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⭕️山上宗二記を鵜呑みにしてはならない私見補足山上宗二記は当時の茶道を検証する上で貴重な史料では有るが、決して鵜呑みにしてはいけないと思いますね。
火坂雅志(ひさかまさし)氏の心に響く言葉より…《上をそそうに、下を律義に、物の筈(はず)の違はぬ様にすべし》地位の高い人には粗略に、逆に低い人には丁寧にし、約束に違わぬようにすべきである(千利休/山上宗二記)時々思うのだが、千利休がいなければ、日本人の美意識は随分と違ったものになっていたであろう。一般的に、日本人は派手なものよりも、簡素さのなかに静謐(せいひつ)な美しさを秘めたものを好む傾向にある。建築や家具などに使われるシンプルモダンなデザ
山上宗二は武野紹鷗の袋棚は侘び数寄には不要と書いている
「旧東海道歩き」は箱根東坂を下っています。正眼寺から少し下ると「早雲寺(そううんじ)」がありました。「早雲寺惣門(薬医門)」をくぐります。「金湯山」という山号です。箱根湯本はもともと早雲寺の門前町として始まったとされます。「中門」をくぐると…すぐ右手にあるのが「鐘楼」で、鎌倉時代末の梵鐘で神奈川県重文となっています。「山上宗二慰霊碑」…秀吉の茶匠でしたが怒りをかい浪人。前田家に仕えます
先月(2022年10月)、BS日テレで放送していたものをようやく見た。ヴェネツィア映画祭で銀熊賞を受けたというが、石庭、茶室、あらゆる画面が外国人に受けそうだと思った。井上靖の原作を二年前に読んでいたのでメモを読み返してみた。千利休を三船敏郎が演じている。利休はとても上背のある人だったというから、それもありかなと思う。タイトルロールに映る龍安寺の石庭、その他の映像、光の使い方など、すばらしい。本覚坊は利休の弟子で、奥田瑛二が演じている。本作では、彼の夢や回想に現われる師匠利休についての
「一期一会」今さらな言葉ですが、井伊宗観が著述した「茶湯一会集」に出てくる言葉です。さらに遡れば、利休さんの弟子山上宗二の「山上宗二記」に「一期に一度の会のやうに‥」と、いう一文があります。にほんブログ村
【問題】武野紹鴎が発展させたものとして正しいものは次のうちどれか?【選択肢】○大和絵○京観世◎わび茶○灰吹法【答え】◎わび茶【解説】武野紹鴎(じょうおう)は堺の豪商、茶人で、村田珠光の精神を継承し、三条西実隆のもとで学んだ古典を導入するなど、わび茶(侘茶)の発展に寄与した。
名古屋のシンゾウです2月の今、勉強は既に本気モードです。昨年試験の不甲斐なさを払拭するための本気モードなのです。何故間違ったのか分からない問題が3問もありました.....これ致命的ですよね。今年は、合格率が低い試験(合格率5%程度)になることが予想されます。人の何倍も努力しないと合格も覚束ないことになるでしょう。私の記憶力では一夜漬けは無理だということがハッキリしました。覚える→忘れる→覚え直す→さらに忘れる→またまた覚え直す.......その繰り返しでしょう。少しでも早く勉強を始めて、リ
千利休の高弟山上宗二(やまのうえそうじ)は、自身の山上宗ニ記に紹鷗の弟子、辻玄哉から聞いた話として、紹鷗のわび茶のあり様を以下のように書き記しました。連歌之仕様ハ枯かしけ寒かれと云連歌の仕様は枯れかしけ寒かれという茶ノ湯ノ果ハ如此有度物をな茶の湯の理想とする境地もこのようでありたい連歌の世界では、その境地を冷える寂びる枯れるかじける(衰え弱る)などという言葉で表現します。これは心敬の連歌論によるもので、心敬から弟子の宗祇、宗祇から三条西
古陶磁鑑定美術館では、古備前焼や日本の古陶磁器にまつわる「謎」や「未解決問題」の解明に向けて、日々調査研究を続けています。今回は、最新の研究で明らかになった、「桃山茶陶(桃山時代の茶道具)」に関する衝撃のニュースをお知らせします。それはなんと、『桃山茶陶と呼ばれているほとんどが江戸時代の作品で、本物の桃山茶陶はほとんど存在しない』ということです。何とも信じられないような話ですが、実はこれが真実なのです。桃山時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉や千利休が活躍した天正年間(1573-1592
こんにちは。看護師の加藤です👩⚕️今回は、私の好きな言葉を紹介させて頂きたいと思います❗それは『一期一会』です。400年以上も昔の茶人、山上宗二の本に『一期に一度の会』とあり、これは『これから幾たびも茶会を開く機会があっても、この茶会と全く同じ茶会を二度開くことは出来ない。だから、茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない』と言う意味で、茶道の心得を表した言葉として、有
千利休に関する本を読んでみたいと思いながら、どれを読んでいいやら迷っていましたが黄金の茶室の表紙をみて手に取ってみました。茶道の本というより、フィクサーとしての千利休から見た戦国の世の話です。ただ、登場人物は基本的には茶道に縁のある人がメインで人物像も千利休というフィルターがかかっています。この本では、千利休は茶の湯を武士の心を鎮静させるためのツールとして、自らが求道してきた茶道を廃れさせ無いように死をも恐れず翻弄する茶人として書かれています。利休を死に追いや
、『本『本能寺の変信長の誤算』…』以前のブログ『空海筆の“千字文”…』…『空海筆の『千字文』...本能寺の変』本能寺の変…その真っ最中…明智光秀の軍勢二万が、宿泊していた織田信長を攻めていると…ameblo.jp↑このブログで登場した、大名物茶入“楢柴肩衝”…信長は、この茶入欲しさに、本能寺まで、ノコノコと…😅信長が、そこまで欲しがった茶入って?本『戦国武将と茶の湯』では、このように語られた。戦国動乱の世に、“天下三肩衝”と言われた名物
9月30日水曜日㊌、滋賀県は彦根市にいます彦根城に来まして、まずは夢京橋のキャッスルロードをぶらぶらと歩いて、へ行き、再び彦根城のほうに戻って来ました彦根城に登城する前に『滋賀県護国神社』に参拝【平和を願う像】【昭和の母】ちょうど僕のおばあさん👵が若い頃がこんな感じだったと思います。僕が小さい頃までは赤ちゃんを背中におんぶして歩く女性をよく見ましたが、最近、そういう姿はほとんど見かけなくなりましたね【拝殿】明治維新以降の国事、国難に殉じた滋賀県出身の英霊が祀
inputからoutputへ中田敦彦YouTube大学【歴史偉人伝】千利休2/2がエクストリーム授業百“文”は一見に如かず!詳しくは動画をご覧下さい。エクストリーム授業とは?なるべく分かりやすく「面白いんだよ」という事を全面にお伝えする授業!【結論】二面性をもった千利休。千利休がこだわった黒は、シンプルという意味もあるけど、何もかも混ざり込んで闇のように輝く黒でもあった。【説明】千利休の死に際がたまらない。これについて考える事が凄く大事。「えっ?利休様が切腹
信濃をず~っと攻めているところですが、天正壬午の乱クエストに必要な小笠原貞慶が全然出てきません大浦三老クエストの小笠原信浄は出てきてくれたのに。遠国探索に出しても全然小笠原家の人を引っ張ってきてくれません。ご期待はひとつだけやで・・・ということで全然クエストが進んでいないのと攻城も出来ていないのでネタが全然なくて更新が1週間以上放置状態になっていました。さて、そんな中愛知県に来てくれたのが廻国異能の者「山上宗二」さん!twitter情報でも時間がズレているこ
〖季節の変わり目、風邪など気を付けて!〗⚫更新忘れてた!m(__)m⚫↓♪こちらからどうぞ♪↓☆紋次郎SHOP☆入口↑こちらをクリック↑入口★9月のおすすめ商品★《アコーディオンドア》【お部屋をオシャレに演出!】素敵に間仕切りパネルドア(アコーディオンドア)【窓あり約…¥14,500(税込)お部屋に合わせて選べる4色デザイン選べる3タイプで家中で大活躍!!}…【A&D口鼻両用超音波温熱吸入器】『風邪の季節がやってきますよ!』A&D(エーアンドデイ)口鼻両用
【問題】山上宗二の号として知られるのは、次のうちどれか?【選択肢】是庵唇庵瓢庵灸庵【正解】瓢庵【解説】山上宗二(やまのうえそうじ)は、薩摩屋の屋号を持つ商人で、茶人・千利休に茶を学んで豊臣秀吉に仕えた。瓢庵(ひょうあん)と号したという。
『目からウロコの日本語』-村石利夫●一期一会(いちごいちえ)✪もとは茶道の心得を表した言葉で、千利休の弟子”山上宗二”の『茶湯覚悟十体』にある。「一期に一度の会」ということからきている。「一期」は仏教語で、一生の意味。生涯で会う機会はただ一度しかないと考えて、それをおろそかにしないこと。一生に一度だけの出会いを大切にしたいということ。一会は、たとえば、小学校の六年間と解してもよい。期を「ご」と発音するのは呉音で、このように発音するものに末期(まつご)の水、最期(さいご)などがある
今日のLAは晴れ。日本ネタの続きです。箱根ではブラモモをしながら・・・あ!本家のように地質マニアではありませんが・・・とあるお寺へ行ってみました。惣門こちらは北条家ゆかりの早雲寺。早雲という名前からもわかる通り、戦国大名の時代の幕を開けた北条早雲の遺言により、その子氏綱によって京都大徳寺の第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられているそうです。北条ファンではありませんが、歴史ファンとしてはやはり押さえておきたいところではあります。俗世との境目を意味す
千利休-Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/千利休千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人....切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。千利休が秀吉の命により切腹させられた理由は今でもハッキリとは解らない❓理由はハッキ
天気も良いので、堺をぶらっとして来ました。南海電車「堺」駅前の観光案内所でレンタサイクルを借ります。駅の横のお堀には、鯉のぼりが泳いでいます。堺は、乱暴な言い方をすると長崎の「出島」と同様の形態で、四周を堀で囲まれた商業都市でした。今でも、その名残の堀が残っています。堺は、当時の日本の中で最も経済的に繁栄した地であり、かつ、土地が狭いことから都市化が進み、アーバン・ライフを送れた数少ないころではなかったかと思いますし、そこから、「市中の山居」という発想が生じたのかもしれ
東北のワイン9醸造所の味と歴史紹介7信金がPR冊子作製河北新報東北のワイン9醸造所の味と歴史紹介7信金がPR冊子作製.東北の信金などが作ったワイナリーを紹介する冊子と掲載されているワイン.信金中央金庫東北支店と山形信用金庫など東北の7信金は、各県のワイナリーをPRする冊子「東北しんきんワイナリー紀行」を作った。地域に根強いネットワークを持つ信金が連携し、東北...傾奇者ノ歴史講話山上宗二前田慶次ameblo.jp皆の者こんにちは御座る。大ふへん者前田慶次じゃ!我が
皆の者こんにちは御座る。大ふへん者前田慶次じゃ!我が日記帳開き大義。戦の休息、確と休むが由。午後よりの戦働きに備えるべく我が日記帳を読み心を休ませよ。では本日も歴史を伝えて参る。題目一五九〇年四月十一日山上宗二、秀吉様の怒りを買い打ち首一五九〇年秀吉様が小田原征伐に参り天下統一を果たす時分。一人の茶人が打ち首となった。名を山上宗二(やまのうえそうじ)戦国一の茶人千利休殿に茶の道を師事し多くの大名達に茶を振舞って参った。茶匠として秀吉様、叔父貴に仕えていたが
遺書此の一札、拙子上洛仕り候か、死去仕り候後に、執心申す御伝えあるべきものなり出典秘伝書山上宗二記/竹内順一【1000円以上送料無料】山上宗二(やまのうえそうじ)天文13年(1544年)-天正18年4月11日(1590年5月19日))戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商(町衆)、茶人。屋号は薩摩、号は瓢庵。本姓は石川氏。子は山上道七。千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟であり、利休に同行して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認される。
土曜日はとても天気がよかったので、通院以外は閉じこもりきりではあり、たまには日光浴くらいせねば…という感覚で小田原城へ足を伸ばしました。気楽にもHubさんの運転頼みで楽しもうとしたバチが当たったのか、途中で具合悪くなったあたりから雲が多くなり、持ち直して進むも空は暗くなるばかり…着いた頃には小雨が降り出してしまいました歴史ある場所だけに力強い古木がたくさんありますそういえば、お堀の外にあった藤棚も
九谷焼で一服雄宝というシャインマスカットよりもう一回り大きな品種宗二ちょっと一服いれておくれ(妄想しながら自分で茶いれるんだけど)山上宗二という利休の弟子にいれてもらい(誰も茶をいれてくれないので、空想ではじめは千利休にいれてもらってたんだけど、そのうち利休七哲、、高山右近とかに入れてもらうようになり今は宗二に入れてもらっている。宗二の茶は権力に媚びない美意識がよい、、、我ながら地味な性格だな、、)ちょっと一服してる横で中3息子がぶどうを両方のほっぺたに一粒ずつ入れてザブングル
上をそそうに、下を律儀にこれを信念とする-----『山上宗二記の研究桑田忠親』河原書店言葉というは上手く解釈できない場合が多い。これを信念とすると言われるとまさに中国語の諺「只可意会不可言伝」、つまり、心で悟ることはできるが,言葉に出して伝えることはできないものである。この茶の湯名言の中訳は簡単そうで難しい山上宗二は利休の高弟で、利休の侘茶をもっとも理解している茶人のひとり。上をそそうに、下を律儀に表面は粗相であっても内面は丁寧に外見は粗末に、心
『山上宗二』は、『利休』にかなり高く評価されていたようです。『利休』に同道して茶会にも出席していますし、死の寸前には、『利休』の取り成しで、捕らえられた『宗二』は『秀吉』との面会が叶います。ところが、またしても、悪口雑言。つい本当のことを言ってしまい、『秀吉』の怒りをかい、天正十八年四月十一日(1590年5月19日)に耳と鼻を削がれた上で打ち首にされてしまいます。享年四十六歳でした。何も文献上は残されていませんが、この『宗二』の斬首に遭遇した『利休』は、「いずれ己が身にも」と覚
さてさて、この『山上宗二記』、「茶器名物集」を著した『山上宗二(やまのうえそうじ)』とは如何なる人物なのでしょうか?天文十三(1544)年に生まれ、本姓は石川氏といい、桃山時代の堺の豪商(町衆)で、『千利休』に20年間茶の湯を学んだ高弟であり、茶人として知られています。『利休』に同道して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認されています。『織田信長』にも仕えたという説もありますが定かではありません。茶匠としては『豊臣秀吉』に仕えていましたが、天正十二年に持ち前の口の