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期間:2024/05/04〜05/05天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額薬)早川殿:蘭薫桂馥薬)諏訪姫:かくれなき美薬)嶺松院:故国の思念薬)仙桃院:浮き沈みの命薬)小西行長:緘黙の雄心薬)永姫:粉粧玉泉薬)小山田虎満:城塞の冥護薬)ジュリアおたあ:聖奠の僕星3薬)黒田直之:心眼・参薬)明智光慶:心眼・参薬)堀尾忠氏:即死耐性・参©コーエーテクモゲームス
おはようございます。気温は14.0℃、天気は晴れです。GWも後半に入りました。久しぶりに我が街の廃城、宇土城の本丸に行ってきました。ご丁寧な案内板。城の縄張りはあくまでも想像です。なんせ関ヶ原の戦いの後、徹底的に破却されましたから。本丸跡は広場になっています。母子の方がバトミントンをしていました。この城を造った小西行長さん。最後は六条河原の露と消えました。多分内堀の跡でしょうね。発掘された石垣だそうです。でも積み方が打ち込みはぎが綺麗すぎるような・・・・。
こちらをやっと読み終えました。↓『*チョコまみれ。と『ひかり舞う』*』鎌倉河岸捕物控は『八丁堀の火事』まで読み終えて…八丁堀の火事:鎌倉河岸捕物控16の巻(ハルキ文庫さ8-32時代小説文庫鎌倉河岸捕物控16の巻)A…ameblo.jp子どもの本のコーナーで出会った本です。最初、この子の境遇が辛くて、読み進められるかな〜と思ったのですが、ずっとそこにあったのにそれまで気が付くことができなかった母親の深い愛に別れの間際に主人公が気が付けた時、泣きそうになりました。
週末、東京は満開の花見で賑わいましたね~例年以上外国人が目立った気がします・・熊本城近くの加藤清正像右側の白い桜は千原桜といって熊本発祥だそうです。千原台は地名で高校駅伝の名門千原台高校の名前に使われています。こちらは宇土の城山公園ここには小西行長の像があります近世宇土城の領主でした清正と行長は秀吉の朝鮮出兵の時からライバル同士でした・・関ケ原の戦いでは西軍についた行長の宇土城を清正は攻めました・・雨が続くという天気予報に今年最後の桜を覚悟して火曜に城山公園に行
天海(118)明水軍の指揮官・陳璘は露梁津の戦闘が終わると、危機的状況にあった自船を救援に来てくれた李舜臣に礼を言おうとした。その時初めて、李舜臣が戦死したことを知ったのである。椅子に座っていた陳璘は床に崩れ落ち、「君は何故、死んでしまわれたのか。」と号泣したという。このような慟哭は各兵営に満ち満ちたのである。(「懲毖録」)さて、この戦いで両軍がどのような被害を受けたのかは、例によって史料により異なるのだ。朝鮮側の史料「懲毖録」によると「焚賊舟二百餘艘。殺獲無算。」
天海(117)11月17日夜、島津軍を先頭に日本水軍は露梁津に向かった。これに対して、明水軍の陳璘は北の竹島付近に、朝鮮水軍の李舜臣は南の観音浦に身を隠し、露梁津を渡る日本軍を待ち伏せしたのである。18日未明、島津軍先鋒の樺山久隆が無事に海峡突破したので、続いて島津軍本隊も海峡を通過しようとすると、突然目前に南北から明・朝鮮水軍が現れたのである。明水軍の先鋒は副将・鄧子龍、朝鮮水軍の先鋒は李舜臣であった。朝鮮水軍では「李舜臣将軍の先鋒は、危険である。」として多く
202/3/9~10熊本城二ノ丸で「熊本城で会おう」が開催され、全国から武将隊が参加されました。見ていて楽しい舞台で、熊本地震復興イベントとして毎年開催されています。熊本城おもてなし武将隊加藤清正公甲冑姿でのダンスが面白かったですね!小西行長の殺陣は決まってました!八十(やそ)姫とは「苦が無い」という意味だとか決まってました!全国の武将隊の皆様お疲れ様でした!とても楽しめました。
娘と二人、広島を旅して来た平清盛が現在の規模に造営したという厳島神社宮島は、昔から「神の島」として崇められてきた「令和の大改修」の終わった大鳥居は、鮮やかな色に蘇り、丁度、潮がひいた大鳥居まで歩いている人を数多く見た。その厳島神社の後方、見晴らしのよい場所に、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じて建立させた豊国神社(千畳閣)がある。広い板の間に座れば、対岸の景色や内海の様子が手に取るように眺められた。平氏の時代を経て、秀吉の世へ・・・建物は残る・・・この穏やかな内海も、遠い過去を
天海(116)慶長3年(1598年)10月1日、家康、利家らの内命を受けて徳永寿昌、宮木豊盛が釜山に到着した。この日はちょうど泗川新城で義弘が中路軍を破った日であった。8日に、二人は泗川に赴き義弘と面会、さらに順天、蔚山と訪問した。二人は朝鮮在城の諸将に「明国軍が撤退すれば、釜山に集結し帰国するように。」という五大老の命令を伝えたのである。蔚山城の清正は麻貴の指揮する東路軍を寄せ付けず、慶州に退けていた。朝鮮での戦いに無意味さを感じていた清正は、撤退命令に素直に従い、1
天海(115)順天城を囲った劉綖は三方向から総攻撃を加えた。しかし、力攻めで落とすには、順天城は余りにも堅牢であったのだ。この城は、元々守備に重点を置いた城であり、大量の火器と兵糧を蓄えていた。火器も鉄砲のみならず、大筒、大鉄砲も用意されていて、日本軍の激しい銃撃の前に明・朝鮮軍は徒に死者を出すばかりであった。水路軍もまた城に砲撃を加えたが、城側からも砲撃を受け、さらに浅瀬もあったため、容易に近づけなかったのである。西路軍と水路軍は3日間にわたり水陸から攻撃を繰り返
天海(114)順天城は日本式城郭群の最西端に位置する城である。その縄張りは清正と並ぶ築城名人・藤堂高虎が担ったという。城は海に突き出た小さな半島に築かれ、北・東・南の三方は海であり、西側だけが陸に繋がっていたのである。天守は半島の奥の小山に配置され、周囲は石垣で守られていた。城は内城と外城に分かれていて、両者は二本の橋で繋がっていたのである。内城には大きな船着き場があり、大型船が停泊していた。外城は石垣と塀に囲われ、多くの挟間が設けられていたのである。石垣の前には柵
関ヶ原古戦場西軍の陣跡へ関ヶ原古戦場巡り、今回からは西軍の陣跡を巡っていきます。古戦場記念館で頂いた地図の左側です今回は開戦地と小西行長陣跡を投稿します開戦地→小西行長陣跡関ヶ原の戦いの開戦地です。この場所までの道は狭く、車🚙一台くらいの道幅だったと思います。駐車場🅿️はあります。コチラは綺麗に整備されている印象です※開戦地から見る風景。向こうから砂煙を上げ、大軍が押し寄せる景色を想像すると怖い関ヶ原の戦いは、松平忠吉・井伊直政の陣営から宇喜多秀家陣営
【問題】【日本城郭検定1級】小西行長の家臣で、キリシタンであった内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城として有名な丹波の山城はどれか?【選択肢】本郷城西福城八木城植生城【正解】八木城【解説】内藤ジョアン(如安)は、八木城に生まれ、永禄7年(1564)頃、都の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイスより洗礼を受けた。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。天正13年(1585)頃に小西行長に仕えた後浪人し、慶長18年(1613)、徳永家康のキリシタン追放令により、翌年、
これ、凄いですね!カラオケに行かれる方は是非ポスト/#純烈×#DAM×#ジャパンカラオケコラボキャンペーンが3月6日(水)よりスタート🎉\DAMルームで歌って豪華賞品を当てよう‼️karaoke.j-rentacar.com/info/junretsuC…🎁特賞の「写真撮影付き!リハーサル見学+公演チケット」やサイン入りグッズなど貴重なプレゼントが満載✨純烈を歌って応募してね🎤pic.twitter.com/PyarVshWSpメニューを開くアクリルキーホ
「我慢できないから熊本城おもてなし武将隊に会いに行こう!…母巻き込み型の旅…^^;」【其の陸(ろく)】でござりまする(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚お付き合いできる方はお付き合いくだされ(ꕤᴗᴗ)⁾⁾1/23の天守閣前演舞時のブログです(^^)……今回は2部構成です|°―°٥)マジカ…。長いし画像も多いので(˃▵˂)՞՞それでは第1部をどうぞ~(꜆՞.ˬ.՞)꜆城彩苑の演舞が終わった後雪もチラホラ降っていて゜。҉☃かなり寒く:;((•﹏•๑)));:「
1597年慶長の役小西行長が先鋒となる。小早川秀秋が総大将今回は朝鮮半島南部の占領が目的以前の文禄の役で明を占領するのは無理と思ったから。多大な支出をしていることから、どこかの領土を取らないと収支が合わない。先に小西行長と加藤清正が朝鮮半島に渡り、講和を模索する。しかし小西と加藤は仲が悪く、言っていることがばらばらでありうまくいかず。ウルサン城の戦いが最大の激戦明、朝鮮軍がソウルから南下してくる。ウルサン城を築城中を侵攻する。加藤清正は籠城で、餓死者,凍死
天海(81)「倭兵は南原府を陥れた。天将楊元走り還った、全羅兵使李福男、南原府使任鉉以下諸将皆戦死した。楊總兵は南京に到り、城を増築し、城外の軍馬墻には多くの炮穴を穿ち、城門には大炮三門を据え、深く塹壕を掘り、防備を厳にしたが、閑山既に敗れて賊水陸より殺到するの報道が頻々として来てるので城中の人民は逃散って、獨り總兵の率ゆる馬軍三千だけが城内にいた。」(「懲毖録」)この頃、日本軍陸上部隊は慶尚道から全羅道制圧を目指し、両道の要衝にある南原城、黄石山城を攻略しようとし
天海(80)さて、この海戦では高虎と嘉明との論功行賞を巡る対立が伝わっている。激高した高虎が刀の鍔に手を掛けると、嘉明が「それは小童がやる事だ。」と窘めた、という類の話である。ただその出典が分からないのだ。戦いの経緯も全く異なっていて、嘉明が抜け駆けした話となっている。時期としては、この漆川梁海戦のようだが、いずれにしても、とても事実とは思えないのである。まず、嘉明の言動に怒り、高虎が刀に手をかけたという逸話は「小西行長と加藤清正」が元ネタであろう。軍律に違反して単騎先駆けした
天海(78)李舜臣は文禄の役の功績で三道水軍統制使という要職に就いた。三道とは朝鮮南部の慶尚道・全羅道・忠清道のことで、事実上、朝鮮水軍の総指揮官になったのである。李舜臣は釜山の日本軍に対抗するため、閑山島に本営を移し、対岸の巨勢島を監視していた。慶尚右道水軍節度使であった元均は、かつて部下であった李舜臣が自分の上司となったことが面白くなかった。元均は猪突猛進型の人物だったようで、文人気質であった李舜臣とはそりが合わなかったのである。李舜臣も元均のことを「天と地の間
天海(76)「慶長再征之役進發人數書によると、この度は内府様のご出陣はないかと存じます。主に西国や九州・四国の諸将に既に出陣命令が出ていて、上方や東国の諸将は次回の出陣となるでしょう。」と高虎は言った。「次回の出陣とは。」と家康が問うと、「前回は、漢城を落とすことを優先したため、兵站が伸び、補給に苦労しました。そこで太閤様は、まず朝鮮南部を確保し、領国化したうえで、北上するおつもりなのです。今回は朝鮮南部に日本式の城を配置し、朝鮮水軍を壊滅させ、全羅道、慶尚道を
「我慢できないから熊本城おもてなし武将隊に会いに行こう!…母巻き込み型の旅…^^;」【其の壱】でござりまする(,,ᴗ̫ᴗ,,)ꕤ*.゚今回も無駄に長く記憶も朧気なので( ̄ ̄).。o○多少違うとこがあるかも゚(゚´ω`゚)゚。ですが付き合っても良いぞ!と言う方はお付き合いくだされ(^^)٩(*´∀`*)۶22日と23日に❗個人的な大事件Σ(゚艸゚〃)があったのですが1回目の今回は…前回と同じようなテンションでござりまする(٥¯∇¯)ハハハ💧さて本編じゃ(´。•∀•
久しぶりに関口宏の中世史を見た。歴史を学ぶには面白い番組だ。1593年の朝鮮出兵文禄の役の話。小西行長と明の沈い敬との間で戦争の限界で疲れ切ったのか、お互いに和平交渉へと考える。なんとそのために主君にうその報告をすることになる。小西行長は、秀吉に明が降伏したとうそを言い、明の沈い敬は、明の万歴帝に日本が降伏したとお互いにうその報告をする。そうすることで講和を結ぼうと画策したみたいだった。明の使者が日本に来て日本国王に認める旨の書と金印をもってくる。そこ
天海(74)伏見城の徳川邸にも小さな茶室があった。そこで家康と天海は来客を待っていたのである。やがて、幽斎が入室してきた。幽斎と目が合うと天海は深々と礼をした。幽斎はまず、家康に秀次切腹事件で口添えを頂いたことの礼を述べた。家康は上機嫌で頷くと、傍らにいた天海を紹介したのである。「御無沙汰を致しまして誠に申し訳ございません。幽斎様には格別のご配慮を頂きありがとうございます。またこの度は愚息がお世話になり、心から感謝申し上げます。」と天海は平伏した。「実に久方ぶりであ
1/26(金)午後。西岡神宮裏、中世宇土城跡にて梅見。早咲きの梅が咲いていた。充分に堪能したところで、「ああ、そうだ。近世宇土城跡の寒紅梅はどうか」と気になった。近世宇土城跡は小西行長が城主だったときの城である。小西行長が関ケ原の戦いにて西軍として戦い、敗れた。その後、一国一城制が敷かれた後、城は破却された。その城跡に小西行長の像がある。寒紅梅は咲いている。しかしながら寒紅梅の木そのものが一部枯れていて、花を開かせる枝が少なくなるばかり。
天海(70)「9月1日、秀吉、明ノ柵封日本正使楊邦亨・副使沈惟敬ヲ大坂城ニ引見シ、誥命・勅諭・金印・冠服ヲ受ク、明日、秀吉、柵封使ヲ饗シ、相国寺承兌ヲシテ、誥勅ヲ読マシム、秀吉、明ノ違約ヲ怒リ、柵封使ヲ追還シ、徳川家康ノ諫止ヲ郤ケテ、朝鮮出兵ヲ決ス。」(『史料綜覧』)文禄5年(1596年)9月1日、大坂城で明使は秀吉に拝謁した。明使は誥命・勅諭・金印・冠服を秀吉に渡すと、秀吉は彼らを饗応した。翌日、家康、利家らを招いて歓迎の宴が開かれた。秀吉は明皇帝が贈った王冠
天海(69)朝鮮出兵中の文禄5年(1596年)、加藤清正召還事件が起きた。これは三成と行長が、講和の障害となる清正を排斥した事件である。①清正が小西行長を堺の町人であると罵ったこと、②清正が無断で豊臣姓を名乗ったこと、③清正の部下が明の正使の財貨を盗み逃亡したこと、等を秀吉に訴えたという。こうして清正は、秀吉から帰国を命じられ、伏見屋敷で蟄居することになったのである。閏7月13日、慶長伏見大地震が起きる。死者数は京都や堺で1,000人以上と伝えられ
期間:2024/01/26〜01/28天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額薬)早川殿:蘭薫桂馥薬)諏訪姫:かくれなき美薬)嶺松院:故国の思念薬)仙桃院:浮き沈みの命薬)小西行長:緘黙の雄心薬)永姫:粉粧玉泉薬)小山田虎:満城塞の冥護薬)ジュリアおたあ:聖奠の僕星3薬)黒田直之:心眼・参薬)明智光慶:心眼・参薬)堀尾忠氏:即死耐性・参©コーエーテクモゲームス
乃木坂、櫻坂、日向坂……。坂にも色々ありますが、ホットケーキみたいな名前の坂があるのをご存じでしょうか?「仏(ホトケ)」に「木(キ)」と書く「仏木坂」。熊本県天草郡苓北町にあるその坂の名は、ホットケーキ坂ではなく「ぶっき坂」と呼ばれています。地元ではちょっと知られた古戦場で、加藤清正と木山弾正が戦った場所と伝えられています。キリシタン大名の小西行長はキリシタンの多かった天草を領地に得て喜んだのも束の間、天草五人衆は小西の支配に反発しました。思い通りにはならないものですね。行長は3,000
天海(56)「秀吉は三成・行長等の上申を信用して、日明の講和を楽観し、毎日諸将を名護屋の本営に集めて、或は能楽を催し、或は仮装狂言を演じつつ、明帝の回答を待ちたりしが、既に六旬を経るも、明廷より何等の回答もなければ、秀吉も稍々惟敬を疑い、講和の成立を危ぶみ、心中に焦立ちたる折柄、適々如水を凛議を要する事ありて、帰朝せしに、何んぞ料らん意外の不首尾にて秀吉大いに怒り…」(金子堅太郎著『黒田如水伝』,博文館,大正5.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.
天海(55)日本軍は北門に第一隊・加藤清正、黒田長政、島津義弘、鍋島直茂、毛利吉成ら2万5千人、西門に第二隊・小西行長、宗義智、細川忠興、伊達政宗、浅野長政、松浦鎮信ら2万6千人、東門には宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継、木村重玆ら1万8千人で包囲した。さらに後方の山側には、東に第四隊・毛利秀元1万3千人、西には第五隊・小早川隆景・立花宗茂8千700人を配した。6月22日、日本軍の総攻撃が始まった。しかし城内の兵士、避難民は一体となって、木材や石を落とし、塀に取りつい