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軋む音揺れて触れあい窓の外夫婦(めおと)の城に永遠(とわ)を夢見て😸僕は家に帰る為、土電の路面電車に乗った。そして思い出した。あれは中2の秋だった。君(美衣)と初めて僕は、二人で路面電車に揺られた。君は無邪気な微笑みを浮かべ、軋む音の中で僕を見つめていた。そして電車が揺れる度に体が触れあうと、嬉しそうに頬を染めていた。窓の外には、永遠の夫婦山内一豊さまと千代さまの城高知城が、ゆるりと聳えていた。「あなたと、いつも
約一年ぶりのブログとなります。ご無沙汰しております。もともとブログで読んだ本を紹介しておりましたが、昨年度はフェースブック上で、「この国を読書立国にしたい」シリーズで、100回程度紹介しました。再び、ブログに切り替えます。その第一回は司馬遼太郎「功名が辻」(3)です。ご存じの方も多いかもしれませんが、戦国時代から江戸時代、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康の時代を生き抜いた山内一豊とその妻、千代の物語です。本日第三巻を読み終えました。もともと千代に支えられて
年賀状の季節になりましたねぇ。我が家系はこの手のことは好きで凝った賀状を作ります。来年は午年なので乗馬の写真を使おうかと、以前の写真を引っ張り出したけど、僕は撮る人だったので殆ど無かった。馬で検索していたら、山内一豊が出てきた。あぁ、先日行ったばかりジャン、そうだよ銅像もあったっけ。もっとちゃんと撮ってくれば良かったなぁ。検索した銅像の馬をモデルに描いたから超簡単だった。後はパロディってまとめます。
cheeseです💕坂本龍馬の生誕地から高知城にむかって歩きます。当時を想像しながら散策するとわくわくしますね😉高知城は立派な石垣の上に築城されておりまして下から眺めるとこんな感じ⬇️のぼってみましょ。はい、到着✨高知城は戦火や災害を免れており龍馬がいた頃と同じ佇まいなのだそう。天守閣までのぼってみました。9月にいった松本城(長野)に負けず劣らずくらい階段が急なのよーf^_^;💦年齢的にいまがギリかも。足がガクガクで(笑)天守閣からの
「相良城」から西へ進軍し「掛川城」へ向かいます。日本100名城「掛川城」写真の向きはこちらが有名かな冠木門からコンニチハ狭間からもコンニチハ複合式望楼型3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に復元されている。また、この天守を木造復元するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と内部構造が類似していて、同様の姿に建てさせた高知城の天守[6]を参考にしてそれと類似した内部構造とし、壁は白漆喰で塗
高知に行ったのに、すっかり忘れていました築城主の山内一豊織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将そして忘れてはならない「内助の功」、天性の明るさと卓越した政治観で支えた山内一豊の妻・千代NHK大河ドラマ「功名が辻」はまだ記憶に残るところ現存十二天守の1つの高知城(別名鷹城)重要文化財は15棟天守、本丸御殿・懐徳館、納戸蔵、黒鉄門、西多聞、東多聞、詰門、廊下門、追手門、天守東南矢狭間堀、天守西北矢狭間塀、黒鉄門西北矢狭間塀、黒鉄門東南矢狭間塀、追手門西南矢狭間塀
城下町プラザまでひたすら下ります。途中登ってくる車に気を付けながら。ようやく入り口山内一豊と千代の銅像。この城は千代さんの実家と言われてる城だからです。お寺の前。もうすぐ着きます。郡上躍りの参加者がチラホラ歩いていました。照ればで見たあの格好。生で観れて良かったです(笑)また高速バスで岐阜駅に戻りまーす。つづく
引き続いて7月12日に行ってきた、ミュースカイ名鉄完乗旅についてですコンバン波動砲!!(。・ェ・)ノノ^\/\/\/\/\☆)゚д゚||)グハ信長塀が今も残り続けているのはすごいですね。熱田神宮の案内図。神宮前駅から急行新鵜沼行きに乗車して移動。岩倉駅に到着です。山内一豊出生のまちなんですね。岩倉駅構内の様子、2面4線の有人駅です。岩倉駅の駅名看板。岩倉駅、地下に入口があります。岩倉駅から新鵜沼行きに乗車して移動。パノラマスーパーも前の色の方がかっこよかった。犬山遊園
掛川にある掛川城です。文明年間、今川義忠の重臣・朝比奈泰煕が築城したといいます。永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河侵攻。今川氏真が駿河今川館を追われると、多くの今川家臣が裏切る中、泰煕の孫・朝比奈泰朝は氏真を掛川城に受け入れます。同年、今川家家臣から寝返った三河岡崎城主・徳川家康が氏真を攻め、掛川城を包囲。泰朝は氏真を擁して5か月籠城するも劣勢であり、氏真の命の保証をさせた上で開城。氏真は正室早川殿(北条氏康女)の実家後北条氏を頼って小田原へ逃れます。掛川城は家康の支城となり、
朝イチ丸亀城を堪能した後は高速走って一気に香川県から高知県へ🚗💨初の高知県でございます🎵(*^^*)行程の関係で高知城メインの旅です(^_^ゞカーナビで高知城に脇目もふらずに到着しました(^^)d先ずは山内一豊公の銅像から(^_^ゞ豊臣秀吉に従い信長の朝倉・浅井攻めで武功をあげ関ケ原の戦いの功績では土佐一国を拝領して現在の高知の礎を築き織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人の間を生き抜いて出世した誉れ高き武将です(^^)d思いっきり緑色のお堀を眺めながら土佐・山内家のお城高
板垣退助像の次は山内一豊の妻千代と馬の像を見て高知城に。天守閣にあがり、高知市内の眺望を楽しみました。山内一豊の妻千代と馬の像山内一豊について山内一豊(やまうちかずとよ/かつとよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子としました。豊臣秀吉、徳
県庁、市役所の裏手にそびえる城山内一豊が1601年築城を開始、1611年完成。一度焼けましたが、1753年昔のままの姿で再建南海道随一の名城と言われます。いわゆるコンクリの城ではない歴史的な城、時間の関係で中には入れませんでしたが一番高いところまで長い石段を登りました。山内一豊の像(城外)山内千代と馬の像(城内)追手門(城の入り口)堀城内への入り口途中の石段から眺める役所の反対側宿泊した三翠園は元の山内
2025-09-27⑩樫原三ノ宮神社入りまーす手前の舞台の天井すげっわ〜っ山内一豊公を描いているんだね横を見ると木村幸比古さんの本、維新のお勉強するのに読みました〜そういえば、本の中に居合やってるって書いてたかもなんだか、こういう偶然、嬉しいねご挨拶しまーすん?あ、上だぁ〜こちらにもなんだか、迫力あるねトコトコ〜⑪樫原廃寺跡かしはらと読むのかと思ったらかたぎはらだった秦氏が関与しているかも〜だってこちらでも休憩されているお仲間さんいましたまろんは、いつも
浦戸城高知市浦戸創設年代・・・・天文年間(1532)頃創設者・・・・・本山梅慶形態・・・・・・平山城遺構・・・・・・主郭・曲輪・堀切・井戸・石垣跡ポイント城は高知平野の入口に位置し、海辺に突き出た台地上にある。南は太平洋に、東は浦戸湾の入口に面し、北は天然の良港に望む要害の地。縄張りは山頂に95m四方の本曲輪に、9m四方の土佐最初の天守閣を擁し、その下に二の曲輪、三の曲輪を設けた。また本曲輪から南に突き出した二個の尾根に出丸を造って攻撃に備えている。ただ内陸
基本情報所在地京都府船井郡京丹波町三ノ宮標高(比高)280m(35m)遺構堀切、竪堀、井戸跡歴史詳細な歴史は不明。初代土佐藩主となった山内一豊から数えて13代前の宗俊の次男家俊が兄時俊とのあいだに争いが起こり、丹波国三ノ宮に備後国地毘荘より移り住み土佐山内家を興したと伝えられる。一豊の父盛豊は丹波で生まれ三ノ宮城に住したとも伝えられる。(主郭の看板より引用)縄張三ノ宮西城は山頂部に段状に曲輪を配置しており、曲輪Ⅰが主郭となっている。城の南端には堀切Ⅰが設けられ、堀切の北側
高知城(別称:大高坂城)(Ⅰ)高知市丸ノ内創設年代・・・・慶長八年(1603)創設者・・・・・山内一豊形態・・・・・・平山城遺構・・・・・・天守・石垣・大手門・本丸・二の丸・廊下橋・堀他今回は追手門から三の丸・二の丸・本丸まで石垣を楽しみながら散策しますポイント高知平野の中心に位置し、標高40m.の大高坂山の頂上にそびえ、南方を鏡川、北方を江の口川がめぐって外堀の役目を果たしている。本丸には掛川城天守を模した望楼型天守と本丸御殿、そのほか
おはようございます(´・ω・`)昨日の続きです桂浜から市街地まで戻って、高知城(高知県庁の北側。県庁や裁判所も城内にある)へと向かいました高知城『説明板』『高知城公式ホームページ』より1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで徳川家康(東軍)に味方した山内一豊はその功により、土佐一国26万石(分知により20万2600石となる)を与えられて当初は浦戸城(近くに桂浜がある)を居城に定めたが、翌年に幕府の許可を得て大高坂山に新城築城に着手。総奉行は百々越前が勤めた。2年後、本丸と二ノ丸の石垣が完成
今日は、戦国時代に一国の領主であったにも関わらず、奥様の方が有名な武将の命日・没後420周年にあたります。〝~の妻〟という言われ方で有名・・・といえば、もうお分かりですょネ。山内一豊織田・豊臣・徳川3人に仕え、最終的に土佐藩初代藩主となった武将です。一豊は1545(または1546)年に岩倉織田氏の家臣・山内盛豊の三男として現在の愛知県一宮市に生まれました。しかし主君の岩倉織田氏が同族の織田信長と対立・衝突したことにより父・兄が立て続けに亡くなった
「4歴代ノ総理大臣(その50)」今日は、山内一豊みなさん、おはようございます今年は紀元2685年です紀元2700年まであと15年です暑さ寒さも彼岸まで暦は正確です暦は先祖の智慧です暦に沿って生活をしましょう高市さん出てくれました一つ一つの言葉が心に突き刺さります政治家とはこういう人を言うのでしょう「小川翔護とハタラク仲間たち(仮称、OHN)」を始めます順次、準備していきますのでご希望の方は、下記のアドレスから必要事項①
愛知県一宮市木曽川町において一豊まつりが開催されました。土佐藩初代藩主である山内一豊公は旧木曽川町出身とされております。(一説には同じ尾張国岩倉)私の在所である大口町出身で初代松江藩主で国宝松江城を築城した堀尾吉晴公と親交があり奥方のいとは千代と終生の友とされております。そうしたご縁で私も毎年お招きをいただきご挨拶申し上げております。450年のご縁が今もこうして続いていることが有難いですね。
永遠の夫婦(めおと)の像に空澄みて風見上げれば城ただ白く😸白花は、徹夜踊りの後、少し仮眠を取ると、「あなたが、あなたの中にいる人と見た眺めへ、私を連れてって」と、いつもの薄化粧で僕を見つめた。いつも通りの白花だった。と思ったら、「私は、一番恥ずかしい素顔を見せてあげたのよ。今度は、あなたの番。私が、あなたの心の奥を覗いてあげる。あなたは、何も喋らなくていいの。私が覗くの。あなたの心の盗み見するの」と、言いながら、
こんにちは!またお久しぶりになってしまいました。お元気ですか?わたしは夏休みが終わって…すっかり力が抜けていました!夏休みは相変わらず娘と一緒にお城巡りをしていました。まずは高知城。山内一豊のお城。全国で12城しかない現存天守のあるお城の一つ。小さいながらも風格のある立派なお城でした。それから丸亀城。丸亀城もずっといきたかったお城です。石垣が立派で興奮しました!そしてこちらの木造天守も当時の情景が自然と浮かび上がってきそうな素晴らしい天守でした!楽し
朝散歩3日目娘ちゃんもおらんなったし歩きたくない。。。イヤイヤせめて3日は頑張ろぉよ自分を何とか説得して大好きな音楽聴きもって出かけ気がついたら山内神社まで来ちょったどんよりした天気でやっぱり今日も迎え入れたくない感じと思ったりもしたけど前日みたいに頭が痛くなった訳でもないし鳥居もスタスタ入れたし大丈夫大丈夫青空もちょびっとやけど見えてきたお手々合わせていつものように空を見上げたらやっぱり気持ちいい木々に囲まれた空間から見る空が何か好きながよねぇ
掛川花鳥園の続き~広いここに鳥さんたちが放し飼いちゃんと扉が二重構造だったりするので大丈夫真ん中にはお魚さんもねドクターフィッシュ体験もできるよ(かなりでかい魚だった)おおおおおお~~~~色が派手ふわふわかわええ普通にその辺歩いてる~全然人間を怖がらないこの子も普通に肩に乗ったりするっぽい。私には来なかったけど、他の人の肩にいるのいっぱい見たうらやましぃコガネメキシコインコめちゃくちゃいます。動く時は集団でバーーーーーっ
高知市手前の土佐市北地の農道で朝を迎えました。車に寝袋を積んでいるので、どこで夜を迎えても対応できます。その代わり、夕食はコンビニ弁当で、今朝の朝食もコッペパンとペットボトルのカフェラテでした。土佐市の農道で朝を迎えたのは、この辺りを流れる波介川(はげがわ)の土手に咲くナノハナが見たかったからです。四万十川でのナノハナが空振りだったので、波介川も期待はしませんでした。しかし夜明けを待って、恐る恐る波介川の堤防に上ると、いいじゃありませんか!堤
郡上八幡城を攻城しました岐阜県にある郡上八幡城を訪れました。続日本100名城です郡上八幡城は1566年に、郡上を統一した遠藤盛数の子の遠藤慶隆によって築かれています。慶隆は豊臣秀吉に疎まれ左遷された為一時稲葉貞道へと移りますが、関ヶ原の戦いの後再び遠藤慶隆が旧領を回復します。郡上八幡城はその後江戸時代に入り遠藤氏から井上氏、金森氏、青山氏と移り幕末を迎えています。昭和8年(1933年)、天守閣、隅櫓、高塀が再建されています。日本最古の木造模擬天守だそうです。当日は麓にある安養寺の駐車場
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば
愛知県岩倉市の岩倉城跡です。文明11年(1479年)頃、織田伊勢守当主の織田敏広によって築城されたといわれます。敏広は尾張国守護代で、この城を拠点として尾張上四郡を支配し、「岩倉織田家」と呼ばれました。一方、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配したのが織田大和守家でこちらは「清洲織田家」と呼ばれました。織田信長はこの清州織田家の分家のひとつであり、清州三奉行のひとりにすぎない織田信秀の息子です。その信秀の代に本家の清州織田家はもとより、守護だった斯波氏を凌ぐまで台頭してき
今日は2025年7月31日(木)です。昨夜はNHKの「知恵泉」(再放送)を見ました。山内一豊の妻の千代さんが内助の功として有名です。夫君の一豊は最後は高知城の大大名に成りました。内助の功の話をくわしく知ることが出来ました。僕は高知城に行った事が有ります。その時を思い出しました。過去記事です。↓=========今日は225年6月1日(日)です。僕は旅番組歴史番組が好きです。今朝は録画をしてあった「NHKBS
今日は2025年7月31日(木)です。昨夜はNHKの「知恵泉」(再放送)を見ました。山内一豊の妻の千代さんが内助の功として有名です。夫君の一豊は最後は高知城の大大名になった話は有名です。内助の功の話をくわしく知ることが出来ました。僕は高知城に行った事が有ります。その時を思い出しました。過去記事です。↓=========今日は2025年9月24日(火)です。僕は旅番組歴史番組が好きです。今朝は録画をしてあった「