。当時は「稲葉山城」と呼ばれ、城下は「井之口」と呼ばれていました。道三は息子義龍に家督を譲り剃髪入道しますが、その義龍との不和から争いとなり、長良川河
「岐阜街道(御鮨街道)」歩きは、「旧家・岡本家」からです。群雄割拠の戦国時代の永禄3年(1560)、岡本太郎右衛門が創業したと伝えます。岡本家当主・岡本太郎右衛門は、寛政2年(1749)朝廷より御鋳物師の免状を授かり、京都御所に燈籠を献上し「鍋屋」の商号を与えられたそうです。以来、鍋・釜・梵鐘などを鋳造してきた名家です。道角に置かれた、大きな梵鐘が目を引きます。16代続く地元の名家で、現在は精密治具など各種機械部品を主力とする、8社グループをなす地元有力企業です。梵鐘といえ
岐阜街道は中山道と合流し、加納宿に入りました。「岐阜(市)」といって思い浮かぶのは…*金華山(岐阜城)*長良川(鵜飼)*織田信長*斎藤道三などでしょうが、皆さんは何が思い浮かびますか?「加納宿」とか「加納城」が思い浮かんだ人は、よほどマニアックな人でしょうね。家康が直接縄張りした城ですし、10万石の城下町でした。岐阜街道は、南広江の交差点で右に曲がるのですが、折角ですので、左に曲がり、中山道「加納宿」と「加納城跡」に寄ってみます。加納
「岐阜街道」歩きは、木曽川を越え美濃・笠松に入ります。もちろん往時は「宝江の渡し」でした。この地は尾張国葉栗郡にありました。天正14年(1586)の大洪水により、葉栗郡と中島郡を引き裂くように木曽川の流れが大きく変わり、それまで境川が尾張・美濃の国境でしたが、この洪水の結果、木曽川を尾張・美濃の国境とし、葉栗郡と中島郡の一部が美濃国に編入されたのです。木曽川橋から見た「笠松港」です。笠松は一時期地方行政の中心地となり、木曽川の水運を利用した物資の集散地として発展します。明治に
「岐阜街道」歩きは、尾張一宮に向かいます。「真清田神社御旅所」がありました。ここからしばらく北上したところに、本社はあります。その境内の一角に「一宮市塚跡碑」がありました。しばらく進みますと、本町商店街に入ります。この商店街は「真清田神社」の門前町として栄えたところです。商店街は全蓋式アーケードが設置され、歩行者専用道路となっています。「旧名古屋銀行一宮支店」は、大正13年に建てられたものです。今は一宮
中部縦断歩きをリメイクして綴っているのですが、思わず「美濃路」に分け入ってしまい、垂井まで歩いてしまいました。美濃路の途中「四ツ家追分」から分かれ、「岐阜街道」に進みます。岐阜に向かいますから「岐阜街道」ですが、岐阜の人から見れば尾張に向かうわけですから「尾張街道」と呼ばれます。美濃路の「四ツ家追分」です。岐阜街道は、ここを右に曲がります。ここから岐阜町までが「岐阜街道」です。追分でしたからそれなりの旅人が行き交い、茶屋も数軒あったようです。
さあ宝江渡し跡にある道標前から「右津しま起道」に歩き出します。起(おこし)とは美濃路の木曽川渡船場のある起宿です。すぐに右手にお地蔵さまのお見送り。起への道は・・・見ての通り明らかに高低差のある堤防道路でした。この堤防は「御囲堤(おかこいつつみ)」です。江戸時代に作られた木曽川左岸、尾張藩(愛知県西部地方)の穀倉地帯をを水害から守る長い長い堤防。御囲堤(wiki)水土の礎濃尾用水拾余話御囲堤の功罪この水土の礎というHP、特に「国土を創造した人々」というコー