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小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com最後に生野銀山に寄ってみました、昔に一度、歴史なんか興味の無い若い頃、生野銀山に来たことは覚えていましたが、今回は生野銀山の地名が「小野」だった事に気づき、それを調べると小野小町と全くの無関係では無い事が分かったのです。↑生野銀山の地名、「生野町小野」小野一族
小野岑守(おののみねもり)が陸奥国守として赴任する際に空海が餞別として贈った詩があります。『性霊集』(空海の詩文集)に収められている「送小野岑守赴陸奥」(おののみねもりに陸奥に赴くを送る)という七言絶句です。この詩は平安時代初期の文人であり官僚であった小野岑守が陸奥国(現在の東北地方北部)へと赴任するにあたり空海が別れの気持ちと激励を込めて詠んだものです。原文(漢詩)遙分雲路向天涯寒角聲高月影斜珍重東行舟楫穩五湖風浪莫令嗟現代語訳遥かに雲の道
https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comさてさて、匈奴やらを調べていたのに脱線しまくる龍海ですが、昨日、「KUKAI(空海)」という映画を久しぶりに見て(五度目くらい...)、改めて気づかされる事が多く、思いついたのは小野氏と阿倍仲麻呂、そして楊
小野氏といえば「京都」、「近江(滋賀県)」という印象が強いと思いますが、実は福島県というのは小野一族にとっても関係の深い地でありまして、私もまだ全貌が見えていないほど何かしらの「深い因縁」がある地のようです。小野氏に関係するメジャーな伝承だけでも、①有宇中将と朝日長者の伝承②猿丸太夫の伝承③戦場ヶ原の蛇と百足の伝説④小野小町の伝承⑤小野篁の伝承などがあげられるかと思います。私はこの①~⑤については説明が出来ますが、「どうして①~⑤の伝承が福島県に集中したのか?」と
小野篁は小野一族の中で個人としては最も多く伝説を残した人物だと思います。今回は小野篁が遣唐使として渡海を中止した本当の理由について考察したいと思います。小野篁が妹の重子の説得もあってか病気を理由に遣唐副使を辞任しようとした経緯について、小野篁の人となりを知るにつれて、どうにもこれまでの解釈には納得出来ませんでした。小野篁の人となりについては、「野狂」というあだ名からも分かる通り、他の者から見て狂人の様な一面を持つ変人であったと思います、しかし小野篁には個人的にも唐へと渡りたい動
岡山シンフォニーホールで開催されていた、古本市で購入した本の中に『日本発見巡礼の道』というのがあって、昭和57年の本なのですけど、古いから情報が古いという訳でもなく、逆に当時はお遍路などが盛況で、当時の様子を知る上では有用な本だと言えると思います。(私はただ単に興味本位で買っただけですが、昔の本は今の感覚とは違うので、読んでやはり面白く思うのは、歴史を俯瞰して見える様になったからでしょうか?(笑))で、その本の中に空海の事が書かれていて、私は知らなかったのですが(空海の事を研究レベル
楊貴妃にまつわる山口百恵の話を書きましたが、ネットで見るとやはり今でも当時のネタが表示されて、インタビューにおいて「楊貴妃の末裔」だと言ったこともある事を知りました。母方の姓である「山口」は元々を「楊」という名字だそうです、楊貴妃の伝説のある地の出身だそうで、楊貴妃の末裔と思うのも当然かと思います。(家の伝承としてあるかどうかは書かれていませんでした。残念!)では、真相はどうかというと、勿論分かりません。<(__)>可能性を考えると、①楊貴妃が日本に来て子供を授
茨城県の小野小町の墓ですが、可能性を一つ忘れていました、それは、小野岑守が陸奥守を受けたのが、815年の正月10日になります。どれぐらいの準備期間があり、移動日数を含めて考えて、2ヶ月以内に陸奥へと移動して、妾を設け、妊娠した場合には、同じ815年にうまれる可能性はゼロではない可能性があります。(岑守、篁の双方に可能性があります。岑守なら叔母、篁なら姉。)また、小野小町は69歳で亡くなったとする情報は京都の井手にも伝わっていますが、井手において亡くなったとしているので、茨城県の伝承と同
四人目の「小野の小町」の存在が分かってしまったので、解釈が劇的に変わってしまったのが「深草の少将」の存在です。私はこれまでは、三代目の小町の小野吉子の旦那で、仁明天皇が深草に埋葬された事を象徴して深草の少将というキャラが生まれたものと思っていましたが、火のない所に煙は立たぬの言葉通りキッチリ根拠が見つかってしまいました。深草の少将の邸宅跡に建てられた「欣浄寺(ごんじょうじ)」に関わる伝承として落合直文の『ことばの泉』に、「深草の少将、名は義宣、山城国深草に住す、時に小野庄に小町といへ
いやぁ〜♥、私の頭もまだまだ固い事が分かりお恥ずかしい限りです。以前に小野小町の名前の由来について、自説を述べさせて頂きましたが、あれはあれで60点位は貰えると思っていたのですが、今回は80点以上は貰えそうな新説をお披露目しようと思います。小野小町の名前の由来は、従来説を総合すると、姉がいた事が分かっているので、後宮に先に姉又は小野氏の氏女又は采女の年配者が既にいて、その人物が「小野町」又は「小野大町」と名乗ったので、年若い方が「小野小町」と名乗ったとするものです。他にも「三条町」
今日は初代小町の小野重子の子供は嵯峨源氏なのかと題して、考察を加えてみようと思います。小野重子とは小野岑守の娘で、小野篁の妹にあたる人物です。この名前は大江文坡の著した『小野小町行状傳』に出てくる女性なのですが、小野篁と大変仲の良かった女性として紹介されているので、『小野篁物語』にも登場する妹と同一人物として問題ないと思います。(ちなみに小野篁は自分でも変人である事を自覚していた人物で、野狂(=野篁、やきょう、小野のきちがいの意味)と言われても、自分で「そうだよ~」と言っていた
真言宗の開祖、空海と小野一族との関係は誰も研究されていないのですが、私は小野篁を研究する上で、空海との関係が密接なものであった事を認識せざるを得ませんでした。元々、空海の事は好きでしたので、色々と読んではいましたが、空海が密教の灌頂を受ける為に唐へ渡り、すぐに恵果和尚の元へと向かわず、半年後に登山し、一ヶ月後には最高位の灌頂を授かるなど出来すぎの話です。いくら空海が天才でも流石に一ヶ月で密教の全てを修めるなど不可能な話です。そこで出ている仮説が、日本と唐とで手紙の遣り取りをしていた
続きです。今回は、簡単な記事になります。本編は、次回になる予定です。「逢坂山関址」の石碑から、国道1号線〈旧・東海道〉をさらに大津市方面に向かって歩きます。さすがに交通量は多いです。北側(左側)の方が目的地に向かうには便利ですが、南側(右側)の歩道の方が、広くて安全です。歩いて進む場合は、車には注意して行かないと……。途中、道路右側(北側)に、弘法大師堂がありました。弘法大師(空海)の奮跡のようです。平安時代はじめには、ここは、主要街道になっていたはずですから、空海さんも"当然通ってい
JR山陽本線の入野駅を降りて。橋を渡ったら真っ直ぐ山へ上がる道路を直進すると。篁山竹林寺古道の入口があります。今回、記事にするのは、竹林寺ではなく。人気の湧水エリアです。篁水(こうすい)と名付けられた、この源水ミネラルウォーターは、ミネラル成分が16mg/lの、れっきとした硬水です。山からの湧水なので、河内町が管理しており、汲み取りは無料です。車でお越しになる方も多いです。篁山は昔、この地域の領主の長男の名前から名付けられました。小野篁(おののたかむら)は文武両道の大変優秀な