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1月2日、NHK総合テレビで「日本最強の城スペシャルあなたも絶対行きたくなる!2025新春スペシャル」を見た。今まで行ったり、見た城が出てきて面白かった。まず登場したのが岡山県高梁市にある「備中松山城」山田方谷記念館を訪れた時、下から見上げるだけ(遠すぎていくのを断念)だったが強く印象に残った。<2023年11月:画面中央上>次に登場したのが甲府城(雅号:舞鶴城)山梨県立女子短期大学勤務時によく立ち寄った場所名物の石垣に寄ってよじ登り、降りる時顔を擦りむいた思
山梨県立女子短期大学(現在は山梨県立大学)の同僚、池田政子さん(心理学)が担時するFM八ヶ岳の「暮らしの羅針盤」に、私の名前がちょっと出るという知らせあり。テーマは「インクルーシブ教育」10月10日(木)9時、14時10月13日(日)20時タイムテーブル木曜日|82.2FMwww.yatsugatake.ne.jp「FM八ヶ岳」は「エフエム八ヶ岳(FM82.2MHz)は、市民や企業の皆さんの会費で運営されている特定非営利活動法人(NPO)の放送局で、市民が自ら情報発
山梨県立女子短期大学時代の同僚・池田政子さんがパーソナリティを務めているFM八ヶ岳の番組「暮らしの羅針盤」が30回目を迎えている。30回目にあたる12月14日の放送は、ドイツ在住30年、この5月に明野に「星の時間」というコミュニティハウスを開いた、稲垣眞理子さんが2回目のゲストで、ドイツのジェンダー平等とそれと対比的な日本の状況が話し合われている。ドイツの教育についてもかなり詳しい紹介がある。
今朝の東京新聞21面にのった記事。見出しは知られざる「産業『慰安所』」に光記事は、今年の「女性文化章」(文化を発信する女性たちを励まし、その仕事をたたえる賞)を高麗博物館(東京都新宿区)の朝鮮女性史研究会が選ばれたという内容。同研究会が知られざる歴史に光をあて2021年に「朝鮮料理店・産業『慰安所』と朝鮮の女性たち」(社会評論社)を刊行したことが表彰理由である。詩人の高良留美子さんが個人で創設した「女性文化賞」を引き継ぎ、今回の選考にあたった米田佐代子さん(女性史研
畏友・岡野進さん(明海大学名誉教授)の新著『日本人初の米国プロ野球選手三神吾郎』(創文企画)書評が4月15日付の山梨日々新聞に掲載された。春の甲子園高校野球で山梨学院大学高校が、山梨県勢として春通じて初の優勝というビッグニュースに押されて掲載が先延ばしになっていた。嬉しい限りである。
もうすぐWBCが始まる。大谷選手も侍ジャパンに加わり、活躍が待たれる。日本のみならず、アメリカ大リーグのプロ野球選手も加わっての大会だがそもそも日本人初のプロ野球選手は誰だったのか?またまた畏友・岡野進さん(山梨県立女子短期大学時代の同僚)が本を出した。これである。書籍情報:創文企画【スポーツ・体育・レクリエーションの出版】(soubun-kikaku.co.jp)それは大正念に、アメリカでプロ野球選手となった三神吾郎である。彼の生れは山梨県旧制
初めて担任なるものを経験した山梨県立女子短期大学幼児教育科12期生の一人がこの度『ルーちゃんの一日』という絵本を出版し、贈呈してくれた。嬉しい限り。文を書いた中村千恵子さんが卒業生。その文にあう素敵な絵を書いているのが「ふくだかよ」さん。出版社は文芸社で、発売は実は2月1日となっている。この可愛らしい絵本をみながら、二つのことをが頭に浮かんだ(絵本そものの感想はまった別途にするが・・・)一つは我が家で共に暮らしたイングリッシュスプリンガースパニエルの「クッキー」
今朝の東京新聞に漂泊の歌人、山崎方代(ほうだい)のことが紹介されていた。まずこの歌が出てきた。茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだこれが載っている歌集名が『右左口』(1973年)だ。記事ではふりがながふったあるから読み方が分かったが、そればなければ私は読めなかった。「うばぐち」とフリガナがある。この歌集名は、おそらく、彼が生れた、当時の山梨県東八代郡右左口村(現在は、甲府市右左口町)に由来するようだ。山梨県立女子短期大学時代には一度も聞いた
今朝の東京新聞に、山梨県立大学に関する残念な記事があった。大きな見出しは「原発避難者の出願一時拒否」次の見出しは「山梨県立大『住民表県内にない』その記事がこれ。同大学の前身の一つである山梨県立女子大学に身をおき、同大学での推薦入試制度導入をめぐり深夜まで議論をたたかわせたことを思い出しながら、未曾有の震災のことを考慮しない、まさに「お役所的対応」になんとも情けない思いをしている。出願を受け付けるかどうかを教授会で決めたのか、教授会は蚊帳の外だったのか、などよくわからないこと
この古墳は1992年くらいに全容が判明したようなので、筆者が山梨県立女子短期大学にいた時代には、一部の人にしか知られたいなかったようだ。ぜひ、行ってみたい。このYoutubeもどうぞ苅谷俊介私と考古学の自由時間①民間考古学者・苅谷俊介誕生の裏話!石原裕次郎さん&渡哲也さんとのマル秘エピソード大いに語ります!苅谷俊介が考古学のロマンを大いに語る第一回俳優だった苅谷俊介がナゼ、考古学と出逢い民間考古学者になるまでにハマっていったのか?その裏にある石原裕次郎さん・渡哲也さんと
いつものように終活として本の整理をしていて、気がついたことがあった・その本とは、戦前・戦後日本の「特殊教育」発展に尽くした川本宇之介が書いた『総説特殊教育』である。特殊教育に関する歴史、思想、制度、日本だけでなく、アメリカやイギリスもとりあげてまとめたもので、かなりボリュームがある。私が川本に注目したのは、教育刷新委員か(後には教育刷新審議会)のメンバーであり、戦後の特殊教育に関する重要な発言をしていたからであるが、今日はその点は省く。実はこの本、後ろの奥付をみると発行年が昭
すでに本ブログで書いてこともある「山梨県男女共同参画推進センターの「集約」(廃止)」について、施策の見直し・反対を訴えている山梨県立短期大学時代の同僚が新たにWEB署名の取組を行っている。ぜひ、このサイトhttp://chng.it/pJJtxb76nCに入って署名をお願いしたい。これまでの取組については以下の通り。1.皆様からも多くの賛同者・団体をいただいた「請願書」(現3館の存続と機能強化)が、県議会の全会一致で議決、採択されたました。さらに、これも皆様に遠方から送ってい
これまで三館あった山梨県の「県立男女共同参画推進センター」のうち2館が閉館されそうである。閉館が予定されているのは「ぴゅあ富士」(都留市)と「ぴゅあ峡南」(南巨摩郡南部町(この南部町については八戸市訪れた時にしった奥州南部氏ゆかりの地)。元山梨県立女子短期大学時代の同僚Iさんからの情報である。突然舞い込んできたこの話に、長年、男女共同参画センター(ぴゅあ総合)の活動にかかわてきたIさん(県男女共同参画審議会委員でもあった)は驚き、2館閉鎖に反対し、継続をもとめるため【山梨県立男女共同
1976年9月から1982年3月まで山梨県立女子短期大学(県短)に勤務した。5年7ヶ月である。その間のことは本ブログでいろいろ綴ってきたのだが、振り返ってみると、高校まで過ごした鹿児島と5年7ヶ月を過ごした山梨とのつながりはあったのでろうか、と思った。県短の教職員にも学生にも鹿児島出身者はいなかったし、山梨で知り合った人にもいなかった。知らべてみると、両県の市町村間に姉妹都市を結んでいることもない。ちょっと歴史をみても、明治時代の1903(明治36)年2月から1年半ほど山梨県知事を
1966年開学し、2006年に閉学を迎えた山梨県立女子短期大学のこの記念誌を送ってもらった。懐かしい顔が見られる写真やよく知っている教職員の文章が沢山掲載されていて見飽きない。本誌を読むと4年制の県立大学への移行が大きな課題になっていたことが分かる。そんななかで私が目ざとくみつけたのが、一緒に甲府で過ごした時期によく飲んだメンバーの一人であった伊藤喜良さんの文章である。ここに書かれている「青春の思い」は私にも共通する。「あの頃に、飲み、遊び、教え、議論した多
山梨県立女子短期大学(ケンタン)の校歌を作詞したのが、創立メンバーで児童文学者であった石森延男さんであったこと、そしてその内容については7月8日のブログに書いた。その校歌ができるいきさつを、彼自身がケンタンの『創立十年の軌跡』(1975,11)に書いている。そのファイルを、元同僚のIさんが送ってくれた。それによると、次のように回顧している。「これもある日のことだった。花井君(引用者注:初代の学長)が『校歌を作ってくれや。』という。いささかたいへんだと思ったが気にいった
ちょうどこのブログに書こうかな、と思っていた時、元同僚のIさんからメールが届いた。本文は長いが、今日のブログに関係する部分を引用させてもらいたい。「着任してすぐに、ここの校歌は素晴らしいと思いました。そして、「作詞:石森延男」というのを見て、ああ、あの人だと。小学生の頃、テレビドラマで「コタンの口笛」というのをやっていて、見ていて悲しくなり、なんでそんな差別(という言葉が浮かんだのではないような気がしますが)があるんだろう???・・と、子ども心に不思議に思ったものでした。その石森延男が
今でも記憶しているのだが、小学校3年生の大みそかのことである。ラジオから流れてくる第7回紅白歌合戦(昭和31年12月)で脳裏に刻まれたのは三橋美智也の「哀愁列車」だった。それ以来、三橋美智也ファンになり、とくに「古城」は好きな歌の一つとなった。その三橋美智也ファンであったにもかかわらず、彼が歌った「武田節」は全然知らなかった。初めて知ったのが19761年9月に赴任した山梨県立女子短期大学時代であった。その時の教職員一同の忘年会だったような記憶があるが、定かではない。赴任して以
5月10日に73歳の誕生日を迎えた。孫とのキャッチボールでボールが投げられなくなったことは昨日書いたが、視力も衰えてきている。もともと隻眼だし、パソ仕事が多いし、それに緑内障ときているから目が疲れるし、見えにくくなっている。あまり車の運転をすることはなくなっているが、それでも運転する時、明るし日差しからトンネルに入る瞬間である。前が見えなくなるような感じになる。逆走やアクセルの史間違いなどはないが、でも、そろそろ返上した方がいいのかも知れない。運転免許を取るた
4月30日19時のNHKニュースを見ながら、大いに不満を感じた。いま話題になっている「9月入学制・学年開始制への移行」について、日本教育学会会長の広田さんと、教職員の働き方改革問題でマスコミによく登場した内田良さんの員インタビュー。広田さんは、NHKに求められたからかも知れないが、移行のメリット・デメリットを解説、そして賛成派の尾木直樹さん、慎重派の内田さんが話すというものだった。だいたいNHKの構図が納得いかない。というのも、今回の移行案は高校生たちからの要望から始まってい
1977(昭和52)年4月に入学した幼児教育科12期生が卒業したのは2年後の1979(昭和54)年3月である。その卒業式のことや当時は当たり前に行われていた謝恩会なるものもあったのだが、写真がまったくないのである。その代わり見つけることができたのはその前年にあたる1978(昭和53)年3月のものである。一つは、岡野進さんを手伝っていた、というか、自分自身も下手ではあったが体を動かすことが好きだったバレーボール部員の卒業式後の記念写真。この中には卒業する11期生とともに12期
以前のブログでも名前を出した川上哲夫さん。私にとって偉大なる先輩同僚であった。川上さんも岡野進さんと同じく、私より5ヶ月早く山梨県立女子短期大学に赴任されていた。幼児教育科の美術担当である。美術部の部長でもあった。川上さんは学生からはもちろん教員からも慕われた人物であり、私にとっては恩人ともいえる存在であった。<ダンディ三人組の真ん中が川上さん>当初、西八王子のご自宅にも幾度となく泊めてもらったことがある。ただ、彼の当時の趣味であった渓流釣りにはなかなかついていけな
私のブログで紹介した『正岡子規と明治のベースボール』(創文企画、2015年)そして『日本野球の源流』(右文書院、2020年)の著者は明海大学名誉教授の岡野進さんである。しかし、彼は野球の専門家ではなく、陸上競技の、それもフィールドの専門家なのである。その彼とは実はや山梨県立短期大学時代に同僚としてお付き合いしてもらった。一般教育の体育担当の教員だったが、同年齢で、同期ということもあり、馬があった。短大時代もバリバリの走り幅跳びの現役で、オリンピック候補選手にもな
この写真に出てくる「霧ケ峰」と「鈴春」は山梨ン立女子短期大学の正門前にあった。<右側にあるスナックは、昔はなかった>「霧ケ峰」は洋食屋兼喫茶店で県短の学生さんがアルバイトやお客としてよく出入りしていたのを覚えている。お店のマスターが山男で、店内には高山植物の写真がたくさんあった。この写真の頃からそれほど時間がたたない時に亡くなられた。学生とは違い、私などは中華屋の鈴春を利用した。よく注文したのはチキンライス。麺だともやしそばだったような気がする。今、グーグルアースで
赴任した1976年9月の幼児教育科スタッフは10人で、次のようであった。教育学川瀬邦臣、筆者心理学安富利光、池田政子美術田中陽子、川上哲夫音楽照澤惟佐子、沢登芙美子体育石黒国男、上等久子しかし、幼教12期生が入学してきた1977年4月には、教育学のスタッフが川瀬邦臣さんから阿部真美子さんへと変わった。ドイツ教育史研究者の川瀬さんは東京学芸大学へと移られた。彼と入れ替わりにスタッフとなった阿部さんはモンテッソリ教育研究の第一人者で、幼児教育科にと
今では信じられないことだが、この時代は同僚とはもちろん、花咲く乙女たちともよく飲んだ。自分自身が学生の頃からそうだった。高校を卒業して大学に入るとお酒の洗礼が待ち受けていて、それは当時、社会的に容認されていた。それは県短に赴任した頃も続いており、未成年であった花咲く乙女たちが飲むことも普通のことであった。県短の学校行事であった「夏季ゼミナール」や菅平での「スキー実習」、中部地区の公立短期大学間のスポーツ競技大会などなどでは学生と教員とで飲んだ。花咲く乙女たちは、甲府市内
この4月に4年生になった教職希望者は教育実習の日程が延期になっている。今のままで、もし予定通りに教員採用試験が実施されるとなると(その可能性は低いが・・・)、多くの実習予定者は採用試験の結果が判明してからの実習ということに。ひたすら自宅で採用試験勉強をしながら、試験実施の日程を気にしなかければならない。気持ちの持ち方に苦労しそうだ。山梨県立女子短期大学時代の幼児教育の保育実習は、当時、甲府市内の私立幼稚園にお願いして行っていた。公立幼稚園(もともと数が少なかった)ではない。とい
終活の関係で多くの書籍を断捨離している最中なのだが、まだ残っていた冊子がこの『創立30周年記念誌』である。いままで気が付かなかったのだが、卒業生コーナーの中に「花咲く乙女」の一人である、幼児教育科12期生の寄稿文があった。書いているのはT.M.さん。旧姓にするとS.M.さんである。題名は「出逢いの中からーYUZEN'96」」である。主な内容は山梨県立美術館(ミレーの「種まく人」でよく知られている)で開催した「YUZEN’96友禅をアートとして」という展覧会について、その開催に
記憶が不鮮明になっているが、県短幼児教育科では毎年春、新一年生と二年生が合同で、宿泊を伴うゼミナール(幼教ゼミ)を開催していた。1976年(昭和51)年9月に、他の二人の教員とともに着任したばかりでペーペーで何も分からないままに「花咲く乙女たち」とこの幼教ゼミに参加した。(『山梨県立女子短期大学創立30周年記念誌の年表をみていたら、幼教ゼミナールはこれが第一回だったとのこと。二回目以降は野辺山になったと記してある)。甲府市北側にある愛宕山の中腹にあった県立少年自然の家が会場
手元に写真が一枚。写真には「52年度山梨県立女子短期大学(県短)入学式(幼児教育学科BS52.4.14)と書いてある。ちょうど43年前の写真である。(今年度大学に入学した学生たちの多くがこんな写真を撮れなかったのは残念である)それにしても4月14日が入学式だなんて、今にして思えば、遅い感じがする。長いこと、手元写真に写っている乙女たちが、この年に入学した幼児教育科全員の写真かと思っていた。でも、今日よく見たらBとある。人数を数えてみると27名。そうなのだ、幼児