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温知政要という本があるんだ今、花開く、宗春学。とある規制緩和、公共事業推奨の現状にあっているのか徳川の将軍は15人だが有名な将軍と云えば家康、家光Rust将軍の慶喜暴れん坊将軍こと吉宗八代犬公坊の綱吉五代こちらも忠臣蔵で有名中でも吉宗の知名度は高くドラマの影響は計り知れない天の邪鬼の性格が起因して悪名高い田沼意次や綱吉に引かれる徳川本流を批判するなどはばかりが多く忖度まみれで正式な歴史として教えられたものは多分に脚色された帰来がある時の将軍の政策に真っ向から
皆様、ご機嫌YOです!紀伊藩から八代将軍となった徳川吉宗。俗に享保の改革と呼ばれる改革(効果は今一つだったようですが)を実行した吉宗にとって目障りな存在だったのが、御三家の一つ・尾張家の徳川宗春でした。皆様御存じの通り、享保の改革は基本質素重視の緊縮財政だったわけなのですが、宗春はそれとは真逆に金を使って経済を積極的に動かしていく方針だったのです。それが吉宗の勘気に触れたせいで宗春は冷遇される事になり、吉宗を主役とした時代劇「暴れん坊将軍」でも吉宗を敵視し幕府の転覆を狙う黒幕として描かれ
津金文左衛門|概要・歴史|飛島村飛島村の公式ホームページ。「小さくてもキラリと光る村とびしま」は人口5千人にも満たない小さな村ですが、北部の農村部は緑豊かな田園風景が広がり、南部の臨海部は国内最大級のコンテナターミナルが整備された中部地方の物流の拠点として発展しています。www.vill.tobishima.aichi.jp津金文左衛門は、1727年に今の名古屋市東区平田町に生まれたと言われています。彼は父が早くに亡くなったため、早くから家を継ぎ、武術はもとより、漢字、経済、土木
あけましておめでとうございます。歳をとるのはイヤだけど新年を迎えるのはオッケーなアダチです。ぴょんぴょんとウサギのように飛躍する年になると強く強く願っております。やっぱり青空が似合うアダチです。桜のつぼみが寒さに負けず力強く芽生える。名(菜)を持ち(餅)上げる尾張藩を中心とした東海地方は武家の雑煮には餅菜のみを具として一緒に取り上げて食べるのが慣わしとなっています。血糖値対策にキノコ類を入れました。当時の武家(上級階級)よりも豪華でございます。あー。ありがたい
先日名古屋城秋の夜間特別公開景KEIを駆け込みで観に行ってきました。二号は友達とご飯食べに行くと出かけたので一人です。入場料は500円。中学生は無料なのになあ。まだ早い時間で明るかったので先に天守閣のほうへ。復元された本丸御殿。本丸御殿も天守閣も空襲で消失されたため復元されたものですが、その前は国宝の第一号に指定されていたんですねぇ。こちら参照。天守閣|観る|名古屋城公式ウェブサイト名古屋城の公式ホームページです。城内の見所・料金・駐車場のご案内などをしておりますwww.
山の里加子母。今朝10時現在山の里は晴れ。今日一日「晴れ時々曇り」の予報です。ブログ用の写真が枯渇しました。古いものを使うのは抵抗感があったので、昨日の午後、市民病院へ行く途中、隣町の中津川市付知町にある付知峡に立ち寄り、紅葉の写真を撮影しました。まずは付知峡への入口に当たる国道257号の分岐点。その付近にあるのが護山(もりやま)神社。江戸時代尾張藩が山火事や災害などの災いを鎮めるため建立した由緒ある神社です。その境内を彩るモミジです。
「下街道」を北進します。坂を登ったあたりが一番高いところです。この地帯一帯の給水塔か建ち並んでいます。国道19号線を跨ぎます。南進3車線、北進2車線となっています。国道を跨いで、すぐ右折(北進)します。しばらく下ると「馬頭観音」がひっそりと立っています。コンクリート建物は「ダイコク電機本部ビル」です。「ビッグショップ」と名付けられた曲面で構成された本部ビルと、手前「マスト」と呼ばれる方形のパーキング・タワーとからなり、簡素で
「下街道」を進みます。東名高速道をくぐります。しばらく進みますと…「大泉寺簡易水道水源井跡」なる石柱がありました。このあたりの水事情は大変厳しいものだったようですね。坂を右に上り詰めますと…石仏がありました。さらに登ったところに「諸人助けの井戸」なるものがありました。このあたり「大泉寺」という地名のところですが、高台となっていて水の便が悪く、百姓は日照りに困り、又旅人も飲み水に困り果てていました。そこ
細久手宿の旅館大黒屋さん国登録有形文化財に指定されている貴重な建物です。江戸時代、細久手宿には旅籠が24軒あったといいますが今は静かな集落で宿泊施設はこちら1軒。尾張藩の定本陣であった家です。大名が泊まる宿である本陣、脇本陣はもともと別にあったのですが手狭になって他の大名との相宿を嫌った尾州領主が問屋役の家を「尾州家本陣」と定めたのだそうです。(ワガママだなー)大井宿を出ると大湫宿、細久手宿は電車の駅から遠く次の御嵩宿でやっと駅が近く
熱田神宮を出て、地下鉄神宮西駅から市役所駅。金シャチ横丁を通って。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家十七代の居城でした東南隅櫓が見えてきました。威風堂々加藤清正の石曳表二之門(本丸南ニ之門)。ここから本丸に入りますが、先に正門(旧榎多御門)を見に行きます。名古屋城正門(旧榎多御門)。なん
尾張藩の藩医を勤めた初代浅井東軒から七代國幹までの墓がある常楽寺。急な階段の途中に沢山の墓があるのですが、檀家以外は立ち入り禁止となってます。浅井家代々の墓は解らず終いで階段を上りきり、本堂に着いて終いました(;´∀`)本堂の脇に、お堂が在るけれど中の様子は伺えません…張り紙で、仏足石の説明はあるのですが、浅井家とは関係が無さそう。境内を探して回ると、ゲートで仕切られた北側の一角に、浅井國幹顕影記念碑は見つける事が出来ました。なごや歴史探検アプリのスタンプ。
2022年7月21日私ブログ記事『尾張藩主歴代から青松葉事件に至るまで』関ケ原の戦いにより、徳川家康の四男松平忠吉が領地に入る。慶長11年(1606年)に家康の直轄だった知多郡も忠吉の領地となった。慶長12年(1607年)に後継…ameblo.jp伊多波刀神社-Wikipediaja.wikipedia.orgこの伊多波刀神社の由緒について、源頼朝が武運長久を祈願して朱印地と甲冑3領を寄進したとか、織田家の寄進を強調しているけどどうなのかな?私がこの
関ケ原の戦いにより、徳川家康の四男松平忠吉が領地に入る。慶長11年(1606年)に家康の直轄だった知多郡も忠吉の領地となった。慶長12年(1607年)に後継ぎがないまま死去して天領となった。代わって、家康の九男徳川義直が領地に入り、清須城から新たに築かれた名古屋城に移り、ここに尾張藩が成立した。3,4,5代の死に方がどうもおかしかった。急死に近い。毒殺はあったかな調べてみると、兄弟内での家督権争いのようなことはなかったのかなと思った。結果的に血縁は途絶えて、一橋家を頼
尾張藩初代藩主徳川義直(徳川家康の9男)『尾張藩主歴代から青松葉事件に至るまで』関ケ原の戦いにより、徳川家康の四男松平忠吉が領地に入る。慶長11年(1606年)に家康の直轄だった知多郡も忠吉の領地となった。慶長12年(1607年)に後継…ameblo.jp2022年7月18日中日新聞【独自】尾張藩蔵書、裏面に希少資料明王朝の公文書、蓬左文庫などが発見:中日新聞Web十七世紀に中国・明(みん)で製本され、現在は名古屋市蓬左文庫(同市東区)が所蔵する医学書の紙の裏
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲーター」の原一六四(ひろし)です。さて本日も飯田城下町サポーターとしての活動報告をさせていただきますね。皆さんは、ご自分が住んでいる地域もしくは故郷って何藩でどのくらいの規模だったとかって興味を持った事はありますか?実は恥ずかしながら私は詳細を知らなかったんです。ですが、城下町サポーターとなって、先生から、ご教授いただきまして、すんごい驚いた事があったんです
「下街道」を歩いています。名古屋陶磁器会館を訪ねたあと、臨済宗妙心寺派のお寺「徳源寺」に寄ります。はじめは織田信雄により熱田に創建された宝泉寺が始まりです。火災にあい寛保4年(1744)この地に移建されたものです。尾張藩14代藩主徳川慶勝が山城国八幡の円福寺蘇山玄喬禅師を請じて、濃尾両国の臨済禅の道場として諸堂を整えました。現在も妙心寺派の七大修行道場の一つです。「仏殿(涅槃堂)」…金銅製の釈迦涅槃像を安置し、後部に五百羅漢を祀った日本では珍しい仏殿です。道一
朝井まかて氏の【御松茸騒動】を読了。主人公は尾張藩の常府藩士(江戸詰め)の榊原小四郎。父・清之介の死後に家督を継いだばかりの19歳で、市ヶ谷の上屋敷において用人手代見習いを務めていた。ところが宝暦四年(1754)の夏、知人の失態のとばっちりを受け、「御松茸同心」を命じられて尾張の国元勤務になってしまったのだ。「御松茸同心」とは、毎年、尾張産松茸を将軍家及び各有力大名家へ贈答するための専任職である。言ってみれば、出世にはほど遠い地味な任務である。養母とも別れ、しぶしぶ一人国元へ帰国
大脇家の家紋尾張藩士・大脇家加賀藩士・大脇家奥殿藩士・大脇家土佐藩士・大脇家美濃・加茂郡・大脇家
コロナ騒動で遠出もままならず旧東海道が歩けていません。そこで、近場のマイナーな街道「下(した)街道」を歩いてみようと思い立ちました。↓図にある「善光寺街道」とある道です。この先「中山道」に合流し、洗馬で別れ、「善光寺西街道」をへて「善光寺」に到る道です。名古屋を起点に、春日井市~多治見市~瑞浪市(釜戸)をへて「中山道・槙ヶ根追分」に到る約60㎞足らずの道です。東海道・中山道のようなメジャーな街道でなく、江戸の当時は裏街道の扱いだったため、本陣や一里塚などもなく、古い町並
所在地〒470-3503愛知県知多郡南知多町師崎林崎(林崎公園)特徴幕末の尾張藩が知多半島の先端に築いた砲台で、現在は三角形の公園になっている。沖合は埋め立てられて、海はかなり遠くになっている。感想岬の地形が残るだけで、遺構は消滅している。
予は尾張藩主の徳川宗春じゃ。予は将軍吉宗から謹慎を命じられた。名古屋城下で華美な催しをしたりして、質素倹約の幕府の方針に反旗を翻したと咎められたのだ。尾張藩は御三家筆頭の61万9千石を有する。東海道の要衝の名古屋に城を構え、全国の諸大名ににらみを利かせている。7代将軍家継公が亡くなり、後継将軍を決める際に、御三家筆頭の尾張藩からではなく、紀州藩主の吉宗が将軍となった。藩祖義直公は家康公の9男、紀州藩の藩祖頼宣公は10男。長幼の順から、尾張藩主が将軍職に就任す
尾張藩時代に用水路としてきり開かれたが、埋めたてられ、昭和49年、夫婦橋から猿投橋までの約1.6km、黒川岸の桜とともに、緑の散歩道として生れ変りました。両岸に続くサクラ並木は、河岸から川を覆うように伸び桜のトンネルを作っています。御用水の桜見物は、以前にはよく出かけていたのですが個々数年は出かけていなかったがTVで見た落下盛んで「花吹雪」「花筏」も楽しめるとの情報で今年は出かけてみましたがしかし風穏やかな好天で花吹雪はなく、流れ穏やかで花筏も残念でした。ソメイヨシ
京都のブロ友さんが茶道具のお店の様子を見せてくださるのですが先日『祖母懐焼』とかかれたお茶碗ありあらもしかして---2009年に瀬戸市へ行った時窯垣の小径という窯元がある古い街並み近くで「祖母懐町」という地名表示を見つけました漢字は違いますが姥が懐(うばがふところ)という地名は三方を山で囲まれた南面で日が集まる暖かい場所と聞いていてきっと同じ意味だろうと写真も撮らずでしたが『祖母懐焼』はそこと関係あるのではと調べたらその通りでした民俗学では、姥
小笠原記念館閉館へ老朽化で、展示品は唐津城に-佐賀新聞佐賀新聞唐津市西寺町の近松寺境内にあり、旧唐津藩主・小笠原家の資料などを展示している「小笠原記念館」について、唐津市が老朽化などを理由に廃止を検討して...5年ぶりの現代小説も“浅田次郎節”健在疑似ふるさとを舞台に描く現代人の孤独と願望〈AERA...Yahoo!ニュース-Yahoo!JAPANAERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー
御松茸騒動(徳間文庫)[朝井まかて]楽天市場704円御松茸騒動(徳間時代小説文庫)Amazon(アマゾン)1〜3,240円楽しい時代小説です。江戸時代中期が舞台であると思いますが、明らかに現代社会への風刺が効いています。尾張藩から江戸詰めで働いている主人公小四郎は、若くて仕事への取り組みも熱心です。しかし、あまり働かず業務後の飲み会ばかりに熱心な上役に我慢ならず、時には正論をぶつけてしまいます。「俺がいなければ、この働き場は一日も
●春日局の家系図(祖心尼・牧村氏・德川家光・昭和天皇)牧村城(岐阜県安八郡安八町牧あんぱちちょうまき?)(ヤフー地図)◎牧村城山内一豊ゆかりの牧村城址(じょうし。ミルナビ)(安八町HP)枯木猿猴図の謎(かれきえんこうず?)(牧村利貞)牧村氏(出自不詳)牧村政倫(まさとも)娘(夫・稲葉重通)稲葉利貞(稲葉長兵衛政治・政吉・高虎。秀光しゅうこう?)一宙禅師?(いっちゅうぜんじ)(妙心寺雑華院住職)