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現在、飛鳥時代の古代史の謎を一つ一つ解読して行っています。現在進行形なのでどんどん進化していっているわけですが、今回は舒明天皇とは何なのかを考察して行きたいと思います。まず根本は天智天皇と天武天皇とは実の兄弟ではないという原則からスタートしています。天智天皇は百済の武王の子で義慈王の弟、百済人です。天武天皇はおそらく新羅系。名前まではまだ特定できていませんが、儀鳳暦の名前の付け方からこの暦は新羅から導入されたことがわかります。また泉涌寺には位牌が無いことなどから天智とは系統は違うでしょ
草薙剣を奉還し、約1年間の年月を掛けたお役目を成し得たことで、ホッとしていた...。もう、やるべきことはやった...終わった...と思っていた。しかし、私がこの世に生まれる前に設定してきたストーリーとそのお役目は、まだまだ続く...。たくさんの過去世が折り重なり、まるで、すべての「生」が同時に動いているかのような感覚に襲われる...。が・・・、文字通り、同時に動いている...。多くの過去世が、ここに・・・、この「今」に、同時に存在し、たくさんの未来世も同時に
乙巳の変(1)乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し、大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密に...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(1)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
23.12/10sun.13:45-17:09近鉄信貴山下駅から13:32発バスで終点「開運橋」駐車場待ちの乗用車に、適当に下車西方守護神白虎像から北に上り坂を、朝護孫子寺仁王門へ開運バンジー、飛込む人に遭遇して大寅を過ぎ赤門をくぐるかやの木稲荷左に、聖徳太子騎馬像左に上り坂を、玉蔵院へ浴油堂に参る右後方の三重塔霊明殿大和十三仏霊場第11番阿閦如来(あしゅくにょらい)おんあきしゅびやうん下り戻って、成福院を左折三宝荒神・不動明王堂を右折東
「山背大兄王」聖徳太子家みなさん、おはようございます!11月、霜月です10月の行動をさらに実践してくださいさあ、今日「11月1日」の國史を学びましょう!「山背大兄王、没」皇極天皇2年(643年)山背大兄王(やましろおおえのおう)は聖徳太子の息子(長男)です推古天皇(33代)の後継候補となりますが大臣の蘇我蝦夷(馬子の子)の意向で田村皇子が舒明天皇(34代)となります舒明天皇の後継候補でもありましたが蘇我蝦夷が中心となって検討し皇后が皇
それは、斑鳩の法輪寺『いつも明るく元気よく』と『気持ち良くご利用頂こう』がモットーの"めだか"こと、窪田泰伸です。先日、前々からちょっと気になってたお寺に行って来ました。そのお寺は、飛鳥時代に創建され、飛鳥時代の仏像と飛鳥様式の三重塔で知られる古刹。法隆寺の近くにある『法輪寺』というお寺です。創建の由来は、2説あります。ひとつは、聖徳太子の息子である山背大兄王と、その子、由義王らが、聖徳太子の病気平癒を願って622年に創建し
昨年末、2泊3日の奈良県墳活一人旅の最終日、12月30日に訪れた古墳、続きです↑まずは国土地理院の航空写真(赤い文字はふっき~が加筆)地理院地図/GSIMaps|国土地理院今日アップするのは平群中央公園内にある西宮古墳です↑西宮古墳、南西側から一辺約36メートル、高さ7.2メートル以上(築造当時は8メートルほど?)、三段築成の方墳。↑西宮古墳の解説板↑木陰で石室入口がハッキリと写ってないですね↑墓道からは須恵器の杯蓋、高坏片が
2023卯0312022年10月28日(金)『2022年秋聖徳太子まほろば御朱印巡りPart2』初日斑鳩に来ました法隆寺(聖霊院)をお参りしたあとは飛鳥時代創建の古刹別名“三井寺”と呼ばれている法輪寺を参拝御朱印三種を拝受しました聖徳宗法輪寺前回の参拝blogです『07.法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)』2014年11月21日(金)“奈良・世界遺産巡り”初日この日最後の御朱印巡り飛鳥時代の仏像を祀り昭和50年再建の三重塔で知られる“法輪寺”を参拝御朱印を拝受し…ameb
「山背大兄王」聖徳太子の息子ですみなさん、おはようございます!11月、霜月ですね11月は30日ですから、過ぎるのは早いですよ気合を入れ直して過ごしたいですねさあ、今日「11月1日」の國史を学びましょう!「山背大兄王、没」皇極天皇2年(643)山背大兄王(やましろおおえのおう)は聖徳太子の息子(長男)です推古天皇(33代)の後継候補となりますが大臣の蘇我蝦夷の意向で田村皇子が舒明天皇(34代)となります舒明天皇の後継候補でもありましたが
☆西宮古墳(平群町西宮)大和国平群郡奈良県生駒郡平群町西宮(キレイに整備された「平群中央公園」内、駐車場やトイレ等完備)「生駒山地」と「矢田丘陵」の谷地に、南北に流れる「竜田川」に沿って形成された「平群谷(へぐにだに)」。古代に権勢を奮った平群氏が拠点とし、大和から河内への中間地点として歴史が刻まれた地でも。また谷地であることから、幽界の地であったのではないかという捉え方も。この西宮古墳と平群城跡を中心として「平群中央公園」が整備されています。石室は開口され(蓋石は無し)、石棺も
22.07/17sun.15:05-17:20近鉄平群駅から北の、吉備内親王墓南東に、長屋王墓東に、三里古墳南に、椿井宮山塚古墳を巡り椿井井戸から集落を西に下って、右折左折上平バイパス左折、右折して竜田川を渡る橋から北西にあたる、西宮古墳へまっすぐ西、近鉄線を渡り右折して整備された丘の裾、西に方墳一辺36.5m築造7世紀中葉-後半石室羨道に近づいて巨大石材を成形して精巧に組み合わせ両袖式横穴式石室(岩屋山亜式)内部に、刳抜式家形石棺を残す平らに成形された
思い出ブログ❤️✨6月12日、『和をもって貴しとなす』太子町公演無事千秋楽を迎えることができました☺️✨2日間4回公演、たくさんのお客様が丸尾建築あすかホールまで足をお運びくださいました😌ご来場くださいました皆様、応援くださった皆様、ありがとうございました😌💕聖徳太子ゆかりの地での再演。服部町長はじめ、太子町の皆様にたくさんのお力添えをいただきました😌ご縁に深く感謝致します✨『和をもって貴しとなす』とは?1400年前の太子から届いた今を生きる私達へのメッセージなのか
太子町3陵目に、推古天皇陵へ🛵。。。大阪府南河内郡太子町PLの塔が見えました参道を進みます。気持ちいい〜こんもりお山が。立派ですねぇ。推古天皇(額田部(ぬかたべ)皇女・炊屋姫(かしきやひめ))は、欽明天皇の娘で、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)である。敏達(びだつ)天皇の皇后となり、592年の崇峻(すしゅん)天皇暗殺事件の後、39歳で即位し、日本初の女性天皇となった。初めは飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)(のち豊浦寺)で、次に小墾田宮(おはりだのみや)に移って政治を行った。仏教文
景行天皇山辺道上陵から三輪の大神神社の大鳥居前を通って桜井市へ。🛵奈良県桜井市忍阪556集落の奥まったところにありました。良い雰囲気ですねぇ階段を上がります。第34代舒明天皇押坂内陵拝所。🙏飛鳥時代(在位629~641)の第34代天皇。田村皇子と称する。敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子を父とし、その異母妹のを糠手姫皇女を母とする。姪にあたる宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)を皇后とし、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)
和をもって貴しとなす3日間、千秋楽まで無事に公演を終えることができました✨ご観劇くださいました皆様、応援くださった皆様、ありがとうございました😊💕北林佐和子先生が壮大なスケールと斬新な演出で描かれた素晴らしい作品✨名役者の皆様、歌劇の皆様、ゴスペル、和楽器、日舞、ダンスと様々なジャンルのプロフェッショナルな方々との共演は刺激的で学び多き日々でした☺️✨蘇我入鹿、大役をいただきました😌大阪城天守閣館長北川央先生の監修、北林佐和子先生の作・演出作品、物凄いことになるワクワク
皆様お元気ですか?毎日寒いですね〜//((´д`))ブル最近の朝はホットレモネードでほっこりして、お風呂でガシガシ筋肉を解してからGOです😀👍『和をもって貴しとなす』昨日から小屋入りして、今日も近鉄アート館でまるっと1日リハーサルです😊あ、蘇我入鹿さんは金髪じゃないよ👱♂️かつらです😁近鉄アート館の3面客席型の劇場は初めてです。いろんな角度からお客様に観て頂いてる意識、芝居の感覚もいつもと違っておもしろいっ😀私が演じます蘇我入鹿、歴史上では父・蘇我蝦夷から大臣の位
私が、幼い頃、近所のお姉さんが【聖徳太子】は「10人が話すことを一度に聞くことができるの」と、教えてくれたことが切掛けで興味を持ちました。【聖徳太子】については、古くから人々の信仰があつく、多くの伝説的な物語も加わったため史実と区別できない部分もあります。とくに平安時代以降、太子の伝記を絵にした(聖徳太子絵伝)や(太子像)がつくられました。父は用明天皇(ようめいてんのう)母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのこうじょ)【聖徳太子】は用明天皇のすん
『すみれの花愛とオマージュ』が無事に終わりました翌日から和をもって貴しとなす-幻説聖徳太子-お稽古に参加させて頂いております😀✨お稽古は昨年末から始まっていて遅れて参加となりましたが、エンジンフル回転で本番に向け熱い日々を過ごしたいと思います。鳴海じゅん、蘇我入鹿役をつとめさせて頂きます✨皆様のお越しを心よりお待ちしております😊💖聖徳太子1400年御聖忌記念歴史楽劇「和をもって貴しとなす-幻説聖徳太子-」作・演出北林佐和子監修北川央(大阪城天守閣館長)聖
法隆寺の謎を解く(ちくま新書)Amazon(アマゾン)1〜3,720円↑の本の続きです。法隆寺は世界最古の木造建築として、1993年に日本で初めて姫路城と共にユネスコの世界遺産に登録。ご近所の法起寺(聖徳太子の息子山背大兄建立)も遺産に含まれています。法起寺|聖徳宗総本山法隆寺www.horyuji.or.jp法隆寺は再建?日本書記に、法隆寺の同じ年に二回の出火が記されています。戦前の発掘調査から若草伽藍と呼ばれる現在の西院伽藍の東南に伽藍の跡が見つかりました。
中宮寺跡から歩いて北西へ10分ちょい。里山川に、金魚誰かが放したんか、お隣の大和郡山市から逃げて来たんか到着。雰囲気、良いですねぇ。創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の御子山背大兄王が太子の病気平癒を願ってその子、由義王とともに建立されたと伝えられています。☝️法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、三井(みい)という土地の名によって三井寺とも呼ばれています。三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。☝️三重塔。金堂。鐘楼。
小泉の南西、なだらかな丘陵を超えると広々とした田園が開ける。斑鳩町岡本の地だ。白壁の美しい集落の南には法起寺(ほうきじ)があり、飛鳥時代の様式を今に伝える三重塔が建つ。法起寺の景観を守るため、地域の方々が始められた休耕田のコスモス栽培・・・今年も人々の期待に応えて見事に咲いている。南門と三重塔三重塔法起寺(ほうきじ)は聖徳太子臨
ご訪問ありがとうございます。前回は予想外に長くなって^^;お疲れさまでございました。今回は続きです(*^-^)ノとりあえず前回貼り忘れた「日本書紀」の成立時期の検証と『番外※入門編「日本書紀」各巻の成立』ご訪問ありがとうございます。今回は山背大兄王襲撃事件の詳細を検証するつもりでしたが、この検証の途中で、どうしても「日本書紀」の各巻の成立順の説明をしないといけ…ameblo.jp前回(上)『飛鳥の風蘇我氏の興亡その17山背大兄王襲撃事件上』ご訪問ありがとうございます
ご訪問ありがとうございます。蘇我氏の興亡という題で語るなら、乙巳の変がそのクライマックスになるのですが、そこにいたる直前のこの事件が、蘇我氏本宗の滅亡の序曲ということになるのでしょうか・・・あの聖徳太子の弟や子孫23人全員が自害して亡くなるというショッキングな事件は、「日本書紀」や「家伝」にとどまらず数々の聖徳太子の伝記に伝えられてきました。そのほとんどが蘇我入鹿の独断で、罪無き聖徳太子一族が殺されたことを記しています。しかし、本当のところはどうなのか・・・なぜこのような凄惨な事件が起き
ぜんぜん休憩じゃないのですが横道にそれたお話です。皆さんは奈良に行かれたことがおありでしょうか?奈良と言えば東大寺の大仏さまがやはり一番有名ですが、藤原不比等が主導した都だけあって、藤原氏の氏寺興福寺が近鉄奈良駅の上がったところにドーンとあり、その奥東側の山麓に藤原氏の氏神である春日大社が鎮座しています。有名な奈良の鹿は春日大社の神鹿、殺してはいけないので、野生なのですが人間に慣れて、あちこちに出没します。(鹿せんべいを持っていると追いかけられますw)さて、この鹿はなぜ神鹿なのか?
ご訪問ありがとうございます。いよいよ645年の大化改新に至る経緯になります。今回の基本的な史料である「日本書紀」の「巻第二十四」は、皇極天皇の時代について書かれています。ところがこの巻、なんだか変なのです。気候の話も多いことから、何か日誌的なものが政府に存在していて、それを底本にしているのでしょうが、それ以外に童謡(わざうた)と呼ばれる風刺歌のようなものが多く書かれたり、天変地異があったり、また他の史料との食い違いもあるのですが、なによりも構成上自己矛盾が多く、時間軸もばらばらだっ
ネットで見かけたコメントで、「スラム街や、孤児のような酷く貧困な環境に生まれた人は生きるためには殺人や窃盗をしなければいけないのが事実。」との意味合いのものがありました。そこで今回は、生まれながらに恵まれない環境に育った人が犯す罪について、神が許すのか?ということをテーマにお話します。スラム街など、非常に貧困で荒んだ環境に生まれた場合、宗教などで言われる、「許しなさい」「汝の敵を愛せよ」「盗むなかれ。」「上着を盗
聖徳宗法輪寺(ほうりんじ)の創建は、飛鳥時代の推古三十年(622年)に聖徳太子の御子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、聖徳太子の病気平癒を願ってその子・由義王とともに建立した伝えられている。また、一説には「聖徳太子伝暦」「上宮聖徳太子伝補闕記」では、天智九年(670年)に斑鳩寺が焼失後、百済開法師、円明法師、下氷君新物の三人が力を合わせて造寺したとする説がある。昭和の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西院伽藍の三分の二であること、出土品の瓦・宇瓦の文様が法隆寺
ご訪問ありがとうございます。舒明天皇が亡くなった翌年正月、大后であった宝姫王が推古天皇に倣って即位式を行います。のちに皇極天皇と呼ばれ、史上初の生前譲位を行い、ついで史上初の重祚(2度即位すること)をして斉明天皇と呼ばれる女帝が誕生したのです。この即位は「嫡流」という意識で見ると予定されていたもののように思います。〔この「嫡流」という概念、もしかしたらどなたかが学説とされて発表なさっているかもしれません。ン十年前に「ヤマトタケル」の卒論で書いたのですが、教授が「よく気がついた」と褒めて
ご訪問ありがとうございます。前回取り上げました三国時代の半島のややこしさは6世紀から7世紀の日本にも大きな影響を及ぼすのですが今回は日本の内部に焦点を当ててお話をしたいと思います。さて厩戸皇子が亡くなった後、推古天皇は大兄皇子の指名を行いませんでした。当時、彦人大兄皇子の子の田村王は30歳、厩戸皇子の子、山背王も同じくらい、大兄としては不足はないものの、老齢の自分がぽっくり逝けば、ちょっと若すぎる天皇になってしまう・・・という不安があったのでしょうか?それなら厩戸皇子には同母