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カエル姫です。土曜日は近場の低山トレッキングJR山崎駅で降りて天王山を目指します。改札から東へ数百メートル、踏切を渡り正面の森の中へこの踏切、運が悪いと5本くらい上下線が通るのを待たねばなりません。5分以上待たされた。運河悪かったのね急坂を登ると、大山崎山荘美術館と宝積寺の分岐点美術館は下山してから、まずは宝積寺へ宝積寺の山門、奈良時代創建と伝わる古刹宝がつくほどお宝が一杯あるらしい。お宝その一:豊臣秀吉が一夜で築いたと伝わる三重塔、重要文化財。
「山崎の合戦」光秀の人望と謎みなさん、おはようございます雨が続きます才能開花に励みましょう芸は身を助けるですさあ、今日「6月13日」の國史を学びましょう「山崎の合戦」天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の10日後羽柴秀吉は、山崎(京都府長岡京市)で明智光秀を討ちました秀吉は信長から毛利輝元の勢力圏である山陰・山陽の中国攻めの途中備中高松城・清水宗治の沼城に苦戦していました信長に援軍要請し、明智光秀を送るという回答を得
GWの中日、いい天気も今日限りとのことで、「山崎の合戦」で「明智光秀」を迎え撃つべく「羽柴秀吉」の拠点となった「山崎城」(京都府乙訓郡大山崎町)に行ってきました。「天正山崎の合戦陣系図」(下記のマップ裏に掲載)「山崎城」の歴史と城主について、先にお話をしておきますと、実は私は「山崎城」があるとは全く知らず、「山崎の合戦」が繰り広げられた場所だったと認識していました。しかし当城は、1470年に山城守護の「山名是豊」が西軍に対抗する為に築いたお城で、1538年には「細川晴元」が城の
山の神さまがお休みで、いちばん下の息子がいたので、3人でハイキングに行った。阪急大山崎駅〜宝積寺〜旗掛けの松展望台〜酒解神社〜天王山山頂〜小倉山〜十方山〜水無瀬の滝〜離宮八幡宮〜阪急大山崎駅休み休みのゆっくりペースで4時間弱😝宝積寺聖武帝勅願所真言宗智山派天王山宝積寺|京都府大山崎町のお寺さん(通称宝寺)宝積寺は京都府乙訓郡大山崎町にある真言宗智山派の寺院(通称宝寺)です。神亀元年、聖武帝の勅願に行基菩薩により建立されました。歴史上多くの武人文人が訪れられたこの宝積寺にお参り下
さてさて……………京都地下鉄東西線「東山駅」近くの【坂本龍馬お龍「結婚式場」跡】を訪ねたココロは、そこから南へこの日最後となる目的地へと向かった………【白川】沿いを南下すると、その目的地はすぐに近づく事が出来る…………この路地を入るようだ本当にこんな場所にあるのかなあしっかりした案内看板も設置されているそして、無事に到着ーーーーーっ⑨【明智光秀の塚】京都府京都市東山区三条通白川橋下る東側【明智光秀の塚】すなわち【明智光秀首塚】のようだ天正10年(1582年)、『本能寺の変』
日曜に試合があった長岡京市周辺は歴史のなかで重要な土地柄です794年「泣くようぐいす平安京」と覚えた平安遷都奈良の平城京から京都の平安京に都が移されたと学びました実は平城京と平安京の間の10年間幻の都「長岡京」がありました(長岡京市HP)時代でいうと奈良時代後期制度の改革や蝦夷の統治など国家の立て直しと平安京の基礎をつくった重要な時代となりました規模も平城京・平安京とひけをとらず東西4.3km南北5.3km平城京に
GWは大文字登山で始まり、締めは天王山登山で締めくくることになりました。明智光秀と豊臣秀吉の争いの舞台となったのが天王山です。出発は阪急西山天王山駅。登り口は大山崎から登る予定なので、1駅分電車に乗ってもいいんだけど、運動のためあえて歩きます。最初のこの坂がなかなか急な坂。普段ならば避けたいけど、歩く!って決めてる時はこういうしんどい所上がるの好き宝積寺こちらのお寺を通り抜けて登山道へ秀吉が1日で建てたと伝えられる三重塔。だから一夜之塔だったのかぁ両側は桜。来年はここ
【食育クイズ:Vol.906】「京都府」の「郷土文化」おさらいクイズ!「京都」の「天下分け目の天王山」と言われる地域の名は?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.905】(「京都府」の「宴文化」おさらいクイズ!「京都の曲水の宴」!曲水を流れくる「盃」を乗せているものは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】古代の「中国」から日本に伝わったとされている「上巳(桃の節
天王山には、山崎の合戦の絵図もありますし。豊臣秀吉公によります、旗立の松もあります。二代目ですけど。そして、こちらには。展望台がありまして。合戦の地も、見渡せます。そうです、戦いは、天王山で行われたわけではないのです。それが、どうしたっス、スポーツにおける重要な戦いを天王山と呼びますが、正しくは天王山山麓の湿地帯と言うべきなのです。やめとけっ酒解神社さんにも、ご挨拶申し上げましたらば。いよいよ、天王山の山頂が、目の前です。金鳥サッサ15枚楽天市場263円低山なんや
11月13日土曜日、天王山を走りました。鹿児島旅行中のランによります、脹脛の張りが残っていましたので。チョビっとだけにしようと思います。いつもや、いつもっスタートは、JR山崎駅の9時40分。今回は、ムリせず、ゆったりと。それも、いつもや、いつもっあっ!くろしおパンダ号です。動物園マニアのジダンの為に、神様が与えてくださった瞬間です。偶然や、悪運が強いだけや、くそポンコツっまずは、天王山登山口があります、宝積寺さんを目指します。いきなり、急勾配の坂道を上がりましての。宝積
昨夜バラエティ番組で光秀の特集がやっていました。山崎の合戦で敗走する際に農民の竹槍で光秀は討たれたというのが一般的ですがどうもそうではないという内容でした。光秀は生き延び、比叡山延暦寺で僧になり、南光坊天海と名乗りやがて徳川家康から秀忠、家光と三代に渡り将軍に仕えたという話。しかもそうすると如何にも辻褄が合うのです。もともと光秀と家康は旧知の仲。そして豊臣家は共通の敵。南光坊天海は、関ヶ原の合戦にも家康の側近として参戦しました。岐阜県山県市でも、敗走する光秀が生まれ故郷の美濃に戻り、山県
6月13日は山崎合戦の日です。ということで、天王山へ。空模様が心配でしたが何とか無事に登ることができました。そして、この合戦で勝利した秀吉が築いた山崎城跡にもそして途中宝積寺さん通称宝寺観音寺通称山崎聖天さんにもお参りして来ました。途中色々な紫陽花が咲き乱れていました。最近、流行のハート型♥️をみっけ。そして、私が大好きな真っ白の紫陽花。そして、展望台からの眺め。この時は雨は降ってなかったけれど厚い雲に覆われていました。山道は雨でぬかるんでいて何度か滑り
健康維持のために、天王山にハイキング登山してきました♪お天気は曇りでしたが(^_^;)かわいいマンホール(◍•ᴗ•◍)豊臣秀吉と明智光秀聖武天皇建立の宝積寺に参拝♪歴史あるお寺で山崎の合戦では豊臣秀吉が陣を敷いたそうです。豊臣秀吉が1日で造ったと伝わる三重塔!ご本尊は十一面観世音菩薩商売繁盛にご利益があるといわれています!山崎の合戦の碑景色の良い場所に出ました♪山崎の合戦図あじさいがキレイでした。(◠‿・)—☆天王山山頂!標高270㍍水無瀬の滝を目指して下
これまで山崎の合戦で光秀が敗れたのは予想していた以上の早い速度で秀吉軍が高松城から200kmも駆け抜け戻って来た(中国大返し)からだが通説でした。ではなく秀吉は摂津衆と言ういわば現地調達2万の大軍を有名な大嘘の手紙で恫喝、懐柔して戦わせ勝利した。が、私的な考えであり認識です。言葉悪く言えば秀吉のカラクリ(すり替え?)にまんまとハマっていたのかも知れません。以前アップした高松城水攻め↑、山崎の合戦↓の秀吉軍の配置図を今一度見比べて頂ければそれは明らかです。両陣地で共通し
先週、高鷲スノーパークで滑った後、岐阜市の北、山県市の桔梗塚に寄り道してみましたたまに通る道ですが、数年前はなかった様な看板で、「明智光秀公の墓」なんて書かれた看板をスキー帰りに目にしていたんで、気になっていたので寄り道。山県市には明智光秀が生まれたとする言い伝えがあるそうです。(諸説ありますが、岐阜県の可児市御嵩の辺が、有力だと思いますが)夕方5時過ぎだったせいか、1台も車が停まっておらず、車を降りると夕方になって、日が陰ったせいもあると思いますが、冷気が、ザワザワ
6月月13日午後4時頃戦いは始まり秀吉軍3万数千、光秀軍1万6千の軍勢が激突したものの短時間で決し光秀は勝竜寺城に撤退します。個人的に思ったのは、秀吉軍のおよそ半分の軍勢で戦う光秀軍です。なので地形をもっと利用しても良かったのでは・・・↑の画像の赤線が両軍が激突した戦線。斜め下の黄色の×印付近が天王山の山裾と桂川・宇治川・木津川に挟まれた隘路(大部隊の通過及び行動が困難な地帯)になっていて、その幅約200m弱。・・・そうすることで兵力差を無効化する事も出来、違った展開と
前回の続き京都の大山崎町にある離宮八幡宮へお邪魔して神紋(社紋)が八幡神社の三つ巴紋でなく大神神社(奈良県)の三本杉紋だったことに違和感を感じ大神神社→杉の紋→杉玉発祥の地と来ればお酒???となりこちらの離宮八幡宮さんが八幡大神と共に御祭神として祀られているというお酒の神さま酒解大神(大山祇神)を考察する為近くの天王山にある酒解神社(さかとけじんじゃ)⛩へお邪魔することに相成りました♪(´θ`)ノでは先ず酒解(さかとけ)大神
今日は、あーやんの卒業コンサートめっちゃキラキラしてはった・・・T^T19日が卒業公演ブラアラキ麒麟編の後編高槻城を後にし、高槻駅から2つ目山崎駅で下車光秀と秀吉による天下分け目の合戦、所謂「山崎の合戦」の地元(京都府大山崎町)「麒麟がくる」では山崎合戦は海老蔵のナレーションだけでスルー・・・俺が代わりにやってやんよ!ψ(`∇´)ψ駅の直ぐ側に天王山!(因みに光秀・秀吉は天王山では戦っていない)更に言えば、幕末の禁門の変で敗れた長州兵が落ち延び、真木和泉達が自刃したのもここ天
2月10日(水)昼過ぎ。スマホの動画撮影を自分で自分にセットし、めちゃくちゃ恥ずかしいけれど…ヤケクソやぁ!いったれいったれーー!!自分をインハート(心の中)で励まし鼓舞しながら、今から赴く地元の名峰・若山について語り始めた・・・。そして…いきなりやってまいました⤵️そう、いきなり私は間違えた事を発言してしまった。第一に「豊臣秀吉が…」と言ってしまっている所。〈中国大返し〉の時の秀吉さんは、まだ羽柴秀吉さんだったにも関わらず、である。第二に「…天王山とは後でついた名前でしょうけ
『惟任退治記』には「弥平治、小舟を取り乗り、坂本城に籠る」とあります。秀満が馬で直かに汀へ乗り入れたのではなく、馬に乗ったまま小舟に移って湖を渡り、坂本城へ籠城したというのです。『乙夜之書物』にも左馬之助のこととしてですが、「明知左馬助安土ニ居ケルカ(中略)波ウチギワヲ懸通リ坂本ノ城ニタテ篭ル」とあります。安土から琵琶湖の波打ち際を通って坂本城へ逃れたというのです。前者の場合には馬ごと小舟に乗ったのを「湖渡り」と見間違い、後者のケースでは波うち際で馬を走らせた
今回の大河、一歩間違えるとオチャラケで終わる!!その危惧があった。これは、主に長谷川博己の好演によるところが大きい!!!秀逸な演技。ラストも微妙。途中、(このドラマを通して)信長は敦盛を舞わないし、口にもしない!!本能寺も、演じ手と演出と、脚本家の想いには微妙なズレがある。これ、決起の理由も、てんこ盛りして視聴者に投げた!!むしろ、駒で〆るより堂々と深掘りして欲しかった!!(余韻という狡さより正面から向き合って欲しかった)
安土城の守将だった明智秀満が山崎の合戦で明智勢が敗れた後、安土城を捨てて坂本城(大津市)へ逃げ帰ろうとしました。このとき彼が坂本まで馬に乗って湖水を渡ったとする伝説が残っています。江戸時代に生まれた伝承です。秀満は光秀の女婿や従兄弟との説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣の一人でもあります。彼は、坂本へ撤退する本道を敵(羽柴秀吉軍)に塞がれていたため、やむなく琵琶湖に馬を乗り入れたといいます。そこへ、羽柴勢の兵たちが渚際まで見物にやって来て、「溺
歴史に、特に興味があるわけではないけれど・・・。明智光秀公には少し興味があったので、ドラマは最後まで見ていた。観終わった後、ナンか隣の街のタメ息が聞こえてきそうな気が・・・。長岡京市と亀岡市だ。(^^;)長岡京市は、山崎の合戦があった場所。娘の玉が嫁いだ、勝竜寺城址↓や・・・。山崎の合戦で光秀公が陣を置いた、恵解山古墳↓とかある。ドラマが始まる前から、結構盛り上がっていたようだけど・・・。山崎の合戦
明智光秀を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が終わった。明智光秀が好きなので、その半生を描いた大河ドラマには大変興味深かった。また、これまでドラマで演じられている信長像とも違いやや興味深くドラマの行く末を見守っていたが、そのラストはネガティブな意味で期待を裏切った。本能寺の変と山崎の合戦。光秀最期の11日間をどのように描くのか、そしてそこに何があるのか、期待して連続ドラマを見てきたが、肝心の部分はほぼカットされていた....。う~ん。
予想通り、というか予告通りです。山崎の合戦なんか、今までの演出からしたら、やるはずないでしょう。このドラマは最初から「明智光秀はなぜ本能寺を起こしたか」という謎を探る物語であり、本能寺が起きればドラマは終わりです。てゆうか、信長が「であれば、是非もなし!」と言った時点でゴール達成、「謎はすべて解けた」です。あとはエピローグに過ぎません。もうひとつ合戦シーンなんかやったら感動が台無しです。麒麟がくる、は、ほとんど光秀と信長とのBLだと言ってもいい、くらいなもんです。光秀生存説?違
どうもです大河ドラマ、麒麟がくる最終回でしたいわゆる、人間五十年の~、は舞いませんでした明智光秀の山崎の合戦も描かれなかったし……でも言い終わり方でした教科書では単に裏切り者として描かれる明智光秀ですが明智光秀にはそれなりの理屈があるんだなと再認識しました見解は分かれるようですがそれなりに見応えがありました長谷川博己、いい俳優さんだな好きになりました
麒麟がくる終わってしまった……ネタバレ含みますのでまだ観てない方は読まないで🙅🏻×カッコ良すぎます個人的にはえっ信長こんなに爪痕残しといて最期はこんなにあっさり??「十兵衛か!で、あれば是非もなし」のセリフは良かった「で、あるか」の反町隆史版の織田信長を思い出したよ笑しかしその後光秀の軍勢と戦って手負いになり「わしはここで死ぬ火をつけよ首は誰にも渡すな」と蘭丸に告げたあと炎の中での自害シーンもなく既に倒れて事切れてる映像のみ松永久秀の時はあんな
本当に久々に大河ドラマを最後まで(カープ戦は録画)観させてもらいました。長谷川博己さん演じる光秀役はとても素晴らしく、最後まで帝・公方・信長に忠義をたてる姿を演じられました。敗者の観点から見る話はあくまでしか語ることはできません。なぜなら勝者→秀吉が書き換えているからです。ですから、いろいろな説があって然るべきです。光秀が謀反を起こしたのは間違いないですが…どういった経緯で行われたのか。問題はこれなのです。『麒麟がくる』では家康の饗応役を解かれます。これは信長公記にも書かれています。