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<シビックプライド・ダイアローグ=余話>終戦後、横浜市中心部のほとんどは接収され、そこに米軍の多くの施設が建設されていきました。伊勢佐木町にはフライヤー・ジムという蒲鉾屋根で体育館のような建物が出来ました。ここは1950(昭和25)年12月17日、横浜交響楽団がベートーヴェンの「第九」を演奏したことで知られています。アマチュア楽団での全曲演奏はわが国で初めての事でした。この施設は、横響だけではなく多くの文化的活動に供されたといいます。D.マッカーサー(連合国軍総司令官)が横浜に執務室を置いた
<シビックプライド・ダイアローグ=余話>横浜市・関内駅周辺地域の活性化に向けて、市は民間投資を誘発した新たな街づくりに挑んでいますが、その一環として「教育文化センター」跡地の開発について、開発事業者を学校法人関東学院にしたことを発表しました。同地には関東学院大学のキャンパスが移転。産学連携の施策化を進める市と、社会連携教育を重視する法人の考えが一致した、としています。建物の規模は地上17階、地下2階の複合ビルとし、地下1階から地上5階を一般開放。大学は6階から17階を占めます。「シビ
<シビックプライド・ダイアローグ=余話>昨年12月の「シビックプライド~」放送の中で、横浜交響楽団の小磯智功理事長と横浜市歌についても話し合いました。森林太郎(鷗外)作詞、南能衛作曲になる横浜市歌は、横響創設者の小船幸次郎が後に編曲し歌いやすくした、という趣旨の話です。今でも市の式典などでは必ず歌われ、小・中学校においても同様です。自治体の歌が100年以上もうたい続けられている事実は、わが国において稀有な事と言わなければなりません。この慣例は横浜市会でも受け継がれ、本年1月31日に開会された
<シビックプライド・ダイアローグ=余話>横浜交響楽団の小磯智功さんは12月の番組で、開港期横浜での洋楽演奏の歴史等にも触れていますが、その流れを大切にした音楽イベントは、いまでも続けられていることを誇りにしたいと思います。その一つは、横浜音楽文化協会が行っている『ヨコハマ・ワーグナー祭』です。来春1月14日(日)に横浜みなとみらいホール(午後2時開演)で開催されます。横浜にあった外国人居留地に住んだ音楽家、クリスチャン・ワーグナーは室内楽を中心に活発な音楽活動を行いました。楽劇「
<シビックプライド・ダイアローグ=余話>横浜交響楽団理事長の小磯智功さんは、370万人超の大都市で、国際文化都市を自認する横浜としては、「現況の市内の文化施設は文化活動以前の低いインフラレベル」であることを指摘し、行政側にもたびたび進言してこられました。公演活動を主とする演奏・パフォーミングアーツ等舞台芸術では、生産工場ともいえる施設が練習場であり稽古場です。それには防音設備や楽器保管庫などが施されていることが不可欠。区においてアマチュアオーケストラが2~3団体も活動している現在は、区民文化
<シビックプライド・ダイアローグ=余話>横浜交響楽団の第683回定期演奏会を、紅葉坂の県立音楽堂で聴きました。『横響・第九』は、昭和25年に当時の米軍施設・べ―リックホールで演奏されて以来、毎年末に締めくくり演奏会として市民に愛され続けてきた稀有な‶催事〟。今年は県民ホールが改修工事を行っていることに伴い、音楽堂へ戻って聴けることになり、かえって懐かしさと喜びを全身で感じてきました。音楽堂は昭和29年に完成してから、長年「横響」のホームグランドのように寄り添い、成長を見守ってきたかけが
<シビック・余話>「横浜市歌」は、式典の時などに市内の小中学校でも歌われるほか、盆踊りの曲にアレンジされたり、地下鉄駅のメロディーになったりと、市民におなじみの曲になっています。ご存知の方も多いと思いますが、横浜開港50周年にあたり、開港記念会館の建設および市章の制定と併せた、三大事業の一つとして「横浜市歌」が生まれました。作詞は森林太郎(鷗外)、作曲は南能衛による名曲です。一時、この市歌は「古くて歌いにくい」との意見が出て、子どもたちにも歌いやすいようにと、改訂のための専門委員会
<シビック・余話>オランダ人・ヘフト、横浜の近代文化芸術史を語るうえで忘れてはならない一人です。明治2年、横浜山下町に『ゲーテ座』という音楽と演劇用の小劇場ができました。今でいう企業メセナと言ってよいでしょう。この場所こそが、わが国における洋楽・新劇の普及第一歩の地となったのです。その後ゲーテ座は山手に移ります。関東大震災で倒壊するまで、活動は市民らの手で活発に続きました。ただ震災後は残念ながら歴史の舞台から消えたようでした。ヘフトの顕彰を発議したのは、横浜交響楽団の創設者・小
<シビック・余話>「シビックプライド・ダイアローグ」にご登場いただくゲストの皆さんには、毎回お話の途中、リクエスト曲をお聞きしています。曲のジャンルが実にバラエティーに富んでいること、選曲理由やエピソードにも、この番組ならではの味わい深さを感じさせてもらっています。初回の森祐美子さんは、音楽家を目指し練習に励んだ時の曲でリストの「メフィストワルツ」を選ばれました。原三溪を研究している猿渡紀代子さんは、三溪が作詞した「復興小唄」でした。アレルギーを考える母の会の園部まり子さんは、勇気を
<シビック・余話>横浜交響楽団の小磯智功さんから、『日本の音楽家を知るシリーズ「富田勲」』(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス発行)をいただきました。この本で、富田勲氏は若き時代に「作曲を基礎から勉強したい」と、横響を創設した作曲家・指揮者の小船幸次郎氏に、長く師事したことを知りました。小船氏のほかに「浜千鳥」で知られる弘田龍太郎氏にも、和声学などを学んでいます。シンセサイザー→サラウンド→サウンドクラウドと、前人未到の音の世界を開拓し続け、偉大な実績を世界に
<シビック・余話>横浜美術館において『石内都―肌理(きめ)と写真』展が始まりました。写真家・石内都氏の作品を、まとまった形で観賞出来たのは私にとって初めてのこと。石内作品で受けた衝撃は、画家フリーダ・カーロの衣装や日常の品々を撮った写真ででした。美術館ではとても見たかった「不知火の指」。水俣公害を告発した小説「苦海浄土」の著者・石牟礼道子氏の手足の接写です。舞踏家・大野一雄氏の身体にも感動しましたし、何よりも「ひろしま」の平和記念資料館に寄贈された被爆者の遺品シリーズ(撮影)に、想いを
<シビック・余話>横浜交響楽団が年末に欠かさず公演を続けてきた、ベートーヴェンの「第九」シンフォニーが、今年も12月17日(日)午後1時から、紅葉坂の県立音楽堂で演奏されます。「横響」理事長の小磯智功さんより、直接ご案内をいただきました。小磯さんにとって今回の演奏会は62回目の出演になるとのこと。昭和30年にはじめて同楽団の『第九』演奏会に参加して以来、一度も欠かさずに歌い奏で続けて来られたご努力に、改めて深い敬意を表したい気持ちで一杯になりました。これまで、大勢の合唱団との共演
<シビック・余話>12月の「シビックプライド~」にゲストとしてお迎えする、横浜交響楽団理事長の小磯智功さんと、収録などの打ち合わせを行ってきました。創立85年という同楽団の歴史の重み・その深さを、しみじみと感じた時間でした。師走。ベートーヴェンの『第九』がどこからともなく聞こえてきそうな時期です。番組でも、たぶん『第九』がテーマの一つに挙がると思われます。なぜかというと、横響と『第九』の演奏は切っても切れない関係だからです。日本におけるアマチュア・オーケストラの『第九』演奏は、
<シビック・余話>横浜交響楽の創設者である小船幸次郎の生誕100年、横浜交響楽団の創立75周年、さらには「横響」の定期演奏会600回という佳節の年―2007年に、『市民のオルガン』が神奈川新聞社から発刊されました。小磯智功氏が編集小委員会委員長として編んだ書です。「市民のオルガンは、誰でもいつでも、自由に弾いたり聴いたりできるように、いつもドアは開けておけ」との、小船幸次郎の言葉に、書名の由来があります。アマチュア・オーケストラの育成に人生をかけ、横浜の音楽文化に多大な功績を残した小船
<シビック・余話>小磯智功さんと12月に対談します。「横響」といえば、小船幸次郎氏が必ず話題上ります。音楽に詳しい方ならご存知かもしれませんが、1907年に横浜で生まれた作曲家であり指揮者です。18歳で音楽家を志し、独学で作曲や指揮法を学んだ‶努力の人″でした。1939年にイタリアに留学(日伊協会による選定)。サンタ・チェチーリア音楽院で指揮法を本格的に勉強し、欧州滞在時にはシベリウスとも会見していると記録に残っています。横浜交響楽団を立ちあげたのは、小船幸次郎その人です。19
<シビック・余話>12月の「シビック~」のゲストには、横浜が誇るアマチュア・オーケストラ「横浜交響楽団」理事長で、ヴァイオリニストの小磯智功さんをお迎えする予定です。前身の「横浜交響管弦楽団」が誕生したのは1932年(昭和7年)で、いまから86年も前のこと。定期演奏会の第一回は、創立の翌年に横浜市開港記念会館で開かれました。この時はプロとアマチュアの演奏家が混成で、59人のオーケストラだったと伝わっています。しかしプロはその後の演奏会には参加せず、以後はアマチュアだけで演奏を続けてきま