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2014年2月2日うるま市の勝連城跡から、中城村の中城城跡を目指します。海は引き潮で、車窓よりその様子がわかります。中城城跡も世界遺産に登録されています。中城城跡中城城跡の立体状の縄張り図通常は正門からでなく、北の郭の通用アーチ門から入城します。城壁の石垣は石灰岩を切り出したものです。三の郭へ三の郭から二の郭には入っていけません。一度北の郭に戻り、北の郭から二の郭に入っていきます。二の郭
こちらは、ゆいレール「美栄橋」駅の下広場にあります。碑文によると、1400年代初頭の那覇は、浮島と呼ばれる島であったため、首里との交通はかなり不便だったそうです。そこで、第一尚氏第5代、尚金福王は1452年(景泰3年)、冊封使を迎えるために、国相「懐機(かいき)」に命じて、崇元寺前からイベガマ(チンマーサー:現長寿宮)に至る約1kmの【長虹堤】という海中道路を築かせたようです。【長虹堤】には、3つの橋がかけられていて、「美栄橋」はそのうちの1つだったよ
こんばんは💖「星の子たちの家」Katsueブログにいらしていただき、ありがとうございます💖「父と母と私の前世の物語」⑤今回、「肝高の阿麻和利」を観に行った時の体験を書こうと思って、過去ブログを探してみたのですが見当たりませんでした。私は、百十踏揚について調べているうち、そのお墓が玉城村(現在の南城市)にある事を知り、その供養に何回も行っています。その時、兄弟や尚泰久王のお墓やお仏壇にも手を合わせに行きました。その後、うるま市の中高生による「肝高の阿麻和利」を観に行きました。その日
おはようございます💖「星の子たちの家」Katsueブログにいらしていただき、ありがとうございます💖「父と母と私の前世の物語」②百十踏揚(モモトフミアガリ)それまで、神事の先生から「貴女のお母さんの前世には、百十踏揚」と教えてもらうまで、名前も知らなかった。それが、こんな体験をするなんて、想像を超えた世界にある感覚でした。誰に話しても信じやもらえそうもない体感でしたし、先生には、普段から「勝手に動いてはいけない」といわれていた事もあって、直ぐには報告も出来ませんでした。それでも、こ
「星の子たちの家」Katsueブログにいらしていただき、ありがとうございます💖今日は、父と母と私の前世での関わりについて書いてみます。私は、32歳の時、沖縄の神事の先生に出会って、沖縄の火の神や仏壇の年中行事や先祖供養、等を学び始めました。通い始めて間もない頃、「今日は、うちの姉と一緒に拝みに行ってもらうから、○時に来るように」と言われました。先生のお母様は、ユタ。お父様は、その運転手として、ご夫婦で一緒に拝みをしていたそうです。そのお母様の死後、先生は、突然霊能力に目覚め、ユタとし
ヤンバルにあるカフェ。ダライダマも立ち寄った場所。面白いマスターがいて、「私の後についている人が伝えて欲しいと言ってる」私もスピリチュアル系なので、興味深々。いろんな神社、寺、御嶽、湧水が出る場所、城址など、挨拶に行きなさいと。今まで、自分の使命を避けてきたというか、伸ばしてきたけど、切羽詰まった感じ。夜な夜な夢まで見せていただいた。腹を決めて旦那にも、許可もらった。私の過去世に百度踏揚(ももとふみあがり)だという。彼女は護佐丸の孫で阿麻和利の妻で、琉球の歴史上の人物だ。現実は
受付を16日までストップします今あるお問い合わせは、16日以降で遅れますが返信します確定申告でわちゃわちゃしてますゆえポストインメンテナンス、郵送メンテナンス、新規オーダーは受付できます子供らの春休みでの予定がまだ組めません直接、お店や自宅に来られても対応できません( ̄▽ ̄;)ただいまものすごいてんやわんや、してますいつもの家事育児に、確定申告準備、せねばならぬイレギュラーが続々と(; ̄ェ ̄)↑浜比嘉島の竜宮の拝所去年の画像ですが、引きの写真を撮れば良かったと後悔中
卯の花の匂う垣根に時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす夏は来ぬ作詞者佐佐木信綱作曲者小山作之助いやー、実に暑い日だった、もう夏だね🥵閑話休題彦根藩第十五代藩主井伊直弼公の禅の師であった仙英が住職を務めた寺院を幕末明治期所縁の仏閣巡りとして参拝金章山吉祥院仙英禅師は吉祥院で住職を務めた後、鳥取市の景福寺、そして、彦根藩主井伊家菩提寺清涼寺の住持に井伊直弼公は仙英禅師に篤く帰
自粛生活つれづれのYouTube10年前に沖縄へ行った時『組踊(くみおどり)』が観たくて国立劇場おきなわへ行きました組踊とは---琉球国王を任命に来る冊封使を歓待する為に踊奉行の玉城朝薫が創始1719年初演され今に至っています能や歌舞伎などをとりいれ沖縄の古事を題材にしその代表作の『ニ童敵討』は---勝連城(かつれんぐすく)の阿麻和利(あまわり)は那覇(尚氏中山城)へ攻め入ろうと勢いづいています。そこへ阿麻和利によって滅ぼされた護佐丸(ござまる)の遺児が現れ敵討ちに成功する
南城市玉城にありました。以前からこの場所、何かと気になっていたので。階段を登ると三つのお墓があり、その一つが尚泰久王のお墓。国王のお墓の祀られ方がちょっとこれでは。。。しかし、高台だけあって周囲は景色が良かったです。小学校の頃に沖縄の歴史を学んだのに全然覚えておりません。これを機に、地域の歴史も含めて勉強しなければ。この場所は玉城JAの近くです。パワースポットかもっ。(以下転載)尚泰久王尚巴志の五男で、越来間切を与えられて越来王子と称する。こ
概要爵位は、新政府樹立での功労を中心として「公・侯・伯・子・男」の5爵を授けた。1884〜85年に行われている。当初509家。小田部雄次によると、増減しながらも創設から廃止までに存在した家族の総数は1011家にもなった。天皇のもと、序列としては公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、となる。公爵は主に公家や新政府樹立時のトップ侯爵は主に大名家、その他公家伯爵は石高の低い大名や伊藤博文や井上馨など、新政府樹立に貢献した藩士ら子爵、男爵は維新の下級武士、石高の低い大名、上級爵位の分家などであっ
令和元年11月11日は、数字「1」が4つ並ぶ日付縁起のいい特別な日天気も良く、気持ちがいいです。ふと普天満宮の女神様の顔が浮かんだ‥呼ばれてる気がする休みなので行って来ました。女神様たちがいらっしゃる普天満神宮の由来琉球国の王、尚金福王から尚泰久王の頃(1450~60年)に熊野権現を合祀したと伝えられています。普天満宮の縁起伝承には、普天満宮女神と普天満宮宮仙人とがある。以前のブログでも紹介しています‥普天満宮女神写真の前で🙏ご挨拶を。とても美しい女神様に惹かれて‥
沖縄に着いて3日目。朝ご飯をお腹いっぱい食べて・・・・ちょっと寄り道(笑)。それにしても、沖縄にはこういう立派なゴツイお墓が多い。山沿いの斜面の墓地を見た際には圧巻でした。そして、やって来たのは、うるま市。沖縄県うるま市の勝連城は、世界遺産となっているグスク群の一つで、築城年代が最も古いとされています。また、中間の内と呼ばれる平らな曲輪を取り囲むように南北に城塞が発しており、天険の要害となっていました。標高100mを超える頭頂部は
本当は、この中城城は座喜味城訪問の前日、10月22日に訪問したのですが、同じ世界遺産であっても、琉球の武将・護佐丸の視点で考えた場合、この順番が分かり易いと思いますので、ちょっと変更させて頂きました。世界遺産・中城城の見学は有料ですが、そのかわりに高台にある主郭までカートで送ってくれるのは実にありがたいことです。何だ、殆ど崩れてるじゃん・・・とがっかりしていると・・・・見事な石積みが見えてきました。これは沖縄戦で日本軍が掘った塹壕の跡だそうです。
尚泰王は昨日の記事で紹介したのは記憶に新しいですね今日は尚泰王の家族構成を少しだけ紹介したいと思います4歳で琉球国王となりましたがもっとすごいのはその家族でした尚泰王には妃が一人夫人が二人妻が六人いますこの数は一国の王としてはそれほど珍しくもないそうですこれだけ多くのパートナーがいるため子どもの数もどんどん増えますねのちに貴族議員となる尚典を先頭に六人の男
🌕月代宮🌕月代宮はここは昔、佐敷グスクのあった場所で、佐敷グスクは三山を統一した尚巴志とその父・尚思紹の居城跡だといわれています。境内には内原の殿やカマド跡があり、亜熱帯風の植物が両脇に繁茂している石段の参道を上がると、割拝殿風の拝殿が建ち、その奥に厳かな拝殿が建立されていました。その後方には、近づきにくいほど神聖な雰囲気を漂わせて、東御廻りの巡拝地のひとつにもなっている上グスク之嶽がありました。御祭神:佐銘川大主・尚思紹王・尚巴志王・尚忠王・尚思達王・尚金福・尚泰久王・尚徳王の八柱
ありがとうございます沖縄に来た折に立ち寄り参詣しました宜野湾「普天間宮」普天満宮(ふてんまぐう)とは、沖縄県宜野湾市普天間にある神社で、沖縄県中部最大の聖地として参拝者が多い神社です。沖縄本島において、中部はもとより北部の建築関係諸祈願、結び(諸願成就)の神様として信仰されているのも特徴です。立派な社殿琉球八社のひとつです創建については、往昔、普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王(1450-60年)の頃に、熊
末吉宮→首里城の次は、一番気になった琉球八社『普天満宮』へ✨普天満宮は、琉球王国時代、普天間の洞窟(現在の普天満宮洞穴)に琉球固有の多神宗教「琉球古神道」が祀られたことがはじまりだと伝えられています。のちに、琉球国の王である「尚金福王」から「尚泰久王」がおさめた時代に、「熊野権現(ごんげん)」のも合わせて祀られるようになり、いまの神社の原型が出来上がったそうです。また、普天満宮は神社にも関わらず本殿横に、洞穴があります✨鍾乳洞でできた全長約280メートルの洞穴内は、
首里城の続きです。廣福門前の広場の供屋に万国津梁の鐘のレプリカが展示されています。万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)は、1458年に第一尚氏の尚泰久王が鋳造させた梵鐘です。鐘には、「琉球が尚泰久王のもとで仏教を盛んにして平和になった」という意味の銘文が彫られています。その銘文の前文が有名で「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以
それにしても、こんなときにこんなことに気づいてしまうとは...わたくしの尊敬する大先輩に、自ら超高級社用車を運転され、日本中を交流されているかたが居られます。わたくしより一回り以上も上なのに、そのバイタリティたるや、素晴らしいものです。以前、何故クルマで移動されるのかを尋ねたら、ヘリだと着陸するところが限られる選ぶ(半分冗談なのですが、ヘリの免許も取得されているので嘘ではないのです。そういうスーパーマンみたいなかたです)からだそうです...もうひとつは、色々なことを考えられるからだと仰ら
宇喜也嘉(おぎやか)について。第二尚氏、尚円王の王妃で名君、尚真王の母。宇喜也嘉が出自(しゅつじ)を明かさなかったので色々な臆測が出た。最も浅はか物は、渡久地十美子の王妃、宇喜也嘉の説で有る。下等霊にそそのかされて、宇喜也嘉の尚円王の妻子の殺人説の本まで出して。自分の神人としての売り込みをしている。何の修行もせず、ユタに毛が生えたレベルで如何にも神人になったとのぼせ上がっている。第一尚氏から第二尚氏に変わった政変で犠牲者になった方は少人数で有る。第一尚氏の尚徳王の跡取りの世子が首
琉球の歴史、金丸(内間金丸・尚円王)について。昨日、第二尚氏の二代王尚宣威の墓に供養の挨拶に行ったら夜半に脚の痛さに起こされた。両腿が引きって痙攣した。これは尚宣威からの私へのメッセージだと受け取った。私は東京時代に気功を実践し理論面も勉強したので霊的な面も理解出来る。気とは情報の塊で有る。地球の意識を内在するのが気で有る。この世の物は気として情報のエネルギーを内在している。ある人はこの気を心と言い、神経器官の総体、魂と言う。又、ある人は心は不滅の神と言う。肉体が死んでも心はエネルギー
尚徳王の4子のうち、3男だけが3歳。乳母に抱かれ先祖の地である佐敷に落ちのびた。後に佐敷間切(今の町村)屋比久の地頭に任命される。屋比久大屋子と称した。子孫は第二尚氏の尚清王に仕え、さらには王府から首里移住を許され、首里士族としての道を歩んだのだ。その末裔には明氏亀谷家などがある。第一尚氏の後裔を調べると孫氏平田家(尚思紹王)、武氏嘉陽家(尚泰久王)、明氏亀谷家(尚徳王)などがある。このうち明治以降の亀谷家。代々「長」が付く。12世亀谷長睦/13世長英/14世長健。
2446大江新太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)酔いどれJohnny2446大江新太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)-大江新太郎(おおえしんたろう、1876年10月26日-1935年6月17日)は日本の建築家。日光東照宮の...斗南藩のお墓に思う宝照山普賢院普賢院の本堂裏に.斗南藩(となみはん)の方々の.お墓があります。当山位牌堂には.斗南藩の方々の.戒名がしたためられた.お位牌も祀られております。2462木村芥舟墓(港区南青
ここ沖縄はもともと琉球という国でした。日本になってからの歴史は136年位でその以前の琉球王国時代は450年も続いていたのですからまだまだ日本としての歴史よりも琉球の歴史の方が長いみたいです。戦後27年間はアメリカの統治下でもあったのですから。。。まさにチャンプルーの文化が残るのも無理ないかもです(^ー^)沖縄独特の文化や風習も多いなか沖縄の事琉球時代の事に興味を持つ方もとても増えてきている気がします。きっと過去生で関わってて思い出してるのかもそこで
沖縄県知事のHPにある「第1知事応接室の屏風」「知事応接室の屏風について」というページによると県立博物館・美術館に展示されている「万国津梁の鐘」に彫り込まれている漢文で、15世紀頃尚泰久王が造らせ、首里城正殿にかけられていたもの。屏風の漢字を書いた人は豊平峰雲(とよひらほううん)だというから、美術館の展示品に掘られてある漢文の写しを屏風に書き写した物であろう。検索結果「屏風」/沖縄県知事は相変わらず基地の県外移設を政府に求めているが、基地がどこにあればいいのか、沖縄県