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2023年11月28日--------------------------------------------そうですね。全く同じという日はない。毎日を楽しみます。2022年11月28日--------------------------------------------武田四天王、山縣昌景。同じということはありえない。初心忘るべからず。油断するとやられます。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
明智遠山氏⑨「恵那郡史」【明知城の戦】②『信玄の死後、勝頼は稍もすれば坐屈せんとする甲信の大勢を挽回すべく、頓に其鋒を一轉して攻勢に出た。天正2年2月中旬、彼は父の遺圖をなさんとし、5カ国の兵を率いて美濃に発向した。是年4月中旬、甲兵は美濃方の苗木・中津川・今見・阿寺・大井・神箆、妻木、串原等の城砦を陥れ、明知城を包囲した。城主遠山民部友治死守して、急を織田信長に報じた。是に於て信長は其の子信忠と共に自ら出でて明知を援はんとした。之に従うもの在美濃の諸将池田・蜂屋
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おはようございます。(株)ハヤノ早野石材店のジャム爺&モモ&憲吾です。此間の木曜日は、定休日だったので親戚のお墓参りして…(笑)其処から、そんなに遠く無い場所に三増峠があるので…(笑)行って来ました‼️この日は、暖かくサイクリングには、最高でした‼️(笑)今回は、二回目(笑)前回の時は、雨☔️にも降られ周りたい所も回れず終いだったので、リベンジです。三増峠をググると、記念碑近くに武田方と北条方の戦死者の首塚、胴塚が近くにあり、其方も行って来ました。⬆︎胴塚は、
毎年恒例の設楽原と長篠古戦場での墓参り。夏場はお供え物で溢れてますが、冬場は少なくてスッキリしてます。真田信綱公、真田昌輝公のお墓。馬防柵武田軍最強・山縣昌景公のお墓。馬場信房公のお墓井伊直虎公の供養石次郎法師の供養石井伊兄弟の供養石小野政次公の供養石井伊直親公のお墓井伊家出生の井戸井伊氏居館跡。甘利信康公のお墓土屋昌次公のお墓閻魔三尊石像。丸佳浩選手は穴山梅雪になるか、石川数正公になるか。去年のお力添えの感謝と、今年の日本一に向けてのお力添えをお願いしました。
武田24将の中でも信玄近くに仕え、活躍した武将がいました。武田四天王です。武田家に仕えてきた譜代というより、高くない身分からの抜擢人事で重臣になっていた面子です💠。四天王のひとり馬場信春は信玄より、7才年上でした。本姓は『教来石』でしたが、震源に信頼され、甲斐の名門『馬場』を継ぎます。馬場信春は戦いにあってはかすり傷無ひとつ受けない豪の者でした。織田、徳川との長篠の戦いでは信春が殿軍を務めて勝頼を逃がします。奮戦し、討ち死にします🍀内藤昌豊は、旧姓『工藤』でした。父の虎豊は、信玄の父信
おはようございます。(株)ハヤノ早野石材店のジャム爺&憲吾です。本日も、町田市にある妙全院様にて埋葬式になります。11時から埋葬の為、1030時に来て準備を開始して…蓋を開けてる少しだけ…水が入っておりましたので…排水作業をさせていただき、埋葬。で、無事に終わりました。その後一旦会社に戻り昨日の現場作業の続きを…o(^-^)o川崎市、麻生区にある日蓮宗の常安寺様にて、新規墓所工事の為先ずは、現地の植木処理を(笑)しております。これから、昨日の続き
どうも‼️(株)ハヤノ早野石材店のジャム爺&憲吾です。本日、朝から近所にあるお寺様で砕石を敷き詰めてきました(笑)一回一回…バケツで…で終わり次第…トラック🚚の荷台にある砕石を土嚢袋に詰めてます^^後、小一時間くらいかなぁ詰め終えたら…彼岸明けにお渡し‼️ちと…暑いなぁ💦💦💦人とは…如何わがままな生き物だなぁ(笑)と痛感しております_φ( ̄ー ̄)さぁ〜やらねば終わらないし…やりますか(笑)本日もよろしくお願い致します(笑)今度の休みは…川崎市多摩区から…
井伊直虎女にこそあれ次郎法師(角川文庫)Amazon剣と紅戦国の女領主・井伊直虎(文春文庫)Amazon女城主・井伊直虎(PHP文庫)Amazon既存の本で描かれた小野政次の人物像と真逆の描きかたをしたして、持っていった33回は大河ドラマ史に残る出来映えでした。それ以外は不満だらけですね。井平合戦や高天神城戦といった井伊にとっての一大事で色々地元に伝承が残っているのを丸々飛ばし。井伊直親が暗殺されるシーンも、掛川城主朝比奈氏が今川氏真の命か独断か不明ながらも主導権を
掃討戦となった高天神城戦。あちこちに首塚が残る悲惨な戦場になりました。天正8年(1580年)9月、徳川軍は満を持して高天神城を攻撃した(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。勝頼も援軍を送ろうとするが、東西に敵を抱える状況でそれがかなわない状況が続いた。ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが討死して高天神城は陥落した。わずかに生き残った城兵は助命されたが、武者奉行孕
武田信玄は戦国時代、『武田騎馬隊』を率いて、『戦国最強』と呼ばれましたが、同時に『人を活かす名人』でもありました。『欠点があるからと言ってその人間を見限らない』『小さな欠点を見つけてお前は駄目だという決めつけをしない。』まさに『人を見て役割』を与えていました。意外かもしれませんが、『武田24将』と呼ばれた部将のほとんどか『武田の軍師』でした。『武田四天王』の山縣昌景、馬場信春は戦いに強いだけの猛将ではなく外交・調略も得意でしたし、新たに領地を得た場合、群代も務めました。武田信玄の軍
龍雲丸は生き残ったんで、次郎法師と結ばれるんかな。柴咲コウさんの唄うようなお経が象徴的な回になりました。小野政次は碁を通じて、今川氏は蹴鞠を通じて後世に名を残していくんですね。蘇りし者たちというのはそういう事でしょう。堀江城主大沢討伐で鈴木氏は討ち死に。近藤康用も脚に重症を負いました。下ったものが前線に配置されるのはさがですね。鈴木氏はその後、仏坂で井平城攻防戦にて後継ぎも武田氏家臣山縣昌景公に討たれてしまいます。声変わりもしてない少年の死を目の当たりにして、井伊直虎も虎松をあん
仏教では33という数字は霊場で用いられているように、非常に重要な数字になっています。これまで憎まれ役だった小野政次を容疑者Xの献身の石神のような役割で、葬ったのにはこの回でやらなければならない、脚本の妙があった気がしてなりません。小野政次は二宮神社に拙社として、神社を作られましたし、供養塔も二つあります。山縣昌景公の遠江侵攻で真っ先に逃げ出し、徳川家康公や井伊谷三人衆に洞窟で捉えられましたが、次郎法師と恋仲だったとする脚本最大の見せ場回でした。自分が愛した女性により処刑される。井伊谷を
天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて、武田勝頼は5月19日夜医王寺山本陣の軍議で決戦を決断し、諸将はそれぞれの陣地へ戻る。馬場信房は決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自分の陣所である大通山に同道してこの日の軍議を嘆き、このように事態になった上は、明日の戦いに一命を賭して戦うだけである。共に武田信玄公に引き立てられ、勝頼公の今に至るまで戦場を疾駆したことは数えきれないが、幸い今日まで命を永らえた。けれども、明日の一戦は最後となるだろう・
今川を支えてきた寿桂尼の死に、山縣昌景公を筆頭にした駿府、遠江侵攻。今川筆頭家老、朝比奈泰勝が内通者の首を跳ねて戦の口火を切る等、見所が多い29回でした。井伊谷三人衆が今川の凋落に応じて、井伊から井伊谷を乗っ取った小野政次の首を跳ねて、虎松が元服して領主を近藤氏に譲るまでが、井伊谷の歴史のワンセットなんですが、鳳来山に母親と共に逃げるというエピソードはカットされそうですね。松下氏に嫁いだしの。頭陀寺城のエピソードもカットかな。
今日から後半戦開始、野村祐輔投手対メッセンジャー。苦手な甲子園でスタートします。長野信綱寺にしか名前入りの墓がない、真田家次男昌輝公に特に祈願!真田家の草刈さんが演じられた、真田昌幸は三男になります。説楽原の地は赤備えの武田家家臣無念の地。供え物は絶えません。馬防柵でも、武田家家臣土屋昌次公が。モーニング娘。17の横山さんも長篠・説楽原合戦の真相を知りたがってらっしゃいました。小高い山が連なる、説楽原は敵勢を把握しにくく、馬防柵の存在が足枷になったんでしょうね。武田軍も鉄砲は配
やはり、小野政次は自分が犠牲になることにより、幼なじみであり恋い焦がれた次郎法師を救う。容疑者Xの献身の石神のような役割にする脚本になりそうですね。史実では妻子があり、武田家臣山縣昌景侵攻の際逃げ出した角で子供もろとも処刑されますが、井伊直虎への愛を貫いたとするんでしょう後醍醐天皇が築いた南朝側に与して衰退した、井伊家の先祖。その後醍醐天皇や宗良親王を滅ぼした、足利尊氏の血筋にあたる今川を見限り。源氏の血筋をひく、武田を滅ぼした徳川に与するようになるのは、五智如来を象った頭巾を付けた
山縣昌景の陣地跡から見た織田徳川連合軍の陣地⬆︎の住宅地の向こうに全長2キロに渡り馬防作が貼りめぐされてたみたい…⬆︎は、土屋昌次のお墓天正3年(1575年)の長篠の戦いで、敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死したという。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E7%B6%9A⬆︎wiki土屋昌次のお墓参りが終わり…この辺りを地図で調べると…まだまだあるじゃん古戦場跡の石碑。
内藤修理昌豊のお墓の近くには…横田備中守盛綱親子のお墓が…盛綱は、原虎胤の嫡男で、横田高松の婿養子になった人物因みに原虎胤のwikihttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E8%99%8E%E8%83%A4横田高松のwikihttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E9%AB%98%E6%9D%BE内藤修理亮昌豊、横田備中守盛綱の隣に勝頼の指揮所跡地がある。この辺は、高
おはようございます😃(株)ハヤノ早野石材店のジャム爺&憲吾です。長篠城址の続きです♪───O(≧∇≦)────♪見えないですが、断崖になっており更に川が流れて、敵の新入を拒んでます。⬆︎、内堀長篠城と言えば鳥居強右衛門‼️それが此方‼️観た方も多いかとは思いますが…味方を助ける為に、囲まれてる城から命懸けで、脱出し家康、信長に援軍要請‼️約定を取り付けたら、またその脚で城に戻る途中で捕まり…城兵に援軍は来ないと言えば命を助けると言われ、承諾城兵の前に…そこで
http://www.idaira.jp/index.php伊平観音の里には仏坂合戦という、井伊家と所縁の深い井平家が滅んだ合戦があり。三方原合戦の前哨戦と云われています。それと同時期に、少し北の長篠には満光寺という禅宗の寺が存在します。その寺の伝承が大変興味深い。伝承によれば、元亀年間(1570~73)、甲斐の武田信玄の軍勢に敗れた家康公の一隊が落ち延びてきたことがあったという。家康公の一隊は夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたが、その時、満光寺が目にとまり、そこで住職に頼み、
プロットである、小説・女にこそあれ次郎法師でもとわが人質として駿府に出向き、今川義元、大原雪斎と接見する件はあります。佐名・瀬名(築山御前)と竹千代(徳川家康)に出会うんですが。大河ドラマでは、戦国一のファンタジスタ。龍王丸(今川氏真)と蹴鞠勝負で勝つという。後の徳政令を巡る攻防の因縁の口火という印象を強くうけました。普段は頼りない、乳母のたけも目を白黒させながらも気丈に、手付けにされ棄てられた、井伊家から関口家に嫁がされた佐名の事を語ってくれました。井伊家家系図では井伊直平の息子
サヴァナーローラの刺客による、度重なる失敗に業を煮やした、戦国最怖の武士武田信虎は重いこしをあげた。自分の意に従わぬ重臣を撫で斬りにし、息子武田信玄に駿府に追放された狂気の人。鬼に最も近いと言われた、甲斐の国の魔人だ。真田一族が流刑になり、ちっきょさせられた九度山。高野山の麓に鎮座する、隠れ里にて武田信虎は英気を養っていた。真田一族は、甲斐の武田再興に力を貸してくれると武田信虎はふんでいた。だが、武田信玄や勝頼に遣えた真田昌幸や信繁、山縣昌景といった赤備えの英霊達はエンジェルクライや
伊平は観音の里として、井伊谷三人衆や井伊直虎の母君の出身地であります。井平観音の里の中心地にして、仏坂の戦で武田信玄公家臣・山縣昌景に滅ぼされた、井伊家の親戚筋、伊平氏の菩提寺にあたります。行基菩薩開祖の古刹。石仏の多い伊平には珍しく、金箔をあしらわれた仏像が鎮座されてます。近くには清水堂。日本唯一の微笑みの馬頭観音が鎮座する、松山観音堂と伊平は観音の里です。時代がカープ優勝を求めている!赤備えの先駆者よ、鯉に勇気を与えてくれ!薮田投手今期三度目の先発は真価が問われます。
甲斐九筋の一つに数えられる雁坂道は、甲斐と武蔵を結ぶ重要路として古くから開かれ、永徳4年(1384)にここに関所が設けられたと伝えられています。江戸時代関所は全国的に制度化されましたが、口留め番所は「番屋」とも呼ばれ、人や物資の流入を取り締まる役割を果たし、通行手形は栃本と呼応して発行されました。川浦番所は、15坪の敷地に番屋と門が設けられ、番人は1日2人ずつ24時間交代で任務にあたりました。当番日数は、川浦村6番、下荻原村2番、上柚木村4番、下柚木村8番、上釜口村2番、下釜口村2番、徳
彦にゃんの彦根藩の井伊の赤備えは有名です。最初に赤備えをしたのは、武田信玄の家臣甲山の猛虎とも謳われた飯富虎昌で家臣で、その弟山縣が受け継ぎました。武田家中では、山縣昌景意外にも小幡信貞、浅利信種の2名が赤備えとして編成され、総勢千騎だったということです。武田の赤備えが強すぎたため、赤備え隊というのは、精鋭部隊または最強部隊というイメージが定着し、真田信繁(幸村)や徳川精鋭部隊の井伊直政も赤備えを採用しました。赤胴鈴之助や機動戦士ガンダムのシャーもそうなんでしょうか?