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6月1日の本佐倉城攻城記。(もとさくらじょうと読みます)京成本線・大佐倉駅から線路沿いに東へ。先が未舗装の十字路へ出たら右へ。50mちょい行くと案内が。左へ。あとは道なり。正面の小高いのが本佐倉城。途中に東光寺ビョウの案内。東光寺ビョウって、このあたりの郭の呼び名。城のメイン部分の図。城郭全体はもっと広いです。このあたりも東光寺ビョウ。草むらに立ち入ることはやめましょう。マムシがいるぞ。正面に人工的な地形が。本佐倉城
小田原城は、源頼朝の挙兵に参じた土肥実平の子・遠平の小早川城を始まりとするらしい。戦国時代になると大森氏の城となるが、1495年(明応4年)、北条早雲(伊勢盛時)が奪取。以後、小田原北条氏(後北条氏)の拠点となりました。三代北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えました。その後、関東支配の拠点として拡張された城は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下町を囲む長さ9㎞の総
箱根の底倉温泉にある太閤石風呂は、小田原征伐を行った豊臣秀吉が疲れを癒した湯と伝えられています。参考までに・・・箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されているそうです。
静岡県三島市。山中城といえば、見どころがいくつかあり。ワッフル堀とも呼ばれる独特な形状の障子堀。そして、お城から富士山を見ることができる数少ない日本100名城。そこで今回は、富士山を、大きくしてみた。復活の兆し。
4月4日、山中城を攻略。東海道線・三島駅の南口からバスで40分ほど。バスは1時間に1本くらい。途中の病院や三島スカイウォークへ行く人が多いので、平日でも混んでいます。三島スカイウォークここまでで多くの人が降車。山中城跡に着きました。山中城は旧東海道に沿って、南北700mほどの範囲に分布。バスを降りた場所は図の中央下。左が南(三島)で、右が北(箱根方向)。1558年~1570年頃に、北条氏(後北条氏、小田原北条氏のこと)が築城。東海道を西から攻めてくるであろ
伊豆の国市民有志による韮山城・伊勢宗瑞(北条早雲)の情報発信・支援を市長に要望しました。*鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏を区別するため前者を鎌倉北条氏・執権北条氏、後者を後北条氏・小田原北条氏と呼びます。伊勢宗瑞の嫡男氏綱から北条氏を名乗ります。鎌倉北条氏→桓武平氏後北条氏→伊勢氏→桓武平氏家紋は三つ鱗伊豆の小豪族だった北条氏が鎌倉幕府執権に就き権威を奮った事に因んで、伊勢宗瑞が伊豆國韮山に居城を構え氏綱が小田原に本拠地を移すと改称。後北条氏が関東の覇者として君臨します。
ゴールデンウィーク中、毎年恒例になっている山中城に行きました。山中城は、東海道三島宿と箱根宿の中間にあります。永禄年間(1558〜1570)北条氏康により築城。小田原の西の防衛を担う最重要拠点。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐による激戦となりました。豊臣秀次率いる7万の軍勢に対し、北条方の松田康長率いる3千の守備兵との間に、豊臣軍の一柳直末は北条方の銃弾を浴び戦死。秀吉の宿老として活躍した一柳の死に、秀吉は3日間嘆き悲しんだそうです。奮戦虚しく北条方は城主松田康長の討ち死により
「歴史を変えた名胡桃城」という幟が並ぶ名胡桃城址これは豊臣秀吉の小田原征伐を誘発したことに起因しますこの小さな城から北条氏が滅亡の道を歩み始め戦国の世が終結に向かう第一歩となった拠点でした山城なのに平坦な見学コースなので体に優しい城趾です(笑)
畑作業の記事が飛び石で3回入りました。今回から通常のサイクリング記事に戻ります。自宅から21㎞。第2目的地の名胡桃城に到着です。今回のサイクリングは加沢平治左衛門の墓が第1目的地なのです。そこに行くなら国道145号を直進する方が近いのですが、中山城から左折して同じ真田氏関連だから名胡桃城もという流れです。上の写真はこの図の赤黒丸の場所になります。青線は国道17号バイパスです。名胡桃城は図の国道17号より上部の部分と思われがちですが、当時の通りは緑線です。水の
小田原に一泊お城が目の前、小田原城に行ったことなかったので折角なので、朝駆けして小田原城攻めてみた途中史跡小田原城址の石碑、その先には目指す小田原城天守小田原城は、室町時代に大森氏が築き1500年頃、北条早雲が小田原に進出以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大しかし、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参陣した大久保氏が城主となり、後に稲葉氏が入城貞享3年(1686年)に再び大久保氏
遠山利景⑮「群書類従・北条記」『氏直、甲斐なき命なからえ家老舊功の侍少々召連て、紀伊国高野山に参り、同冬、山より下り、天野と云所に有りしを、関白殿、大坂へ呼給い、対面有りて伯耆国を可賜との儀也しか。運命や此時に縮りけん。文禄元年十一月四日、三十一歳にて早世し給う。法名は松厳院大圓徹公居士尊儀と号す。』天正14年(1586年)家康は居城を駿府城に移すと家臣を城下町に住まわせた。これに従い利景ら明智遠山一族も駿府に移り住んだ。天正17年(1589年)11月
遠山利景⑭「戦国史料叢書・御家事留書」『名胡桃城代鈴木主水、二の丸に主水姉聟中山九郎兵衛差し置かれる。九郎兵衛、北条方へ内通して、安房守殿呼ばるると申すに付、姉聟の儀、殊に書簡これある上は、疑う所なく思い、城を出で、漸く五七里も行きける処、途中にて知己に逢い、件の子細を語れば、彼の者云いけるは、「夫は大形九郎兵衛が心替りにて有らん。安房守殿御用は、これある間敷く」と申すに付、主水心付き、取って返し城へ入らんとすれば、門を閉じ入れず。仍て是非なく沼田へ行き、正覚寺へ参り
江川邸から、ガイドの説明を聞きながら韮山城へ行きました。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のさい、山中城を攻める部
中根妙見神社から南へ少々同じ丘もしくは尾根を歩いてゆくと新作安房須神社林に囲まれた奥行きのある境内へ足を石鳥居狛犬手水舎と奥に石祠群松戸市新作にある神社新作安房須神社は、小田原北条の役により小金城主高城氏は滅亡小金城の出城だった中根城に配置されていた武士は帰農新作は農家集落となり、平安と繁栄を求めて少彦名命を勧請し村鎮守として慶長11年(1606年)に創建され明治41年(1908年)神社整理令により道祖神と天神社を合祀したそうですご祀神は
こんばんは😊。最近、神奈川県を旅行してました。どうせ、最近の株価は不安定であり、フテ寝です小田原に観光した際、小田原城へ行きました。1590年の小田原征伐。豊臣秀吉vs北条氏で豊臣秀吉がWIN、北条氏は滅亡した。敗北理由は、豊臣秀吉の圧倒的な人、モノ、金の多さで優っていたから。北条家は、先に豊臣15万の大軍は早々に兵糧が尽きて退却と安易に思い込んでいた訳だが、実際は、人もさることながら、物流でも圧倒しており、北条氏が先に音をあげた訳です。さあ、現世代ですが、上
時は戦国時代後期、日ノ本をほぼ手中に収めた関白・豊臣秀吉は天下取りの総仕上げに取り掛かりました。敵は関東250万石の支配者・北条氏、本拠地は難攻不落の名城・小田原城です。他にも関東の至る所に築いた40以上(100以上とも)もの支城とのネットワークを利用して、攻めてきた秀吉を追い返さんとします。これに対して秀吉は総勢20万人ともいわれる大軍勢で率いて、圧倒的物量で圧し潰そうとしました。本城の小田原城を完全包囲したうえで、支城も片っ端から攻略していったのです。天下軍の勢いは凄まじく、支
5月13日、大宮公園駅へ降り立つ。けやきひろばビール祭り@さいたまスーパーアリーナに行く前に、寿能城跡を攻めるのです。こんな場所にあります。青枠は、城攻めに関係ある場所。(東武野田線の大宮公園駅、大宮警察署の寿能交番、寿能城跡、見沼代用水西線、芝川)赤枠は、著名スポット。(ラーメン二郎大宮公園駅前店、大宮公園、氷川神社、大宮第二公園、大和田公園)城の痕跡は残っておらず、寿能公園に墓があるだけだと言う人が多い。しかし城の範囲は赤い部分で、東西872m、南北436mもあ
ゴールデンウィークも終盤9日目の土曜日の朝、鈍った体を動かすため毎年恒例の山中城へ行きました。今年2月の大雪以来の来城です。駐車場から、三の丸堀横の通路には旗が靡いていました。毎年ゴールデンウィークに行くのに初めて見ました。まだまだ痛々しい(泣)令和元年10月の台風19号で被災。ツツジが綺麗に咲いています。田尻の池箱井戸4月下旬、ブログ友のエルさんの山中城記事。↓山中城については、過去ブログ参照して下さい。2016.10.10山中城2017.05.08山中城躑躅
白髭橋西詰、明治通りを横切り荒川区へ石浜城址公園この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされ石浜城の築城年代は不明、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え南北朝時代の文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を足利尊氏がこの地で退けている(武蔵野合戦だ)そうです室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛で、千葉氏宗家の生き残りである千葉実胤が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、この石浜城を拠点とした弟の自胤も赤塚城に逃れているしか
心配していた雪も回避できたっぷりゆっくり朝ご飯をいただいた後はお部屋の露天風呂に入ってすこし寛ぎチェックアウトしたら行ってみたかった、あちらへ。一夜城ヨロイヅカファーム。ケーキとパンと、帰りのお供のコーヒーを購入。ここまで来るときにオットに私「ここの一夜城って北条征伐だっけ?」夫「え?知らない。(自分は世界史専攻だから。)」と話しててふと思う。北条征伐(正しくは、小田原征伐)って勝てば官軍のすごい失礼なネーミングじゃないですか?ちょっと考えさせられた冬の1日でした
本日2城目は名胡桃城。先に訪問した沼田城の支城であり、秀吉の小田原征伐の引き金になった城ですね。北条家の家臣である猪俣邦憲が、当時真田方の城とみなされていた名胡桃城を城代の鈴木重則を騙し、乗っ取ってしまいました。これに対して豊臣秀吉がこれは惣無事令(私戦などを禁止した法令)に反することだと激怒し、北条家の処罰に出たのが小田原征伐だということですちなみに鈴木重則は城を奪われた自分のふがいなさを恥じ、立腹といい、立ったまま切腹して果てたそうです暑かったですが、景色は
こんにちは!今回は神奈川観光のブログになります!今回は小田原城内に突入します!小田原城天守閣。昭和35年(1960年)小田原市市制20周年を記念して総工費約8千万円をかけて制作されました。江戸時代の模型や設計図を元に江戸時代の姿として外観復元され、中は資料館になっております。別名、小峯城(こみねじょう)。関東地方を牛耳っていた後北条氏時代の姿でも見てみたかったです。三重四階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣。分かりやすく言うと、天守閣の横に櫓があ
こんにちは!今回も横浜観光での記事になります!前回、引き続き小田原城の散策です!今回はこの住吉橋(すみよしばし)からスタートします!今回も地図の画像は小田原城公式サイトからお借りしています。園内マップ・施設一覧|小田原城【公式】odawaracastle.comそしてこの橋が住吉橋と住吉堀になります。水はなんだか汚い色をしていますw住吉橋を正面から。そして住吉橋を越えると見えてくるのが銅門(あかがねもん)です。解体さ
こんにちは!今回から小田原城へ突入したいと思います!そのお前に小田原城のめっっちゃ簡易的な説明をせせていただきます!今川氏親(いまがわうじちか・今川義元の親)の一家臣だった宝条早雲が下剋上でのし上り小田原城を奪取↓ほぼ日本全国を手中に収めた豊臣秀吉が天下統一の最終仕上げとして北条家の関東へ攻める↓北条家は敗北。↓その後大久保氏が小田原城に入り平和な江戸時代へと続く。と、こんな感じです。現在ある小田原城天守閣は大久保氏時代のものを模した天守閣になっています。全国
静岡県三島市の山中城へ。静岡県と神奈川県のほぼ県境の箱根山系の1部に築かれたThe山城である。【余湖くんのホームページより】今川家武田家と河東地区(富士川以東)を争っていた1558年に小田原城の支城として3代氏康によって築城。沼田裁量を破り、天下人太閤殿下の逆鱗に触れた氏政/氏直親子が小田原征伐に備え、最終防衛線として改修、防衛施設として、東海道を三の丸と両側から挟む様に岱崎出丸を1589年に普請。城マニアでは有名な北条流築城術の畝堀を発展させた障子堀が多数見られる。山中城は年間3回は行
静岡県三島市:山中城。築城主:後北条氏。日本100名城No.40。小田原城の支城として機能。独特の防御構造・障子堀が有名。太閤殿下・豊臣秀吉の小田原征伐時に陥落。御城印がリリースされて約二年。今までの山中城参城のお天気が、どうであったかを振り返ってみます。[探訪]の独自判断基準として、晴天=勝ち。曇り、雨=負け。微妙=引き分け。希少性を鑑み、雪景色は天候に関係なく勝ちとします。山中城特別ルールとして、富士山がクリアに見えるか、も判定基準にします。一切の雲
「勝負に負けて喧嘩に勝った」例えば、最終戦で試合としては負けたが王者、ホセ・メンドーサをたった一試合でその髪を白髪にするほどの恐怖を与えた矢吹丈の例を見ればわかりやすいだろう。そして、そう言うパターンは歴史上にも度々存在する。今回は二つの例を挙げてみたい。まずは秀吉の関東攻めにおける忍城の攻防戦である。これは「のぼうの城」でも舞台になったから知っている人は多いだろう。天下統一の総仕上げに、これまで屈服させた諸大名らの総軍をあげて豊臣秀吉は北条家へと攻めかかった。忍城は北条家の支城の一つで
で。今回のドライブ。・夕方(つまり娘の夏期講習が終わる時間)までに帰るというのが絶対条件。・日光か・小田原か東照宮は日帰りでは時間足らずでもったいない。で小田原へ。でもここですんなり小田原=小田原城では味気なし。そもそも北条にそんなに興味ねえし笑ラーメン食べた後に。通のオレ(=自称城好き)が向うのはこちら。石垣山一夜城うむ。ただの山に石垣が転がってるだけだ笑ちょっとした広場もあるにはある。が、あの安土城址もそうだったよう
いつからお箸使えるようになった?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう皆様ごきげんよう!さあ今日は何の日でしょう?「箸の日」※「箸を正しく使おう」という民俗学研究者の提唱で、わりばし組合が1975年(昭和50年)に制定※だけど…「ビアホールの日」ですよねオヤジ!解説:1899年のこの日、日本初となるビアホールヱビスビヤホールが東京・銀座にオープンしました。ヱビスビヤホールは、日本麦酒株式会社が同社商品恵比寿ビールの宣伝活動の一環としてオープンしたもので1杯(
おはようございます、江戸散歩です。小田原城巡りの続きです常盤木門から城内に入ります。戦国時代の合戦に活躍した矢盾が待ち構えています。この矢盾の裏に足軽が隠れて敵の矢から防ぎます。矢盾には北条家の家紋は、「三つ鱗」です。石刻石垣の普請をした人が、遊びで彫り込む場合もありますし、誰々が普請をしましたよという証になります。常盤木門の裏側桝形櫓門形式の門は、大型になります。北条五代の提灯