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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
現存する日本最古の茶室『待庵(国宝)』を見てきたお話です。待庵があるのは大阪府との府境に近い京都府大山崎町そう、あの「天下分け目の天王山」と呼ばれた山崎の合戦で秀吉軍が陣を構えた天王山の麓の町です。JR山崎駅から徒歩30秒駅前にある妙喜庵『豊興山妙喜庵』臨済宗東福寺派の・・・小さなお寺さんです通常は拝観謝絶です拝観は寺用のない日曜日の午前10:30と11:30の2回のみ見学を希望する一ヶ月以上前に、往復ハガキで申し込みをします志納金千円です待庵は天正10年(1582年)山崎
※和意谷池田家墓所案内板・・・池田輝政公の墓所は「一のお山」になります※和意谷池田家墓所石碑…平成10年に国指定史跡になっています池田輝政公の墓1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2
※勝龍寺城公園主郭跡内にある細川忠興・ガラシャ銅像…勝龍寺城は明智玉(ガラシャ)が輿入れした「細川ガラシャゆかりの地」です毎年11月には「細川ガラシャまつり」が開催され、武者行列、ガラシャ輿入れ行列が練り歩き、多くのひとでにぎわいます山崎古戦場7️⃣勝龍寺城②山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「
※勝龍寺城模擬天守風資料館、模擬塀、模擬隅櫓、南水堀…かつて、勝龍寺城には天守(殿主、守)が存在し、南西隅に巨大な三重の望楼型の櫓(殿主)が建っていました水堀は、かつては東西南北にありましたが、市街地化により、消滅、現在は南、東水堀が残っています水堀幅は、現在でも10m以上あり、昭和初期ごろまでは倍以上あったようです城址は、平成4年(1992)に「勝龍寺城公園」として整備され、模擬建物が建てられ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場6️⃣勝龍寺城①
※境野1号墳に建つ「明智光秀本陣跡」の石碑と案内板…境野1号墳は明智光秀が「山崎の戦い」で布陣した本陣跡と言われています境野1号墳は、サントリー京都工場内にあるため、フェンスに囲まれ「立ち入り禁止」になっていますサントリー京都工場は、見学可能ですが、以前バスツアーで行ったときも、工場内に「光秀本陣跡」があることは全く知らず、ビールを飲みまくって終わりました境野1号墳は、従来まで光秀本陣跡「御坊塚」とほぼ「断定」されていましたが、ここから徒歩数分の所にある「巨大古墳・恵解山古
※天王山ハイキングコース山頂付近にある酒解神社大鳥居、案内板、神輿庫…酒解神社は中世期に現在位置に移りました神輿庫は鎌倉時代建立の建物で、国内最古の神輿庫建造物です山崎古戦場4️⃣山崎城②山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行
※天王山歴史マップと山崎城跡案内板…天王山はハイキングコースになっています(山崎城に登るのはちょっとキツイですが・・・)山崎古戦場3️⃣山崎城①山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っ
※山崎宝積寺山門…仁王門とも呼ばれる江戸時代初期建立の巨大な門です府登録有文指定されています山崎古戦場2️⃣宝積寺山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。
※天王山夢ほたる公園案内板…山崎古戦場跡は京都縦貫道造成工事、近年の学校建設、宅地開発、田畑化などにより、陣跡などは消滅、痕跡を窺い知ることは出来ません現在は、推定激戦地付近の京都縦貫道高架下に「天王山夢ほたる公園」が造られ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場1️⃣山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったと
天王山制覇天下取ったどー。#山崎城#天王山城#天王山宝寺城#城#城跡#山崎の戦い#山崎#京都#明智光秀#羽柴秀吉#日本100名城#続日本100名城
こんにちは😊Kelly0121です。今回は明智光秀について投稿させて頂こうと思います。以下、明智光秀との会話です。↓「貴方の出身地は何処ですか?」明智「美濃だ。」「秀吉と戦い、その後坂本城に帰城できましたか?」明智「しなかった。」「(坂本城を出た後)途中で誰かに殺されましたか?」明智「殺されていない。」「自害されましたか?」明智「そうだ。」「自害される前に何かおっしゃいましたか?」明智「(自分自身に対して)悔しい!!」(言ったというより大絶叫)明智「ただ悲しい。(
続・福知山城。二回に収める予定だったが…あ、これ無理だわ…ということで急遽三回に分けます。第35期竜王戦の第4局が福知山城で行われこちらがその時に使われた部屋っぽい。将棋はあまり興味ないので詳細はわからんwこちらはシアター室柱や梁、格子窓も時代調で好印象。松平時代の福知山城模型天寧寺文書光秀~秀満時代の福知山の展示明智光秀の福知山支配秀満の福知山支配明智秀満書状の複製素槍丹州住通明の在銘地元福知山で元々は野道具
織田信長は最も人気のある戦国武将の一人である。天下統一まであと一歩のところで、家臣の明智光秀に攻められ、自害して果てた。明智光秀の謀反がなければ、織田信長は天下の覇者となっていた。どうして、本能寺の変は起きたのか?諸説あるが、いまだに謎である。次のエッセイは、文書の作成日は2021年1月19日なので、この日に書いたものと思う。この機会に?この機会?という紹介は?だが、ご紹介したい。本能寺の変は、どうして起きたのか?その謎を解き明かす重要な手紙
2023年公開作品。北野武監督の最新作で、2003年に公開された『座頭市』以来となる時代劇です。北野武監督の作品はデビュー作『その男、凶暴につき』からほぼ全て映画館で鑑賞しています(1995年公開の『みんな~やってるか!』だけはレンタルビデオでの観賞でした)。監督の作品と私は相性が合うようでして、あまり評判の良くない作品でも私は常に楽しんで観る事が出来ました。初期の作品では映画館はガラガラでしたが、『HANA-BI』でベネチア国際映画祭の最高賞を受賞してからは観客
実力キャスト勢揃いということもあり、昨日のレイトショーで鑑賞。現時点での映画COM評価値は3.4と並み以下。私の評価は面白いところもあり、映像の迫力は間違いないけれど、映画ということだと一体何を見せたかったのか良く分からず5/10。生首がボンボンとんでおり、R+15指定・・・グロイのが苦手な方にはお勧めできないが、実際の戦国ってこんな感じだよねぇ、というところを感じたい人にはお勧め。粗筋はこう。・・・・・・・・・・・・・天下統一を目指す織田信長は、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社
こんにちは。昨日の総合ジャンルランキングが7位でした。ランキングジャンプアップ<嬉しい!これからもどうぞ応援よろしくお願いしますいつも訪問やいいね!を本当に有難うございます。人気記事ランキングで100位内に【マイクラ】マルチワールドでカエルハウスを作る...か...カエル欲しいぃ!!!!!(発狂)が24位にランクインしました。サンキュ──ヾ(*'∀`*)ノ──♪急に寒さが厳しくなりましたねつい3,4日前まで半袖でも大丈夫だな~って言っていたのが嘘のよう!30度近く合
明智秀満(129)「寛永諸家系図伝」『天正十年、明智日向守光秀滅亡のとき、藤右衛門(妻木広忠)江州坂本西鏡寺(西教寺)において自害する。光秀が伯父たるによってなり、時に六十九歳、法名宗真。』6月18日、西教寺にふらりと妻木広忠が供を連れ現れた。広忠は坂本城で戦死したと聞いていたので、僧侶たちは腰を抜かすほど驚いた。しかし、そんなことはお構いなしに、広忠は僧侶たちに矢継ぎ早に指示を出し、ここに明智一族の墓を作るように命じた。やがて満足したのか、僧侶たちの
明智秀満(128)「言経卿記」『十七日、一日向守内斎藤蔵助、今度謀叛随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六條川原ニ被誅了。一粟田口ニ去□日ニ、明智日向守首ムクロ等、相續張付ニ懸了、斎藤蔵助同前也、其外首三千餘、同所ニ首塚ヲ被築了。』山崎の戦いで中川・高山隊と死闘を演じた利三は、堀秀政隊の横槍に崩れ、北に押し出された。利三は二人の息子と旗本を伴い、夜戦の中を生き延びた。乱戦の中、戦線を離脱して、何とか丹波国に逃げ込んだのである。ここで利三は旗本と
明智秀満(127)「兼見卿記」『六月十五日、壬申、慥申来云、向州於醍醐之邊討捕、一揆其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々、(中略)。十六日、癸酉、向州頸、筒体、於本能寺曝之云々。』「兼見卿記」は同時代に記された一級史料である。当時に流布していた「噂」や自らの生活を書き留めたものである。「6月15日、確かな話として、光秀は醍醐の辺りで一揆に討ち取られ、その首は村井清三によって信孝のもとに届けられた。16日、光秀の首と胴体は本能寺において晒された。」
明智秀満(125)一戦交えて昼過ぎに秀政は坂本城に到着した。その頃、先鋒の直政が既に三ノ丸にまで進出していたのである。「オレ達は左馬助を討取ったぞ。監物(直政)、戦況はどうだ。」と意気揚々と秀政が言うと、直政は怪訝な顔で「現在、その左馬助と交渉中です。」という。「え~。」というと秀政らは顔を見合わせ、どうなっているのかと首を傾げた。「左馬助が申すには、この城には天下の宝物がたくさん保管されていて、この城とともに失われるのは国の損失であると申しております。国行の刀
明智秀満(124)秀満が天守に戻ると知恩院から逃れてきた光忠がいた。「次右衛門、足は大丈夫か。」と問うと、「ああ、玉は抜いたが、あまりよくない。」と光忠は足を開いた。紫色に腫れ、膿んでいる様だ。「弥平次兄さん、こんな時に済まない。」と光忠は言う。「いや、次右衛門がいてくれて大助かりだ。皆に指示を出してくれ。」と秀満は言った。秀満は地下に保管されている焔硝を天守に移動させ積み上げていく。「吹き飛ばすのかい。」と光忠が問うと、「ああ、ここでみんな死んだこ
明智秀満(123)「太閤記」『惟任は明知勝兵衛尉、進士作衛門尉、村越三十郎、堀毛與次郎、山本仙入、三宅孫十郎などにしつれ忍出、落行、其より小栗栖へ出て行處を藪の中より、さきにのりつる村越を鑓にてつきにけり、され共胴丸のさねとよかりしかは突止す、次に乗行騎兵を突たるに惟任の右の脇をしたたかにつき入てけり。』庄兵衛の部隊は追いすがる堀隊を排除しながら、京都を目指して進んだ。「おい、嘘だろう。秀吉は何をしているのだ。」と走りながら庄兵衛はあきれ果てた。待ち伏せど
明智秀満(122)勝竜寺城の門が開き、伝五が率いる5百人の丹波衆が出撃した。「いいか、後は振り向くな、ひたすら北に向かって進め、必ず丹波に辿り着ける。オレを信じて進め。」と伝五は兵を鼓舞した。「明智が城から出たぞ。」と羽柴勢は大騒ぎになった。しかし伝五は不運であった。庄兵衛は坂本城撤退を想定して、羽柴勢は京都方面に主力を置き、待ち構えていると思っていた。しかし羽柴勢はそのような布陣をする余裕はなく、戦場に疲れ果てたまま、城の周りに散在していたのである。このため想定以
明智秀満(121)「待て、待て、さすれば、本物の殿はどうなさるのか。」と伝五は尋ねた。「殿には光重らとともに、隠し口から南山城の隠れ家に逃れてもらう。そこでご出家いただき、我らの菩提を末永く弔ってもらおうと思う。」と庄兵衛は言った。その話に広間の諸将は沈黙したのである。その沈黙を破ったのは荒木行信であった。「よし、その影武者、オレが引き受けた。」というと、佩楯の隙間から、矢で傷ついた太ももを見せた。「勝ち戦なら、治療も受けられようが、このままではいずれ歩
明智秀満(120)「浅野文書」『即勝竜寺を取巻候へど、明智め夜落ニ退散候處を、悉首を取、或河へ追籠候儀者、我等覚悟して仕り候、歟、就其、、明智め山科之藪の中へ北入り百姓に首をひろわれ候事』庄兵衛が勝竜寺城に入ると、城内から大きな声が上がっていた。何やら一悶着あったようである。「何事だ。」というと山岸光重が進み出た。「父上が、お腹を召されようとしたので、皆でお止めしました。」と言った。「殿は何をされているのだ。」と庄兵衛は少し腹を立てた。「今、殿がお
明智秀満(119)「浅野家文書」『同十二日ニ、池田(恒興)を致同道、同中河瀬兵衛(中川清秀)、高山右近令談合、山崎表へ馳せ上り申候へど高山と瀬兵衛と御先をあらそひ候間、筑前申様は、高山申も無餘儀候、手先之儀候條、一番合戦之所ニ陣取り固め、瀬兵衛と申談、合戦之陣取尤之由申候而、両人山崎之内ニ陣取をかためさせ、其次々天神之馬場迄、我等者を取續陣取を大坂へ人を進上申候間、働陣可申候、信孝様を相待、富田ニ一夜陣相懸申候事』秀吉の接近を知った光秀は淀城と勝竜寺城の補強を
明智秀満(118)「池田氏家譜集成」『扠、秀吉は十一日(注:実際は9日早朝)姫路を出勢して上られける、池田紀伊信輝兵庫ニ而出向ひ、先公不慮に傷害の事、互に涙せしあへす、ちからを合せて、光秀を討つへしと也、秀吉今より別而入魂の爲なれば秀次を信輝の婿に約し、信輝二男輝政を秀吉養子とぞ盟ける、其日十二日尼崎へ着陣なれば、池田父子、中川、高山、惟住、合し、軍評議有り、扠池田紀伊守信輝剃髪して勝入とぞ號しける、秀吉剃髪、』秀吉の「中国大返し」は分からないことも多い。まず、備
※こちらの記事は、令和2年12月18日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第36弾として、「山崎(やまざき)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦第13回野
"次男の織田信雄は、長男の信忠と同じく生駒家の娘・吉乃から産まれた。11歳の時、父・信長の伊勢国司北畠侵攻の際に和睦の条件として、北畠家の養子となった。更に北畠家の姫を娶り、元服した当初は北畠具豊、後に家督を貰い受けてから信意と改めた。"一方の信孝は、北伊勢の豪族の娘に産ませた子で信雄よりやや先に産まれたと言われている。しかし、母親の家格によって三男にされたとも。ここから二人の間には確執が始まっていたと噂された。"信意が北畠の家督を継いだ翌年に事件が起こる。信意が信長と企て、義父の