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茶臼山城(赤穂市坂越字茶臼山・宝珠山)城跡と云われる茶臼山は千種川岸に聳え、坂越港と千種川との連絡を扼している。嘉吉の変(1441)に赤松を滅ぼした山名持豊がしばらくここに居たと云われている。坂越浦城が本城で、ここには見張りを置いたのでらなかろうか。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)妙見寺主郭の南帯曲輪?茶臼山城碑主郭和田備後守範長の墓所茶臼山城遠望軌跡ログ赤穂市の城
山名持豊法名:山名宗全生年月日1404年7月6日(日)日干支己巳同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・足利義政1436年1月20日(金)みずがめ座・徳川頼宣1602年4月28日(日)おうし座・フランツ1世(神聖ローマ皇帝)1708年12月8日(土)いて座・伊藤若冲1716年3月1日(日)うお座・チャールズ・ディケンズ1812年2月7日(金)みずがめ座・フランクリン・ルーズベルト1882年1月30日(月)みずがめ座・竹久夢二1884年9月
坂越浦城(赤穂市坂越・宮本・上の山)別名:坂越浦砦・坂越城享徳三年(1454)の矢野荘年貢算用状に「四斗五升八月十九日坂越浦城誘夫食半分」などとあって、この頃坂越浦城の築城が始まった事が分かる。享徳三年は嘉吉の変(1441)後十三年を経たばかりである。赤松氏の再興が文明元年(1369)頃とすれば、享徳三年はまだ城を築く力はなかった筈である。嘉吉の変後播磨一円を支配したのは山名持豊である。享徳三年の坂越浦城の築城も矢野荘の人夫や資材を徴発して行われているところからみて、この築城工事は山名持豊
23.04/09sun.11:21-13:50JR竹田駅から東に出て南、右回りに駅西側から駅裏「竹田城跡登山口」を行く竹田城跡の天守台から北稜線にのびる北千畳に、観覧受付から北に向かい、折り返し折り返して、升形北千畳を左回りに三の丸、二の丸越しに本丸、天守台を望む南に、本丸、天守台へ天守台から南二の丸、南千畳本丸から北側に戻って本丸下を左回り西側の花屋敷へは通行止め南千畳から天守台南端から二の丸、三の丸の石垣を望む南に下り右回りに駐車場に向かう歩行者道
画像は室町幕府8代将軍、足利義政です。1441年、嘉吉の乱で将軍、足利義教が赤松満祐に殺される事件が発生。これ以降、勢力均衡が破れ、守護大名の発言力が強まる。またこれと同時に土一揆が発生し、山城国内の地侍が主導する数万人規模の一揆で、幕府もこの動きを抑えることが出来ず、ついに徳政令を出す。この流れで室町幕府の権威は急速に衰えてゆく。8代将軍、足利義政は遊び暮らし、政治は混乱する。義政の正室であった日野富子はとんでもない悪女で、賄賂によって
ふー、気が付けば初夏!おかしいですねぇ、まだ弥生な気がするんですけれどね・・・会計ソフトじゃないよ!あ、でも会計ソフトも決めませんとね、税理士決めてから・・・Excelだと、誰も引き受けてくれないでしょうしね・・・暴露可の銀行アカウント決めておきませんとね。そうそう、昨日のフリーザ様第二形態の件ですが・・・急病センター小児科の患者数の推移-新しい風<公益社団法人宮崎市郡医師会のBLOG>本年8月以降の患者数の増加は、新型インフルエンザの流行を反映しているものと思われます。
訪問日:2022/2/20【場所】兵庫県赤穂市【築城年】茶臼山城:嘉吉年間(1441年)坂越浦城:1454年【築城者・改修者】山名持豊(宗全)【城郭様式】山城【主な城主】山名持豊、赤松村秀【見所】①城跡からの坂越湾の眺め【廃城年】不明【御城印の有無・販売場所】赤穂市観光情報センター(JR赤穂駅構内)、高瀬舟・奥藤酒造郷土館(いずれも旧坂越浦会所近く)【アクセス】JR赤穂線坂越駅下車徒歩30分【駐車場情報】坂越港駐車場(無料、旧坂越浦会所前)【周辺観光施設】旧坂
坂本城(姫路市書写西坂本字構江)坂本城の築城年代は明らかでないが、本城の利用者に羽柴秀吉、山名持豊、赤松満祐、足利尊氏らが挙げられているところからみると、あるいは赤松円心時代に既に何らかの形が出来ていたのかもしれない。しかし本城が有名になったのは嘉吉の変(1441)にあたり、将軍足利義教を殺して播磨に引き揚げてきた赤松満祐が最初に曲輪にしたのがこの坂本城であったからである。満祐はここに三千余駒を集めて室町幕府の追討軍と戦ったが、敗れて城山城に転進した。嘉吉の変後は山名持豊は播磨国を領し坂本城に
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~日野富子と結婚するまで~1436年1月2日足利義政生(~1490年)室町幕府6代将軍足利義(よし)教(のり)の次男1439年足利義(よし)視(み)生(~1491年)足利義教の10男・足利義政の弟1440年日野富子生(~1496年)1441年嘉吉の乱赤松満(みつ)祐(すけ),自邸にて,室町幕府6代将軍(位1429年~1441年)足利義教(1394年~1441年)暗殺1441年9月山名持豊が赤松満祐を攻め,播磨木山城で満祐自殺(137
ケンカキックも披露、長州や前田も…平成・昭和のプロレスラー集結毎日新聞ケンカキックも披露、長州や前田も…平成・昭和のプロレスラー集結.1枚目/10枚中.2019年2月15日.「プロレスリング・マスターズ」でドラゴンスクリューを決める...小説・二人のカリスマ11章4「溜まる“死に筋在庫”」日経ビジネス電子版1980年(昭和55年)、スーパーサカエは売上高1兆円を達成した。社長の仲村力也がくす玉を割ると、紅白、金銀の紙吹雪が舞い、「昭和六〇年サカエグループ...統
九日市城(豊岡市九日市上町字御屋敷)九日城については、中世、次のような記録が見られる。「応仁三年(1469)3月23日、細川方、山名是豊の子、七郎頼忠、但馬国九日表に乱入」『応仁広記』「九日の城には、山名入道宗全が被官垣屋越中守宗忠、孫亀王丸を養育し居たり」『応仁別記』「出雲守は但馬の九日まで遠引したりとぞ」『応仁広記』すなわち九日城は、応仁の乱の余波が地方に及んだ時、東軍の部将山名七郎が攻めたてた城で、七郎は九日の河向かいに陣を敷き、七郎に味方した奈佐太郎は、戸牧山に陣取って九日の城
京都旅行二日目の平成29年(2017年)12月30日(土)、鹿苑寺(金閣寺)の拝観を終えた私は、歩いて龍安寺(りょうあんじ)へと向かいました。◇龍安寺私がまだロースクール生だった平成22年(2010年)9月のシルバーウィークに、高校の先輩N松さん、高校の同級生のI葉、大学の親友のT本君と、3泊4日で京都旅行をしたときに、龍安寺も訪れたので、そのとき以来の龍安寺となります。そのときはシルバーウィークなので、車やタクシーだと確実に渋滞に巻き込まれ、時間のロスが大きいということで、
山陰の風土創作の手助け白磁の人間国宝・前田昭博さん(語るひと・まち・産業)日本経済新聞西郷地区は約170年前に職人を受け入れてから陶芸の歴史を刻み、3つの窯がある。近年、ガラスや木工の工芸作家ら3人も工房を構えた。豊かな自然と作家を受け入れる人の優しさが創作にとても適している。地域の特性を生かした振興策を考えた時、おのずと構想に行き着いた」.「これまで人間国宝になった人が良い仕事...岐阜県最古の寺【高澤観音】伝説ロマン溢れる津保谷地域おこしライターのえさゆうです♪岐阜
21-2嘉吉の変6代将軍足利義教(よしのり)の守護抑圧策が強化されるなかで、不安感を強めた有力守護赤松満祐(あかまつみつすけ)は、1441年、京都の赤松邸での祝宴(しゅくえん)に義教を招いて暗殺した。将軍の死は当時、「自業自得(じごうじとく)」「此(かく)の如(ごと)き犬死(いぬじに)、古来(こらい)例(れい)を聞かざる事なり」と評され、また、この嘉吉の変(かきつのへん)(嘉吉の乱)直後に、「代始(だいはじ)めの徳政」を要求する嘉吉の徳政一揆(とくせいいっき)が発生した。こう
中国で最高賞を受賞した日本の国民的詩人、あなたはご存知ですか?RecordChina中国で谷川俊太郎さんというと、宮崎駿監督の大ヒットアニメーション映画「ハウルの動く城」や手塚治虫のアニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を担当したことで知...落城間近の大阪城から救出!知多半島に残る「ある屏風」サライ愛知県南知多町の延命寺。知多半島の深奥部にあるが、かつては海運の要衝として栄えた。慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」では、真田信繁(さなだ・のぶ...浜松と彦根「直虎」
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義持、義教の仇、赤松満祐を討ち、私は京の外れの住まいに戻ってきました。私「一休様…ずっとここで待っていたのですか?」一休「あぁ、必ず帰ってくると信じておった。しかし、智子殿、病が…。」私は病の身で戦に行ったため、よけいに病が悪化したのです。赤松満祐が義教さんを殺害し、幕府軍に討たれた戦までを「嘉吉の乱」っていうんだ。この「嘉吉の乱」により、山名持豊殿は播磨一国を支配し播磨国の守護となりました。山名持豊(後の山名宗全)です。
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。小百合「智子様!!」ゴロン、私「はぁはぁ…」床に転がっていたのは赤松満祐の首でした。私は満祐の首を斬り落としたのです。小百合「智子様!ご無事ですか⁈」私「…間一髪のところでした。あの声がなければ斬られたのは私でした。」小百合「声とは?」私「小百合には聞こえませんでしたか?足利将軍家を守れという声を…。」小百合「私には何も…。」私「そうですか…満祐の首を山名持豊殿に渡しましょう…ゴホッ!」私は再び吐血しました。小百
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私と間者の小百合は播磨国へ行く前に兄・義教の墓所がある十念寺に寄り、墓所にお参りをしました。義教の墓十念寺は義教さんが建てた宝樹院が始まりらしいよ。私「兄上…私が満祐を討ちます。」管領・細川持之殿は赤松満祐討伐に後花園天皇様の治罰の綸旨を頂き、満祐は朝敵となりました。播磨国に入った山名持豊殿率いる幕府軍と赤松軍は激突します。赤松軍は幕府軍に対し善戦しましたが、坂本城は防御力に乏しく敗走しました。満祐は坂本城を諦め、要害である
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。赤松満祐討伐軍の総大将・山名持豊殿の軍勢が京を出立しました。私も赤松満祐のいる播磨国に行こうとしましたが、間者の小百合や一休宗純様に止められました。小百合「今回はお止め下さい!山名様や細川様が満祐が首を上げてきます。」一休「満祐も大軍を構えておる。危険過ぎる。守護大名らに任せるのじゃ。」私「……満祐だけは私が討たねばなりません。」小百合「満祐は智子様をも殺害しようとしたのですよ。何を企んでいるかわかりません。足利将軍家が揺らいで
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。2人の兄・義持、義教の側近であった亡き満済殿が死してなお私のために力を貸してくれていました。満済殿は私が困った時、力を貸すよう管領の細川持之殿に遺言をしていたのです。智子さんの存在を知っているものはごくわずかだったんた。それを満済さんは持之さんに密かに教えていたんだね。私「持之殿、討伐軍はなぜ出立しないのです?赤松満祐を見逃すつもりですか?」持之「見逃すなんてとんでもない!必ず満祐は討ちます!細川の軍は既に出立しました。」小百合
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義教殺害から危険を感じ、京の外れの小屋にいた私を一休宗純様が訪ねてきてくれました。一休です。智子殿は私の恋人です。一休「京での将軍殺害を聞き、智子殿のことが気がかりで…もしや、こちらに居るのではと思い来てみました。」私「一休様…!」私は一休様を見て気が緩んだのか、涙が溢れ一休様の胸で泣きました。私「兄が…義教も義持も…赤松に!」一休「おやおや、泣いていてはわかりませぬぞ。まずは落ち着きましょう。」私はひとしきり泣き、今ま
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義教が殺害され赤松邸の前は大混乱。その中で私は義教の近習の伊勢左馬助に会い、赤松邸で何が起こったのかを聞きました…ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー義教は赤松満祐の子・教康に先の結城合戦の勝利の宴として赤松邸に招かれました。結城合戦は幕府軍と足利持氏さんの残党が関東で戦いだよ。教康は、「鴨の子が沢山できたので泳ぐ様などご覧ください」と招いたそうです。義教と一緒に管領・細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永などの守護大名
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私と間者の小百合は急いで赤松満祐殿の居館に走りました。兄・義教の身が危ない!私の不安は増していました。そして、かつて義持を毒矢で襲い、暗殺したのは赤松満祐殿、いや赤松満祐の仕業に間違いありません。足利義持です。既に亡くなってます。義持さんは毒矢が擦り、それが元で亡くなったんだ。あっ!これはこの歴史連載だけの話だよ。やはり私が付いて行くべきだったと後悔が走る私を襲っていました。到着した赤松邸では塀から逃げ惑う者や表門から出てきた