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平戸館(水戸市)平貞盛居館とも。平貞盛関係あるかは知らん。なんか平戸氏の居館とされている。平戸氏は水戸城主・大掾氏の一族であり、小さいながらもこの辺りを治めた人達である。館は標高僅か3mの低地に築かれ、防御力としては申し訳程度だが統治には適した場所だったようだ。(かつては交通の拠点だったらしい。)尚かつては2つあった郭の1つはぶっ飛ばされ、吉田神社の境内となる北側の郭のみが残っている。石碑。南側の郭があった場所。郭内部。北側~西側にかけて流れる水堀。水堀②北側から。どこか館
貝吹山城本陣から西へ駆けること約1キロ約数分。奈良県高市郡高取町越智字オヤシキ大和・越智城(おちじょう)越智城は前記事の貝吹山城を詰城とし、貝吹山を最高峰とする東西に細長く連なる丘陵の南側の谷間の平地(越智谷)にあり、ここを越智氏の居城としました。※詳しき越智氏に関しては貝吹山城の説明板をご覧ください。細かいけど越智城は、越智谷の西端(丘陵西端部)に「コの字」状に左右を丘陵に囲まれた地形を利用して築かれておりまして。谷間に居館を築き、周囲の丘陵に曲輪を設けて防御線を築い
「ぎふ灯り物語」に出かけたら和傘がいっぱい岐阜県岐阜市岐阜公園岐阜市歴史博物館も日が暮れても開館していて・・・いっぺんに何人が入れるかと思う傘岐阜公園傘がたくさん並んでいるあたりは信長の居館跡この光が信長に届いているだろうと思うと夢が膨らみます
2024年10月14日。西村慎太郎です。今日も引き続き、浪江町大字井手の話。『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)によると、大字井手は「伊手村」と記されていて、伊手氏の居館があったことが記載されていました。これについて確認してみたいと思います。適宜、読点を付して、常用漢字に改めたいと思います。---------------------------------------------------古第在西原、伝云、伊手氏宅趾也、青龍
2024年9月11日。西村慎太郎です。9月8日に浪江町大字谷津田菊池家文書の保存・調査活動でした。というわけで、現在、大字谷津田=谷津田村について勉強中。今日も『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)より見てみたいと思います。というわけで、谷津田村の旧跡のひとつ「六角第」について。常用漢字に改め、適宜読点を付します。---------------------------------------------旧跡六角第在愛宕前
「石の無限城」の如し大手郭から無事脱出しました。後は地獄の様な登山道を地獄の様に下山するだけです。ちなみに『鬼滅の刃』の続きである「無限城編」は劇場版三部作とな。恐らくその後に「最終決戦」があるものかと。はぁぁ・・・長い・・・永い・・・生きてられるやろか←まだ死ぬな!ほな白旗城より下城します。行きは通らなかった尾根横の登城道。憔悴しきって足取り重く登るときこんなのあったっけ?ただの岩魂かな?磐座かと思ったが帰りもよく見ず奈落の下山道。や
玉城を攻める前に登城記念符(御城印)を先に奪おうと購入しておこうと、伊吹山文化資料館へ行きました。ここには関ケ原近隣にあるお城の御城印が置いてあるんですわ。以前に長比城のをこちらで奪い手に入れたんです。駄菓子菓子!資料館の扉は固く閉ざされていた。休館ちゅ~であった滋賀県米原市清滝近江・柏原城(かしわばらじょう)別名:清瀧山砦、柏原館柏原城は佐々木信綱(近江守護佐々木定綱の四男)の四男で、京極氏の初代・京極氏信の居城です。弘安6年(1283)に近江守に任命された氏信は
織田信長公居館跡『岐阜城巡り❬天守編❭』帰省旅行の途中で、日本100名城「岐阜城」へ行ってきました。秋晴れに天守閣を仰ぎ見る風景があまりにも綺麗でしたので、天守までの道のりを書いてみました。岐阜公…ameblo.jp『岐阜城巡り❬天守からの眺め❭』『岐阜城巡り❬天守編❭』帰省旅行の途中で、日本100名城「岐阜城」へ行ってきました。秋晴れに天守閣を仰ぎ見る風景があまりにも綺麗でしたので、天守ま…ameblo.jpロープウェイを降りて、金華山の麓にある居館跡
『岐阜城巡り❬天守編❭』帰省旅行の途中で、日本100名城「岐阜城」へ行ってきました。秋晴れに天守閣を仰ぎ見る風景があまりにも綺麗でしたので、天守までの道のりを書いてみました。岐阜公…ameblo.jp暑かった夏が過ぎ気持ちの良い天気天守(4階)からの眺めは圧巻でした!犬山城、小牧山城方面長良川上流側中央アルプス方面伊吹山方面清洲城、名古屋城方面4階天井絵麒麟と龍天守を降りて、金華山の麓にある
矢筈城はもう出てきませんが、矢筈城の最終話です。矢筈山から下山し撮り鉄(転車台、駅、橋梁)をいたしまして、最後に草刈氏居館跡に乱入し、本陣を敷いた千磐神社へ帰陣いたします。加茂川沿いの県道6号を千磐神社に構えた本陣へ戻るため、坂道おませんけど城跡の距離以上にひたすら歩く歩くコケる歩く途中の内構に寄る。そしてまた歩く歩く。最後のお立ち寄り場所。内構(草刈氏居館跡)これは県道からの居館跡入口。この石垣造りは玄関口であろうか?石段を上がり高台になった場所に居館跡があります。石
荒尾市荒尾に所在する本村居館跡です。文化財の指定は受けていません。荒尾市民病院の西隣に所在します。未指定ですが、かなり残りのよい平地の居館遺構です。曲輪がいくつも連なり、それらの間は深い堀で囲まれています。右の森が本村居館跡です。左の建物は荒尾市民病院です。※写真は2022年11月撮影
前ログの続きです2021年12月ですこれを見て、ここからこれに従いこれを通り抜けここを通り過ぎると入り口さらに行くと数台、置ける駐車場車を置いて、登ると…すぐ、あります滝?それは…?河村城跡を目指します登りますよ~これを見て先にすすみます好みで向かいます?直進しました向かいます階段おおーっ郭と郭の間に…これがあります読めないですねここが水溜まりではなく、井戸跡かな?水溜まり?井戸跡かなこのようになっています井戸から向かって左側の郭井戸というより
玉野構居(加西市玉野町真中)藪田山城守の居館跡。宗寿寺北堀跡加西市の城
広原城(加西市広原町川内東町・佐谷町森脇)詳細不明。居館跡(広原町公民館)南五郭南下段南五郭北上段南四郭南三郭下がって南二郭主郭北東堀切西二郭広原城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ加西市の城
やほほーーーーーーーーひ一気にお城?シリーズを出していきます『土居の内』篠山城帰りによってみた場所なりけど。。。ここまで、良き遺構が残ってるとは思わなくてビックリした場所れしたこんな感じなりけどねー周りの堀が、凄いんらよねぇーこの堀と土塁で守られたお家がーこれは門をみて、左手になるなり。。。こんな、場所がまだ残されてるとなると。。。とても、((o(´∀`)o))ワクワクしたまぁなのれした残してくれるって嬉しい事なり今日は簡単にれすが。。。おしまーーーーーーーーーーー
蟲生城館(西脇市黒田庄町福地)蟲生城の山麓の居館跡。祠蟲生城館跡東空堀軌跡ログ旧多可郡黒田庄町の城
巷で流行ってる「鬼滅の刃」とかいうアニメ(漫画)そんなアニメ如きでええ大人までハマって何がおもろいねんとか思いながら、再放送、映画版、新作と全部録画してちょっと観てみた。おもろいやんドハマりしたわ元々ゆるゆるな涙塁、決壊しまくったわ涙塁→土塁を文字ってみた。因みに、「無限列車編」の蒸気機関車は8620型(通称・ハチロク)の後期改造型防煙板装着タイプやね。ほな、本題行かせてもらいますわ(本題に集中するように)20年に及び景山城主であった磯部氏の居館跡
久保木城(小野市久保木町)久保木城の詳細は不明である。『東大寺文書』によれば、元享三年(1323)に窪木地頭白井八郎定胤が、そして観応三年(1352)には窪木公文八木三郎重高の名が見られる。しかし現在比定地とされている丘陵上あったのは、それより随分と後のことであろう。(※小野市史より)居館跡上段参道となっている居館跡の南土塁土塁南の溜池跡居館跡下段居館跡下段の溜池跡西三郭東二郭東二郭西腰曲輪東二郭北西帯曲輪水堀跡の水路北東三郭北竪堀西三郭南二郭南二郭東腰曲輪主
朝散歩、空気が冷んやりでした19度だったかなお散歩ルート、迷走気味だった今朝は高校の入り口でモデルさんを高校は、藩主の居館跡にあるので、お堀もあって素敵な場所です撮影の裏側👇低い石に登ってから、高い石にピョンと乗っちゃいます降りる時は危ないので、抱っこしますが、登りは得意な杏さんです最近、朝散歩後半から日差しが強くなるので、今朝からお洋服で日除け対策しましたお洋服散歩の開始です最後まで読んでいただいてありがとうございます
原之城遺跡『別名』なし『所在地』群馬県伊勢崎市豊城町2738-2『城主』不詳『遺構』土塁『城郭形態』館『駐車場』なし『歴史』原之城遺跡の歴史と城主については不詳ですが6世紀中期の豪族居館跡と言われています。解説板土塁
やほほーーーーーーーーーーーーーひなんかねー??朝の目覚ましの音が勝手に変わっててぇ。。。どぉー聞いても、ねんねソングぅ。。。9時出勤なのに。。。8時45分に起床したぁー(✪▽✪)まぁれーーーーーーーーふヽ(`▽´)/ちゃんと、5分で用意ちて間に合ったとゆぅーーー昨日、お話したぁ。。。楯岩城居館跡のお話らよ??前回古墳で紹介した。。。『黒岡神社』の。。。左側から奥に進むと。。。楯岩城居館跡がありますまだ、お城の城主さんはお城に住んでいたぁーーーと。。。思ってる人
細谷館『別名』右馬助館『所在地』群馬県邑楽郡邑楽町篠塚691『城主』細谷氏『遺構』堀跡『城郭形態』館『駐車場』なし『歴史』細谷館は正平2(1347)に新田氏の一族・細谷秀国によって創建されたと言われています。その後、細谷館は細谷氏代々の居館となり天正18(1590)以降に9代・細谷義長が帰農しました。堀跡解説板
平山季重居館は、現在の東京都日野市平山にあった平安末期の武将である平山季重の居館。別名、平山氏館。京王線「平山城址公園」駅前に居館跡の碑が建っている。
この日、西明寺、金剛輪寺、百済寺城に行った後に以前からどうしても行きたかった下坂氏館へ行きました。下坂氏館は近江国下坂庄の国人領主で、南北朝時代に足利氏に仕えてから以降、佐々木氏、京極氏、浅井氏に仕えたそうです。浅井氏滅亡後に下坂氏は帰農しています。ちなみに居館跡の敷地内に南北朝~戦国時代の遺構(主屋、門、土塁、虎口、曲輪、堀、菩提寺)がこれほど残っているのも全国的に例がないそうです。ちなみに最近まで子孫の方が居住し管理していたのですが、現在は管理するのが大変で維持費が掛かる事も
※2021年2月19日訪問※一面畑となっている居館跡ですが、何やら鳥居を発見奥へ進むと朱塗りの鳥居も現れますが、肝心の神社の名称が記載されておらず、名前がわかりませんでしたお社も建てられていますが、神社に関しての案内板などは見当たりません【長館のいちょう】と書かれた案内板だけが建てられていました温泉町で有名な秋保地区には、この他にも秋保氏所縁のの館跡が多く点在しており、また改めて訪れてみたいと思います
※2021年2月19日訪問※長袋所(長楯城・長館)の最奥部分が【居館跡】になります現在は一面の畑となっていますが、かつてはこの場所に秋保氏が居を構えた館が建てられていたのでしょう居館跡には【長舘】と書かれた標柱がひっそりと建てられていました◆陸奥国・長袋所(長楯城・長館)居館跡◆②に続く
標高2,172mの「日本国道最高地点」の石碑を見に行きたくて、早朝から現地に向かい、マイナス4度の吹雪の中、長袖シャツだけで行くという暴挙(←ただのアホ)に出た帰りに近くだった事もあり、寄りました。高梨氏館は16世紀初頭に北信地方の有力武士であった高梨氏の居館で、ここから300m位離れた場所に詰めの城である鴨ヶ嶽城があります。そして南の尾根続きには鎌ヶ嶽城という山城があり、高梨氏の支城とも言われていますが、こちらは砦など物見の目的で作られたのか支城として機能していたのかどうかははっきりと
岐阜市の特産である岐阜和傘や、岐阜提灯(ちょうちん)などを幻想的な光で彩る観光イベント「ぎふ灯(あか)り物語」「ぎふ灯(あか)り物語」が30日、岐阜市の岐阜公園などで始まりました屋外で開催していて、観覧スポットを分散させるなどして新型コロナウイルス感染防止策を取り入れているので、このコロナ禍でも安心、安全ですよ新たな観光の在り方を模索するイベントとなります。2月7日までです金華山のふもとにある岐阜公園にスポット7つ、河原町広場1つの計8つが用意されています公園内にある織田
こんにちは。先日、仕事の関係で京都へ行ってきましたので、近くにあった開田(かいでん)城土塁公園なるところへ行ってみました。近くには長岡天神や勝竜寺城などもありますが、あまりウロウロもできないので、一番マニアックな場所へ。阪急電車、長岡京駅のすぐ近くです。マンション建設の際に色々と発見されたようで、現在は西の土塁と南の土塁の一部が保存されています。開田城はこの地域の国衆、中小路氏の中世居館跡だそうです。時の権威・権力からは独立して近隣の居館と連携し自治都市を経営して
先週山城攻めて道を間違えた。Uターンしようとしてハンドル切ったら前が良く見えず欄干の低い橋で脱輪したやってもた!前にも後にも動かず山の中でえらいこっちゃ~💦💦💦車輪の向きを確認してハンドルの切る方向で脱出できるかどうか思考・・・フツ―に脱出できた超高級鉄馬車も無事であった山道はセマセマ道が多いので気を付けましょう。備前・三石城の続きです。現在は現在地ではありません。現在の現在地は大手曲輪(大手曲と書かれてる)から三の丸へ向かうところです。尚、井戸(