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窓の外、目線の先はしなの鉄道小諸駅小諸城大手門、櫓門の窓からの眺めでした小諸城は、城が市街地より低い場所にある「穴城」とも言われる珍しいお城城跡の元になったものは信玄の軍師であったされる山本勘助の縄張りだと言い伝えられ現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるものだそうだ久しぶりに、三の門より小諸城跡の懐古園を散策園内、本丸跡に鎮座する懐古神社手水舎と社殿、そしてその扁額参拝参拝後、授与所にて書置きの御朱印をいただきましたなお、同じようなもの・・・御
さて、総選挙なんだが……これは……。まあ良いか。とりあえず見ていこう。大量なので、数回に分割。先ずは星5覇道者織田信長さん吟味済み『【信長の野望20XX噺】覇王の煌(1)』ちょっと放置気味になった。ようやくこのガチャの吟味だ。今回は多いので分割。そして変則的ではあるが、とある事情により吟味する価値があると予想される順にやる。先ず…ameblo.jp〈一言二言〉強力なスキルと唯一無二の固有。一度援軍で使ったら、その強さに、便利さに、惚れるぞ。大当たり!一位は伊達ではない。
期間:2024/05/14〜06/13天井:77※総選挙紹介状in2024が必要倍率:星5・2.5%、星4・20.0%※☆4武将のみ獲得するまで10%ずつ確率アップ覇)織田信長:古今無双の将呪)明智光秀:弑逆の赫焉射)雑賀孫一:建角身の導光呪)まつ:百万石の母呪)山本勘助:幻出摩利支天覇)北条氏康:虎朱印の権威覇)甲斐姫:東国の名玉覇)今川義元:東海の覇者覇)伊達政宗:奥州独眼龍呪)千利休:手捏ね楽茶碗星3薬)ねね:点心会席戦)冷泉隆豊:心眼・参呪)山内一豊:
2城目旧金井山駅が駐車場となっているので、そちらにとめてGO長野電鉄金井山駅の裏手、松代の東北に半島のように突き出た金井山山頂にある。南北に2つの郭が並び、細長い山の背を利用した山城で、寺尾氏の家老だった金井氏の砦と伝わる。クマ、大丈夫かしら…ちょい不安を感じながら少し上がると、この景色遊歩道なので、楽しみもある途中の不動明王さままたまた何やら…行ってきまぁすはい赤ブラブラを目印にGOこの辺りは石材屋さんが多く、なるほどと思いながら歩く金井山は「紫石」と呼ばれる石材
期間:2024/05/06〜05/07天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額呪)山本勘助:幻出摩利支天呪)高坂昌信呪)櫛橋光:錦心繍口呪)南光坊天海:天下随風呪)北条幻庵:幻庵おほへ書呪)真田昌幸:犬伏の画策呪)帰蝶:二藍の胡蝶呪)古田重然:達眼の数寄者星3呪)深水長智:妖特効・参呪)蜂須賀家政:邪特効・参呪)大関高増:妖特効・参©コーエーテクモゲームス
期間:2024/05/03〜05/10貴石:500戦)山本勘助:泣虫の教師師範)突破錬士師範)武田大師範©コーエーテクモゲームス
呪)帰蝶:凜然たる花糸呪)千利休:手捏ね楽茶碗呪)果心居士:幻妖法師呪)茨木童子:殃禍の副将呪)京極マリア:厳冬咲く花呪)山本勘助:幻出摩利支天呪)櫛橋光:錦心繍口呪)細川ガラシャ:気高き英姿呪)まつ:百万石の母呪)高坂昌信:苦心の諫言©コーエーテクモゲームス
『風林火山』を見終わりました去年30話目くらいまでみてたけど忘れてるところがあるからまた最初から見直したよ武田信玄の軍師だった山本勘助の話です(武田二十四将のうちのひとり)勘助がどうしたこうしたというより武田家について詳しく知らなかったのでそっちに興味が湧きました新しく色々知れて面白かったです武田信玄について知ったらライバルの上杉謙信が気になってくる。。てことで次は上杉繋がりで『天地人』をみはじめました上杉謙信の養子上杉景勝に仕えた、直江兼続の話ですワタシ的にイマ
こんばんは。☆彡今日もこちらは暖かい一日でした。雲が多かった気もしますが、最高気温は26℃前後でした。まだ黄砂が飛んでいる気もしましたが、洗濯して久しぶりに外干。さて、リコメやコメントが遅れていて大変失礼しています。実はこのGWどうしようかと、ちょっとドタバタ。最後のあがき。(笑)円安が続いているし、中東情勢もさらに緊迫化。完全に逆風ですが、なんとかその間隙を縫ってどうにかならないかと足掻いてみています。先日、弘前や金木の桜の記事をリブログしたところですが、弘前で桜が
桜が咲き誇る松代城跡・4K武田信玄の足軽大将、山本勘助が築城し川中島の戦いで武田側の拠点となった松代城(当時は海津城)その後は真田家が引き継ぎ真田十万石として信州松代を発展させました。現在は明治に建物が壊され石垣だけが残っていますが北アルプスや戸隠山などが望める絶景スポットで桜の季節には多くの花見客が訪れます。撮影日・2024年4月15日www.youtube.com
かぁたまらん我が神にして城取(築城)の武将ですでに最高軍師山梨の信玄祭りで武田神社に勘助役の方が出陣のため居られた姿はもう涙ものでした。
桜が咲き始めた松城城跡・4K北信濃ではあんずの花が散り桜(ソメイヨシノ)や山桜が咲き始めました。今日は自宅近くの松城城跡にでロケハンを行いました。花は3分咲き程度で曇り空ではありましたが県内外から観光バスなどで多くの花見客が訪れていました。見頃は今週末から来週の始め、満開になりましたら再度撮影に行く予定です。撮影日・2024年4月11日www.youtube.com
武田信玄の軍師だった山本勘助は、三河牛窪(愛知県豊川市)の出身とされ、板垣信方の推挙によって信玄に召し抱えられ、その信任を得て重用されたが、上杉謙信と戦った川中島合戦で戦死した。生誕地の石碑は、豊川市ではなく豊橋市賀茂町の住宅地にある。
小諸城A3サイズの完成#小諸城#小諸市#ジオラマ#お城#鍬匠甲冑屋
2月22日、長野駅へ降り立つ。大昔は日本で長野駅と奈良駅の2つだけが寺社風に造られていることで有名だったが、長野駅は長野オリンピックを機に改築したのだったかな。今はこんなビルになっています。駅の善光寺口、目の前のバス停から出発川中島古戦場を経由して、松代駅まで行く路線川中島古戦場の有名な像が描かれている。20分少々で川中島古戦場へバス代は20分でも500円以上。高い。しかも現金のみ。武田信玄vs上杉謙信による川中島の戦いは1553年~1564年に5
精進湖バイパスを抜けて甲府南インターから中央道に入り、双葉サービスエリアで休憩しました。山本勘助顔入れボードと、ハーブ園です。近くのスキー場や温泉の割引券が販売されていました。
※「国史跡松代城跡」石碑と案内板…巨大な石碑が目を引きます!松代城1️⃣100名城No.26松代城には、今回初めて行きました。松代城は、平城に属しますが、「甲州流築城術」が随所に見られる「名城」です。松代城は、元は「海津城」と呼ばれ、川中島を抑える「拠点」として、軍師「山本勘助」によって築かれます。その後、「上杉の抑え」として、武田四天王の智将「高坂昌信」により、ほぼ現在見られる姿に整備されました。豊臣時代、田丸直昌により、「土塁の城」か
信玄に仕える前の山本勘助ではないけれど世の中的に無名の自分が果たしてどんな風に評価されるのか自分で思っている実力と果たして相手が自分に感じるもの自分の外見だったり実力だったり年令、経歴、資格の有無、それらが、どんな風に映るのかをちょっと楽しみに感じる今日この頃山本勘助が武田信玄に出会ったことによって仕官が決まるその後も、ちゃんと実力を評価されて行って軍師にまで上り詰める武田家の前に、今川義元のところに仕官に行ったけれどそこでは
期間:2024/02/09〜02/11天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額呪)山本勘助:幻出摩利支天呪)高坂昌信:苦心の諫言呪)櫛橋光:錦心繍口呪)南光坊天海:天下随風呪)北条幻庵:幻庵おほへ書呪)真田昌幸:犬伏の画策呪)帰蝶:二藍の胡蝶呪)古田重然:達眼の数寄者星3呪)深水長智:妖特効・参呪)蜂須賀家政:邪特効・参呪)大関高増:妖特効・参©コーエーテクモゲームス
※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ巨大な「武田信玄VS上杉謙信銅像」…「法体姿」の謙信が自慢の大太刀を振るい、信玄に斬りかかる、「諏訪法性院鎧兜姿」の信玄が鉄製の軍配で太刀を受ける、有名な「三太刀七太刀」が題材になっています多くの観光客の「撮影スポット」となっています川中島古戦場史跡公園2️⃣川中島古戦場には、今回初めて行きました。日本合戦史に残る有名な合戦である「川中島の戦い」は、要衝地である「川中島」の争奪戦です。「川中
武田信玄の軍師だった山本勘助の物語。川中島の決戦で死す。主演は内野聖陽。武田信玄は市川亀治郎。その家来に板垣信方(千葉真一)。この千葉真一さんの存在感がすごかった。この人はアクションスターだと思っていたが、俳優としてすごい人だったのだと思った。信玄の側室になる諏訪の姫に柴本幸。この人は柴俊夫と真野響子のお子さんらしい。美人でした。信玄の母は言う。「国などなければいいのに」と。人が殺し合わなくてもいいからだ。山本勘助は言う。「そんな世はあり得ません」。だが、それから50年もしないうちに日本
三河牛窪(愛知県豊川市)の出身とされ、武田信玄の軍師となったが、川中島合戦で戦死した。墓は長野市松代町柴の河川敷にあり、古戦場は千曲川の対岸になる。
※武田信繁公首清め井戸…典厩寺境内内にあります信繁公は、信玄の退却を見届け、川中島八幡原信玄本陣まで移動、そこで壮烈な討ち死にを遂げます家臣たちは、信繁公の首と胴体を鶴巣寺(典厩寺)まで運びこの井戸で首を清めたと伝わっています信玄公は、信繁公の変わり果てた姿を見て、信繁公を抱きしめ号泣したと言われています武田信繁公の墓典厩寺2️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615
※山本勘助公の墓と信州柴阿弥陀堂案内板…千曲川河川敷にはかつて「信州柴阿弥陀堂」という寺院があり、善光寺詣での客が立ち寄り、「広瀬の渡し場」とともに大きく繫栄しましたその後、明治の廃仏毀釈や橋などのインフラ工事により、寺は徐々に衰退、昭和の大規模な千曲川改修工事のあおりを受け、移転を余儀なくされました現在は民家の片隅にひっそりと小さなお堂が残るのみとなっています山本勘助公の墓は、信州柴阿弥陀堂境内地に覆屋を伴った「霊屋」でしたが、現在は、ひっそりと河川敷の畑地にポツン
※山本勘助公の墓右側面碑文と案内板…山本勘助の出自や武田家に仕えるようになってからのことが刻まれています山本勘助公の墓信州柴阿弥陀堂跡3️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権
※山本勘助公の墓…四角の加工した石で巨大な「石組み土台」を造り、その上に大きな長方形の「加工石土台」、その上に「建立者鎌原重賢の碑文を刻んだ台座」、その上に「巨大な櫛型墓」が建っています櫛型墓には「山本道鬼(勘助の法名、入道名)居士墓」と刻まれています当時の「石材加工技術」高さを窺い知れる「貴重な遺構」と言えますさらに櫛型墓側面、裏面には、大林寺和尚が勘助公の生涯を称えた「漢文」がビッシリと刻まれています山本勘助公の墓信州柴阿弥陀堂跡2️⃣
※山本勘助公の墓看板…千曲川の堤防沿いの道を行くと、「山本勘助の墓こっち→」看板が道沿いに立っていました河川敷に降りる細い道があり、「ほんまにこんなとこにあるんかいな?」と思いながら進んでいくと「看板」がありました山本勘助公の墓信州柴阿弥陀堂跡1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1
松本行きの途中で小諸に立ち寄りました。小諸駅を降りて小諸城址懐古園へ。小諸城址は、木曽義仲の武将小室太郎光兼が現城址の東に築いた館に始まります。その後、1554年、武田信玄が侵攻。山本勘助に命じて城郭を整備したのが小諸城の原型となり、武田滅亡後は織田、徳川と支配が移りました。懐古園内のお蕎麦屋さんレトロな雰囲気が。山菜蕎麦をいただきました。素朴なお味、美味しかったです。園内にある懐古神社ー本丸跡に創建されました。社務所で小諸城御城印もいただけます。池の石の上に雪。寒かったで
※小諸城三の門と案内板…門上の扁額には「懐古園」の書があります徳川家16代家達公の書になります三の門は、二の丸の入口を守備する巨大な櫓門です平成5年に国の重要文化財に指定されています※二の丸から見た三の門の「裏側」…当初の三の門は、武田滅亡後、織田、徳川を経て秀吉家臣「センゴク権兵衛秀久」が小田原の役の戦功により、小諸5万石の大名に「復活」したときに天守(焼失)、大手門(現存)と同時に造られた建物でしたが、洪水により損壊しました現在残る三の門は、明和2年(1765)小諸3代藩主牧野