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白石城の桜が咲き始めたというので行ってきました。白石城は伊達家の重臣片倉家の居城です。今日は天気が良かったので天守から見る城下も綺麗でした。
春の皇居乾通り抜けをしてせっかくなので皇居付属庭園の皇居東御苑も散策した。かつて徳川将軍の居城だった場所。平川門から入場(手荷物検査あり)=御殿に務めていた奥女中などの通用門。~天守台~明暦の大火(1657年)で焼失後万治元年(1658年)に再建された天守台。天守台跡にのぼると本丸大芝生全体を見ることができる。大手門=徳川時代を通じての表門として使用されていた。21万平方メートルにもおよぶ広大な敷地で旧江戸城の歴史を体感しながら四季折々の花々や緑を楽し
【問題】小山評定で山内一豊が徳川家康に提案した、自らの居城を東軍に提供する案は、元は誰が発案したものだったとされるか?【選択肢】浅野幸長加藤嘉明堀尾忠氏寺沢広高【正解】堀尾忠氏【解説】自らの居城を東軍に提供する案は、元は堀尾忠氏の発案だったとされるが、忠氏の発言を事前に聞いた一豊が、小山評定で最初に提案したという逸話が残る。
2023年7月16~18日の3日間愛知県犬山市から始まった城めぐり『どこ行く家康玉石垣が珍しい横須賀城跡⑧』やっと秋🍁らしくなってきた今日今頃内容は、まだ7月に巡った🏯です💦『どこ行く家康掛川三城⑦難攻不落高天神城』翌日(7月18日)『どこ行く家康…ameblo.jp最終目的地は静岡県静岡市徳川家康大御所時代の居城駿府城公園JR静岡駅から徒歩15分家康の甲冑プラモデル風発見三ノ丸堀を渡ります既に石垣凄いな切込接?ビルと石垣2枚駿府城大手御門跡静岡
【問題】【日本城郭検定2級】「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と著書『常静子剣談』に記した江戸時代の大名・松浦静山の居城はどれか。【選択肢】大分府内城津山城平戸城小谷城【正解】平戸城【解説】平戸城は、慶長4年(1599)に松浦鎮信が三方を平戸瀬戸に囲まれた亀岡山に築城された。
【問題】穴水城(石川県穴水町)は、次のうちどの家の居城であったか?【選択肢】椎名氏江馬氏寺島氏長氏【正解】長氏【解説】穴水城は、文治2年(1186)長(ちょう)氏の祖である長谷部信連によって築かれたとされ、以来400年近くの間、長氏の居城として存続した。現在は、城址公園として整備されている。
【問題】美濃斎藤氏の家臣・佐藤忠能が居城としたのは、次のうちどの城か?【選択肢】増島城加治田城小里城長松城【正解】加治田城【解説】佐藤忠能は加治田城(岐阜県富加町)主である。永禄7年(1564)織田信長に降った後、斎藤方の長井氏らに攻められるが、織田勢の救援を得て撃退している。
【問題】織田信長と対立し居城を落とされた織田信清は、次のうちどこへ逃れたとされるか?【選択肢】駿河国甲斐国越前国伊賀国越後国【正解】甲斐国【解説】織田信清は信長の従兄弟にあたる人物で、初め対立関係にあったものの、後に信長に与した。しかし、再び関係が悪化し、信長に居城を落とされて甲斐国へ逃亡したという。
【問題】≪難問≫伯耆国山田氏の居城は、次のうちどれか?【選択肢】江美城尾高城鏡山城堤城【正解】堤城【解説】伯耆国山田氏は、堤城(鳥取県北栄町)を居城としていた。一時、尼子氏によって城を逐われたが、山田重直の代に毛利氏の支援によってこれを回復した。
コース隣の部屋に長机があるんで・・・秘密基地=MYPITSPACEの出来上がり折角なんで2年半熟成させた、GAGAオリジナルハイクオリティレーシングピットマットを敷いた右側には体重計とセッティングボード使用頻度が低すぎて存在を忘れそうになってたから、目につく位置に置いただけま、嬉しがって工具とか充電器なんかを並べてみたけど、実際に作業をやりだすと・・・な尤も、作業頻度がそもそも低いんやけどな
我が家のニャンコ(トロ)の寝床(現在お気に入り)が進化して...更なる要塞化して来ています要塞(ダンボール箱)の中にはペット用ホットカーペットが敷いてありますが、そのホットカーペットは同時に2枚買ってあって、使ってなかったもう1枚も表にも敷いてあげました。ここは出窓付近にあり、夜中...特に明け方にはかなり寒くなるので2枚のホットカーペットで対応。電源も2口のスイッチタップに替えて、冬場でも比較的温かい日中とかには表はオフ、中はオンというようにホットカーペットをそれぞれにスイッチのオンオ
【問題】府中三人衆の一角、不破氏が居城としたのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】戌山城織田城敦賀城竜門寺城後瀬山城【正解】竜門寺城【解説】織田信長から越前国府中を任された府中三人衆の一人、不破光治(子の直光を含む場合もある)は、竜(龍)門寺城(福井県越前市)を居城として政務にあたった。
【問題】毛利氏の居城であった吉田郡山城と広島城。海沿いの立地に築かれたのはどちらか?【選択肢】吉田郡山城広島城【正解】広島城【解説】毛利氏では、元就の代には吉田郡山城(広島県安芸高田市)を居城としていたが、輝元の代に瀬戸内海運に適した平城の広島城(同広島市)が築かれ、居城が移された。
【問題】蘆名氏家臣の金上氏が居城としたのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】津川城霊山城三春城塩原城【正解】津川城【解説】津川城(新潟県阿賀町)は、建長4年(1252)、蘆名氏が一門の藤倉盛弘に築かせたとされる。その後、藤倉氏は金上姓を名乗り、同氏は蘆名氏重臣として代々津川城主を務めた。
【問題】松波城を居城とし、後に上杉軍に城を攻め落とされた松波義親とは、次のうちどの国の武将か?【選択肢】佐渡国陸奥国飛騨国能登国【正解】能登国【解説】松波氏は能登松波城(石川県能登町)を居城とした一族である。畠山義綱の三男・義親が家督を継いで畠山氏の一門となるも、後に上杉謙信に攻められて戦死した。
【問題】安芸武田氏の居城として知られるのは、次のうちどの城郭か?【選択肢】賀儀城五品嶽城亀居城佐東銀山城【正解】佐東銀山城【解説】佐東銀山城(さとうかなやまじょう、広島県広島市安佐南区)は、鎌倉時代に武田信宗によって築かれたとされ、以後、毛利元就によって滅ぼされるまで、安芸武田氏の居城として機能した。
川崎城は正治建仁年間(1199年~1203年)の頃築城されたそうです平安時代から続く塩谷(しおのや)氏の居城で、度々戦場となりながら、同族による内紛以外では、外敵による落城が一度もなかったほどの堅城でした
【問題】≪難問≫筑後国衆・黒木家永が居城としたのは、次のうちどの城か?【選択肢】津村城久留米城鷹尾城猫尾城【正解】猫尾城【解説】黒木家永は、猫尾城(福岡県八女市)を居城とした筑後の国衆である。当初大友氏に従うが、耳川の戦い後、龍造寺氏に属したため、大友氏に猫尾城を攻められている。
【問題】大熊朝秀が上杉氏家臣時代に居城としていたのは、次のうちどの城か?【選択肢】蔵王堂城根知城大葉沢城箕冠城【正解】箕冠城【解説】大熊朝秀は、もと上杉氏の重臣で、箕冠城(みかぶりじょう、新潟県上越市)を居城としていた。朝秀は後に、主家に反旗を翻すも敗れて城を捨て、武田氏に仕えた。
【問題】伊達政宗が岩出山城(宮城県大崎市)を居城としていたのは、次のうちどの程度の期間か?【選択肢】約5年約12年約20年約28年【正解】約12年【解説】政宗は、天正19年(1591)に豊臣秀吉の奥州再仕置によって米沢から岩出山城に移り、慶長8年(1603)に仙台城に移るまでの12年間、同城を本拠とした。
居城の大阪城・天守閣に登城します。
【問題】織田信長が「天下布武」の印章を用い始めたのは、次のうちどこへ居城を移した頃のことか?【選択肢】清須城小牧山城岐阜城安土城【正解】岐阜城【解説】永禄10年(1567)、稲葉山城を攻略して斎藤氏を滅ぼした信長は、城の名を岐阜と改め居城を移した。この頃から「天下布武」の印章の使用が始まっている。
ワクチン2回目をクリアしましたアダチです。ワクチン接種24時間後。頭痛があり、体温を計測したら37.6度になりずっーーーとおとなしく寝ていました。ここまでは想定内。ちょっと冒険心があるので右手に接種しました。今回のことは、身近な方しか右手に打つことを話さなかった。みんなに『左手にしたほうがいいよー。』と、言われた。が、左を下にしてよく寝るアダチにとって左手に打ったワクチン1回目の時は寝にくかったから。ただ、その理由と右手と左手でワクチン効果を分散するのもやっ
信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由「人は石垣、人は城」を実践した賢将信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由|読書戦国の雄として知られた武田信玄の居城、躑躅ケ崎は、まことに小さかったという。江戸時代、荻生徂徠が甲斐を訪れたときの感想だ。信玄の偉業との隔たりが大きかったせいもあり、徂徠はそう感じたにちがいない。た…toyokeizai.net
【問題】次のうち、遠藤慶隆が居城とした城はどれか?【選択肢】越前大野城会津若松城大和郡山城郡上八幡城【正解】郡上八幡城【解説】遠藤慶隆は美濃国郡上郡を本領とし、八幡城を居城とした。斎藤氏配下に始まって時の天下人に属し、一時は居城を追われることもあったが、江戸時代初期に郡上藩初代藩主となった。
【問題】永禄11年、六角義賢父子は支城の陥落を知って、居城・観音寺城を捨て逃走したが、その支城とは次のうちどれか?【選択肢】箕作城青地城土山城鎌刃城【正解】箕作城【解説】永禄11年(1568)、織田信長は上洛を妨げる六角義賢父子を攻撃した。六角勢は本城の観音寺城の他、各支城に兵を入れ迎撃したが、箕作城が落ち和田山城が自落したことを知ると、観音寺城を捨てて逃亡した。
【問題】羽衣石城(鳥取県湯梨浜町)は、次のうちどの大名の居城か?【選択肢】亀井氏田結庄氏三村氏南条氏【正解】南条氏【解説】羽衣石(うえし)城は戦国時代、伯耆南条氏の居城であった。一時、尼子氏に城を奪われることもあったが、南条元忠の代までその本拠地として機能した。
【問題】小田氏治の家臣・菅谷政貞は、氏治が小田城を逐われた際、自らの居城へ迎えたが、その城とは次のうちどれか?【選択肢】小弓城土浦城万喜城額田城【正解】土浦城【解説】菅谷政貞は常陸国土浦城主で、小田氏治に仕えた。氏治が佐竹氏によって小田城を逐われた際には、土浦城に氏治を迎え入れ、後の小田城奪還を支援した。
【問題】小寺政職が居城とした御着城は、但馬国にあった城である。○か×か?【選択肢】○×【正解】×【解説】小寺政職の居城であった御着(ごちゃく)城は、播磨国にあった城で、政職の祖父・政隆が築いたとされる。兵庫県姫路市御国野町御着の城跡には城址碑が立つ。
2月14日投稿の「水の被害」のおしまいに、シャトーと繋がる地下道に触れました。はい。私の住んでる町(人口1500人ちょっとの小さな町で村というべきでしょうね)にはシャトーがあるんです。そのシャトーにからむ歴史的なお話をこれから少しずつ書こうと思います。まず、もっと有名なシャトーに繋がる地下道について。観光しがいのあるシャトー、仏国王フランソワ1世が居住していたアンボワーズの城と、レオナルドダヴィンチにからむ話をしておきたいと思います。フランスワ1世がダヴィンチに与えた館クロ・リュッセ