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◆火吹く人たちの神~53「丹後の原像」の「豊受大神にじわりと…」や「神社案内ツアー」にかかりっきりになってしまい、ずいぶんとごぶさたとなりました。粛々とレギュラー記事もUPしていきます。PS.風邪ひいた…夏風邪はヤバイな…熱は40度近くありそう。ちょうど今日からの三連休で良かった…。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■過去記事一覧『◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神』◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神谷川健一氏の渾身の作!今もなお多くの古代史・民俗学研究者等の
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com以前に小野さんからの情報提供で見つけた『武蔵七党系図』をベースにした系図資料がやっと半分出来ました。武蔵七党系図系図流石にバカでかい図になりそうです。(笑)あと半分は猪俣党の系図情報で、猪俣党については初の制作となるので楽しみです。アップで見たい人もいると思うので、とりあえず雑に分割してアップしときますね。
https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.comさて、天穂日命の一族が「小野一族扱い」だった事が分かった為、腑に落ちる事があります。小野篁は藤原良房から遣唐使を利用して殺されようとされていたという認識があります、コレは中型船なら無事に渡航出来るのに、何故か大型船に固執して造らせていた事が分かっているからです。(しかも何回
https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com今回、りまりまさんからコメントを貰った事で「(゚д゚)ハッ!」と気付いた事がありましたので、ソレを今回は書こうと思います。話の発端は「気仙沼の小野家に小野小町の伝承がある」という事からの繋がりだったんですが、それまでは「菅原」や「大江」などは「小野一族では無い」と考えてい
2025-11-29旧寺内お寺が多いのかな〜本長寺の隣に石碑大津代官小野氏…なんだか立派なお寺です中には入らず…トコトコ〜なんだか大きな木があるよなになに〜?犬塚の欅忠犬のお話のすぐ近くに…編集で人は消しましたが行列が出来てました気になるのと、今朝はちと早く出たので、小腹が空いたまろんは最後尾につきましたまろん大好きスコーン♪♪あと、いちじくの紅茶煮の入ったパンを購入パン屋の前にベンチがあって、食べていらっしゃるお仲間さんもまろんも同じようにスコーンをいただ
◆火吹く人たちの神~46今回も「朝日長者伝説」の話が続きます。「朝日長者伝説」とは?については、第44回目の記事にて。そして前回の記事(第45回目)で「小野氏」が登場し、「朝日長者」との関係が語られましたが、今回はその続きとなります。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■過去記事一覧『◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神』◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神谷川健一氏の渾身の作!今もなお多くの古代史・民俗学研究者等のバイブルであり続ける不朽の名作!この書をテキストに、発行後の
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com従来の歴史的解釈では小野妹子が最初にあり、小野毛人、小野毛野と続くとなり、近江の小野神社に由来して和邇氏の支流として認識されて来ましたが、それは中世より前の研究がほとんど行われてこなかった為に解釈を間違えていて、小野一族とは和邇氏よりも前から存在している事は明白な証拠が残っていました。私、小野龍海はご先祖の小野吉子(五代目の小野小町)の実在性
◆火吹く人たちの神~45前回の記事では「朝日長者伝説」というものが登場しました。私が本書を手にした20年ほど前には知らなかったこと。他にも御存知ない方もあろうかと、それが何なのか、人名事典や百科事典等から引用しておきました。このシリーズ企画には珍しく少々反響もあったようでして…「朝日長者伝説」に関わるお話しが続きます。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■過去記事一覧『◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神』◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神谷川健一氏の渾身の作!今もなお多
最新バージョンの『小野氏大家系図⑪』が完成したのでお披露目をしたいと思います。↑イメージ、高画質の画像のダウンロード先のリンクを下に貼っていますのでソチラから画像は落として下さいね。この系図は実際の血縁関係にこだわって作っていますので、逆に従来の古代史観からはイメージが離れすぎている図になります、よって前のバージョンも残した方がイメージしやすいので並行して載せる事にします。特徴としては「釈迦族」の系図情報を元にして紀元前の主要人物を中心に描写した系図になります、特に龍王族と関係
粟津神社は、京阪石山本線:瓦ケ浜駅から北東へ100m、住宅街に鎮座されます。鎮座地:滋賀県大津市中庄1-21-17とても小さな御神域です。右に手水舎。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー粟津中ノ庄粟津神社御祭神大国主命大導寺田端之介田中恒世当社は第十代崇神天皇の二十五年(265)彦坐王の創建と伝えられ、往古は粟津山王権現と称し、粟津七ケ村の総社であります。ま
小野氏和邇氏でもって久米氏ももしかすると繋がるのか?頭がパンクする滋賀にまた行かねばな『多すぎよぅ』あっちからこっちから降ってくる降ってくる新しい人に目を向けると古い人がまた呼び掛けるて感じかな?小野篁さまもう少しお待ちくださいねぇあの世とこの世を行ったり来…ameblo.jp
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com出石での気づきについてご紹介します。前回に小野神社があった事までを伝えていましたが、地名も小野だったので、古代の小野郷じゃないかと思われます。でも調べて見ると「出石郷」の一部として口小野・奥小野の地名が紹介されていました、狭い領域なので小野郷とまでは扱われなか
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comさて前回の続きです、多くの情報から和邇氏の成立前からある小野氏を特定していきましょう、まずは和邇氏から派生した氏族を除去します、コレには「和邇氏系図」を使います。↑和邇氏系図葦占臣・・・彦武宇志命の裔根連・・・・〃櫛代造・・・〃猪甘首
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com天疎日向津姫天皇とは瀬織津姫を祖とする女王家であった事を知り、その女王の分家、「日置(ひおき)氏」から世襲足媛(卑弥呼)が出ていると分かれば、卑弥呼を支えた十臣は全て本姓小野氏だろうと推測するのは当然の話です。簡単に分かれば既に龍海も知っている話ですので、今回はおさら
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com今度は京都のお釈迦様のお墓、愛宕山に行ってこようと計画しています、京都は近いもので3、4時間も走れば付きますのでお手軽に行ける所です(笑)、昔は京都の骨董市へと足繁く通っておりましたので、その頃のアドバンテージが今頃になって効果を発揮します。(笑)最初は一泊を予定して
前回の生品神社から小山川を西へと1kmほど遡上します。この神社の名前を聞けばイヤでも関東最古とも目される埼玉北東部にある鷲宮神社を連想します。さてさて…■鷲宮(わしみや)神社(深谷市高畑)・・・埼玉県深谷市高畑1こうやって見ると氾濫原のど真ん中、といった立地です。豪雨の際に上流からの雨水を小山川に排水する役割を果たしているような運河と小山川に挟まれた立地です。よく見ると参道が南へ伸びています。つまり小山川に背を向けています。川の傍の神社はたいてい川へ接続する参道
https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comあまり深入りはしたく無いのですが、蘇我氏と大伴氏が兄弟である様子を見せているので、やはり、調べない訳にはいかないと思います。wikipediaを見ると、という系図が表示されます、『古屋家家譜』と
前回は小野神社の祭神分析が詳細になりすぎました…『7世紀初めのある日、東京湾から多摩川を遡上し近畿奈良政権が送り込んできた船団がここ小野神社の地へやってきた。当然紛争になって近畿奈良政権側が勝利し小野神社側を蹂躙した。(この当時まだ小野神社という名称ではなかったでしょう)しかしそもそも船団の目的は武蔵野台地の北へと進出することであって、多摩川南岸には関心がなかった。そこで船団は小野神社側と協力し、多摩川を渡って夜襲を敢行し、多摩川北岸に橋頭保・武蔵大國魂神社を築くことに成功した。
イヤ~、年末にアップするつもりだったのですが、推敲するうちに泥沼にはまっていましたがようやくレポートをお届けできます。3億6000万人の当ブログファンの皆様、お待たせしました!本年もよろしくお願いいたします。前回の瀧神社はここ東京都・府中だけでなく九州、日本海側と広範な広がりを持つ神社であることが分かり驚きました。それは取りも直さず、九州から全て(と言っていい)の祭神(つまりは侵略)が東へと広がっていったとする九州王朝説の常識と合致するものでした。湧水があるから「瀧」神社なのだろう
【食育クイズ:Vol.1769】「京都府」の「崇道神社」おさらいクイズ!江戸時代に境内から発掘された古代豪族の氏とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねすはら無添加味
長髄彦を祀る?添御縣坐神社金澤成保添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)をお参りした。当社は、奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領である六御県のうち、奈良県北部にあった「添」(曾布)郡の「御県」に鎮座する神社である。「御県」とは、古代、天皇の食事に供える蔬菜や木材・薪を納めていた御料地のことで、そのほかの六御県には、高市、葛木(葛城)、十市、志貴(磯城)、山辺があり、それぞれに御県(坐)神社が祀られてきた。いずれも「延喜式」の祝詞や『神名帳』に記載される式内社であった。
つれづれなるままに【続・ふたたびの小野氏(熊本)】九州の光の旅から戻ってきました。熊本の八大龍王から春分の日を迎えた糸島、瀬織津姫の日田、火振りの阿蘇、高千穂、草部吉見、上色見熊野座、さらに雷からの豪雨の人吉と。。前半・後半に分かれての、素晴らしい出逢いに恵まれた九州旅でした。その"ミラクルとエネルギー"はこちらのアメブロ、もしくはインスタにてもしかしたらシェアできるかもしれません。『エネルギーシェア会』もお楽しみにされてくださいね💐《詳細》『詳細【エネル
今日は滋賀県の小野神社の祭神から古代の事を推察するとタイトルに書きましたが、和邇氏への考察やチチハヤの話を理解していないと辿り着けない解釈だと、最後には思って頂ければと思います。これは重要な点で、歴史解釈には「必須となる情報」が必要なんです、小野神社の祭神をみて小野氏の先祖だと理解するのは出来ても、小野神社の祭神が和邇氏だから小野氏も和邇氏の支流だと結論するのは「騙されてますよ~」ってなる訳です。(歴史や時間に騙されるってヤツですね!(笑))という事で、小野神社の祭神はというと、①
つれづれなるままに【ふたたびの小野氏(東北と熊本)】*追記あり2024.0305(夜明けの瞬間〜佐田岬より)つれづれなるままに【ふたたびの小野氏(東北と熊本)】〜すべて個人的メモとして📝〜以下、雑多な綴り描き、となっておりますため流してお読みいただければとおもいます。🌟✨とてつもない大きな渦。。先日の四国佐田岬の野坂神社にて同じ御眷属🐙との御縁で繋がった、海を越えた先の大分県佐賀関の神社にて洲の姫神(瀬織津姫と云われる)を祀る小野氏という存在が、さらに展開し出し。
私のブログを読まれる人の中には小野氏・和邇氏など同族筋の方も多くおられる感じがいたします。しかしチグハグな感じもあり、同族の元が何であるか混乱されている様子も見受けられます。なので今回は「大山祇ファミリー」としてご紹介したいと思います。大山祇ファミリーという表現もかなり重要な意味があります。まずはコレを、これは私が本に載せる為に作った図ですが、一番分かりやすいと思います。初代の大山祇サクラウチを頂点として描いていますが、本当はオモタル・カシコネの娘が
小野氏である。高野川沿いに小野郷があり、式内社の小野神社があった。この地は後に高野村と呼ばれるが、この高野川西岸の崇道神社の裏山から小野毛人(エミシ)の墓誌が出土した事から、同社が小野神社の古跡とする説があり、同地域が小野郷の一部であるとされる。小野氏は、孝昭天皇の子「天押帯日子(アメノオシタラシヒコ)命」を租と云々、近江国滋賀郡小野を本拠地とする。政治軍事面で活躍が見られ、又、歌人としては小野小町が有名で、詩人も多く、書の名筆として
この伝承は「源行近のブログ」に朝山町に小野小町の伝承があることが書いてあり、そこから辿って見つけたものです。(源行近氏に感謝!)出典元は『郷土史朝山村』としてあるので、地元で語り継がれた伝承の様です。舞台は「小野川にあった殿海の淵」という所で、現在は「どこにあったのか分からない」とありますので、あくまで伝承としているようです。場所は出雲大社の南東です、ここに小野川があるのですが、地名に「小野」はありませんでした、その事から分かるのは大化改新以前の支配地で小野氏の統治下にあっ
さて、しめくくりは「等彌(とみ)神社」です、前回の奈良・和歌山方面への旅行の時には気付けていなかった、「等彌神社」の重要性ですが、知らない方へもおられると思うのでおさらいしてみようと思います。「神武東征」の後に天皇となった神武は「鳥見山に霊畤(まつりのにわ)を築かせて皇祖神を祀らせた」とあります、まずこの文を文字通りに解釈すると間違います。天神と純地神の戦争は天神側が負けていた事は正直に書いています、しかし戦争を終結させたのはハイブリッド地神の大山積グループによる参戦だからです
小野お通の異伝を参考までに。『燕石十種第9』の『江戸節根元由来記』より「江戸節根元山來記小野のおつうは織田家の侍女たり信長公落去の後浪浪の身となりあやしの柴の折戸に一人住居して居たり然るに大閤秀吉公の簾中此由を聞し召されひたすら御懇望有り終に召抱させ給ふ或時秀吉公つれづれのあまりに作り物語せよと御諚有りおつう畏り矢はぎの長者が娘淨瑠理姫容儀うるは敷また糸竹の道にもくらからず夫婦深閨の内にかしづきおひ立けるゆへ心だてゆうにやさ敷ありける御曹子牛若君奧州へ下向の折から彼の
『望海毎談』はスマホの方には読みづらくて申し訳なかったのですが、元の文の通りに書くとあの様になってしまいました。(パソコンではキレイに読めたので、申し訳無い。)小野お通をよく知らない人の為にも、もう一度整理すると、勘解由真田家の真田淑子による『小野お通』により真田家に関係する小野お通についてはかなり正確に分かっています。小野信政の妾がお通の娘、「お伏,おいぬ」で真田信就(勘解由真田家の祖)の母になります。この母と娘が笠原ひさ子の『小野家の女たち、小町とお通』の中では「小野お通と小野